入学式から数日が経ち、篠原貴明の生活も、ようやく大学へ通うという形になり始めていた。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい、マスター」
机の上からすみれが手を振る。
「いってらっしゃい」
すずらんも続いた。
貴明は黒いリュックを背負った。ノートPCにACアダプター、モバイルバッテリー、タブレット、筆記具。それ以外にも細々としたものが入っているが、今日は神姫用のキャリーケースを持っていかない。
「今日は二限からですか?」
すみれが尋ねた。
「ああ。一限はない」
「帰りは?」
「五限まで」
「遅いですね」
「大学なんだからそんな日もあるだろ」
すみれは少し不満そうにしていた。クロスロードへ正式に入会して以来、二人はかなり頻繁にジムへ通っている。昨日も、その前の日も行った。だが今日は、貴明が夕方まで大学にいる。
「私達は昼からクロスロード行きます」
「分かってる」
「今日は飛んで行こうかと思ってます」
玄関で靴を履いていた貴明は、顔を上げた。
「風は?」
「弱いです」
すずらんが答える。
「天気も問題ありません」
「装備残量は?」
「昨日充電してます」
「帰りは?」
「その時決めます」
今度はすみれが答えた。
貴明は二人の顔を見比べた。飛んで行ける距離ではあるが、帰りも同じように動けるとは限らない。
「練習後に脚重かったら電車にしろよ」
「分かってます」
「すずらんも」
「はい」
「じゃあ」
貴明がドアを開けたところで、すみれに呼び止められた。
「あ」
「何?」
「今日も私達、大学行かなくていいんですか?」
「……まだいいだろ」
「禁止じゃないんですよね?」
「禁止とは書いてない」
「じゃあ」
「まだ講義始まったばっかだから」
貴明は言葉を探した。
「周りがどうしてるか分からないし」
「様子見?」
「そんな感じ」
すずらんが小さく頷く。
「マスターらしいですね」
「何が」
「そういうところです」
「悪い?」
「別に」
結局、何が自分らしいのかは分からなかった。貴明は二人にもう一度手を振り、ドアを閉めた。
◇
大学までは電車で通う。まだ通学路が身体に馴染んでいるとは言い難いが、どの列車に乗り、どこで乗り換えればいいかくらいは覚えた。
最寄り駅で降りて改札を抜けると、同年代の学生たちが同じ方向へ歩いていく。高校と違って制服はなく、服装も自由だ。年齢にも多少のばらつきがあり、同じ学生でも見た目の印象はさまざまだった。
その人の流れの中で、貴明は前を歩く一人に目を留めた。
「……いるな」
学生の肩に、小さな神姫が座っている。マオチャオ型で、マスターらしい学生がスマートフォンを見るたび、その画面を横から覗き込んでいた。
大学構内へ入ってからも、神姫の姿は何度か目に入った。ベンチで話している学生二人のそばには、それぞれの神姫がいて、神姫同士も何か話している。講義棟へ向かう途中には、神姫用のキャリーケースを肩から提げた学生もいた。
「そんなもんか」
貴明は一人で呟いた。
もちろん、全員が神姫を連れているわけではない。人間だけで歩いている学生の方が圧倒的に多かった。それでも、神姫を連れているだけで珍しがられ、振り返られるような雰囲気はない。
二限の情報系基礎科目が始まる頃には、貴明は教室の後方寄りの席に座ってノートPCを開いていた。
講義内容はまだガイダンスに近い。今後使用するソフトウェアの説明や環境構築、課題の提出方法などが順に紹介されていく。貴明にとって難しいところはなく、むしろ少し退屈だった。教授の話を聞きながら、手元で必要な設定を済ませていく。
しばらくして、斜め前の席の机の端で何かが動いた。
神姫だ。
アーンヴァル系ではない。知らない型かと思ったが、見覚えはあった。確かエウクランテ型だったはずだ。
その神姫は小型端末を抱えて座り、静かに画面を眺めている。マスターらしい男子学生は普通に講義を聞いており、教授も特に何も言わない。
「……普通にいいんだな」
思わず漏らした声に、隣の学生が顔を向けた。
「何が?」
「あ、いや」
貴明は少し迷ってから、斜め前の机を示した。
「神姫」
「ああ」
隣の男子学生は、特に気にした様子もなく答える。
「別に禁止じゃないでしょ?」
「みたいだな」
「実験室とかはダメなとこあるらしいけど」
「へえ」
「初めて?」
「大学に連れてくるのは」
「俺も持ってるけど今日は家」
「そうなんだ」
「講義中暇そうなんだよな」
貴明は納得した。すずらんとすみれを連れてきても、講義中にすることがあるとは限らない。ケースの中で待つか、机の上で静かに過ごすか、それとも別の場所へ行くか。本人たちの予定もあるだろう。
毎日連れてくる必要はなさそうだ。
◇
その頃、すずらんとすみれは自宅の窓際で出発の準備をしていた。
「準備できました?」
すみれが尋ねる。
「できてます」
すずらんは背部に装着した小型飛行ユニットを確認した。アーンヴァル系の低Rank純正装備で、戦闘用として見れば今となっては特別な性能ではない。最高速度も加速力も旋回性能も、Fバトルで使用する高Rank装備には及ばない。
その代わり、軽くて丈夫で、消費電力も少ない。競技用の高性能な飛行武装とは目的が違い、こうして日常の移動に使うには十分だった。
すみれも同じ系統の飛行ユニットを装着し、互いに残量を確かめる。
「残量九十八」
「私は九十六です」
「十分ですね」
「往復でも余裕です」
「帰り飛ぶかは別ですけど」
「ですね」
すみれが窓の外を見た。空は晴れ、風も弱い。
「行きましょうか」
「はい」
神姫用の出入口が開くと、二人は順番に外へ出た。まずは低速で建物の近くを離れ、少し高度を上げる。住宅地の上を抜けて大きな道路の方へ出たところで、巡航に移った。
すみれが少し前を飛び、すずらんが後ろに続く。
「マスター、今頃講義ですかね」
通信越しにすみれが言った。
「たぶん」
「寝てなければ」
「専門科目なら寝ないと思います」
「一般教養だったら?」
「分かりません」
すみれが笑い、すずらんもわずかに口元を緩めた。
眼下では車が道路を流れていた。二人はその流れに沿うように、一定の速度を保って進む。
飛行は神姫にとって特別な行為ではなく、移動手段の一つだ。今使っている装備には武装側のバッテリーがあり、素体側の電力消費は小さく抑えられる。ただし、飛んでいる間は何もしなくていいわけではない。風を受ければ姿勢を補正し、建物の間で流れが変われば進路を調整する。交差点の近くでは、他の神姫と進路が重ならないよう周囲も確認しなければならない。
「今日は楽ですね」
すみれが言った。
「風ないですから」
「電車より早いかも」
「この時間なら」
朝のラッシュは過ぎていたが、駅まで行って列車を待ち、乗車してからまた歩くことを考えれば、目的地まで直接飛ぶ方が早いこともある。
「毎回これでもいいですね」
「雨の日は?」
「電車です」
「風強い日は?」
「電車」
「練習で疲れた帰りは?」
「……電車」
「結構電車使いますね」
「使えるものは使えばいいんです」
「それもそうですね」
二人はそんな話をしながら、クロスロードへ向かった。
◇
三限と四限の間、貴明は学生食堂にいた。
昼休みの混雑を少し外したつもりだったが、食堂にはまだ大勢の学生がいる。
「混んでるな……」
トレーを持ったまま空席を探していると、壁際に小さな台が設置されているのが目についた。人間用テーブルの横に設けられたその場所には、『SHINKI SPACE』という表示がある。神姫サイズの椅子とテーブルが並び、充電端子も備わっていた。
そこでは何体かの神姫が集まっている。すぐ近くにマスターが座っている神姫もいれば、神姫だけで話している一団もあった。
「そこまであるのか」
大学案内をきちんと読めば書いてあったのかもしれない。少なくとも、貴明はそこまで確認していなかった。
空席を見つけて食事を始めたところで、スマートフォンにすみれからのメッセージが届いているのに気づいた。
『クロスロード着きました。今日はハルさんと軽くスパーする予定です』
写真も添えられている。画面にはすみれとハルが並び、その後ろに少し離れてすずらんも写っていた。
貴明は短く返信した。
『了解。やりすぎるなよ』
すぐに既読がつく。
『分かってます』
その数秒後、すずらんから別のメッセージが届いた。
『すみれより自分の昼食心配した方がいいと思います』
「……なんで分かったんだ」
貴明は目の前のトレーを見た。載っているのはカレーだけで、野菜はほとんどない。
偶然だ。たぶん。
『ちゃんと食ってる』
そう送ると、間を置かず返事が来た。
『何を?』
貴明は返信を止めた。
◇
午後のクロスロードでは、すみれとハルがリングに上がっていた。
「もう少し右へ」
コハクの声に合わせてすみれがステップを踏む。ハルが追い、すみれがジャブを出すと、ハルは外へ回って距離を変えた。
「速いですね」
すみれが笑う。
「すみれさんの方がガード固いです」
ハルも笑って返した。
二人のスパーは、先日のクロエとすずらんのような圧力の強いものではなかった。近づいては拳を軽く当て、すぐに離れる。再び入って位置を変え、相手の動きに合わせて次を試す。勝敗を急ぐというより、互いの技術を確かめているような攻防だった。
リングの外では、すずらんがその様子を見ていた。
「どうです?」
コハクが隣へ来る。
「ハルさん、よく動きますね」
「止まるの嫌いなんです」
「すみれにはいい相手だと思います」
「そうですね」
コハクは少し間を置いて、今度はすずらんに尋ねた。
「すずらんさんは?」
「今日はいいです」
「疲れてます?」
「いえ」
「じゃあ?」
すずらんはリングを見た。
「見てます」
コハクが笑う。
「本当に見るの好きですね」
「悪いですか?」
「悪くないです」
「なら」
「でも、そのうち入ってもらいますからね」
「……はい」
すずらんはそう答えて、再びリングに目を向けた。嫌がっている様子ではなかった。
練習が終わったのは夕方前だった。ベンチに腰掛けたすみれが、足を動かしながら言った。
「脚、ちょっと重いです」
「電車にします?」
すずらんが尋ねる。
「そうしましょうか」
「飛行ユニットは?」
「充電ほぼ戻ってますけど」
すみれは少し考えてから、首を振った。
「今日はいいです」
「ですね」
近くで話を聞いていた高城が声をかけた。
「ちゃんと帰りのこと考えてるなら問題ないな」
「飛んで帰っちゃダメですか?」
「ダメじゃない。ただ、脚使った後にわざわざ飛行で姿勢制御増やす必要もないだろ」
「ですよね」
「明日休みなら好きにしろ」
「明日も来ます」
「じゃあ電車」
「はい」
話は早かった。二人は飛行ユニットを持って、最寄り駅へ向かった。
駅では人間用改札の脇に、神姫の体格に合わせた低い小型ゲートが設けられていた。すずらんが交通用IDを読み取らせると、短い電子音が鳴る。続いてすみれも通り抜けた。
「行きより楽ですね」
「そりゃそうです」
ホームへ上がると、夕方に差しかかった駅には人間の利用客も少し増えていた。ほどなく到着した列車に乗り込み、二人は神姫用の乗車スペースへ入る。
透明なガードに囲まれた一角には、小さな腰掛けと身体を支える固定バーがある。先客のマオチャオ型が一体、そこを利用していた。
「こんばんは」
すみれが自然に挨拶する。
「あ、こんばんは」
すずらんも少し遅れて頭を下げた。
列車が動き出すと、すみれは窓の外へ目を向けた。
「飛ぶより時間かかりますね」
「休めますけど」
「ですね」
しばらくすると、すみれは隣のマオチャオと話し始めた。どこへ行っていたのか、どこのジムへ通っているのか。そんな他愛のない話題だ。
すずらんは初め、窓の外を見ていた。それでも話を振られれば普通に答え、やがて会話にも加わる。自分から輪の中心に入ることは少なくても、そこにいることが苦手なわけではない。二人の違いは、こんな時にもよく表れていた。
◇
貴明が帰宅したのは、二人より少し遅い時間だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
すみれの声が返ってくる。
「おかえりなさい、マスター」
すずらんもいた。二人ともすでに飛行ユニットを外し、クレイドルの脇で休んでいる。
「帰り電車?」
「はい」
「脚重かった?」
「少し」
「なら正解」
貴明はリュックを下ろした。
「そっちは?」
すずらんが尋ねる。
「大学?」
「はい」
「ああ」
貴明は今日目にした光景を思い返した。
「神姫、普通にいた」
すみれが身を乗り出す。
「やっぱり?」
「講義室にもいたし、学食にも神姫用スペースあった」
「じゃあ」
「今度連れてってもいい」
「本当ですか?」
「別に禁止じゃないみたいだし」
「行きたいです」
即答だった。貴明はすずらんの方を見る。
「すずらんは?」
「毎日はいいです」
「俺も毎日連れてくつもりない」
「でも」
すずらんは一拍置いた。
「一度くらいは行ってみたいです」
「じゃあ今度な」
すみれが笑う。
「いつ?」
「早いな」
「来週?」
「予定見てから」
「忘れないでくださいね」
「忘れない」
「本当に?」
「忘れないって」
貴明はノートPCを机に置き、デスクトップPCの電源を入れた。
「それより今日のスパー動画ある?」
「あります」
「見るか」
「もうですか?」
「忘れる前に」
すみれが呆れたように笑った。
「大学始まっても変わりませんね」
「何が?」
「マスターです」
「意味分からん」
すずらんも小さく笑う。
貴明が大学に通い始めた一方で、二人はマスターがいない間にも自分たちでジムへ出かけ、練習して帰ってきた。行きは飛行装備を使い、帰りは疲労に合わせて電車を選ぶ。そこでは新しい知り合いとの会話も生まれている。
そして今度は、三人で大学へ行くことになりそうだった。
引っ越してから、まだそれほど日が経っていない。けれど、別々に過ごした一日を持ち帰って話し合うことも、こうして三人で映像を見返すことも、少しずつ新しい暮らしの一部になり始めていた。