クロエの最初のジャブは速かった。
すずらんに見えていなかったわけではない。左肩が動き、前足が踏み込まれ、拳が伸びてくる。その一連の動きは捉えていた。
それでも、対応するにはわずかに遅い。
「っ」
すずらんが上体を引く。グローブが鼻先をかすめた直後、二発目が来た。
ボディ。
肘を締めて受けると、ばしっ、と低い音が響く。
「近い……」
リングサイドですみれが呟いた。貴明も同じことを思っていた。
クロエは単に近くで打っているのではない。すずらんが下がれば同じだけ前へ出て、左へ回ろうとすれば、その方向へ先に足を置く。こちらが作ろうとした距離を、次の一歩で消してくる。
ジャブ。右。そして左ボディ。
貴明は端末の録画を続けながら、視線をリングから外さなかった。
すずらんがジャブを返す。しかし拳はクロエの額の手前を通り過ぎた。クロエは構わず前へ出る。
もう一発。
すずらんが横へ逃げる。だが、そこはロープ際だ。クロエが追い、さらに間合いを詰める。
「そこです。止まらないで」
コハクがリングの外から声をかけた。
すずらんが右へ動く。クロエの左をガードし、続く右から頭を外した。
今度は避けた。
その瞬間、すずらんの左が返る。
短いジャブがクロエの頬を軽く叩いた。
「お」
高城が小さく声を出す。クロエもわずかに眉を動かした。
すずらんは追わず、すぐに距離を取った。ようやく貴明の見慣れた形になる。相手を見て、距離とタイミングを測り、動いたところへ合わせる。すずらんが得意とする流れだ。
だが、クロエは止まらなかった。
「まだ来る」
貴明が呟く。
ジャブ。もう一発。
右、左。今度は頭ではなく身体を狙っている。
すずらんが一つ受け、すぐに返そうとする。その前に、クロエはもう半歩入っていた。
「……っ」
すずらんが下がる。
考える時間がない。
普段のすずらんなら、相手の動きを二つ三つ見て、次に来る攻撃や返せる距離を判断する。けれどクロエは、一つ見せた時には次を出している。判断を組み立てる前に距離を変え、その間にも拳が飛んでくる。
「なるほど」
隣で高城が言った。
「相性悪いな」
「ですね」
貴明は頷いた。
「でも、嫌いじゃなさそうだ」
「すずらんが?」
「ああ」
貴明は改めてリングを見た。すずらんの表情は普段とほとんど変わらない。それでも、長く一緒にいる貴明には分かる。
あの目は、少し楽しそうだった。
やがて一ラウンド目が終わった。
「そこまで」
コハクが手を上げると、クロエはすぐに距離を取った。すずらんも構えを解く。
「どうですか?」
コハクが尋ねる。
すずらんは一瞬考えてから答えた。
「考えてる間に来ます」
「はい」
「距離を作っても、すぐ詰められます」
「はい」
「……面倒ですね」
クロエが笑った。
「初対面でそれ?」
「褒めてます」
「そう」
クロエは気にした様子もなかった。
貴明はリング脇へ近づく。
「すずらん」
「はい」
「見すぎなくていい」
「分かってます」
「分かってるならいい」
「でも、見ないと」
「全部見ようとしなくていい」
すずらんが貴明を見る。
「最初から決める?」
「一個だけ」
「……ジャブ?」
「それでいい」
すずらんは短く考え、頷いた。
「分かりました」
やり取りを聞いていたコハクが貴明に声をかける。
「篠原さん、細かく言わないんですね」
「細かく言っても間に合わないので」
「普段は?」
「終わってから言います」
「なるほど」
その後ろから高城が口を挟んだ。
「試合中に説明会始めるタイプかと思ってた」
「そんなに喋りませんよ」
「さっき設備の話は長かったけどな」
貴明は返す言葉に詰まった。隣を見ると、すみれが笑っている。
「マスター、そういうところありますよ」
「何が」
「好きな話だけ急に長くなるところです」
「聞かれたから説明しただけだろ」
「はいはい」
「すみれ」
「何ですか?」
「後で覚えとけ」
「何をです?」
笑顔で返され、貴明はそれ以上言うのを諦めた。
インターバルが終わり、二ラウンド目が始まった。
クロエがジャブを出す。すずらんは避けると、次を待たずに左を返した。
当たらない。
それでいい。
クロエがまた踏み込む。すずらんは右へずれ、左を打つ。クロエがガードすると、そこで無理に追わずに離れた。
「さっきよりいい」
貴明は端末を向けたまま呟いた。
クロエの圧力は変わらない。すずらんが楽になったわけでもなかった。ただ、一ラウンド目ほど一方的に考える時間を奪われてはいない。
すべての動きを読もうとするのをやめ、まずは来た攻撃に一つ返す。それだけに判断を絞っていた。
クロエの右が飛ぶ。
すずらんが外へずれる。
左。
今度は当たった。クロエの頬を軽く捉える。
「いいですね」
コハクが声をかける。
しかしクロエもすぐに返した。
左ボディ。
すずらんのガードが下がる。
右。
「っ」
すずらんが大きく後退した。背中にロープが触れる。そこへクロエが距離を詰める。
「そこまで!」
コハクの声でクロエの拳が止まり、すずらんも動きを止めた。
「二ラウンド終了です」
「……はい」
すずらんの胸が、息を整えるように小さく上下している。人間と同じ呼吸器官があるわけではないが、神姫は高負荷時の熱交換や各部制御によって、外見上は呼吸に似た動きをすることがある。
貴明がリング脇へ手を差し出すと、すずらんはロープをくぐり、その掌へ乗った。
「どうだった?」
「強いです」
「それは見れば分かる」
「近いです」
「それも分かる」
「……嫌な相手です」
「それは?」
すずらんの口元が、わずかに緩んだ。
「またやりたいです」
「だと思った」
◇
「クロエさん、お疲れさまでした」
すみれが声をかけると、クロエはグローブを外しながら顔を上げた。
「お疲れ」
「強かったです」
「そっちも」
返事は短かった。すみれが一瞬だけ間を置く。
「……もっと何かないんですか?」
「何か?」
「感想とか」
「テンペスタ、上手い」
「それだけ?」
「あと、結構しつこい」
すずらんが眉を動かした。
「それは褒めてます?」
「褒めてる」
「ならいいです」
今度はクロエが笑った。
その時、人間用リングの方から声が飛んできた。
「クロエー」
振り向くと、スポーツウェア姿の若い女性がこちらへ歩いてきていた。髪を後ろでまとめ、片手ではまだグローブを外している。貴明と同じくらいの年齢に見えた。
「終わった?」
「終わった」
「新しい子?」
女性はすずらんとすみれを見てから、貴明へ視線を移す。
「あ、見学の人?」
「今日から入るみたい」
クロエが答えた。
「決めるの早」
女性が笑う。
「水野美咲。大学一年」
「え」
貴明の返事が一拍遅れた。
「あ、篠原貴明。俺も一年」
「同い年?」
「多分」
「多分?」
「あ、いや。同い年」
何を言っているんだろう。自分でもそう思った。
美咲が不思議そうにこちらを見るので、貴明はつい人間用リングへ視線を向けた。彼女が歩いてきた場所と、外しかけのグローブ、スポーツウェア。さっきまで向こうでボクシングをしていたのは間違いない。
人間の女子ボクシングなら、試合も練習も映像で見てきた。神姫ボクシングの技術を考えるとき、人間の動きが参考になることもある。
ただ、自分と同じくらいの年齢の女子ボクサー本人と、こうして真正面から話すのは初めてだった。
「大学どこ?」
「ああ、えっと」
貴明は大学名を答えた。
「あ、別だ」
「そっちは?」
今度は少し普通に返せた。美咲が答えたのは近隣の別の大学だった。
「じゃあ本当に同い年ですね」
「そうみたい」
「今度は多分じゃないんだ」
「……さっきの忘れて」
美咲が笑う。
その足元へ、もう一体の神姫が近づいてきた。ハウリン型で、コハクより明るい色のトレーニングウェアを着ている。
「ハルです」
「すみれです」
すみれがすぐ前へ出た。
「さっき見てました。フットワーク速いですね」
「見てたの?」
「少しだけ」
「ありがとう」
ハルは嬉しそうに笑った。
「すみれさんもボクシングやってるんですよね?」
「はい。マスターが高校生の頃からです」
「今度スパーしません?」
「ぜひ」
知り合ったばかりなのに、話が決まるのは早かった。
「もう決まったのか」
貴明が言うと、すみれが振り返る。
「いいじゃないですか。せっかく同じジムなんですし」
「まだ入会書類書いてないぞ」
「もう入るって言いましたよね?」
「言ったけど」
「じゃあ同じです」
すみれの理屈は強い。
「すずらんさんも今度どうですか?」
ハルが尋ねた。すずらんは一瞬だけ間を置いて答える。
「すみれと先にやってみてください」
「分かりました」
断ったわけではない。貴明には、それで十分だった。
「篠原君って、自分もやるの?」
神姫たちの会話を聞いていた美咲が、貴明に尋ねた。
「何を?」
「ボクシング」
「やらない」
「え、やらないんだ」
美咲は少し意外そうな顔をした。
さっきよりは普通に話せる。貴明はそう思いながら答えを続けた。
「神姫の方だけ?」
「そう」
「こんな細かく見てるのに?」
「見るのとやるのは別だろ」
「まあ、そうだけど」
美咲が笑った。
「私は両方やるから」
「競技?」
その言葉には、貴明もすぐに反応した。
「高校から。大学でも続けるつもり」
「アマ?」
「そう。そっち詳しい?」
「見るのは」
「やっぱり好きなんじゃん」
「神姫ボクシング見るなら人間のも見るだろ」
「普通そこまで行く?」
「行くと思うけど」
「行かないと思う」
美咲が即答する。
ボクシングの話になってから、さっきまでの妙な間は消えていた。自分が打つかどうかはともかく、競技の話ならいつもどおりに返せる。
横ですみれが頷いていた。
「何でお前まで頷くんだ」
「マスターの普通は、少し普通じゃない時があります」
「そうか?」
「そうです」
今度はすずらんまで口を開く。
「そうですね」
「……三対一はずるいだろ」
「事実ですから」
美咲が声を立てて笑った。
「篠原君?」
今度は別の声がした。振り返ると、眼鏡をかけた青年が立っている。二十代前半くらいで、スポーツウェア姿ではあるものの、体つきは競技選手というより普通の大学生に近かった。
「佐伯蓮」
「篠原です」
「聞いた。F2なんだって?」
「一応」
「ランキングは?」
「十八位」
「結構上じゃん」
「でもその辺から上がれなくて」
「そういう時期あるよね」
蓮の足元には、さっきまでリングにいたクロエが当然のように立っている。
貴明は二人を見比べた。
「クロエのマスターですか?」
「そう」
「蓮さん自身は?」
「俺?」
「ボクシング」
「ああ」
蓮は軽く笑った。
「フィットネス程度」
「試合にも出てるんですか?」
「出ない出ない。週一、二回動くくらい」
美咲が横から口を挟んだ。
「でもセコンドは上手いですよ。クロエさん、蓮さんの指示かなり聞きますから」
「聞かない時もあるけど」
「必要なら聞く」
クロエが淡々と返す。
「ほらね」
「それは聞いてるって言うのか?」
「十分でしょ」
貴明は興味を引かれた。
「自分で競技をやらなくても、セコンドはできるんですか?」
「できるよ」
蓮は当然のことのように答えた。
「むしろ別物だと思ってる」
「別物なんですか?」
「自分で打てることと、相手見て指示出せることは同じじゃない。知ってた方がいいことはあるけど」
「……なるほど」
美咲が貴明を見る。
「よかったね。自分でやらなくても大丈夫だって」
「別に心配してない」
「そう?」
「してない」
「ならいいけど」
その言い方が少し引っかかったが、貴明は深く考えなかった。
高城が、少し離れた神姫用リングの方へ声をかけた。
「田辺さん。新しい会員」
そちらでは会社員風の男がリングを眺めていた。スーツではなく休日らしい私服で、その隣にはグローブを着けてシャドーをしているマオチャオがいる。
「もう入るの?」
男がこちらを振り返った。
「田辺誠です」
「篠原です」
「そっちが?」
「すずらんと、すみれです」
「よろしく」
マオチャオが近づいてきた。
「ミオだよ」
明るい声だった。
「今日スパーする?」
「今日はもういいかな」
田辺が答える。
「えー」
「さっきやっただろ」
「まだできる」
「明日も来るんだから」
「はーい」
ミオは不満そうだったが、言われたとおりグローブを外した。
「大会とか出てるんですか?」
すみれが尋ねる。
「たまに小さいのだけ」
ミオが答えた。
「勝ちたいけど、そんなにガチではないよ」
「楽しいからやってる感じ?」
「そうそう」
すみれが笑った。
「いいですね」
貴明はそのやり取りを聞きながら、少し考えていた。
全国大会や公式戦、ランキング。これまで自分たちが目を向けることの多かったものばかりを追っていると、つい忘れがちになる。神姫ボクシングに取り組む理由は、勝つことだけではない。運動のため、趣味として、他の神姫との交流のため。単純に好きだから続けている選手もいるのだ。
◇
入会書類を書き終えた頃には、かなり時間が経っていた。
貴明は受付横の椅子に座り、ノートPCを開いていた。
「早速ですか?」
机の上へ乗ったすみれが、画面を覗く。
「今日の動画だけコピーしとく」
「帰ってからでいいのでは?」
「帰ったら忘れるかもしれない」
「忘れないですよね?」
「忘れないけど」
「じゃあ帰ってからでいいじゃないですか」
「今できるから」
すみれがため息をついた。
「マスター、引っ越しの段ボール残ってますよ」
「帰ったらやる」
「昨日も言ってました」
「今日はやる」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんになりました」
その隣では、すずらんがコピーしたばかりの動画を見ていた。クロエとのスパーの最初の一分だ。後退する自分をクロエが追い、ジャブとボディを重ね、さらに下がらされる場面が続く。
「ここ」
すずらんが指した。
「何?」
「この時、左へ行こうとしてます」
「うん」
「クロエさん、先に左足置いてますね」
「だから逃げ道消されてる」
「はい」
「次からどうする?」
「先に打ちます」
「それだけ?」
「まずは」
「分かった」
受付の向こうから高城が見ていた。
「本当にすぐ見るんだな」
「忘れる前に」
「真面目だな」
「好きなだけだと思います」
すみれが答える。
「それ」
高城が笑った。
「真面目な奴より続くやつだ」
貴明は動画を一時停止した。画面にはリングの中のクロエとすずらんが映っている。初めて戦った相手には、これまで意識していなかった動きがあった。そして、また見直したい場面が増えた。
入会初日からこれだけのものが見つかるなら、ここへ通う意味はありそうだった。
「マスター」
すずらんが言う。
「次、いつ来ます?」
「大学始まるまではいつでも」
「明日?」
すみれが尋ねた。
「お前ら元気だな」
「新しい場所ですから」
「すずらんも?」
「私は」
すずらんは少しだけ間を置いた。
「クロエさんと、もう一回やりたいです」
「ほら」
すみれが笑う。
「気に入ってるじゃないですか」
「別にジムを気に入ったとは言ってません」
「同じですよ」
「違います」
「同じです」
二人が言い合うのを聞きながら、貴明はノートPCを閉じた。
「じゃあ明日も来るか」
二人ともこちらを見る。
「ただし」
貴明は続けた。
「帰ったら段ボール片付けるぞ」
「それはマスターの仕事ですよね?」
すみれが言う。
「手伝ってくれてもいいだろ」
「十五センチですよ、私達」
「小さい箱なら」
「無理です」
「即答か」
すずらんが小さく笑った。
貴明はリュックへノートPCをしまった。クロスロードに来て、まだ数時間しか経っていない。それなのに、すみれには新しい練習相手ができ、すずらんにはもう一度戦いたいと思う相手ができた。貴明自身にも、見直したい映像と考えたい課題が増えている。
新しい土地での生活は、まだ落ち着いていない。大学も始まっていなければ、知り合いだってほとんどいない。
それでも三人にはもう、新しく通う場所が一つできていた。