バトマス、小説、アニメ辺りの背景ベースに進む予定です。
もしかしたら、未来からエーデルワイスが来て、バグを殴り倒す話をいきなりで始めるかもしれませんが。。(今のところバトコン要素はない...かな?)
引っ越し
「……よし。映った」
黒い画面にメーカーのロゴが浮かび、数秒遅れて見慣れたデスクトップが表示された。
篠原貴明は、床に座ったまま小さく息を吐いた。細い黒縁の眼鏡を指先で押し上げ、もう一度画面を確かめる。
机の下には、開封したばかりの段ボールが二つ、半分つぶれた状態で転がっていた。その横や壁際には、まだ封も切っていない箱がいくつも積まれている。衣類や食器、教科書に日用品。片付けるべきものは、いくらでも残っていた。
それらを差し置いて、最初に組み上げられたのはデスクトップPCだった。
机の上には二枚のモニター。下にはミドルタワー型の本体を収め、キーボードとマウスも並べてある。ネットワークへの接続も済んだ。
その隣には、黒いノートPCが閉じたまま置かれている。大学へ持っていくためのもので、授業だけでなく、神姫の対戦ログ整理や遠征先での映像確認にも使うつもりだった。
「マスター」
机の上から声がした。
「ん?」
顔を上げると、モニター脇に立っていた小柄な少女――アーンヴァルMk.2テンペスタのすずらんが、部屋の反対側を指していた。
「まだクレイドルしか出してませんけど」
「PCも出した」
「そういう意味ではありません」
淡々と返され、貴明は振り返った。
六畳ほどの部屋には、段ボール箱が壁沿いに並んでいる。カーテンは付けたし、布団も一応出した。冷蔵庫にも電源は入っている。ただし、中身といえば引っ越し途中で買ったペットボトルの水と、コンビニのおにぎりが一つだけだった。
神姫用のクレイドルは、PCより少しだけ先に設置している。すずらん用と、もう一体のアーンヴァルMk.2――すみれ用の二基だ。
貴明としては、生活に必要な準備を十分進めているつもりだった。
「最低限は終わってるだろ」
「冷蔵庫の中、ほとんど何もありませんよ」
別の声がした。
冷蔵庫の前には、すみれが立っている。扉は開いたままだ。もちろん、十五センチほどの神姫が自力で開けたわけではない。中を見たいと言われ、先ほど貴明が開けたのだ。
「明日買いに行く」
「今日の夕飯は?」
「駅前で何か買う」
「昨日もそれでしたよね?」
「引っ越し中なんだから仕方ないだろ」
「そういうことにしておきます」
すみれは小さく笑った。
すずらんなら、言うべきことを短く言って終わるところだ。すみれはそこから、もう一言、二言と会話を続ける。そんなやり取りも、二人を迎えてからは日常になっていた。
もっとも、実家を離れて三人だけで暮らすのは今日が初めてだ。
貴明は大学進学を機に、高校まで住んでいた街を離れた。新居までは何度か列車を乗り換える必要があり、距離もかなりある。鉄道好きの貴明にとって移動そのものは苦にならないが、さすがに毎日通学できる距離ではなかった。
だから一人暮らし。正確には、一人と二体暮らしだ。
「すみれ、その箱開ける?」
貴明は床に積まれた箱の一つを指した。
「何ですか?」
「神姫用品」
「開けます」
返事が早い。
貴明がカッターでテープを切ると、中には小分けされたケースがいくつも収まっていた。メンテナンス工具に予備のネジ、純正の消耗部品、充電用ケーブル。ウェアやグローブも入っている。
その下から、折り畳まれた四角いフレームが現れた。
すみれの顔が明るくなる。
「リングですね」
「ああ」
四十センチ四方ほどの卓上用神姫ボクシングリングだった。実家では貴明の部屋の机の横に常設していたもので、正式な試合用リングより簡易的だが、自宅練習には十分使える。
「今日組むんですか?」
「そのつもり」
「……生活用品より先に?」
「場所決めないと他の家具置けないだろ」
「そういう理屈ですか」
すみれは苦笑してから、箱の中のフレームへ目を戻した。
「じゃあ、組み立ては私達でやります。マスターは他の荷物、片付けてください」
「任せていいのか?」
「いつも使ってたリングですから。ね、すずらん?」
「はい」
貴明が設置場所の脇に部品を並べると、すみれは折り畳まれたフレームを起こし、すずらんが反対側を支えた。二人で角の留め具を固定し、支柱を立てていく。ロープの張り具合も、互いに確かめながら調整していた。
貴明はしばらくその手際を眺めてから、言われたとおり次の段ボールへ手を伸ばす。
その時、作業の手を止めたすずらんが顔を上げた。
「マスター」
「何?」
「髪」
「髪?」
「後ろ」
言われて手を伸ばす。寝癖ではない。ただ、長時間の移動と荷ほどきのせいで、後ろ髪が少し跳ねていた。
「別に今日は外出ないし」
「夕飯、買いに行くんですよね」
「……そうだった」
「直した方がいいと思います」
「分かった」
貴明は素直に頷いた。
中学二年の頃なら、気にせずそのまま出かけていただろう。すずらんを迎えてから数年、こういうところだけは少しずつ矯正されている。ただ、本人にはあまり自覚がなかった。
◇
夕方には、部屋の一角だけが妙に整っていた。
デスクトップPCと二枚のモニター、その隣のノートPC。神姫用クレイドルが二基に、組み上がった卓上リング。リングの横には、まだ固定していない神姫用サンドバッグも置かれている。
対して、部屋の反対側には未開封の段ボールが五箱残っていた。
「なんか……偏ってますね」
リングのコーナーに腰掛けたすみれが、部屋を見渡した。
「必要なものから出しただけ」
「マスターにとって必要なもの、ですよね」
「私達にも必要じゃないですか?」
すずらんが言った。
貴明は少し意外に思って彼女を見る。すずらんは表情を変えず、リングのロープに手を置いていた。
「ほら」
貴明が言う。
「すずらんもこう言ってる」
「すずらん、マスターに甘いですよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
すみれが即答する。
すずらんは少し考えてから、ひと言だけ返した。
「長い付き合いなので」
貴明は何も言わなかった。いかにもすずらんらしい返しだった。
中学二年の誕生日。あの時、貴明は普通のアーンヴァルMk.2を買うつもりだった。ところが店頭には在庫がなく、代わりに見つけたのがテンペスタだった。攻撃型という説明に惹かれて選んだその神姫が、すずらんだ。
最初からボクシングをしていたわけではないし、Fバトルに本格的に参加していたわけでもない。そもそも、貴明自身が神姫の扱いをよく分かっていなかった。
それでも、気づけば数年が経っている。高校一年ですみれを迎え、神姫ボクシングを始め、Fバトルにも出るようになった。
そして今は、遠く離れた大学の近くで、三人で暮らしている。
「……まあ」
貴明はモニターへ向き直った。
「新しい環境だし、練習場所も探さないとな」
「地元のジムにはもう通えませんからね」
すみれがリングから降り、机の端まで歩いてくる。すずらんもその後についてきた。
貴明はブラウザを開き、検索欄に『神姫ボクシング ジム』と入力した。大学の所在地も追加して検索すると、神姫専門ジムに個人経営の施設、フィットネス施設との併設型、ゲームセンター内の練習スペースまで、いくつもの候補が並んだ。
「結構あるな」
「競技人口多いですから」
すみれが画面を覗く。
「ここは?」
「大学と逆方向」
「じゃあ通いづらいですね」
次の候補は駅から徒歩十五分の神姫専門ジム。設備は悪くなさそうだが、営業時間が少し短い。
その次は大型スポーツ施設の中にあるジムだった。人間向けフィットネスが中心で、神姫用の練習リングは一面しかない。
「少ないな」
「一面だと混みそうですね」
「うん」
さらにスクロールしたところで、貴明の指が止まった。
「……これ」
すずらんも画面を見る。
『クロスロード・ボクシングジム』
人間用のボクシングジムで、競技選手からアマチュア、フィットネス会員まで受け入れているらしい。その案内の下に、『神姫ボクシング部門併設』と記されていた。
貴明は詳細ページを開いた。
写真には、人間用のリングとサンドバッグが写っている。さらにその奥には、専用ラックに設置された複数の神姫用リングも見えた。
「リング四面」
貴明が呟く。
「バッグもありますね」
すみれが写真を見ながら数えた。
「六つ?」
「神姫用だけで六基だな」
設備紹介には、認定トレーナーの常駐、公式戦登録への対応、スパーリングが可能なことなどが記されている。神姫だけでの来館も認められ、簡易クレイドルも完備。公式戦選手からフィットネス目的の利用者まで歓迎しているという。
「神姫だけでも行けますね」
すみれの声が少し弾んだ。
「マスターが大学にいる時でも練習できます」
「そうだな」
貴明はアクセス案内を確認した。大学の最寄り駅から電車で三駅。自宅からでも、それほど遠くない。
「ここ、近いですね」
すみれが言う。
すずらんはしばらく画面を見てから、貴明に声をかけた。
「マスター」
「ん?」
「見学、行きます?」
貴明は椅子の背にもたれた。
悪くない。むしろ、条件としてはかなり良い。
高校時代までの練習環境も、決して悪くはなかった。ただ、大学へ来た以上、以前と同じ場所へ通うことはできない。ここで新しい練習場所を見つける必要がある。
「行ってみるか」
「いつ?」
すみれがすぐに聞いた。
「大学始まる前がいいな。明日か明後日」
「明日でいいんじゃないですか?」
「早いな」
「早い方がいいですよ」
貴明はすずらんを見る。
「すずらんは?」
「私は構いません」
「決まりですね」
すみれが嬉しそうに言った。
貴明は見学申込のページを開いた。名前、年齢、連絡先、神姫所有数、競技歴。画面に並ぶ欄を順に埋めていく。
そこまで入力したところで、すみれがふと思い出したように言った。
「マスター」
「何?」
「夕飯」
「あ」
三人揃って、部屋の反対側にある冷蔵庫を見る。中身は、昼間からほとんど変わっていない。
「……買ってくる」
「私達も行きます」
すみれが言った。
「すずらんも?」
貴明が聞くと、
「行きます」
と短い返事が返ってきた。
貴明は立ち上がり、机の横に置いていた黒いリュックを取った。ノートPCは今日は置いていく。代わりに神姫用の小型キャリーケースを取り出すと、すずらんとすみれがそれぞれ中へ入った。
蓋を閉める前に、すずらんが顔を上げる。
「マスター」
「ん?」
「髪」
「ああ」
貴明は鏡を見た。さっきより、さらに跳ねている。
「……直してから行く」
「そうしてください」
ケースの中から、すみれの笑い声がした。
大学生活は、まだ始まってすらいない。段ボールは片付いていないし、食料もない。履修登録以外、大学のこともほとんど分かっていなかった。
それでも、PC環境は整った。リングも置いた。そして、新しいジムの候補も見つかった。
貴明には、それだけで新生活の準備が半分くらい終わったような気がしていた。
とりあえず、今は夕飯だ。髪を直して買い物を済ませたら、明日は三人でクロスロードへ行ってみよう。