春季オープンから数日が経った。大会翌日の完全休養を挟み、すずらんとすみれは少しずつ普段の生活へ戻っていた。試合で蓄積した負荷も落ち着き、状態確認では特に問題は出ていない。
ただし、今日からいきなり通常の練習へ戻すわけではなかった。
「今日は軽め、ですよね?」
駅へ向かう途中、すみれが貴明に確認した。
「その予定。高城さんにもそう言われてる」
「分かってるならいいです」
「何で俺が確認されるんだよ」
「マスター、映像を見てると試したいこと増えるじゃないですか」
「……まあ、増えるけど」
「だからです」
肩に座ったすみれが、少し得意そうに笑った。反対側にいたすずらんは、そんな二人のやり取りを聞きながら、貴明のリュックを見ていた。
「マスター」
「何?」
「今日は、準決勝の映像も持ってきました?」
「あるよ」
「最初から見たいです」
「全部?」
「できれば」
貴明は少し考えた。
「今日見るところ、一応まとめてあるんだけど」
「……そうですか」
「でも、高城さんとコハクさんにも聞いてみよう。必要なら最初から見る」
「はい」
すずらんが頷いた。
春季オープンの結果は、すずらんがベスト4、すみれがベスト8。クロスロードへ入ってから初めての公式大会で、すずらんは大規模大会の自己最高成績も更新した。けれど、二人の関心は最後に負けた試合へ向いていた。
すみれはフブキ型との準々決勝で、相手の攻撃のタイミングを読もうとして自分の攻撃が遅れた。一方、すずらんはクロエとは別個体のストラーフMk.2型との準決勝で、相手の判断と踏み込みの速さに苦しめられ、得意な距離で戦う時間を作れなかった。どちらも判定負けだが、敗因は異なる。
「すみれは、どこから見る?」
貴明が聞いた。
「二ラウンド目の中盤です」
「右をもらったところ?」
「はい。その少し前から」
「分かった」
貴明は頷いた。
「すずらんは?」
「一ラウンド目です」
「最初の攻防?」
「はい。あそこから、ずっと相手に先を取られていた気がするので」
「そうだな……」
貴明も、その場面は気になっていた。
ただ、相手が速かったから負けた、というだけで済ませたくはない。どうすれば自分のボクシングをさせてもらえるのかを考えるため、今日はクロスロードへ向かっている。二人の様子を見るかぎり、映像を眺めるだけで終わるつもりもなさそうだった。
◇
「おう、篠原」
クロスロードへ入ると、受付近くにいた高城が声をかけてきた。
「こんにちは」
「お疲れさまです」
「こんにちは」
三人が挨拶する。
「状態は?」
「二人とも問題ありません。負荷もほぼ平常です」
「本人達はどうだ?」
「問題ありません」
すずらんが答える。
「私も大丈夫です」
すみれも続いた。
「よし。じゃあ予定通りだな。今日は映像を見て、少し動いて終わりにしよう」
「はい」
「ノートPCも持ってきたか?」
「もちろん」
「だろうな」
高城は笑った。
「どのくらい用意した?」
「二人合わせて、十五分くらいです」
「……結構あるな」
「試合全部を見るよりは短いですよ」
「そりゃそうだけどな」
高城が苦笑する。
「まあ、まずは着替えてこい。コハクにも声をかけておく」
「分かりました」
貴明が奥へ向かおうとすると、人間用リングの方から声がした。
「あ、篠原君!」
美咲だった。今日はまだグローブを着けておらず、リング脇でハルと話していた。
「こんにちは」
「大会お疲れさま!」
「ありがとうございます」
すみれが答える。
「ベスト8でしょ? すごいじゃん!」
「ありがとうございます。でも、最後は負けちゃいました」
「うん。でも、そこまで勝ち上がったんだから、ちゃんと喜んでいいと思うよ」
美咲は笑って、それからすずらんを見た。
「すずらんさんもベスト4、おめでとう!」
「……ありがとうございます」
「すごいよね。準決勝まで行ったんだもん」
「でも、負けました」
「それは悔しいよね」
美咲が頷く。
「私も試合に負けたら、しばらくそのことばっかり考えちゃうし」
「美咲、しばらくどころじゃないでしょ」
ハルが横から言った。
「え?」
「負けた試合、何日も話してるじゃん」
「それは反省してるの!」
「昨日も前の試合の話してたよ」
「……まあ、そうだけど」
美咲が苦笑した。すみれもつられて笑う。
「私達と同じですね」
「そうかも。でも、勝てたところまで忘れなくていいと思うんだよね」
美咲は二人へ視線を戻した。
「次に向けて直すところは直す。それとは別に、勝った試合はちゃんと喜んでいいんじゃない?」
すずらんは少し考えた。
「……そうですね」
その答えに、美咲が満足そうに頷いた。
「うん。お疲れさま!」
「すみれさん、あとで少し話そうよ!」
ハルが声をかける。
「いいですよ」
「大会の三ラウンド目、ちょっと聞きたいところがあるんだ」
「私もハルさんに聞きたいことあります」
「じゃあ決まり!」
ハルが嬉しそうに手を振った。貴明はその様子を見ながら、少し笑った。大会の前にも、二人は何度も一緒に練習していた。
今では貴明が間に入らなくても、次の練習の話が進んでいる。それ自体は何もおかしくないのだが、地元にいた頃にはあまりなかった光景だった。
「準決勝、見たぞ」
神姫用スペースへ入ると、リング脇から声がした。クロエだった。隣では佐伯蓮が端末を操作している。
「こんにちは」
貴明が声をかける。
「こんにちは、篠原君。大会お疲れさま」
「ありがとうございます」
クロエはすずらんへ視線を向けた。
「相手、強かったな」
「はい」
「前に出るのも速いけど、それだけじゃなかった」
「……そうなんです」
すずらんが少し身を乗り出した。
「私がジャブを出した時には、もう次の攻撃が来ていました」
「見てから動いてるわけじゃないんだろうな」
「はい」
「いい相手だ」
クロエは少し笑った。
「できれば私もやってみたい」
「……クロエさんなら、どう戦います?」
「近づく」
「やっぱり」
「でも、近づこうとしたところを狙ってくるだろうな。簡単にはいかない」
クロエはそこで言葉を切り、すずらんを見た。
「あとで少し試すか?」
「いいんですか?」
「軽くだけどな」
すずらんは貴明を見上げた。
「マスター」
「コハクさんに確認してから」
「はい」
蓮が隣で笑った。
「二人とも、大会終わったばかりだからね」
「分かってる」
クロエが答える。
「そう言って、始まると熱くなるのがクロエでしょう」
「今日は大丈夫だ」
「……本当に?」
「お前まで会長みたいなこと言うな」
貴明も笑った。クロエにとっても、あの準決勝は興味深い試合だったらしい。もちろん、すずらんとクロエは同じ戦い方をするわけではない。
しかし、自分から距離を詰めるクロエなら、相手の踏み込み方について違う見方をしているかもしれなかった。
準備が整うと、貴明はノートPCを練習用モニターへ接続した。高城とコハク、蓮とクロエ、すずらんとすみれが集まり、予定していた敗戦映像の確認が始まった。
「まずは、すみれからでいいか?」
貴明が聞く。
「はい」
すみれが頷いた。画面に映ったのは、準々決勝の二ラウンド目だった。フブキ型の相手がジャブを出す。
すみれがガードする。相手の右手が動く。すみれは、それに合わせようとした。
だが右は来ない。一瞬遅れて、ストレート。すみれの頬へ入った。
「ここです」
貴明が映像を止めた。
「右を打つまでの間隔が、毎回違うんですよね」
コハクが頷いた。
「相手は意図的に変えていますね」
「はい。最初は一定のリズムに見えてたんですが」
すみれが画面を見る。
「何回か打ち合ってから、少しずつ分からなくなってしまって」
「何が分からなくなった?」
高城が聞いた。
「右が来るタイミングです」
「うん」
「それで、もう少し待てば分かるかと思ったんですけど……」
「待ってる間に打たれたわけだ」
「はい」
高城は頷いた。
「相手の狙い通りだな」
貴明が別の場面を再生する。同じく二ラウンド目。相手がジャブを打ったところで、すみれは再び右を警戒していた。
しかし、今度は相手がすぐに離れた。待っていた右は、最後まで来なかった。
「ここもです」
すみれが言う。
「右が来ると思ってたら、距離を取られてしまって」
「相手に合わせすぎたんだな」
高城が答えた。
「読もうとすること自体は悪くない。けど、相手がわざとタイミングを変えてるのに、そこへ付き合う必要はないだろ」
「……はい」
「その間、お前のジャブはどうなってる?」
すみれは画面を見直した。相手のジャブを受けてから、右を警戒する。その間、すみれは自分から攻撃していなかった。
「止まってますね」
「そういうこと」
高城が頷く。
「打てるところで打たずに、相手が何をするか待ってる。これじゃ相手のリズムで試合することになる」
コハクが続けた。
「すみれさんは、相手の動きをよく見ようとします。それは長所ですが、攻撃する機会まで相手に決めてもらう必要はありません」
「……なるほど」
「次のラウンドでは、そこを変えていますね」
貴明が三ラウンド目の映像を開いた。今度はすみれが先にジャブを出している。相手がガード。
すみれは横へ動き、もう一度左。相手が右を打つ構えを見せても、前のラウンドのように待ち続けない。自分から攻撃を組み立て、相手の反応を見ていた。
「ここからは良くなってる」
貴明が言った。
「はい」
「インターバルでも右を待つなって話したけど、実際に動いたのはすみれだからな」
「でも、もう少し早く直したかったです」
すみれが言う。
「そうだな」
高城は否定しなかった。
「それが今回の課題だろ」
「はい」
「ただし、相手のタイミングを読むのをやめろって話じゃないぞ。読むことに集中して、自分の攻撃がなくなるのがよくないんだ」
すみれは頷いた。
「分かりました」
貴明は映像を止めた。すみれに必要なのは、相手の右への反応速度を上げることだけではなかった。いつ自分から仕掛けるかまで相手に預けないこと。その違いが映像からも見えてきた。
「次はすずらんだな」
高城が言った。貴明は準決勝の映像を開いた。一ラウンドの序盤。
すずらんがジャブを出す。相手のストラーフMk.2はガード。そのまま踏み込んで右を打ってきた。
すずらんが外す。しかし、そこへ左ボディ。今度は避け切れず、すずらんが距離を取る。
相手は無理に追ってこない。すずらんが構え直すと、再び踏み込んできた。
「……嫌な相手でした」
すずらんが呟いた。
「そうだろうな」
高城が答える。
「私が何かしようとすると、その前に動いてくるんです」
「見てたよ」
「ジャブも出してるんですけど」
「うん」
「そのあと、自分の距離へ戻れなくて」
貴明は画面を戻した。相手の踏み込み。すずらんが避ける。
そこから距離を取り直そうとすると、相手はすでに次の位置へ動いている。
「ここだな」
貴明が言った。
「すずらん、相手の攻撃は見えてる。でも、避けたあとに自分が動きたい場所を取れてない」
「……はい」
コハクも頷いた。
「この相手は、ただ前へ出ているわけではありません。すずらんさんの反応を見て、次の距離を作っていますね」
高城が画面を指した。
「すずらんはカウンターが得意だろ」
「はい」
「相手が打ってきたところへ返す。その戦い方自体はいい」
そこで映像を少し進める。
「でも、この相手は打ったあとも、自分の位置を変えてる。だから、すずらんが返そうとした時には、もう次の攻撃に入れる位置を取られてるんだ」
すずらんは黙って画面を見ていた。
「つまり」
貴明が口を開く。
「相手のパンチに対応できるかどうかだけじゃなくて、次の距離をどっちが作るか、ってことですか」
「そういうことだな」
高城が頷いた。
「すずらんは避けたり受けたりできてる。だが、その先で相手に好きな距離を使わせてる。そこが難しかったんだろ」
「……そうですね」
すずらんが頷く。貴明は二ラウンド目へ映像を進めた。大きなカウンターを狙わず、ジャブを一発ずつ積み重ねている場面だった。
最初の左は外れた。二発目が当たる。相手が右を出すと、すずらんはガードして距離を取る。
そして、もう一度ジャブ。少しずつ、相手の動きに割り込めるようになっていた。
「ここからは良くなったな」
高城が言う。
「はい」
すずらんが答えた。
「一発ずつ当てるようにしたので」
「うん。それで相手も少し考えるようになってる」
貴明が映像を進める。すずらんの左が当たり、続けて右。相手がガード。
さらに左ボディが入った。数秒間だけ、すずらんが主導権を取れた場面だった。
「この時は良かった」
貴明が言う。
「はい。でも、そのあと……」
相手がすぐに攻撃を返してきた。ジャブから踏み込み、右、そしてボディ。すずらんは再び距離を取らされる。
「ここですね」
コハクが言った。
「一度は自分の距離を作れています。でも、それを維持させてもらえなかった」
「……はい」
すずらんが小さく頷く。
「一回当てても、すぐに取り返されました」
「相手も強いからな」
高城はあっさり答えた。
「一度うまくいったからって、ずっと同じようにはいかない」
「……そうですよね」
「だから、次はどうやって距離を取り直すか、だな」
貴明も頷いた。すみれが打つ機会を待ちすぎたのに対し、すずらんは打った後の距離と位置を相手に握られていた。単純にジャブを増やすだけでは足りない。自分が打った後、相手をどこへ動かし、自分はどこに立つのか。貴明には、その先まで考える必要があるように思えた。
「……やっぱり強かったな」
貴明が呟く。
「はい」
すずらんが答える。
「でも、次に同じ相手とやるなら、もう少し何とかしたいです」
「そうだな」
高城は頷いた。
「じゃあ、今日はそこを少しだけ試してみるか」
◇
映像の確認が終わると、神姫たちはリングへ移った。すみれはコハクと一緒に、ミットを使った動作確認を行うことになった。
「すみれさん、今日は相手のジャブのあと、どう動くかを確認しましょう」
「はい」
「私が右を打つ時もありますし、打たない時もあります。間隔も変えます」
「分かりました」
「ただし、右を待つことを目的にしないでください。自分が打てる時は、ジャブを出しましょう」
すみれが構えた。コハクが左を出す。すみれはガード。
すぐにジャブを返す。コハクのミットが受けた。
「そうです」
もう一度。今度はコハクが左を出した直後、すぐに右を見せた。すみれはガードを上げる。
そのまま少し横へ動き、ジャブを返した。
「いいですね」
「はい」
「では、次です」
コハクが左。すみれがガード。今度は右が来ない。
すみれは一瞬待ってしまった。
「あっ」
「今のですね」
コハクが言う。
「はい。右が来るかと思って」
「そうですね。でも、すみれさんから打てる距離でしたよ」
「……そうでした」
すみれが頷く。貴明も、リング脇でその様子を見ていた。映像を見ている時は、もっと簡単に考えていた。
右を待たず、自分のジャブを出す。言葉にすればそれだけだ。だが、実際には相手も動いている。
右が来るかもしれないと思えば、当然警戒する。その警戒を残したまま、自分から動かなければならない。
「……簡単じゃないな」
貴明が呟いた。
「簡単だったら、練習しなくていいからね」
隣にいた蓮が答えた。
「そうですね」
「でも、すみれさんは三ラウンド目で一度できてるんでしょ?」
「はい」
「なら、その感覚をもう一回確認できればいいんじゃないかな」
貴明は頷いた。リングでは、すみれがもう一度ジャブを返していた。今度は、コハクの右を待たなかった。
「いいですよ」
コハクが声をかける。すみれが少し笑ったが、次の動作ではまた右を警戒して止まってしまう。まだ安定はしていない。それでも、今日の練習で確認すべきことは見えていた。
隣のリングでは、すずらんとクロエが向かい合っていた。こちらはパンチを当てることよりも、位置取りの確認が中心だった。
「じゃあ、軽く行くぞ」
クロエが言う。
「お願いします」
すずらんが構えた。クロエがゆっくり前へ出る。すずらんがジャブ。
クロエがガード。そのまま一歩踏み込む。すずらんは左へ動いて避けた。
「そこ」
クロエが動きを止める。
「はい?」
「今、私の右を避けたあと、どこへ行こうとしてた?」
「……少し距離を取ろうと」
「それで?」
「次を見ようかと」
「なるほど」
クロエは頷いた。
「でも、そこへ私がもう一歩出たら?」
「……また下がります」
「だろ」
すずらんは少し考えた。
「じゃあ、先に横へ動いた方が?」
「そういう手もある。ただ、毎回同じ方向へ動いたら追えるけどな」
クロエは少し笑った。
「私だったら、相手がどこへ逃げるか見てるから」
すずらんは頷いた。
「もう一度お願いします」
二人が構え直す。クロエが前へ出る。すずらんがジャブを出し、今度は少し早く横へ動いた。
クロエも向きを変える。しかし、すずらんはそこでさらに一歩動き、正面に残らなかった。
「……ああ」
クロエが小さく頷いた。
「今のは面倒だな」
「そうですか?」
「こっちが一度向き直らなきゃいけない」
すずらんは少しだけ笑った。
「じゃあ、もう一度」
「いいぞ」
今度はクロエが、すぐには踏み込まなかった。すずらんがジャブ。横へ動く。
しかしクロエは追わず、その移動先を塞ぐように位置を変えた。
「……あ」
すずらんが足を止める。
「今度は違うだろ」
クロエが言う。
「はい」
「相手も同じことばっかりしないからな」
「そうですね」
すずらんは考え込んだ。クロエが小さく笑う。
「でも、さっきよりはいい。私が追う場所を考えなきゃいけなくなった」
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。次はもっと考えて動いてくるぞ」
「望むところです」
すずらんが答える。その声を聞いて、蓮がリング脇から口を挟んだ。
「はい、そこまで」
「もう?」
クロエが振り返る。
「今日は軽くって言われてるからね」
「まだ全然打ってないぞ」
「打ってないからいいんでしょう」
「……そうか」
クロエが少し不満そうに構えを解いた。すずらんもグローブを下ろす。
「ありがとうございました」
「ああ。またやろう」
「はい」
貴明は二人のやり取りを見ていた。準決勝の相手とクロエの戦い方は違う。それでも、すずらんにとっては参考になったらしい。
相手のパンチを見て避けるだけでなく、その後の位置をどう作るか。答えが出たわけではないが、次に試すための材料は増えた。
「二人とも、今日はここまでですね」
コハクが練習終了を告げた。すずらんとすみれはリングを降り、状態確認を受ける。二人の内部温度、関節負荷、左右の出力差を確認する。特に、春季オープンで負荷の溜まったすずらんの左肩は、念入りに調べた。
「問題ありません。ただ、今日はもう練習を増やさないでくださいね」
コハクが言った。
「はい」
「分かりました」
貴明も端末の表示を確認した。
「よし。帰ったら軽くメンテして終わりだな」
「映像は?」
すずらんが聞く。
「今日の?」
「はい」
「明日でいいだろ」
「……そうですか」
「また休憩中に反省会始めたら怒られるし」
すみれが笑った。
「マスターが、ですか?」
「俺もお前らも」
「そうですね」
二人が頷く。貴明がノートPCを片付けていると、背後から声がした。
「篠原君、もう帰る?」
振り返ると、美咲がいた。先ほどまで人間用リングで練習していたらしく、髪が少し汗で濡れている。
「いや、今片付けてるところ」
「じゃあ、ちょっと休んでいかない?」
「休憩ですか?」
「うん。ハルがすみれさんと話したいって言ってたし」
そういえば、最初にそんな約束をしていた。
「すみれ」
「はい?」
「ハルさんが話したいって」
「あ、そうでした」
すみれが顔を上げる。
「じゃあ少しだけ」
「うん」
美咲が笑った。
「それに、今日はもう練習終わったんでしょ?」
「そうですね」
「だったら急いで帰らなくてもいいじゃん」
貴明は少し考えた。特に急ぐ用事もない。映像整理は帰ってからでもできるし、今日は練習後の確認も最低限にする予定だった。
「じゃあ、少しだけ」
「うん!」
◇
休憩スペースへ行くと、ハルがテーブルの上で待っていた。
「すみれさん!」
「お待たせしました」
「大丈夫! こっちこっち!」
すみれがハルの隣へ座る。
「さっき話してた三ラウンド目なんだけど」
「はい」
「途中から、相手の右を待たなくなったでしょ?」
「ああ、そうですね」
「どうやって切り替えたの?」
すみれは少し考えた。
「マスターから、相手のリズムを読むなって言われたので」
「うん」
「それで、自分からジャブを出すようにしたんです」
「なるほどね」
ハルが頷く。
「でも、試合中にそれ変えるのって、結構難しくない?」
「難しかったです」
すみれが苦笑した。
「二ラウンド目は、右が気になって仕方なかったので」
「分かる分かる」
「ハルさんもあります?」
「あるよ。相手が次に何するか気になって、動くの遅くなる時」
ハルは少し考えてから続けた。
「私はそういう時、先に場所変えちゃうことが多いかな」
「先に?」
「うん。相手が打ってくる場所に、ずっといないようにするの」
すみれが頷いた。
「ハルさんらしいですね」
「そう?」
「はい。私だと、一度構えを作ってから次の動きを考えてしまうので」
「それはそれでいいところだと思うよ」
ハルが笑った。
「すみれさん、打つ時の姿勢きれいだもん」
「ありがとうございます」
「でも、ずっと同じ場所にいると、相手も打ちやすいからね」
「そうですね」
二人はそこから、自然に足運びの話を始めた。貴明は少し離れた席で、その様子を聞いていた。ハルは普段から動きの多いボクシングをする。
すみれは一つ一つの動作を丁寧に整える。違うスタイルだからこそ、互いに気づくこともあるのだろう。
「篠原君、何飲む?」
美咲が声をかけた。
「ああ、じゃあお茶で」
「了解」
美咲は飲み物を用意しながら、神姫たちの方を見た。
「ハル、楽しそうだね」
「そうですね」
「大会の映像見てから、すみれさんに聞きたいって言ってたんだよ」
「そうだったんですか」
「うん。私にも色々話してた」
美咲が笑う。
「こっちも練習あるのに、神姫の試合まで見てるんだから忙しいよね」
「水野さんも、人間の試合とハルさんの試合、両方見てるんでしょう?」
「まあね」
「大変じゃない?」
「大変だよ」
美咲はあっさり答えた。
「でも、好きでやってるし」
「なるほど」
「篠原君もそうでしょ?」
「……まあ、そうですね」
「でしょ」
美咲はお茶を貴明の前へ置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
美咲は向かいの椅子へ座った。
「それにしても、すずらんさんの準決勝、相手すごかったね」
「見たんですか?」
「うん。あとから映像見たよ」
「強かったです」
「そうだよね」
美咲は少し考えた。
「ああいう相手って、嫌だろうなあ」
「水野さんも?」
「うん。こっちが何かしようとすると、その前に次の動きをしてくる相手」
「……分かります」
「自分のペースでやりたいのに、ずっと相手のペースにされちゃうんだよね」
美咲は指先でテーブルを軽く叩いた。
「こういう時、何とか自分の攻撃を当てたいって思うじゃん?」
「思いますね」
「でも、焦って大きいの狙うと、余計に動きが読まれたりするんだよ」
貴明は頷いた。
「すずらんも、途中からジャブを当てる方に切り替えました」
「うん。あそこはよかったと思う」
「そうですか?」
「ちゃんと相手を動かせてたから」
美咲は笑った。
「もちろん、それで全部うまくいくわけじゃないけどね」
「そこなんですよね」
「うん」
美咲は少しだけ真面目な顔になった。
「相手もこっちに合わせてくるから。そこがボクシングの難しいところだと思う」
貴明はお茶を一口飲んだ。今日の映像確認でも、相手がこちらの修正に対応してくる場面を見ていた。こちらが一度動きを変えたからといって、試合がそこで止まるわけではない。次に何をするかは、練習の中で確かめていくしかなかった。
「……やっぱり参考になりますね」
貴明が言った。
「何が?」
「人間のボクシングも」
美咲は一瞬黙った。それから笑う。
「あはは。篠原君、またそれ?」
「また?」
「前も言ってたじゃん。参考になるって」
「実際なるので」
「そうなんだけどさ」
美咲は少し呆れたように笑った。
「本当に、見て考えるの好きだよね」
「そうですね」
「たまには何も考えずに見てもいいと思うけど」
「……難しいかも」
「だろうね」
美咲が笑った。
少し離れた席では、すずらんとクロエの会話も続いていた。
「次は、もう少し自分から距離を作れるようにしたいです」
すずらんが言う。
「いいんじゃないか」
クロエが答える。
「でも、相手が前へ出てきたら、カウンターも狙いたいです」
「それもいい」
「……両方やるのは難しそうです」
「難しいだろうな」
クロエはあっさり認めた。
「でも、片方しかやらないって決めたら、相手も楽だろ」
「……そうですね」
「私なら、カウンターが来ると思ってても近づくけどな」
すずらんが少し笑った。
「クロエさんなら、そうでしょうね」
「その代わり、もらう時はもらう」
「それでいいんですか?」
「よくはない。でも、何もしないで終わるよりはいい」
クロエは肩をすくめた。
「もちろん、考えなしに突っ込めって意味じゃないぞ」
「分かってます」
その会話を聞いていた蓮が口を開く。
「クロエは、前へ出るのが好きだからね」
「得意だからな」
「うん。でも、前へ出る前に何を見てるかも教えてあげたら?」
クロエが少し考える。
「……相手の足かな」
「足ですか?」
すずらんが聞く。
「ああ。下がろうとしてるのか、その場で打とうとしてるのか。そこは見てる」
「……なるほど」
「全部分かるわけじゃないけどな」
クロエは少し笑った。
「だから、やってみないと分からない」
蓮が頷く。
「そういうことだね」
「蓮は、また簡単にまとめる」
「今はそれで十分でしょう」
クロエは何か言い返そうとしたが、やめたらしい。すずらんは二人を見て、小さく笑っていた。
「そういえばさ」
美咲が、向かいにいる貴明へ改めて声をかけた。
「篠原君、今まで大会のあとってどうしてたの?」
「どうって?」
「反省会とか。地元にいた頃」
「ああ……」
貴明は少し考えた。
「基本は三人で映像見てましたね」
「家で?」
「はい。大会当日は休むこともありますけど、次の日以降に」
「やっぱり映像なんだ」
「まあ、確認しないと分からないこともあるので」
「それは分かるけど」
美咲は笑った。
「他の選手と話したりは?」
「大会会場で話すことはありましたよ。でも、普段の練習は三人が中心だったので」
「そっか」
「地元でもたまにジムは使ってましたけどね」
「うん」
美咲は周囲を見回した。
「じゃあ、今は少し違うね」
「そうですね」
貴明も視線を巡らせた。ハルとすみれは、まだ足運びの話をしている。クロエとすずらんは、今度はジャブの使い方について話していた。
蓮はその横で時々口を挟んでいる。人間用リングでは別の会員がサンドバッグを打っていて、少し離れたところでは高城が練習の指示を出していた。大会が終わっても、ジムはいつも通りだった。
「……そうですね」
貴明はもう一度頷いた。
「三人だけじゃないので」
「うん」
美咲は笑った。
「せっかく同じジムなんだし、色々聞けばいいと思うよ」
「そうします」
「でも、聞きすぎて相手を困らせないようにね」
「……そこまで聞きませんよ」
「本当?」
「多分」
「多分なんだ」
美咲が笑い出した。その声につられて、ハルがこちらを向く。
「何の話?」
「篠原君が、質問しすぎないようにって」
「ああ!」
ハルが納得したように頷いた。
「分かる!」
「……そんなに?」
貴明が聞く。
「だって、すみれさんが言ってたもん。マスターは気になったらずっと調べてるって」
「……すみれ」
貴明が呼ぶ。
「何ですか?」
「また俺の話してた?」
「事実を話しただけですよ」
「どういう事実?」
「マスターは映像を見始めると長い、という事実です」
すみれが笑う。ハルも美咲も笑っていた。
「……まあ、否定はしないけど」
貴明は苦笑した。その時、近くを通りかかった高城が口を挟んだ。
「何だ、篠原の分析が長いって話か?」
「そうです!」
すみれが即答する。
「会長まで……」
「だって事実だろ」
高城は笑った。
「まあ、今日はもう分析終わりにしとけ」
「分かってます」
「本当か?」
「……はい」
「よし」
高城は頷き、すずらんとすみれを見る。
「二人とも、今日の練習はどうだった?」
「まだ練習しないといけないところが多いです」
すみれが答えた。
「そうだな」
「でも、次に何をやればいいかは分かりました」
「なら十分だ」
高城は頷く。
「すずらんは?」
「……相手の攻撃に対応するだけじゃなくて、次の距離も考えたいです」
「うん。それでいい」
「難しいですけど」
「簡単だったら、あそこまで強い相手に苦労しないだろ」
すずらんが小さく笑った。
「そうですね」
高城は次に貴明を見る。
「篠原、お前もな」
「俺ですか?」
「今日、二人に色々見せたけど、一度に全部直そうとするなよ」
「はい」
「やること決めたら、まずそれを試せ。できてから次だ」
「……分かりました」
蓮が横から頷いた。
「そうそう。条件を一つずつ変えた方が、何が効いたか分かるから」
貴明は少し驚いた。
「それ、分かりやすいですね」
「そう?」
「はい。装備の調整と似てるので」
蓮が笑った。
「篠原君には、そういう説明の方がいいんだね」
「そうですね」
「じゃあ今度からそうしようかな」
その横でクロエが言った。
「蓮も普段からそれくらい整理して話せばいいのに」
「……結構整理してるつもりだけど」
「家ではそうでもない」
「今それ関係ある?」
クロエは答えず、少しだけ笑った。高城もつられて笑っている。
「まあ、そういうことだ」
高城が貴明へ向き直った。
「今日は大会の振り返りもできたし、練習もした。あとは休んで、次に備えろ」
「はい」
「大会が終わったからって、明日から急に強くなるわけじゃないんだからな」
「分かってます」
「ならいい」
高城は満足そうに頷いた。
しばらくすると、帰る時間になった。
「じゃあ、お先に失礼します」
貴明が声をかける。
「おう。気をつけて帰れよ」
高城が答えた。
「すずらんさん、すみれさん。今日はしっかり休んでくださいね」
コハクも声をかける。
「はい」
「分かりました」
二人が頷く。ハルが手を振った。
「すみれさん、また一緒に練習しようね!」
「はい。お願いします」
「次は私も、すみれさんのジャブ見てみたいな」
「じゃあ、ハルさんのステップも見せてください」
「もちろん!」
ハルが嬉しそうに答えた。美咲も手を振る。
「篠原君も、また人間の方見に来れば?」
「ああ、そうですね」
「次はもうちょっと上手くできるように練習しとくから」
「楽しみにしてます」
「でも、失敗したところばっかり見ないでよ?」
「……それは無理かも」
「もう!」
美咲が笑った。少し離れたところでは、クロエがすずらんに声をかけていた。
「次は、もう少しちゃんと動こう」
「はい」
「今度はもっと踏み込むぞ」
「分かりました。私も準備しておきます」
「それでいい」
クロエが笑う。蓮はその横で苦笑していた。
「練習の予定は、コハクさんに確認してからね」
「分かってる」
「さっきも聞いた気がするけど」
「何度も言わなくていい」
そのやり取りに、すずらんも小さく笑った。貴明は荷物を持ち直す。普段の練習と比べれば、今日は身体を動かした時間は短かった。
映像を見て、少し試して、あとは皆と話していた。それでも、無駄な時間だったとは思わない。むしろ、三人だけで映像を見ていたら気づかなかったことが、いくつもあった。
「じゃあ、また」
「お疲れさま!」
美咲の声に送られ、三人はジムを出た。
◇
帰りの電車では、すみれが貴明の肩に座り、すずらんは隣で窓の外を眺めていた。
「今日は結構話しましたね」
すみれが言う。
「そうだな」
「練習より話してた時間の方が長かったかもしれません」
「たまにはいいんじゃない?」
「そうですね」
すみれは少し笑った。
「ハルさんとも色々話せましたし」
「何か参考になった?」
「はい。足の使い方とか」
「そうか」
「でも、今すぐ真似するわけじゃないですよ」
「分かってる」
「私には私の動きがありますから」
貴明は頷いた。ハルとすみれでは得意な動きも苦手な動きも違う。同じ形をそのまま真似る必要はない。
「すずらんは?」
貴明が聞く。
「はい?」
「今日、どうだった?」
すずらんは少し考えてから答えた。
「……よかったです」
「クロエとの練習?」
「それもあります」
「他には?」
「試合のこと、色々な人に聞いてもらえたので」
すずらんが窓から視線を戻した。
「マスターとすみれだけだと、どうしても同じところを見てしまいますから」
「……そうだな」
貴明は少し考えた。自分も、すずらんも、すみれも、長く一緒に練習してきた。互いの得意な動きも、苦手なところも、よく知っている。
だからこそ、同じ試合を見れば似たところへ目が向くこともある。だが、クロスロードには違う考え方をする人がいる。高城は全体の戦術を見て、何を実際に試すべきか考える。
コハクは神姫の身体でどう動くかを具体的に示してくれる。蓮はセコンドとして、情報の使い方を考える。クロエは自分ならどう戦うかという視点で話す。
美咲やハルも、それぞれの経験から意見をくれる。同じ映像でも、気づくところは違う。
「……確かに、助かるな」
貴明が言った。
「でしょう?」
すみれが笑う。
「マスター、一人で考えてると長いですから」
「またその話?」
「事実です」
「……はいはい」
貴明は苦笑した。
「でも、今日は俺も結構参考になったよ」
「よかったですね」
「うん」
少し間を置いて、すみれが言った。
「私、次の大会も頑張りたいです」
「そうだな」
「今度は、もっと早く自分のボクシングへ持っていけるように」
「うん」
すみれは小さく拳を握った。
「次はベスト8より上に行きたいです」
「簡単じゃないぞ」
「分かってます」
すみれが笑う。
「だから練習するんじゃないですか」
貴明も笑った。
「そうだな」
今度はすずらんが口を開く。
「私もです」
「うん」
「準決勝の相手、強かったですけど」
少し考えるように間を置く。
「次にやる時は、もう少し自分の距離で戦いたいです」
「そうだな」
「今日、クロエさんと少し練習して、考えることが増えました」
「よかったじゃん」
「はい」
すずらんは小さく頷いた。
「次は、もう一つ上へ」
貴明は二人を見た。すみれはベスト8。すずらんはベスト4。
結果はもう変わらない。けれど、その結果から何を学び、次にどうするかは、これから決められる。ジムへ行けば、練習相手がいる。
自分達とは違う視点で見てくれる人がいる。何かを試したい時、協力してくれる人もいる。三人で考えることに変わりはないが、今は相談できる相手も、試せる方法も増えていた。
「……次の練習、楽しみだな」
貴明が言った。
「はい」
すみれが頷く。
「私もです」
すずらんも答えた。電車が次の駅へ近づく。明日も大学がある。
講義が終われば、いつものようにクロスロードへ行く予定だった。そこでまた練習をする。誰かと話す。
新しいことを試す。うまくいかなければ、次にどうするか考える。そういう日々が、少しずつ当たり前になっていく。
貴明は窓の外を眺めながら、今日の練習で確認したことを頭の中で整理していた。すみれは攻撃のタイミング。すずらんは距離の作り方。
次の練習では、まずその二つを――。
「マスター」
「……ん?」
すみれがこちらを見ていた。
「今、また練習のこと考えてました?」
「……少し」
「やっぱり」
すみれが笑う。すずらんも小さく笑っていた。
「まあ、好きだからな」
貴明が言う。
「知ってますよ」
すみれが答える。
「私達もです」
すずらんが続けた。その言葉に、貴明は頷いた。大会の結果は変わらない。それでも、次に試すことを考えながら過ごすこの時間も、三人にとってはボクシングの一部だった。