すずらんとすみれを大学へ連れていくことになった朝、貴明は玄関でリュックを背負い、肩を少し動かした。
「やっぱり重いな……」
ノートPCやACアダプター、タブレット、教科書など、大学へ持っていくものはいつもと変わらない。違うのは、神姫二人分のキャリーケースが加わったことだった。
「そんなに変わります?」
ケースの中から、すみれの声がした。
「二人分増えてるからな」
「私達、そんなに重くないですよ」
「単体ならな」
貴明はリュックの肩紐を調整した。
「ケースと予備バッテリーと、お前らの荷物もあるだろ」
「マスターが入れすぎなんじゃないですか?」
「何かあった時困る」
「大学に行くだけですよ」
「大学終わったらそのままクロスロード行くだろ」
「そうですけど」
ケースの隣から、すずらんが言った。
「マスター、こういう時だけ準備いいですよね」
「こういう時だけって何だよ」
「昨日、洗剤切れてました」
「買っただろ」
「私が言ったからです」
「……買ったならいいだろ」
返事はなかった。どうやら二人とも納得していないらしい。
貴明はそれ以上言い返さず、玄関のドアを開けた。
「じゃあ行くぞ」
「はい」
「お願いします」
今日は、二人にとって初めての大学だった。
朝の電車には、まだそれなりに人が乗っていた。神姫だけなら飛んで移動した方が楽そうな混み具合だが、貴明も一緒ではそうはいかない。すずらんとすみれは、ケースの中に収まっていた。
「混んでますね」
ケース内通信ですみれが言う。
「だから昨日言っただろ」
「私達だけなら飛んでます」
「俺を置いてくな」
「マスターも飛べればいいのに」
「無茶言うな」
「飛行ユニット付けます?」
「サイズが違う」
すずらんが小さく笑った。
列車が揺れ、貴明はリュックを身体の前へ抱え直す。隣の車両には、神姫を肩に乗せた学生も見えた。前に一人で大学へ行った時よりも、そうした姿が目につく。神姫を連れているからといって、周りが特別気にする様子もない。今日は自分も二人を連れているから、意識して見てしまうのかもしれなかった。
大学構内へ入ると、さっそくすみれが声を上げた。
「もう出てもいいですか?」
「まだ講義室行くだけ」
「だからですよ」
「何が?」
「歩いて見たいです」
貴明は周囲を見渡した。神姫を肩に乗せたり、バッグの上に座らせたりして歩く学生がいる。小型ケースを手にした学生もいて、神姫が外に出ていても目立つことはなさそうだ。
「じゃあ出るか」
ベンチの端に寄ってケースを開くと、すみれが先に出て、すずらんも続いた。二人とも今日は普段着で、ボクシング用ウェアでもFバトル用の装備でもない。
「ここが大学ですか」
すみれが周囲を見渡した。
「広いですね」
「まだ一部だけどな」
すずらんは建物の案内板を見上げていた。
「マスター、講義棟あっちですよ」
「分かってる」
「今、逆見てました」
「地図確認しただけ」
「そういうことにしておきます」
またそれだった。
貴明が歩き出すと、すみれは肩へ乗り、すずらんはリュック上部の固定スペースに収まった。二人とも慣れた動作で、歩く貴明の邪魔にならない位置を取っている。
最初の講義は一限からだった。教室に入って席を確保すると、貴明は二人へ小声で尋ねた。
「授業中はどうする?」
「私はケースでいいです」
すずらんが答える。
「私も最初はそうします」
すみれも頷いた。
「最初は?」
「暇だったら考えます」
「講義中に勝手に歩き回るなよ」
「しませんよ」
「ならいい」
二人は再びケースに入った。もちろん、完全に閉じ込めるわけではない。内部端末が使え、外の音も聞こえるし、休止状態で過ごすこともできる。
貴明はノートPCを開いた。今日の一限はプログラミング基礎で、変数、型、条件分岐といった導入から始まった。
「……」
どれも貴明にとって馴染みのある内容だ。説明を聞きながら、課題用の環境だけ整えていく。
四十分ほど経った頃、ケース側から短い振動が伝わった。内部端末からのメッセージだ。
『暇です』
すみれだった。貴明は講義の進み具合を確かめ、短く返す。
『あと20分』
『長いですね』
『大学の講義だから』
『すずらん寝ました』
貴明はケースへ目を向けた。静かなままだ。
『それが正解かもな』
『じゃあ私も休みます』
『そうしろ』
これで通信は終わりかと思ったが、数秒後にまたメッセージが届いた。
『でもお昼は外出たいです』
『分かった』
今度こそ返信は止まった。
◇
昼休み。貴明は二人と一緒に学生会館へ来ていた。
「ここですか?」
すみれが先に歩く。
「この前見たのは」
貴明は壁際を指した。人間用のテーブルとは別に、『SHINKI REST AREA』と書かれた小さな区画が設けられている。透明なガード付きの休憩台に荷物置き、簡易ロッカー、充電端子まであり、神姫がマスターと離れて過ごすことも考えられていた。
「ちゃんとしてますね」
すみれが感心したように言う。
「大学なんだから利用者いるんだろ」
「マスター、前回ちゃんと見てなかったですよね」
「飯食ってたから」
「カレーだけ」
「覚えてるのか」
「覚えてます」
横からすずらんも口を開いた。
「次は野菜も食べた方がいいと思います」
「今日は定食にしただろ」
「言われたからですよね?」
「結果的に食ってるならいいだろ」
貴明は空いている席に座り、ノートPCを机に出した。昼食は済ませているが、午後の講義までに課題を少し確認しておきたかった。
「俺ちょっと課題見るから、お前ら好きにしてていいぞ」
「いいんですか?」
「ここなら」
「じゃあ行ってきます」
すみれの返事は早かった。
「どこへ?」
「まだ決めてません」
「決めてから行けよ」
「この辺見てくるだけです」
すずらんは貴明のノートPCの脇へ座った。
「すずらんは?」
「私はここにいます」
「分かった」
すみれは神姫用スペースへ歩いていった。そこにはすでにハウリンやマオチャオ、ほかの型の神姫が何体かいて、それぞれ会話をしたり端末を見たりしている。
しばらく様子を見ていたすみれが、空いているテーブルへ向かった。近くにいたのは猫型のマオチャオだ。
「こんにちは」
声を掛けられたマオチャオが、勢いよく顔を上げた。
「こんにちはなのだ!」
返事が早い。挨拶を返したと思ったら、もうすみれの方へ身を乗り出している。
「ここ、座っても大丈夫ですか?」
「いいのだ! 空いてるのだ!」
「ありがとうございます」
すみれが腰を下ろした途端、質問が飛んできた。
「名前は?」
「え?」
「あたし、たま子なのだ!」
マオチャオ――たま子は胸を張った。
「すみれです」
「すみれ!」
あっという間に呼び捨てになった。
「はい」
「大学の子なのだ?」
「私は神姫なので、大学の学生ではないです」
「じゃあマスターがここの学生?」
「そうです」
「初めて見たのだ!」
「今日初めて来ました」
「やっぱり!」
すみれは一度だけ目を瞬いた。初対面の相手との会話には慣れている方だが、たま子の方がさらに一歩早い。
「たま子さんはよく来るんですか?」
「たま子でいいのだ!」
「……じゃあ、たま子」
「よく来るのだ!」
「マスターと?」
「そうなのだ。マスターが授業の時はここにいることもあるのだ」
「へえ」
「すみれは?」
「今日は一緒です。終わったらジムに行きます」
「ジム?」
「神姫ボクシングです」
「ボクシング!」
たま子は目を輝かせた。
「すみれ、ボクシングするのだ?」
「はい」
「殴るの得意?」
「殴るって言い方はちょっと」
「でも殴るのだ?」
「……まあ、そうですけど」
「すごいのだ!」
どうやら褒められたらしい。すみれもつられて笑った。
その様子を少し離れた席から眺めていたすずらんが、貴明へ声を掛けた。
「すみれ、もう友達作ってますね」
「早いな」
貴明はノートPCから顔を上げた。すみれとマオチャオが、もうずっと前から知り合いだったかのように話している。
「相手も早いです」
「だな」
「聞こえてます?」
「少し」
「マオチャオらしいですね」
「すずらんは行かないの?」
「そのうち呼ばれると思います」
「呼ばれる前提なんだ」
「すみれなので」
言い終えて数秒も経たないうちに、向こうから声が上がった。
「すずらーん!」
すずらんが小さくため息をつく。
「ほら」
「行ってこい」
「マスターも来ます?」
「俺はいい」
「でしょうね」
すずらんは机を離れ、二人の待つテーブルへ歩いていった。
「こっちがすずらんです」
すみれが紹介する。
「こんにちは」
すずらんが軽く頭を下げる。
「すずらん!」
たま子はすぐに名前を呼んだ。
「……はい」
「すみれと同じマスターなのだ?」
「そうです」
「じゃあ家族なのだ!」
すずらんは一瞬、返事を止めた。
「家族」
「違うのだ?」
「……まあ」
すずらんは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「それでいいと思います」
「じゃあ家族なのだ!」
たま子は満足そうに頷き、すみれも笑った。
「たま子、話早いですね」
「早い方が楽なのだ!」
「そういうものですか」
「そうなのだ!」
すずらんは少し困ったような顔をしたが、席を離れようとはしなかった。
「すずらんもボクシングするのだ?」
「します」
「強い?」
「どうでしょう」
「強いです」
すみれが即答した。
「じゃあすずらんともバトルしたいのだ!」
「ボクシング?」
「どっちでもいいのだ!」
「どっちでも」
「バトルは楽しいのだ!」
「……そうですね」
「今度やるのだ!」
「予定が合えば」
「やったのだ!」
すずらんはまだ予定が合えばと言っただけだが、たま子はすっかり決まったつもりらしい。すずらんも、わざわざ訂正はしなかった。
昼休みの終わりが近づき、貴明はノートPCの画面から顔を上げた。
「じゃあそろそろ戻るぞ」
すみれとすずらんが振り返る。
「マスターですか?」
たま子が尋ねる。
「そうです」
「見に行くのだ!」
「え?」
貴明が返事をするより早く、たま子は歩き出していた。すみれが後を追う。
「たま子、マスターは?」
「そのうち戻ってくるのだ!」
「いいんですか?」
「大丈夫なのだ!」
「何が大丈夫なんでしょう」
すずらんが小さく呟いた。
たま子は貴明の机まで来ると、顔を見上げた。
「この人?」
「はい。篠原貴明です」
すみれが紹介する。
「すみれのマスター!」
「そうだけど」
「あたし、たま子なのだ!」
「……どうも」
「貴明っていうのだ?」
「そう」
「じゃあ貴明なのだ!」
「呼び捨てなんだ」
「ダメなのだ?」
たま子は本当に不思議そうな顔をした。悪気があって言っているわけではなさそうだ。
「別にいいけど」
「じゃあいいのだ!」
一瞬で話が決まった。貴明はすみれを見る。
「すごいな」
「私もさっき思いました」
「何がなのだ?」
「距離が近いなって」
たま子は少し考えた。
「近い方が話しやすいのだ!」
「物理的な距離じゃない」
「?」
通じていないようだった。すずらんが小さく笑う。
その時、少し離れたところから声がした。
「たま子ー!」
「マスターなのだ!」
たま子が振り返った。人混みの向こうから、貴明と同年代くらいの男子学生がこちらへ向かってきている。
だが、その前に昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「あ」
貴明は時計を確認する。
「次の講義」
「マスター、行かないと」
すずらんが言う。
「分かってる」
貴明はノートPCを閉じてリュックへしまった。
「じゃあ、またなのだ!」
たま子が手を振る。
「はい。また」
すみれも手を振り返した。
「また」
すずらんも短く答え、貴明も片手を上げた。
「じゃあ」
三人が講義棟へ向かって歩き出すと、背後から声が聞こえてきた。
「たま子、どこ行ってたんだよ」
「友達できたのだ!」
「早いな!?」
貴明は少しだけ振り返ったが、人の流れに遮られて、もう相手の姿はよく見えなかった。
「今のがマスターみたいだな」
「そうですね」
すみれが答えた。
「名前聞かなかったな」
「また会えば分かりますよ」
「まあ、そうか」
貴明はそれ以上気にしなかった。大学で知り合った、やけに距離の近いマオチャオと、そのマスターらしい男子学生。今日はそれだけだ。
◇
午後の講義が終わり、貴明たちは大学を出た。
「さて」
貴明は駅の方へ視線を向ける。
「クロスロード行くか」
「はい」
すみれがすぐに答えた。
「今日は三人なので電車ですね」
すずらんが言う。
「俺置いて飛ぶなよ」
「飛びませんよ」
すみれが笑った。
「今日は」
「今日は?」
「次は分かりません」
「おい」
三人で駅へ向かう。朝はただ貴明について大学へ来た二人も、今は神姫用の休憩スペースがどこにあるか知っている。マスターの講義中に過ごせる場所があり、そこで新しい知り合いまでできたのだ。
「たま子、面白いですね」
すみれが言う。
「元気でしたね」
すずらんも答えた。
「お前らまた会う気だろ」
「はい」
「たぶん会います」
「大学広いぞ」
「でも、たま子なら見つけそうです」
すずらんが言った。
「何となく分かる」
貴明も同じことを考えていた。会ったばかりなのに、次に見かけたら向こうから名前を呼んで駆け寄ってきそうな神姫だった。
引っ越してから、新しい街を歩き、大学へ通い、クロスロードにも通い始めた。昨日までは二人を大学へ連れてきても退屈するのではないかと思っていたが、どうやらその心配はなさそうだ。
新しい場所へ行くたびに、三人それぞれの知り合いも増えていく。高校までとは少し違う暮らしが、こうして広がり始めていた。