「ここなのだ?」
「ここ」
駅から少し歩いたところで、貴明は足を止めた。大学から鉄道で数駅のこの場所へは、普段なら講義が終わったあと、すずらんとすみれを連れて通っている。隣では、大木戸甚平が建物を見上げていた。
「……普通のボクシングジムだな」
「普通って?」
「いや、もっと神姫専門っぽいところを想像してた」
「人間用もあるから」
入口の上には、クロスロード・ボクシングジムの看板が掲げられている。外から見れば、ごく普通のボクシングジムだ。神姫ボクシングにも対応していることは、入口の案内を見るまで分からないかもしれない。
「ボクシングなのだ!」
甚平の肩に乗っていたたま子が、看板を見上げて声を上げた。
「だからそう言っただろ」
「知ってるのだ! でも、実際に見るともっとボクシングなのだ!」
「どういう意味?」
貴明が聞く。
「こういう意味なのだ!」
「分からん」
甚平が呆れたように言うと、すみれが笑った。
「たま子、楽しそうですね」
「楽しみだったのだ!」
「昨日からずっと言ってたからな」
甚平が答える。
「すずらんとすみれが殴るところを見るのだ!」
「……言い方」
すずらんが少し困った顔をした。
「ボクシングです」
「ボクシングで殴るのだ!」
「間違ってはいないですけど……」
すずらんが返答に困っている。貴明は入口の扉を開けた。
「とりあえず入ろうか」
「行くのだ!」
たま子が甚平の肩から飛び降りようとする。
「おい、勝手に先に行くな」
「早く見るのだ!」
「分かったから、ちょっと待てって」
甚平が慌てて手を差し出した。貴明はその様子を見ながら、少し笑った。甚平とたま子がクロスロードを訪ねたのは、以前から話していた見学のためだった。たま子はすずらんとすみれのボクシングに興味を持ち、甚平も神姫ボクシングを実際に見たいと言っていた。
もっとも、貴明には別の楽しみもあった。甚平が調整しているという、アイアングローブ+JO。今日は試作品を持ってきていないが、実際にすずらんの動きを見れば、何か参考になることもあるだろう。
甚平がどんなところを見るのかも、少し気になっていた。
◇
「こんにちは」
ジムへ入ると、いつもの音が聞こえてきた。人間用リングでは、会員がトレーナーのミットを打っている。奥からはサンドバッグを叩く低い音も響いていた。神姫用の練習スペースでも、何体かの神姫が身体を動かしている。
「おう、篠原」
高城がこちらを見た。その視線が、すぐに隣の二人へ移る。
「今日は賑やかだな」
「大学の知り合いです。前に話していた見学の」
「ああ、今日だったか」
貴明は甚平を紹介した。
「大木戸甚平。こっちが、たま子」
「あたし、たま子なのだ!」
本人が先に名乗った。高城は少しだけ眉を上げた。
「元気だな」
「元気なのだ!」
「見れば分かる」
甚平が苦笑しながら頭を下げた。
「大木戸です。今日はよろしくお願いします」
「高城だ。ここの会長をやってる」
高城は二人を一度見てから、貴明へ視線を戻した。
「練習を見たいんだったな」
「はい。邪魔にならないところで」
「それなら構わん。設備には勝手に触らないようにな」
「ありがとうございます」
「分かったのだ!」
たま子が両腕を上げた。
「特にお前な。リングに飛び込むなよ」
「飛び込まないのだ!」
「本当か?」
「多分なのだ!」
「多分かよ」
甚平が額を押さえた。高城は笑ってから、練習スペースの方を指した。
「神姫の方はコハクが見てる。篠原、案内してやってくれ」
「はい」
「すずらんとすみれは、いつものメニューでいいぞ」
「分かりました」
「はい」
二人も返事をした。今日の見学のために、特別な練習を用意しているわけではない。あくまで普段のクロスロードを見てもらう。
その方が、甚平にとっても参考になるはずだった。
「小さいのだ!」
神姫用スペースへ入ると、たま子が真っ先にリングへ駆け寄った。
「神姫用だからね」
貴明が答える。
「ここで試合するのだ?」
「そう。大会だと専用会場を使うこともあるけど、リングの規格は同じ」
「Fバトルのステージよりずっと狭いのだ!」
「そりゃ、ボクシングだからな」
甚平もリングを覗き込んだ。そこには神姫の大きさに合わせた四十センチほどの四角いリングがあり、周囲には神姫用のサンドバッグやミット、状態確認用の端末などが並んでいた。
人間用の設備を単純に小さくしたように見えるものもあるが、実際には神姫の身体や競技特性に合わせたものだ。
「ここでずっと打ち合うのか」
甚平が言う。
「ずっとってわけじゃないけど。ロープもあるし、相手を外し続けるのは難しい」
「飛行装備もなし?」
「なし。射撃もなし」
「本当に拳だけなんだな」
「そう」
たま子は神姫用のサンドバッグを見つけると、そちらへ駆け寄った。
「これも叩くのだ?」
「はい」
すみれが答える。
「そちらはサンドバッグです」
「こっちは?」
「ミットですね。トレーナーに持ってもらって練習します」
「誰が持つのだ?」
「コハクさんとか」
すずらんが答えたところで、声がした。
「私のことですか?」
振り返ると、ハウリン型の神姫がこちらへ歩いてきていた。コハクだった。
「あ、コハクさん」
すみれが挨拶する。
「こんにちは。今日はお客様も一緒なんですね」
「見学に来てもらったんです」
貴明が答えた。
「初めまして。コハクです」
コハクが二人へ軽く頭を下げる。
「あたし、たま子なのだ!」
「よろしくお願いします、たま子さん」
「トレーナーなのだ?」
「はい。こちらで神姫ボクシングの実技指導を担当しています」
「神姫が神姫を教えるのだ?」
「そうですよ。その方が分かりやすいこともありますから」
コハクは自分の腕を軽く動かしてみせた。
「例えば、パンチを打つ時の姿勢です。人間のトレーナーから見た動きと、神姫自身が感じる動きは、必ずしも同じではありません」
「なるほどなのだ!」
たま子が大きく頷く。
「もちろん、会長から教わることも多いですよ。人間のボクシングで培われた技術は、神姫にも参考になります。ただ、そのままでは合わない部分もあるので、私達の身体に合わせて調整するんです」
「すごいのだ!」
「ありがとうございます」
コハクが小さく笑った。たま子がどこまで理解したかは分からないが、興味を持っていることだけは確かなようだった。
「貴明!」
「何?」
「ここ、面白いのだ!」
「まだ練習始まってないけど」
「もう面白いのだ!」
「そう」
貴明は苦笑した。甚平は神姫用リングの脇に置かれた設備を見ていた。
「状態確認の端末もあるんだな」
「あるよ。Second Linkも使える」
「Fバトルのライドとは違うんだよな?」
「うん。セコンド用の情報を見るためのもの。身体を操作する機能はない」
「なるほど。選手本人に任せるわけか」
「そういうこと」
甚平はもう一度リングへ目を向けた。
「思ってたより、ちゃんと競技なんだな」
「ちゃんと?」
「いや、悪い意味じゃなくてさ。神姫用の設備も指導する人も、ここまで揃ってるとは思わなかった」
「まあ、専門でやってるところもあるからね」
「へえ」
甚平は少し感心したように頷いた。
「一度来てみないと分からないもんだな」
「では、始めましょうか」
コハクが声をかけた。すずらんとすみれは、神姫ボクシング用のウェアとグローブを装着し、リング脇へ向かった。その姿を見た甚平が、ふと首を傾げる。
「……あれ?」
「何?」
「グローブ、違うな」
「Fバトルのと?」
「そう。アイアングローブと見た目は似てるけど」
「別物だから」
貴明が答える。甚平はすみれの手元を覗き込んだ。
「こっちの方が柔らかそうだな」
「ボクシング用だからね。打撃面の規格とか安全性が優先」
「アイアングローブは?」
「Fバトル用の武装。硬いし、ガードにも使える。性能の方向が違う」
「じゃあ、これをFバトルで使ったら?」
「使えなくはないけど、打撃性能が低い。わざわざ選ぶメリットはあまりないかな」
「逆に、アイアングローブをボクシングで使うのは?」
「駄目。競技規格に合わない」
「まあ、そりゃそうか」
甚平が頷いた。神姫ボクシングのグローブは、近距離で何度も打ち合うことを前提に安全性と連打のしやすさを重視する。一方、射撃武器や刃物も使われるFバトルの近接武装には、一撃の威力と防御性能が求められる。アイアングローブが硬質なのも、そのためだ。
「同じ拳の装備でも、結構違うんだな」
「うん」
「重さも?」
「違う。単純な重量だけじゃなくて、手首周りの構造も」
貴明が答えると、甚平の目つきが少し変わった。
「……なるほど」
「何?」
「いや、ちょっと気になった」
「どこ?」
「あとで聞く」
「今でもいいけど」
「練習始まるだろ」
甚平が笑う。
「お前、話し始めると止まらなそうだし」
「甚平もだろ」
「否定はしない」
その横で、たま子がすみれへ声をかけた。
「すみれ、頑張るのだ!」
「はい。ありがとうございます」
「いっぱい殴るのだ!」
「……練習ですからね?」
「分かってるのだ!」
甚平は、そんなたま子の頭を軽く小突いた。
「見学なんだから、静かにな」
「分かったのだ!」
返事だけは元気だった。
「すみれさん、まずはジャブからお願いします」
「はい」
コハクがミットを構えた。すみれは左足を少し前へ出し、構えを取る。軽く踏み込みながら左ジャブを打つと、乾いた打撃音が響いた。
「もう一度お願いします。今度は、少しだけ前へ」
「はい」
すみれは足の位置を調整し、もう一度ジャブを打った。今度は踏み込みが少し深い。ミットへ拳が当たると、すぐにガードを戻して距離を外す。
「そうですね。その位置なら打った後も動きやすいと思います」
「分かりました」
「では、右も続けましょう」
すみれは再び構えると、左ジャブから右ストレート、さらに左フックへとつなぎ、打ち終わると一歩横へ移動した。動作は丁寧だった。
すみれは基本の姿勢を崩さず、一つ一つのパンチを確実につないでいく。コハクも細かな足の位置やガードの戻しを確認しながら、ミットの位置を変えていた。
「おお!」
たま子が声を上げる。
「速いのだ!」
「まだ基本の練習ですよ」
すみれが笑いながら答える。
「基本でも速いものは速いのだ!」
「ありがとうございます」
「すみれさん、余裕がありそうですね」
コハクがミットを上げた。
「では、もう一回お願いします」
「はい」
「あっ、増えたのだ!」
たま子が驚く。
「たま子」
甚平が呼んだ。
「何なのだ?」
「練習中にあんまり話しかけるな」
「分かったのだ!」
少しだけ静かになる。すみれが右ストレートを打った。
「すみれ、頑張るのだ!」
「……今言ったそばから」
甚平が肩を落とした。コハクは小さく笑っていたが、指導の手を止めることはなかった。続いて、すずらんの番になった。
最初はジャブから右ストレートを打ち、距離を外してからもう一度踏み込む練習だった。すずらんはジャブから右を重ね、一歩下がって構えを直すと、同じ動きをもう一度繰り返した。
「すずらん、右のあと」
貴明が声をかけた。
「はい」
「戻りを少し早く。次の位置へ動くのも意識して」
「分かりました」
すずらんが構え直す。ジャブから右ストレート。今度は打った拳をすぐに引き戻し、その動きに合わせて左へ位置を変えた。
「今のはいい」
貴明が言う。
「はい」
「もう一回」
すずらんが頷き、同じ動作を繰り返した。拳を打つ時の姿勢も、戻す速さも、足運びも、貴明にとっては見慣れた動きだった。すずらんはボクサーファイターとして、相手の攻撃を見ながら反撃することを得意としている。だが、カウンターを狙うだけでなく、自分から仕掛ける場面もある。
打ったあとに正面へ残らず、次の攻防に備えることは、そのどちらにも必要だった。
「……」
隣にいた甚平が、いつの間にか黙っていた。貴明が顔を向ける。
「何?」
「いや、ちょっと」
甚平はリングを見たまま答えた。
「もう一回、同じ動き見せてもらっていい?」
「すずらんに?」
「うん。右のあと」
貴明はすずらんを見た。
「すずらん、もう一度同じのできる?」
「はい」
コハクも頷いた。
「では、もう一回お願いします」
すずらんがジャブを出し、右ストレートを打った。拳はミットへ当たると、すぐにガードへ戻る。同時に、足が次の位置へ移った。
「……速いな」
甚平が呟いた。
「何が?」
「右の戻り」
「ああ」
「想像してたより速い」
貴明は頷いた。
「本人の動きはこんな感じだよ」
「だよな」
甚平は少し考えた。
「Fバトルの時、同じくらい戻せる?」
「アイアングローブで?」
「そう」
「そこまでは速くない。特に右ストレートのあと」
「やっぱりな」
甚平が小さく頷く。
「この動きができるなら、少なくとも本人の反応が遅いわけじゃなさそうだ」
「うん」
「となると、武装側の影響も結構ありそうだな」
貴明はもう一度リングを見る。すずらんが右を打ち、ガードへ戻している。ボクシングでは、拳を引く動きが次の防御や攻撃へ直接つながる。
しかし、Fバトルでは事情が違う。アイアングローブそのものの重量に加え、武装の動作補正や手首周辺の追従特性も影響する。同じ神姫が同じように拳を動かそうとしても、装備が違えば結果は変わってくる。
「でも、単純には比較できないよ」
貴明が言った。
「ボクシング用とF用じゃ、重量も構造も違うから」
「分かってる」
甚平が頷く。
「ここで速いからって、アイアングローブだけが原因とは言えないだろ」
「そういうこと」
「ただ、元の動きがどれくらいできるのかは見たかった」
「なるほど」
甚平はリングのすずらんへ目を戻した。
「アイアングローブって、拳側に重さが寄ってるだろ」
「うん」
「右を打ち切ったあと、その重さが戻りの邪魔してる可能性がある」
「重心の問題?」
「それもあると思う。あと手首」
甚平は自分の手を軽く動かしてみせた。
「拳を返すとき、武装が少し遅れてついてくる感じになってない?」
「……ある」
貴明は頷いた。
「特に連打する時、次の入力との間で補正が入ることがある」
「それだな」
「+JOではその辺を変えてる?」
「変えてる。まだ調整中だけど」
甚平は少し考え込んだ。
「今日のを見て、もう少し詰めたいところが出てきた」
「どこ?」
「拳側の重量配分と、手首周りの追従かな」
「軽くする?」
「単純に軽くするだけじゃない。前に持っていかれる感じを減らしたい」
「入力補正は?」
「そこも見る」
「じゃあ――」
「待て待て」
甚平が手を上げた。
「何?」
「まだ見ただけだって」
「でも仮説は立つだろ」
「立つけど、いきなり全部変えたら何が効いたか分からなくなる」
「それはそう」
貴明はあっさり頷いた。甚平が笑う。
「お前、すぐ数字取りたがるし、俺はすぐ弄りたくなるからな」
「似てるじゃん」
「そこは否定しない」
甚平は実物を加工し、貴明は動作を記録して比較する。これまでの会話でも、二人の関心には少し違いがあったが、それがちょうどよいのかもしれない。
「……試す時は、純正とも比較したいな」
貴明が言った。
「もちろん」
「あと、すずらん本人の感覚も」
「それが一番大事だろ」
甚平が答える。
「実際に使うのはすずらんなんだから」
貴明は頷いた。その時、リングの方から声がした。
「マスター」
すずらんだった。
「何?」
「さっきから装備の話ばかりしてません?」
「……聞こえてた?」
「はい」
「見学だから」
「甚平さんは、ずっと私の右を見てましたけど」
すずらんが少し笑った。甚平は気まずそうに頭をかいた。
「悪い。つい気になって」
「いえ。参考になったならよかったです」
「かなり」
「では、+JOも楽しみにしています」
「……お前もか」
甚平が笑った。ミット練習が一段落すると、すずらんとすみれは少し休憩に入った。たま子がすぐに二人へ近づく。
「すごかったのだ!」
「ありがとうございます」
すみれが笑った。
「すずらんも速かったのだ!」
「……ありがとうございます」
「たま子もやってみたいのだ!」
その言葉に、甚平がすぐ反応した。
「おい」
「何なのだ?」
「今日は見学だぞ」
「知ってるのだ!」
「さっきやりたいって言っただろ」
「見たらやりたくなったのだ!」
「だからって、いきなりやるなよ」
「まだやってないのだ!」
「そうだけど」
貴明は二人のやり取りを見ながら笑った。たま子は、ボクシングそのものをかなり気に入ったらしい。もっとも、ボクシングは見た目以上に難しい。
単に拳を振り回すだけでは、まともな攻防にならない。構え、距離、足運び、ガード。それらを組み合わせて初めて試合として成立する。
「練習すれば、たま子もできるのだ?」
たま子がすずらんへ聞いた。
「もちろん、練習すれば」
「本当なのだ!?」
「ただし、きちんと教わった方がいいと思います」
「教わるのだ!」
「待て待て」
甚平がまた止めた。
「入会はしないからな」
「まだ何も言ってないのだ!」
「その顔は言う顔だ」
「見るだけなのだ!」
「本当か?」
「今日は!」
「今日はって言ったな?」
すみれが笑った。
「体験くらいなら、会長に相談してみてもいいんじゃないですか?」
「すみれ!」
甚平が振り返る。
「もちろん、ちゃんと予定を決めてからですよ」
「予定を決めるのだ!」
「今日は決めない」
「何でなのだ?」
「見学に来たのに、勝手に予定を増やすな」
「予定は増やすものなのだ!」
「初めて聞いたぞ、そんな理屈」
甚平は呆れたように言った。たま子は少し不満そうに頬を膨らませたが、すぐに別のことへ興味を向けた。
「貴明!」
「何?」
「貴明はやらないのだ?」
「何を?」
「ボクシング!」
「俺?」
「そうなのだ!」
「いや、俺はやってないよ」
「何でなのだ?」
「俺はセコンドだから」
「セコンドでもボクシングできるのだ!」
「できるけど」
「じゃあやるのだ?」
「そこまでは考えてない」
たま子は不思議そうに首を傾げた。
「見るだけで面白いのだ?」
「面白いよ」
「殴る方も面白そうなのだ!」
「それは人によるだろ」
甚平が笑った。
「でも、確かに」
「何?」
「ここまでジムに通ってて、自分ではやらないんだな」
「すずらんとすみれの練習で来てるから」
「まあ、そうだけど」
甚平は貴明を上から下まで見た。
「運動とかは?」
「特には」
「しなさそう」
「何で」
「見た目」
「失礼だな」
「当たってる?」
「……当たってる」
「じゃあいいだろ」
「よくない」
貴明が言い返すと、甚平が笑った。ただ、たま子に聞かれたことで、以前、美咲の練習を見た時のことを思い出した。彼女は、足から身体を通して力が拳へ伝わる感覚について話していた。貴明もミット打ちを間近で見て、その意味を頭では理解できたつもりだったが、自分自身で打ったことはない。
興味がないわけではなかったが、だからといって今すぐ始めようとも思っていない。貴明にとって、ジムへ通う一番の目的は、すずらんとすみれの神姫ボクシングだった。
「篠原」
少し離れたところから声がした。高城だった。
「はい?」
「やりたくなったら言えよ」
「……今のところは大丈夫です」
「そうか」
高城はそれだけ言うと、別の会員の練習へ戻っていった。
「ほら」
貴明が言った。
「何が?」
甚平が聞く。
「無理にやらなくてもいい」
「誰も無理にやれとは言ってねえよ」
「たま子は言ってた」
「たま子はな」
「やると面白いのだ!」
たま子が胸を張った。
「お前、まだやったことないだろ」
「見て分かったのだ!」
「便利な理解力だな……」
甚平がため息をついた。休憩のあと、今度はリングを使った距離の確認に移った。すずらんとコハクがグローブを合わせる。
「今日は軽く動きを確認しましょう」
コハクが言った。
「相手の攻撃を避けたあと、どこへ移動するかを意識してください」
「はい」
「試合するのだ?」
たま子が聞いた。
「スパーリングまではしないよ」
貴明が答える。
「今日は動きの確認だけ」
「何が違うのだ?」
「強く打ち合うんじゃなくて、距離や位置を確かめる」
「当てないのだ?」
「軽く当てることはあるけど、勝敗を決める練習じゃない」
「なるほどなのだ!」
たま子が頷いた。リングの上で、コハクが一歩前へ出た。すずらんは少し下がり、ジャブを出す。
コハクが上体を動かして外す。すずらんはそのまま横へ移動し、次の位置へ入ろうとした。
「そこですね」
コハクが動きを止めた。
「はい?」
「今、ジャブのあとに少し正面へ残りました」
すずらんが自分の足元を見る。
「……そうですね」
「横へ動く前に、相手がもう一歩出てきたらどうなりますか?」
「押し込まれます」
「そうです。では、もう一度」
すずらんが頷いた。今度はジャブを打った直後、次の足が早く動いた。コハクが前へ出ようとする。
しかし、すずらんは先に横へ移っている。
「今のはいいですね」
コハクが頷いた。
「ありがとうございます」
貴明もリング脇から声をかける。
「すずらん、今の位置いい」
「はい」
「次も同じように」
「分かりました」
もう一度、二人が動き始めた。コハクが前へ出る。すずらんがジャブを出す。
そこから右ストレートを重ね、すぐに横へ移動した。コハクはその動きに合わせて位置を変え、すずらんの次の攻撃に備える。貴明は外から見える距離と、すずらんの状態情報を交互に確認していた。
すずらんが自分で選んだ動きに対して、必要なところだけ声をかける。細かな足運びや拳の軌道を、貴明が直接操作しているわけではない。
「……お前」
隣で甚平が言った。
「何?」
「ずっと、ああいう感じで見てるの?」
「大体」
「自分で操作したりは?」
「ボクシングじゃできないよ」
「ああ、そうか。Second Linkだもんな」
「うん」
甚平はリングへ視線を戻した。
「Fバトルの時とは、随分違うんだな」
「そう?」
「Fバトルならライドで一緒に動いてる感じだろ」
「まあ、進路とか攻撃の大枠は俺も決めるからね」
「こっちは完全に外から見てる」
「セコンドだから」
貴明が答えた。
「試合中も、すずらんが自分で判断して戦う。俺は見えてないところを補うだけ」
「なるほど」
「練習なら途中で止められるし、色々確認できるけどね」
「試合だと違う?」
「うん。何でも言えばいいってわけじゃないから」
貴明はリングの方へ目を向けた。すずらんがジャブを出し、コハクの動きに合わせて横へ移動している。
「試合中は、相手もずっと動いてるし。こっちが見つけたことを全部言っても、すずらんが使えるとは限らない」
「だから絞るのか」
「そう」
甚平は少し考えた。
「……お前、そういうのもやってるんだな」
「ずっとやってるよ」
「いや、知識としては知ってたけどさ」
甚平は苦笑した。
「実際に見たら、ちょっと印象違った」
「そう?」
「うん。Fバトルの時は自分も戦う側だけど、こっちだと完全に支える側なんだな」
貴明は少し考えた。
「まあ、そうだね」
Fバトルでは、すずらんと貴明が協調して戦う。一方、神姫ボクシングではリング上の判断をすずらん自身が行う。どちらも二人で戦っていることに変わりはないが、役割は違う。
甚平にはその違いが新鮮だったらしい。
「面白いな」
甚平が言った。
「何が?」
「神姫ボクシング」
「だろ」
「いや、思ってたよりずっと」
貴明は少し笑った。練習が一段落すると、たま子はすぐにすずらんへ駆け寄った。
「今のすごかったのだ!」
「ありがとうございます」
「打って、避けて、また打つのだ!」
たま子が自分で一歩横へ動き、拳を出す真似をした。
「こうなのだ!」
「……少し違いますけど」
すずらんが答える。
「違うのだ?」
「足の位置が」
「足?」
「はい。たま子さん、そのまま打ったら身体が前へ出すぎると思います」
「むむ」
たま子は自分の足を見下ろした。少し構えを直し、もう一度拳を出す。
「こうなのだ?」
「さっきよりは」
「できたのだ!」
「まだ練習してないですよ」
すみれが横から笑った。
「練習するのだ!」
「だから今日は見学だって」
甚平が口を挟む。
「分かってるのだ!」
たま子は返事をしながら、もう一度拳を出す真似をした。
「……本当に分かってる?」
「分かってるのだ!」
甚平が苦笑する。貴明はその様子を見ていた。たま子は最初、ボクシングをただ拳で殴り合う競技だと思っていたのかもしれない。
しかし、実際の練習を見て、構えや足運びにも興味を持ち始めている。単に楽しそうだと騒いでいるだけではないらしい。
「たま子」
貴明が呼んだ。
「何なのだ?」
「今日の見学、どうだった?」
「面白かったのだ!」
「Fバトルとは違う?」
「全然違うのだ!」
「どこが?」
「狭いのだ!」
「そこか」
「武器も拳だけなのだ!」
「うん」
「飛ばないのだ!」
「そうだな」
「撃たないのだ!」
「撃たない」
「なのに、いっぱいすることがあるのだ!」
貴明は少し笑った。
「そうだね」
「Fバトルなら、離れたら撃つのだ!」
「うん」
「飛んでもいいのだ!」
「そう」
「でもボクシングは、近いままなのだ!」
「まあ、距離は取るけどね」
「ずっと近くで、相手の拳を見ないといけないのだ!」
たま子は両腕を動かしてみせた。
「大変なのだ!」
「そうだな」
貴明は頷いた。たま子なりに、競技の違いはかなり理解したらしい。甚平も、その様子を見て笑っていた。
「お前、思ったよりちゃんと見てたな」
「当然なのだ!」
「さっきまでずっと喋ってたけど」
「喋りながら見てたのだ!」
「器用だな……」
練習を終えたすずらんとすみれが状態確認を受け、グローブを外す。貴明も今日の記録を保存した。
「二人とも、問題ありませんね」
コハクが端末を確認して言った。
「今日はここまでにしましょう」
「ありがとうございました」
「お疲れさまでした」
すずらんとすみれが挨拶する。コハクは二人へ頷いたあと、貴明と甚平の方を見た。
「見学はいかがでしたか?」
「面白かったです」
甚平が答えた。
「神姫の動き、思ってたより細かいところまで見られたので」
「それはよかったです」
「特に、すずらんの右ストレート」
「ああ、先ほどのお話ですね」
「はい」
コハクは少し考えた。
「武装の調整をされているんでしたね」
「そうです」
「すずらんさんの動きそのものを確認するなら、今日の練習は参考になると思います。ただ、ボクシング用のグローブはFバトル用と構造が違いますから、比較する時は注意してくださいね」
「ええ。そこは篠原とも話してました」
甚平が頷いた。貴明も端末を閉じる。
「だから、今度+JOを試す時は純正のアイアングローブとも比較する予定です」
「それなら、違いが分かりやすくなりそうですね」
コハクが微笑んだ。
「すずらんさん自身の感覚も、確認してあげてください」
「もちろん」
甚平が答える。
「そこは本人に聞かないと分からないですから」
貴明は少し頷いた。人間が外から見て分かる動き、ログで確認できる数値、そして神姫本人が感じる扱いやすさ。どれか一つだけで判断するわけにはいかない。特に、Fバトル用の装備を調整するなら、最終的にはすずらん自身がどう感じるかが重要だった。
休憩スペースへ移ると、甚平が改めて貴明へ声をかけた。
「さっきの、ちょっと参考になった」
「すずらんの右?」
「そう」
甚平は自分の端末を取り出した。
「本人の戻しは、思ってたより速い。拳を引くだけじゃなくて、そのまま次の動作へ入れてる」
「うん」
「となると、今のアイアングローブで感じてる遅れを、どこまで武装側で減らせるかだな」
「+JO?」
「そう」
甚平は端末へ視線を落とした。
「試作の方向は、間違ってなさそうだと思う」
「拳側の重量を減らす?」
「それもある。ただ、重さだけじゃない」
「重心?」
「うん。拳先から少し内側へ寄せる。それから手首周りの追従」
「入力補正も?」
「そこも確認する」
貴明は少し考えた。
「でも、変えすぎると打つ時の感覚も違ってくるよな」
「そうなんだよ」
甚平が頷いた。
「軽くすれば何でもよくなるってわけじゃない。戻しやすくなっても、今までのタイミングで打てなくなるかもしれないし」
「なるほど」
「だから、そこは実際に使ってもらってからだな」
「試作品はもうあるんだろ?」
「あるよ。前にも言っただろ」
「じゃあ、どこまで直す?」
「今日の分を参考に、もう少し調整する」
「何を?」
「まず重量配分。それと手首周り」
「ログ送ろうか?」
「欲しい」
返事は早かった。貴明は少し笑う。
「練習の映像でいい?」
「いい。特に右の戻し」
「すずらんの感覚も一緒に送る?」
「それも頼む」
「分かった」
甚平は満足そうに頷いた。
「助かる」
「こっちも試せるなら助かる」
「お前、やっぱり試す方が先なんだな」
「試さないと分からないし」
「会長みたいなこと言うな」
「そう?」
「さっきも似たようなこと言ってたぞ」
「高城さんは実際に動かして確かめる人だから」
「お前は?」
「動かしてログを取る」
「……もっと面倒だな」
甚平が笑った。貴明もつられて笑う。しかし、試作品について考え始めると、自然に確認したいことが増えていった。
純正との重量差や重心位置、手首の追従、パンチを打ってからガードへ戻るまでの時間、フック後の復帰、連続攻撃での扱いやすさ。どれも、できれば数字で確かめたかった。ただし、現時点ではまだ仮説にすぎなかった。ボクシング用グローブでの動きが速いからといって、+JOを軽くすれば同じように動けるとは限らない。
Fバトルでは相手の攻撃を硬質のグローブで受けることもある。防御性能を削りすぎれば、別の問題が出てくるだろう。
「まあ、実物を見てからだな」
貴明が言った。
「そういうこと」
甚平が頷く。
「次はちゃんと試験しよう」
「純正も持っていく」
「助かる」
「条件も揃えたい」
「分かってるって」
「右ストレートとフックは――」
「篠原」
「何?」
「その話は試作品ができてからな」
「……分かった」
甚平が笑う。
「ほんと、こういう時だけ止まらないな」
貴明は何も言い返せなかった。
「そろそろ帰るか」
甚平が時計を確認した。たま子はまだ神姫用リングの方を見ていたが、その声を聞くと振り返った。
「もう帰るのだ?」
「十分見ただろ」
「見たのだ!」
「じゃあ帰るぞ」
「また来るのだ!」
たま子が胸を張った。
「もう決定なんだ」
貴明が言う。
「駄目なのだ?」
「駄目じゃないけど」
「なら来るのだ!」
「甚平次第だろ」
「俺?」
甚平が顔を上げる。
「マスターだし」
「まあ、暇ならな」
「暇を作るのだ!」
「お前の中で俺の予定どうなってんの?」
「たま子と一緒なのだ!」
「大雑把すぎるだろ……」
すみれが笑いながら手を振った。
「また大学でも会いましょう」
「会うのだ!」
「すずらんも!」
「はい。また」
すずらんも小さく手を振る。たま子は満足そうだった。その横で、甚平が貴明へ声をかける。
「篠原」
「何?」
「+JO、今日見たところをもう少し調整しておく」
「うん」
「終わったら連絡するから」
「分かった」
「……いつか聞かないんだな」
甚平が少し意外そうに言った。
「聞いてほしい?」
「いや、聞かないでくれ」
「じゃあ聞かない」
「助かる」
少し間を置いて、貴明が続けた。
「でも、そんなに先じゃないんだろ?」
「……結局それかよ」
甚平が笑った。
「まあ、長くはかからないと思う。試作品自体はあるし」
「分かった。待ってる」
「本当に待てる?」
「待てるよ」
「今日中に催促来そうだけど」
「しない」
「本当か?」
「……多分」
「多分かよ」
たま子が二人を見上げた。
「甚平も貴明も楽しそうなのだ!」
「そうか?」
甚平が聞く。
「そうなのだ!」
たま子は大きく頷いた。
「また一緒に遊ぶのだ!」
「遊ぶっていうか、装備の試験な」
「同じなのだ!」
「違うだろ」
甚平が苦笑する。貴明は少し笑いながら、二人を見送った。
◇
駅へ向かう途中、すみれが口を開いた。
「今日は楽しかったですね」
「見学?」
貴明が聞く。
「はい。私達はいつも通り練習してただけですけど」
「たま子、ずっと喋ってましたね」
すずらんも言った。
「楽しそうだったな」
「甚平さんも、途中からずっと見てました」
「すずらんの右をな」
貴明が答える。
「あそこまで気にするとは思わなかった」
「マスターも、同じところ気にしてたじゃないですか」
すみれが笑った。
「俺は元々気にしてたから」
「だから、似てるんですよ」
「違うって」
「どこがです?」
貴明は少し考えた。
「甚平は実物を弄る方。俺は使って、ログを取って、比較する方」
「そうですね」
「だから、興味のあるところが少し違う」
「でも」
すみれが言った。
「ちょうどいいんじゃないですか?」
「何が?」
「甚平さんが作って、マスターが数字を見て」
すずらんが続けた。
「実際に使うのは私達ですね」
「そういうこと」
貴明は頷いた。
「もちろん、使うかどうかは二人に決めてもらうけど」
「私は使います」
すずらんが即答する。
「早いな」
「前にも言いました」
「そうだった」
「私は、実物を見てからですね」
すみれが言う。
「それも前に聞いた」
「はい」
二人の反応は、前に甚平と話した時から変わっていなかった。貴明は少し笑う。これまでは、市販の武装を選び、設定できる範囲で調整することが中心だった。
それでも色々試すことはできたし、今の戦い方もその積み重ねで作ってきた。しかし、甚平なら武装そのものへ手を加えられる。自分達では変えられなかった部分を、別の方向から調整できるかもしれない。
「……確かに、できることは増えそうだな」
貴明が呟いた。
「でしょう?」
すみれが笑う。
「ただ、実際に使ってみないと分からないけど」
「そこはマスターですね」
「何が?」
「結局、試してからなんですから」
「そりゃそうだろ」
貴明が答えると、すみれは楽しそうに笑った。すずらんも小さく頷く。
「私も楽しみです」
「うん」
貴明は駅へ向かいながら、甚平が話していた調整内容を思い返していた。拳側の重量配分、手首の追従、打った後の戻り。どれも今のアイアングローブで気になっていた部分だ。甚平の調整で、どれくらい変わるのだろう。
早く実物を見てみたい。そんなことを考えていると、すみれが横から声をかけた。
「マスター」
「何?」
「今、+JOのこと考えてました?」
「……何で分かった?」
「顔で」
「顔では分からないだろ」
「分かりますよ」
すずらんも小さく笑った。
「今日はずっとそういう顔でした」
「……そんなに?」
「はい」
貴明は苦笑した。
◇
その日の夜、自宅へ戻った貴明は、ノートPCに練習映像を取り込んでいた。ジムでは普段通り記録を残しているが、今日は甚平へ送るため、必要な場面を選んでいた。
「また見てるんですか?」
すみれが机の上から覗き込む。
「今日の分」
「甚平さんに送るんですよね?」
「うん。すずらんの右ストレート」
貴明が映像を再生する。映像の中では、すずらんがコハクの持つミットへジャブから右を打ち込み、拳をすぐにガードへ戻して横へ移動し、次の攻撃へつなげていた。貴明は再生位置を少し戻し、同じ場面をもう一度確認した。
「これですか?」
すずらんが画面を見た。
「うん」
「普通の練習ですね」
「だからいいんだよ」
「どういうことです?」
「特別な動きじゃない方が、普段の戻りを確認しやすい」
貴明は画面を一時停止した。
「+JOを使った時に、どれくらい変わるか比較したいから」
「また比較ですか」
「試すならね」
すずらんは少し笑った。
「分かりました」
貴明は短い区間を切り出し、続けて動作の条件を簡単にまとめた。使用したのは神姫ボクシング用グローブで、強い打ち合いではなくミット練習であること。右ストレートのあとに拳をガードへ戻し、横へ移動する動作であることを記載し、甚平へ送信した。程なくして返信が届いた。
『見た』
続けて、もう一通。
『やっぱ本人の戻しは問題なさそう』
貴明は頷いた。少なくとも、すずらん自身が拳を戻せないわけではない。もちろん、それだけでアイアングローブの遅れの原因が確定したわけではなかった。
装備を変えた時の動作を比較しなければ、どこで差が生まれているのかは分からない。さらに返信が来た。
『拳側の配分と手首、もうちょい詰める』
『+JOの?』
『そう』
貴明はすぐに返した。
『いつ試せる?』
少しして、返信。
『だから早いって』
「……」
「何です?」
すみれが聞いた。
「甚平から」
「何て?」
「早いって」
「……その通りでは?」
「まだ催促してない」
「今、何て送りました?」
「いつ試せるかって」
「それを催促と言うんじゃないですか?」
「確認」
「マスター……」
すみれが呆れたように言う。すずらんも画面を覗き込んだ。
「甚平さん、返事は早いですね」
「そうだな」
「案外、マスターと同じくらい楽しみにしてるんじゃないですか?」
貴明は少し考えた。
「……そうかも」
画面には、すずらんの右ストレートが映っている。ジャブから右へつなぎ、拳を戻して次の位置へ動く。これまでは、その動きを自分達で分析し、既存の装備設定を調整してきた。
今度は甚平が武装そのものに手を加え、貴明が結果を計測する。そしてすずらんとすみれ自身にも、使ってどう感じるかを確かめてもらう。まだ試作品を見たわけではない。だから、どれくらい良くなるのかは分からないし、今までより扱いにくくなる可能性だってある。
それでも、試す価値はありそうだった。
「マスター」
すずらんが言った。
「何?」
「試作品、楽しみですね」
「うん」
貴明は頷いた。
「早く使ってみたいな」
「だから、まだ調整中なんでしょう?」
すみれが横から言う。
「分かってる」
「今日中にもう一回連絡したりしないでくださいよ」
「しないって」
「本当に?」
「本当」
そこで、また甚平から返信が届いた。
『調整できたら連絡する。純正も持ってきてくれ』
貴明はすぐに入力した。
『了解。比較用の条件まとめておく』
数秒後。
『お前もう準備してんのかよ』
貴明は少し笑った。
「……何です?」
すみれが聞く。
「いや、何でもない」
「絶対何かありましたよね」
「甚平も楽しみにしてるみたいだなって」
「……マスターと同じですね」
すずらんが静かに頷いた。
「気が合いそうです」
貴明は画面へ視線を戻した。アイアングローブ+JO。まだ実物を見ていない甚平の試作品が、これまでのアイアングローブとどう違うのか。すずらんが使えばどんな感覚になり、ログにはどんな差が出るのか。確かめたいことはいくつもあった。ただ、一つだけはっきりしている。
今度は、装備を選んで設定するだけではない。自分達の使い方に合わせて、武装そのものを変えることができるかもしれない。貴明はもう一度、甚平からの返信を読んだ。
『調整できたら連絡する』
その文字を見て、少し笑う。試作品を試す日が、今から楽しみだった。