翌日の午後、篠原貴明は駅前の案内板とスマートフォンの地図を交互に見比べていた。
「こっちだな」
昨日見つけたクロスロード・ボクシングジムまでは、大学の最寄り駅から電車で三駅。さらに駅から十分ほど歩く。以前住んでいた街なら駅名を聞くだけでおおよその方向が分かったが、引っ越して二日目の土地では、地図を見てもまだ距離感がつかめない。
肩にはいつもの黒いリュックを掛けている。中身はノートPCにタブレット、充電器、簡易工具。それに今日は、すずらんとすみれのキャリーケースも加わっていた。見学だけのつもりでも、結局かなりの重さになる。
「マスター、そこの信号右です」
リュックの肩口に固定した小型端末から、すみれの声がした。
「見えてる」
「さっき一本通り過ぎましたよね?」
「あれは地図が分かりにくかった」
「そういうことにしておきます」
昨日も聞いた返しだった。
すずらんは何も言わなかったが、たぶん同じことを思っているのだろう。
大通りから一本外れると、人通りが少し減った。住宅と小さな商店が混在する区画を進んでいくと、その一角に三階建ての雑居ビルが見えてきた。
一階のガラス扉には『CROSS ROAD BOXING GYM』の文字。その下に、ひと回り小さく『SHINKI BOXING』と書かれている。
「ここだな」
貴明が立ち止まると、端末からすみれの声がした。
「写真より普通ですね」
「何を想像してたんだ」
「もっと大きいのかと」
「人間用リング一面あれば十分場所取るだろ」
「神姫用ならもっと入りますけどね」
「だから中に四面あるんじゃないか?」
扉を開けた途端、乾いた音が聞こえてきた。
パン、パン、と一定のリズムで響くのは、人間用のサンドバッグを叩く音だ。その合間に、ぱぱぱっ、とさらに細かく速い音が重なる。こちらは神姫用らしい。
「こんにちは」
受付の奥から声がした。
こちらを見たのは四十代半ばくらいの男だった。短く刈った髪に広い肩幅。現役選手ほど絞られた体つきではないが、立ち姿には長くボクシングに関わってきた人間らしい安定感がある。
「見学の篠原君?」
「はい。昨日申し込みした篠原です」
「高城。ここの会長やってる」
高城誠司と名乗った男が右手を差し出した。貴明も手を伸ばし、握り返す。
「神姫二体だったな」
「はい」
「出していいぞ。ここはそのための場所だ」
貴明はリュックを下ろし、キャリーケースを取り出して蓋を開けた。
「着きました?」
真っ先に顔を出したのはすみれだった。その隣からすずらんも外へ出てくる。
二人とも今日はボクシングウェアではなく、身体を動かしやすい軽装だ。
「アーンヴァルMk.2と……テンペスタか」
高城が二人を見て、少し目を細めた。
「すみれです」
すみれが軽く頭を下げる。
「すずらんです」
続いてすずらんも挨拶した。
「高城だ。よろしく」
高城は二人にもごく自然に応じた。神姫を単なる道具ではなく、競技者として見ているのが伝わってくる。
「コハク」
高城が奥へ声を掛ける。
「はい」
神姫用設備の方から、小さな影が走ってきた。
犬型のハウリンだ。短くまとめた運動着を着て、首には小型のホイッスルを下げている。走り方にも無駄がなかった。
「見学の子達?」
「ああ。篠原君と、すずらん、すみれ」
「コハクです。よろしくお願いします」
コハクは礼儀正しく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
すみれがすぐに返す。すずらんも一拍遅れて同じように頭を下げた。
「まず中見て回るか」
高城に促され、貴明達はジムの奥へ進んだ。
クロスロードの内部は、ウェブサイトの写真で見るより少し雑然としていた。とはいえ、散らかっているのではない。設備が使い込まれ、人が実際に練習している場所らしい雰囲気だった。
人間用リングが一面あり、その周囲にサンドバッグやミット練習用のスペース、縄跳びができる床が確保されている。壁際にはロッカーとトレーニング器具が並んでいた。
そして、その反対側にあるのが神姫用の設備だ。金属製の専用ラックが二列並んでいる。
「おお」
貴明は思わず声を漏らした。
「そっちの方が反応いいな」
高城が横目で見る。
「設備見るの好きなんで」
「そうか」
ラックの一段目には神姫用リングが二面、二段目にも二面。合わせて四面のリングが設置されていた。一辺はそれぞれ四十センチほどで、周囲は透明な保護板に囲まれている。上部には小型のカメラと照明、リング脇には計測端末まで備わっていた。
隣のラックには神姫用サンドバッグが並ぶ。吊り下げ式に壁打ち式、パンチングボールと種類も多い。
「六基か」
「よく見てるな」
「サイトにも書いてありました」
「覚えてんのか」
「設備は」
高城が笑った。
「じゃあ話早いな」
さらに奥にはメンテナンス台や簡易クレイドル、競技用グローブの保管ケース、冷却設備があり、神姫専用の更衣スペースまで用意されていた。
すみれは辺りを見渡し、興味深そうに声を上げた。
「すごいですね」
「地元のジムより多いな」
貴明が言う。
「リングも二倍あります」
「人多いんだろ」
「夕方になると混むぞ」
高城が答えた。
「学校帰り、仕事帰り、神姫だけで来る子もいる。人間側より回転は早いけどな」
「神姫だけで来る選手、多いんですか?」
すみれが尋ねる。
「珍しくない。マスターが仕事や学校行ってる間に練習して、夕方合流とか」
「じゃあ私達も来られますね」
すみれはすぐ貴明を見た。
「登録すればな」
「来る気満々ですね」
すずらんが横から言う。
「せっかく近いんですし」
すみれは当然という顔で答えた。すずらんも否定はしない。ただ、自分から先に言い出すことはなかっただろう。
「二人とも公式戦やってるんだよな?」
高城に尋ねられ、貴明は端末を取り出した。
「はい」
「戦績は送ったデータの通りです」
「ああ、見た。テンペスタの方が四十二戦三十勝。全国ベスト8。こっちが三十戦二十一勝、ベスト16」
「はい」
「結構やってるな」
高城の口調は淡々としていた。ことさらに驚いた様子もない。このくらいの戦績を持つ選手を、普段から見ているのかもしれない。
「継続してトレーナーに見てもらってた?」
「地元のジムでは、その都度指導は受けてました。でも専属みたいな形では」
「基本は?」
「俺と二人で映像見て、練習して。大会前はジムで見てもらう感じです」
「すずらんさんとは最初、かなり我流でした」
すみれが付け加えた。
「言うなあ」
貴明がすみれを見ると、彼女は平然と返してくる。
「事実ですよね?」
「まあ」
「すみれが始める頃には、少しマシになっていました」
今度はすずらんが言った。
「すずらんまで」
「事実です」
高城が声を立てて笑った。
「仲いいな、お前ら」
「長いので」
すずらんが答える。
「じゃあちょっと動いてみるか」
高城は顎で神姫用リングを示した。
「コハク、見てやって」
「はい」
コハクが先にリングへ向かう。
◇
最初はすみれからだった。グローブは着けず、シャドーボクシングで普段の動きを見せる。
「いつも通りでいいですよ」
コハクがリング中央に立つ。
「ジャブから。二分くらい」
「分かりました」
すみれは左足を前に出し、顎を引いて両拳を上げた。
貴明はリング横の端末に目を向けた。いつもの癖でログを取ろうとする。
「今日は数字いいぞ」
高城が声を掛けた。
「え?」
「まず見ろ」
「……はい」
貴明は少し間を置いて、端末を閉じた。
すみれがジャブを打ち、一歩踏み出す。ワンツーから右へ回り、もう一度ジャブ。速さだけを求めず、一発ごとに姿勢を戻している。
何度も見てきた動きだった。フォームはきれいだ。
コハクはリングの外周を歩きながら、その動きを追っていた。
「いいですね」
すみれの表情が少し明るくなる。
「でも」
コハクが続けた。
「右打った後、少し前に残ります」
すみれの動きが一瞬止まった。
「ここですか?」
「そのまま続けて。あとでやります」
「はい」
すみれは動きを再開した。ジャブから右、左へつなぎ、ステップで位置を変える。コハクはそれ以上口を挟まず、最後まで見続けた。
二分が経った。
「そこまで」
すみれが構えを解く。
「どうでした?」
「基本はかなりきれいです」
「ありがとうございます」
「でも、きれいにやろうとしすぎる時があります」
「……きれいに?」
「戻す、構える、打つ、戻す。全部丁寧です」
「悪いんですか?」
「悪くないです。ただ、相手は待ってくれません」
コハクはすみれの前に立った。
「右を打った後」
軽く肩を押すと、すみれの身体が半歩揺れた。
「ここに相手が入ってくると、今の戻し方だと少し遅れます」
「あ」
「形は崩さない。でも、形に戻ろうとしすぎない」
すみれは自分の立ち位置を確かめるように足元へ目を落とし、少し考えた。
「難しいですね」
「難しいですよ」
コハクはごく普通に答えた。
「だから練習します」
「はい」
すみれが笑った。
次はすずらんの番だった。
「同じでいいですか?」
「まずは」
コハクが答える。
すずらんが構えた。すみれよりわずかに低い姿勢で、前後への重心移動も小さい。
「始めてください」
ジャブ。短く打って、すぐに戻す。もう一発は半歩だけ踏み込み、そこから右を打って横へ流れた。
すみれほど動きの種類は多くない。しかし、一つ一つが速く、余計な動作が少ない。
貴明は無意識に腕を組んでいた。
何百回も見た動きだ。最初の頃から変わらない部分もあれば、何年も掛けて直してきた部分もある。
すずらんは、いつも相手を想定して動く。シャドーでも、何もいない空間へただ拳を伸ばすのではなく、そこに相手がいて反応しているかのように打っていた。
「なるほど」
コハクが呟く。
すずらんが右を打ち、一歩引いて止まった。
「そこまで」
まだ二分も経っていない。すずらんが構えを解いた。
「何か?」
「もう一回、さっきの右」
「はい」
すずらんは構え直し、ジャブから右ストレートを打った。
「もう一度」
同じ動き。
「もう一度」
三回目を見届けると、コハクが近づいてきた。
「すずらんさん」
「はい」
「右、当てる前提で打ってますね」
貴明は少し眉を上げた。すずらんも一瞬、答えを止める。
「……そう見えます?」
「見えます」
「悪いですか?」
「悪くないです。実際、当てるの上手いですよね?」
「まあ」
貴明が答えた。
「カウンター取るのは得意です」
「でしょうね」
コハクはすずらんの右肩付近へ目を向けた。
「ただ、空振りした時の戻りが少し大きいです」
言われて、貴明も先ほどの動きを思い返す。
ほんのわずかだが、右を深く打った後、身体が前へ流れていた。
「昔から?」
コハクが尋ねる。
「最初の頃はもっと大きかった」
貴明が答える。
「直してきたんですけど」
「かなり直ってます。でも残ってます」
すずらんは黙って自分の右拳を見つめた。
「たぶん」
コハクが続ける。
「実戦で『ここなら当たる』って判断してから打つ癖が強いんだと思います」
「……はい」
「だから当たる時は鋭い。でも相手に外された時、少しだけ回収が遅れる」
すずらんは何も言わなかった。貴明にも反論はない。むしろ心当たりがあった。
「あと」
コハクが言う。
「見る時間が長いです」
すずらんが顔を上げた。
「長い?」
「上手いですよ。見るの」
「……ありがとうございます」
「でも、見せてくれない相手もいます」
貴明はその言葉に引っ掛かった。
「前に出てくるタイプ?」
「そうです」
コハクが頷く。
「ずっと圧をかけて、判断する前に次を出してくる相手。そういう選手と最近やりました?」
貴明はこれまでの対戦を思い返した。
「……あんまり」
「地元では、すずらんさんの方が上手い相手が多かったです」
すみれが言う。
「相手が合わせてくる側だったので」
「なるほど」
コハクは頷いた。
「じゃあ、ちょうどいい人いますよ」
貴明は嫌な予感を覚えた。
「ちょうどいい?」
「はい」
コハクが向いたのは、隣の神姫用リングだった。
そこでは一体の神姫がサンドバッグを叩いている。黒を基調とした練習着に白い髪。悪魔型ストラーフMk.2だ。
パンチの音が重い。
ぱん、と軽く弾む音ではなく、ばしっ、と低く響く。特にボディを想定した左右のフックは、打つたびにバッグを大きく揺らしていた。
「クロエさん」
コハクが呼ぶと、ストラーフMk.2はパンチを止め、こちらを向いた。
「何?」
「あとで少しスパーお願いできます?」
「そっちの新しい子?」
「はい」
クロエはすずらんを見た。視線が一度、頭から足まで動く。
「全国ベスト8のテンペスタ?」
すずらんが目を見開いた。
「知ってるんですか?」
「名前だけ」
クロエはサンドバッグから離れた。
「いいよ」
それだけ言って、タオルを肩に掛ける。
貴明は高城を見た。
「いきなりですか?」
「今日は軽くだ」
「軽く」
「不安か?」
「いや」
貴明はすずらんへ目を向けた。
「すずらん?」
「やります」
返事は早かった。
「ですよね」
すみれが小さく笑った。
「無理しなくていいぞ」
「しません」
そう答えるすずらんの目は、すでにクロエへ向いていた。
貴明はその横顔を見て、つられて少し笑う。
こういうところは昔から変わらない。知らない神姫に自分から話しかけたり、交流を広げようとしたりすることはあまりない。けれど、強い相手がリングにいるとなれば話は別だった。
◇
見学だけのつもりで来たはずだった。まだ入会も決めていない。それなのに、帰宅する予定はすでに一時間以上後ろへずれている。
「マスター」
リング横から、すみれが貴明を見上げた。
「ここ、入りたいです」
「まだ一日目だぞ」
「一日目だから分かることもあります」
「すずらんは?」
すずらんはクロエを見たまま答える。
「悪くないと思います」
「それ、かなり気に入ってる時の言い方ですよね」
すみれが言う。
「そうでしょうか」
「そうです」
貴明は息を吐いた。
昨日、検索画面で偶然見つけただけのジムだ。設備が良さそうだったから見学に来た。それだけのはずだった。
けれど、すずらんの癖をわずかな時間で見抜いたコハクがいる。その先には、自分達より強いかもしれない選手もいる。神姫用リングは四面あり、マスターが大学にいる間でも二人だけで通える。
条件は十分だった。
「……入るか」
「はい」
すみれが即答する。すずらんも小さく頷いた。
少し離れた場所にいた高城が声を掛けてきた。
「じゃあ書類あとで渡す」
「決定早いですね」
「そっちもな」
貴明は苦笑した。
新しい大学に、新しい部屋、新しい街。そして新しいジム。部屋にはまだ段ボールが残っているのに、神姫ボクシングの練習場所だけは思いのほか早く決まった。
その直後だった。
「じゃあ、すずらんさん」
コハクがリングを指した。
「軽く二ラウンドだけ。クロエさんとやってみましょう」
「はい」
すずらんがロープをくぐり、クロエも反対側からリングへ入ってきた。
貴明は自然に端末を取り出した。今度は高城も止めない。
「録るのか?」
「はい」
「好きだな」
「後で見ます」
「そうか」
すずらんとクロエがグローブを合わせた。
クロエが一歩、前へ出る。まだ開始の合図すらないのに、それだけで貴明には、今までよく見てきた相手と何かが違うと分かった。
距離が近い。
圧がある。
すずらんが、ほんの少しだけ後ろ足へ重心を移した。
コハクが二人の間に立つ。
「軽くですよ」
「分かってる」
クロエが答える。
「すずらんさんも」
「はい」
「それじゃ――」
コハクが片手を上げた。
「始め」
次の瞬間、クロエが踏み込んだ。
すずらんが相手を見るより先に。
最初のジャブが飛んできた。