大学の午後の講義が終わった頃には、外はもう夕方に近づいていた。
「今日は少し遅くなったな」
貴明は講義棟を出ると、スマートフォンで時刻を確認した。
「でも、まだ練習できますよね?」
肩に座っていたすみれが聞く。
「ああ。今日は軽めの予定だし」
「すずらんはどうします?」
「私も行きます」
リュックの上にいたすずらんが答えた。
「今日はクロエさん、いるでしょうか」
「どうだろうな」
「いなかったら?」
「普通に練習します」
「……そうか」
貴明が小さく笑う。クロスロードへ通い始めてから、まだそれほど経っていない。それでも、二人にはそれぞれ気になる相手ができていた。
すずらんにとってはクロエだ。あのストラーフMk.2との最初のスパーリングは、なかなか刺激になったらしい。すみれもハルをはじめ、ジムの神姫たちと話す機会が増えていた。
「そういえば」
すみれが言った。
「今日はミオさん、来てますかね?」
「田辺さんのところの?」
「はい。この前、今度スパーしようって話してたので」
「そうだったっけ」
「マスター、聞いてなかったんですか?」
「その時、佐伯さんと話してた気がする」
「もう。そういうところですよ」
すみれが少し呆れたように言う。
「別に、全部の会話聞いてるわけじゃないし」
「それはそうですけど」
すずらんが横から口を挟んだ。
「ミオさん、楽しそうでしたよ」
「何が?」
「すみれと練習する話です」
「そうなのか」
「はい」
貴明は田辺誠のことを思い出した。三十代の会社員で、マオチャオ型のミオのマスターだ。神姫ボクシングとの付き合いは長いようだが、大会上位を目指して追い込んでいるという印象ではなかった。ミオ自身も、競技を楽しむことを大切にしているらしい。
「じゃあ、いたら聞いてみるか」
「はい!」
すみれの返事は早かった。
◇
クロスロードへ入ると、いつもの音が聞こえてきた。人間用リングからはミットを叩く乾いた音が、神姫用の練習スペースからは高い打撃音と神姫たちの声が響く。夕方のジムは昼間より人が増えていた。
「こんにちは」
貴明が受付を通る。
「おう、篠原。今日は三人一緒か」
高城が声をかけてきた。
「はい。大学からそのままです」
「今日はどうする?」
「すずらんはミット中心で。すみれは、相手がいれば軽くスパーを」
「そうか。じゃあ、ちょうどいいな」
「何がです?」
高城が神姫用スペースを指した。
「田辺さんとこ、来てるぞ」
見ると、リング脇に見覚えのある男性がいた。仕事帰りらしいシャツ姿の田辺が、小さなケースを開いている。その隣では、ミオがグローブを両手に持っていた。
「あ、すみれ!」
こちらに気づくと、ミオが大きく手を振った。
「今日来たんだ!」
「こんにちは、ミオさん」
「ねえねえ、今日やろうよ!」
「スパーリングですか?」
「そう!」
すみれが貴明を見上げる。
「マスター、いいですよね?」
「コハクさんに確認してからな」
「はい」
「やった!」
ミオが嬉しそうに両手を上げた。その様子を見て、田辺が苦笑する。
「まだ何も決まってないだろ」
「決まったも同じだよ!」
「そういうところだぞ」
貴明は田辺の方へ近づいた。
「こんにちは」
「篠原君。大学帰り?」
「はい」
「いいねえ。僕も大学生の頃は、もう少し時間があったんだけど」
「お仕事帰りですか?」
「そう。今日は割と早く終わったからね」
田辺はケースの中から小さなタオルを取り出した。
「で、ミオがさっきから、すみれさんが来ないかなって」
「マスター!」
「何?」
「それ言わなくていい!」
「さっきまで言ってただろ」
「言ってたけど!」
すみれが笑った。
「私もやってみたかったので、ちょうどよかったです」
「本当?」
「はい」
ミオは一瞬嬉しそうに目を輝かせ、それから慌ててグローブを着け始めた。
「じゃあ準備する!」
「先に状態確認だよ」
「分かってる!」
返事をしながらも手を止めない。田辺は慣れた様子で端末を手に取った。
「……本当に分かってるのかな」
「多分、分かってます」
貴明が答える。
「多分かあ」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
「今日は軽めにしましょう」
コハクがリング脇で言った。
「すみれさんもミオさんも、身体を慣らすところからです」
「はい」
「分かった!」
「まずシャドー。そのあと、ジャブ中心の条件付きスパーリングにします」
「ジャブだけ?」
ミオが聞く。
「最初はそうです」
「えー」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど、右も打ちたい」
「様子を見てからですね」
「はーい」
少し不満そうではあったが、ミオは素直に頷いた。すみれもリングへ上がり、二人が向かい合う。どちらも十五センチほどの神姫だが、すみれはアーンヴァルMk.2、ミオはマオチャオ型。体格や素体の特性は異なるものの、今は二人ともボクシング用のウェアとグローブを着けている。
「じゃあ、軽く動いてください」
コハクの合図で、二人がシャドーを始めた。すみれはジャブから右ストレートを打ち、ガードを戻して横へステップする。一つ一つの動作を確かめるように繰り返していた。
一方のミオは、ジャブを二つ打って小さく横へ動き、再びジャブを出したかと思えば、今度は足を止めて身体を左右へ揺らす。決まった順番を反復するというより、その時々で相手との距離を想像しながら動いているように見えた。
「……結構動きますね」
貴明が言う。
「ミオ?」
田辺が隣で聞いた。
「はい。シャドーでもずっと足使ってるので」
「じっとしてるの苦手だからね」
「そういう理由ですか?」
「本人に聞いてみる?」
貴明がリングを見る。
「ミオさん」
「なーに?」
「結構ステップ多いですね」
「そう?」
「疲れません?」
「疲れるよ!」
「……そうですか」
「でも、止まってるとつまんないでしょ?」
貴明は少し考えた。
「相手がいれば、止まって見るのも必要だと思いますけど」
「そういう時は止まるよ?」
「じゃあ、今は?」
「シャドーだから!」
当然のように返される。田辺が隣で笑っていた。
「篠原君、あんまり真面目に考えなくていいよ」
「そうですか?」
「本人、楽しく動いてるだけだから」
「……なるほど」
貴明は改めてミオの足元を見た。すべてが無駄のない動きとは言えなくても、足元が乱れているわけではない。ステップの幅を細かく変えることには慣れていて、長く練習を続けてきたのが分かる。
「ミオさん、経験長いんですか?」
「結構長いかな」
田辺が答えた。
「試合にも出てますしね」
「うん。ただ、毎回大会に向けて練習してるわけじゃないけど」
ミオがこちらを向く。
「ねえ、マスター!」
「何?」
「もうスパーしていい?」
「コハクさんに聞いて」
「コハクさーん!」
「もう少しですよ」
「えー」
貴明は思わず笑ってしまった。すみれも、リングの向こうで笑っている。
「では、始めます」
コハクが二人の装備と状態を確認した。
今日は公式試合ではなく、ジャブを中心に打撃の強さを抑えた軽いスパーリングだ。勝敗を決めることより、相手との距離や反応を確かめるのが目的になる。
「お願いします」
すみれがグローブを合わせる。
「よろしく!」
ミオも笑顔で返した。
開始。
最初に動いたのはすみれだった。
左ジャブ。
ミオが軽く右へ避ける。
すみれは追わず、距離を維持する。
もう一度、左。
今度はミオがグローブで受けた。
「お、速い!」
ミオが言う。
「ありがとうございます」
「でも、こっちも!」
ミオが踏み込んだ。
左ジャブ。
すみれがガード。
続けて、もう一発。
今度はすみれの肩口をかすめる。
すみれが半歩下がった。
「今の、当たった?」
「少しだけ」
「やった!」
「まだ始まったばかりですよ」
「分かってる!」
ミオが笑ったまま構え直す。
貴明はリング脇の端末へ視線を落とした。映像は記録中で、すみれ自身の状態にも問題はない。貴明は端末からリングへ視線を戻した。
すみれがジャブを出した。
ミオはそれを外して横へ動く。
すみれも向きを変える。
今度はミオからジャブ。
すみれが受ける。
さらに、もう一発。
すみれは今度こそ横へ外した。
「いいですね」
コハクが声をかける。
「二人とも、今の距離を覚えてください」
「はい」
「分かった!」
ミオは少し下がった。
すみれも追わない。
距離を取り直して、互いに構える。
貴明は二人の距離を追った。すみれは普段どおり、自分の打てる位置を確保しようとする。一方、ミオはそこに長く留まらず、左右へ動きながらジャブを差し込んできた。無理に攻め続けるわけでもなく、すみれの右手が動けば距離を取る。相手をよく見ている。
「……結構上手いですね」
貴明が呟いた。
「意外?」
田辺が聞く。
「いや、そういうわけでは」
「ミオ、こう見えて長いからね」
「そうですね」
「競技志向じゃないからって、練習してないわけじゃないし」
「それは分かります」
田辺が少し笑った。
「ならよかった」
リングでは、すみれが左を二つ続けていた。
ミオが一発目を避ける。
二発目はガード。
そこからすぐ、ジャブを返す。
すみれが上体を引く。
拳がわずかに届かない。
「惜しい!」
ミオが声を上げる。
「今のは危なかったです」
すみれが答えた。
「でしょ?」
「はい」
その直後、すみれが踏み込んだ。
左。
ミオが受ける。
もう一発。
今度はガードの間を抜け、額の近くへ軽く当たった。
「あっ」
ミオが一歩下がる。
「今のはすみれの!」
「そうですね」
「もう一回!」
「はい!」
二人が再び構えたところで、コハクが手を上げた。
「そこまで」
「えー!」
「一度休憩です」
「もう?」
「時間です」
ミオが時計を見る。
「本当だ」
「当然です」
コハクが落ち着いた声で返す。
「休憩しましょう」
「はーい」
インターバル。すみれとミオは、それぞれリング脇へ戻ってきた。
「どうだった?」
貴明が聞く。
「楽しいです」
「……いや、動きの方」
「分かってますよ」
すみれが小さく笑う。
「ミオさん、思ったより距離の取り方が上手いですね」
「思ったよりって何!」
隣でミオが抗議した。
「あ、そういう意味じゃなくて」
「ひどい!」
「ごめんなさい」
すみれが慌てて謝る。しかしミオはすぐ笑った。
「冗談だよ!」
「もう……」
そのやり取りを見て、田辺が笑っている。貴明は端末の映像を確認した。
「すみれ、最初のジャブ」
「はい」
「ミオさんが右へ動いた時、少し追いかけてる」
「ああ、はい」
「その次は止まってるからいいけど、もう少し距離を――」
「マスター」
すみれが遮った。
「何?」
「まだ休憩始まったばかりですよ」
「だから今確認してる」
「分かってますけど」
貴明は端末を見る。記録映像は、いつでも確認できる。
「……あとで見る?」
「そうしてください」
「はい」
少し離れたところですずらんが笑っていた。
「マスター、すぐ始めますから」
「何を?」
「反省会」
「必要だろ」
「必要ですけど、今じゃなくても」
「……分かった」
貴明は端末を置いた。一方、田辺はミオのグローブを確認していた。
「どう?」
「楽しい!」
「身体は?」
「大丈夫!」
「足、少し熱くなってない?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ次は動きすぎないようにね」
「分かった!」
「本当に?」
「うん!」
田辺は端末を見て、ミオの状態を確認した。
「まだ余裕はあるね」
「でしょ?」
「でも、あと一ラウンドにしよう」
「えー」
「今日はこれで終わりじゃないんだから」
「もっとやりたい」
「気持ちは分かるけどね」
田辺は穏やかな声のままだった。
「明日も動けるくらいで終わろう」
ミオが少し考えた。
「……分かった」
「よし」
貴明はその様子を見ていた。田辺は、あまり細かい戦術指示を出していない。何か気づいていないわけではないだろう。さっきの攻防もきちんと見ていたし、ミオの状態確認も手慣れている。
「田辺さん」
「ん?」
「次のラウンド、何か指示します?」
「一応ね」
「どんな?」
「そうだなあ」
田辺は少し考えた。
「ミオ、さっきのジャブ、どうだった?」
「すみれ、ちゃんと避ける!」
「そりゃそうだね」
「でも何発か当たった!」
「うん。じゃあ次もそこからやってみようか」
「分かった!」
それだけだった。貴明は少し首を傾げた。
「……それだけですか?」
「今のところは」
「もっと修正するところ、ありそうですけど」
「あるよ」
田辺は否定しなかった。
「でも、今日はすみれさんと動きたいって言ってたからね」
「そうなんですか」
「そのために来たようなもんだし」
ミオが横から言った。
「勝ちたいよ?」
「うん」
「ちゃんと当てたいし!」
「分かってるよ」
田辺は笑った。
「だから、次も頑張っておいで」
「うん!」
貴明は考え込んだ。ミオには勝ちたい気持ちがある。それでも今日は勝敗を決める練習ではない。田辺も分かっているからこそ、細かな修正より本人の意欲を優先しているのだろう。もちろん状態を確かめ、必要なところではきちんと止める。
「……なるほど」
貴明が呟いた。
「何かあった?」
田辺が聞く。
「いえ。ちょっと参考になります」
「そう?」
「はい」
田辺は少し意外そうな顔をした。
「僕、そんなに大したこと言ってないけど」
「そういうところも含めて」
「……篠原君、真面目だねえ」
貴明は返事に困った。
二ラウンド目。今度はジャブ以外も使ってよいことになった。ただし、打撃の強さは引き続き抑える。
「無理に打ち合わないでくださいね」
コハクが二人へ確認する。
「はい」
「分かった!」
「特にミオさん」
「え、あたし?」
「楽しくなると、少し前へ出すぎますから」
「そんなことないよ?」
「あります」
「……ちょっとだけ」
すみれが笑った。
「私も気をつけます」
「お願いします」
開始。
ミオが先に動いた。
左ジャブ。
すみれが受ける。
右へ回り込んで、もう一度左。
今度はすみれが前へ出た。
ミオが下がる。
そこへすみれの右ストレート。
ミオは上体をずらして避けると、短いジャブを返した。
すみれのガードに当たる。
もう一発。
今度は頬の横を軽く叩いた。
「おっ」
貴明が声を漏らした。
ミオはすぐに距離を取る。
「今の、よかった!」
田辺が言う。
「うん!」
ミオの声が弾む。
すみれも構えを直した。
「今のは上手でした」
「でしょ!」
「でも、次はそう簡単には当たりませんよ」
「やってみないと分かんないよ!」
「そうですね!」
すみれが踏み込んだ。
ジャブ。
ミオが避ける。
その先へ、もう一発。
今度はミオがガード。
右。
ミオは下がりながら受けた。
すみれは追いすぎず、距離を保つ。
二人とも、拳を出す時は真剣だった。ミオも笑ってばかりではなく、すみれのパンチを見て避けるか受けるかを判断し、自分が打てる位置へ動く。すみれの正確なジャブに対し、細かな足運びで機会を探していた。
「……なるほど」
貴明は小さく呟いた。
ミオは単純に動き回っているのではない。すみれが打つたびに立ち位置を変え、相手の拳が届きにくい位置へ移りながら、自分の拳が届くところには踏み込んでくる。ただし、すべてがうまくいくわけではなかった。
すみれが二発続けてジャブを出す。
ミオが一発目を避ける。
しかし二発目は間に合わず、ガードの上から押された。
「あっ」
後ろへ一歩。
すみれが踏み込む。
右ストレート。
ミオは両腕を上げて受けた。
「うわっ、危ない!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫!」
ミオはすぐに構え直す。
今度は自分から左を出した。
すみれが外す。
右。
ガード。
さらに踏み込もうとしたところで、すみれが横へ動いた。
ミオの拳が空を切る。
「あれっ」
「こっちです!」
すみれが軽いジャブを返す。
ミオの額の手前。
グローブが当たった。
「あー!」
「今のは私ですね」
「うん! やられた!」
ミオが笑う。しかし、その目はまだすみれを見ていた。
「もう一回!」
今度はミオが動く。
すみれも応じる。
左。
右。
回避。
ガード。
互いの拳が交差する。
どちらかが一方的に押しているわけではない。すみれは基本に忠実な動きで距離を作り、ミオは細かなステップでその距離を変えていく。
貴明は端末の録画表示を確かめながら、ミオのジャブと、その直前の回避を思い返した。楽しそうに動いていても、攻防そのものは決して適当ではない。相手を見て、判断を積み重ねているからこそ、すみれとこうして拳を交えられるのだ。
「そこまで!」
コハクの声が響いた。
二人がすぐに構えを解く。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました!」
すみれが頭を下げる。
「楽しかったー!」
ミオが大きく伸びをした。
「すみれ、強いね!」
「ミオさんも上手でしたよ」
「本当?」
「はい。何度も当てられましたし」
「えへへ」
ミオが嬉しそうに笑う。
「またやろうね!」
「ぜひ!」
コハクが二人へ近づいた。
「まず状態確認しましょう」
「はーい」
「はい」
すみれとミオは揃って返事をした。
◇
練習が終わると、貴明はリング脇でノートPCを開いていた。
「マスター」
すずらんが横から覗き込む。
「また映像ですか?」
「うん」
「すみれの?」
「そう」
画面には、さっきのスパーリングが映っている。すみれが左を出すとミオが横へ避け、続けてミオがジャブを返す。すみれがガードする場面を、貴明は繰り返し再生していた。
「面白いな」
「何がです?」
「ミオさんの距離の変え方」
すずらんが画面を見る。
「結構動きますね」
「ああ。でも無駄に動いてるわけじゃない」
「全部ではありませんけど」
「まあな」
貴明は一度映像を止めた。
「すみれがジャブ出そうとする時、先に横へ動いてる」
「見えてるんでしょうね」
「そう思う」
「マスター」
「何?」
「また長くなります?」
「まだ何も説明してないだろ」
「これからする顔です」
「……」
貴明は黙った。すずらんが少し笑う。
その時だった。
「何見てるの?」
明るい声が近づいてきた。ミオだった。グローブを外し、身軽になった姿で机へ飛び乗る。
「さっきの?」
「はい」
「見せて!」
貴明は画面を少し傾けた。
「ここです」
映像を再生する。
ミオがジャブ。
すみれが受ける。
ミオが横へ動く。
すみれが向きを変える。
「……あ」
ミオが画面を指した。
「ここ、もっと早く動けばよかった!」
「どこです?」
「すみれが向き変える前!」
貴明が映像を戻す。
「ここ?」
「そう!」
「確かに、もう少し早ければ」
「もう一発打てたかも!」
「そうですね」
ミオが嬉しそうに頷く。
少し離れたところから、田辺が声をかけた。
「ミオ、あんまり篠原君の邪魔しちゃ駄目だよ」
「邪魔してないよ!」
「そう?」
「一緒に見てる!」
貴明は画面から顔を上げた。
「大丈夫ですよ」
「悪いね」
「いえ。本人の感想も聞きたいので」
「ほら!」
ミオが胸を張る。田辺が苦笑した。
「はいはい」
すみれも机へ上がってきた。
「私も見たいです」
「お疲れ」
「お疲れさまです」
貴明は少し場所を空けた。
「今、ミオさんが気づいたところ」
「どこですか?」
「ここ!」
ミオが画面を指す。
「もうちょっと早く回り込めばよかったんだよ!」
映像が再生される。すみれは少し考えた。
「でも、私もその時には動いてますよ?」
「だから、その前に!」
「なるほど」
「ね?」
「そうですね。でも、次は私も警戒しますから」
「えー!」
「次も同じようにできるとは限りませんよ」
「じゃあ別のやり方考える!」
「私も考えます」
二人が顔を見合わせて笑う。貴明はそのやり取りを聞きながら、練習への向き合い方は違っても、勝ちたい、うまくなりたい、もう一度試したいという気持ちは同じなのだと思った。違うのは、どこまでを目標にするかという部分なのだろう。
「そろそろ帰ろうか」
田辺が時計を確認した。
「えー」
ミオが振り返る。
「もう?」
「十分動いたでしょ」
「まだできるよ!」
「今日はもうおしまい」
「むー」
ミオが頬を膨らませた。しかし田辺は慣れた様子だった。
「明日も仕事あるしね」
「マスターの仕事じゃん」
「僕が来なかったら、ミオも今日は一緒に来られないでしょ」
「それはそうだけど」
「それに、脚も少し熱かっただろ」
「……うん」
「じゃあ今日は帰って休もう」
ミオは少し考えたあと、ようやく頷いた。
「分かった」
「よし」
田辺が手を差し出す。ミオはその上へひょいと乗り、うつ伏せになった。両手を前へ伸ばし、田辺の指へ軽くしがみつくような姿勢だ。
「……疲れた」
「そうだろうね」
田辺が笑う。
「さっきまでまだできるって言ってなかった?」
「言った」
「今は?」
「疲れた」
「はいはい」
田辺は無理に起こそうとせず、そのまま手のひらを少し傾けて持ち直した。リングの上ではあれだけ動き回っていたミオが、今は田辺の手の中ですっかりくつろいでいる。
「……結構、甘えん坊なんですね」
貴明が言う。
「そうだね」
田辺が答えた。
「普段はあんまり言うこと聞かないけど」
「聞いてるよ」
ミオが顔を上げずに反論した。
「さっき、あと一ラウンドって言った時は?」
「聞いた!」
「その前は?」
「……」
「ほら」
「むー」
田辺が笑う。すみれもつられて笑った。
「仲がいいですね」
「まあ、長い付き合いだからね」
田辺はミオを見下ろした。
「色々やってきたけど、結局これが一番続いてるかな」
「神姫ボクシングですか?」
「そう」
「他の競技も?」
「少しはね。でもミオが一番気に入ったのがボクシングだったんだ」
「そうなんですね」
「うん。身体動かすの好きだし、相手もたくさんいるし」
田辺は少し笑った。
「僕も見てて面白いからね」
貴明は頷いた。
「大会とかは、あまり出ないんですか?」
「たまには出るよ」
「上を目指そうとは?」
「それは、ミオがやりたくなったらかな」
「……なるほど」
田辺は少し首を傾げる。
「篠原君は、結構上を目指してるんだよね?」
「はい。一応」
「いいね」
「そうですか?」
「もちろん」
田辺は普通に答えた。
「それだけ頑張れるのも、いいことだと思うよ」
少し間を置いて、続ける。
「僕らは、そこまでしないってだけで」
貴明はその言葉を聞いていた。「そこまでしない」は真剣ではないという意味ではない。ミオは何度もすみれにジャブを当て、勝ちたいとも口にしていた。ただ、そのために生活のすべてを競技中心にするつもりはないのだ。
「ミオさん、次もすみれとやりたいそうですけど」
貴明が言う。
「うん」
「なら、またお願いします」
「こちらこそ」
田辺が笑った。
「ミオも喜ぶよ」
「聞こえてるよ!」
ミオが手のひらの上から顔を上げた。
「すみれ!」
「はい?」
「またやろうね!」
「はい。ぜひ!」
「次はもっと当てるから!」
「私も負けませんよ」
「えへへ。楽しみ!」
ミオは満足そうに頷くと、また田辺の手へ身体を預けた。
「……じゃあ帰る」
「はいはい」
田辺が貴明へ軽く頭を下げる。
「じゃあ、お先に」
「お疲れさまでした」
「またね!」
すみれとすずらんも手を振った。田辺はミオを手に乗せたまま、受付の方へ歩いていった。
◇
帰りの電車では、すみれが貴明の肩に座っていた。
「今日は楽しかったです」
「スパー?」
「はい」
「ミオさん、結構強かったな」
「そうですね」
すみれが頷く。
「私も、もう少し簡単にジャブを当てられるかと思ってました」
「足使うの上手かったからな」
「はい。ああいう動き方も面白いですね」
貴明は少し考えた。
「次もやる?」
「もちろんです」
「なら、また予定合わせるか」
「お願いします」
すずらんが横から言った。
「ミオさん、楽しそうでしたね」
「そうですね」
すみれが笑う。
「私も楽しかったです」
「それはよかった」
貴明が答える。しばらくして、すみれが聞いた。
「マスター」
「何?」
「今日の映像、帰ったら見ます?」
「一応」
「全部?」
「多分」
「……多分?」
「見ると思う」
すみれが小さくため息をつく。
「ミオさん達は、ああいう練習したあと、何してるんでしょうね」
「田辺さん、帰って休むって言ってたな」
「そうですけど、映像とか」
「見てるんじゃない?」
「でも、マスターほどは見てなさそうです」
「それはそうかもな」
貴明は少し笑った。
「何でそんなに見るんですか?」
「気になるから」
「何が?」
「当たった理由とか、避けられた理由とか」
「それは私も気になりますけど」
「じゃあ同じだろ」
「……少し違う気がします」
すみれが考え込む。その横から、すずらんが言った。
「マスターは、気になったら全部見ますから」
「全部って」
「全部です」
「……まあ、見るけど」
「ほら」
すみれが笑う。
「でも、別に悪いことじゃないだろ」
「悪いとは言ってませんよ」
すみれは肩の上で座り直した。
「ただ、今日は少しだけミオさん達の気持ちも分かった気がします」
「どういう?」
「別に大会のためじゃなくても、こうして練習するのって楽しいんだなって」
「……なるほど」
貴明は頷いた。高校時代からすずらんもすみれも、大会に出て勝つために練習してきた。その目標を変えるつもりはない。
けれど、今日のミオはジャブを当てた時も避けられた時も、すみれに打たれた時でさえ楽しそうだった。そのたびに次の手を考え、練習が終われば田辺の手のひらで休む。そういうボクシングの続け方もある。
「まあ、俺も好きだからやってるんだけどな」
貴明が言った。
「知ってます」
すみれが即答した。
「そうですね」
すずらんも頷く。
「マスターの場合、好きすぎるだけです」
「……そこまでか?」
「そこまでです」
すみれが笑う。
「だって、帰ってからまた映像見るんでしょう?」
「見るけど」
「昨日も見てましたよね?」
「昨日のは別」
「一昨日は?」
「……」
「ほら」
貴明は返事をしなかった。すずらんが隣で小さく笑う。
「でも」
すみれが続ける。
「そういうマスターだから、私達もここまで続けてこられたんだと思いますよ」
「……そうか?」
「はい」
すずらんも頷いた。
「それはそうですね」
貴明は少しだけ視線を逸らした。
「……ならいいけど」
電車が駅へ近づき、窓の外に見慣れ始めた街並みが流れる。新しい大学に街、そしてジム。そこには、今まで知らなかった練習相手や、違う目標を持つマスターがいる。それぞれの方法でボクシングを楽しむ神姫たちもいた。
「マスター」
すみれが言った。
「次にミオさんとやる時は、もう少し違う練習してみたいです」
「例えば?」
「普通のスパーリングとか」
「今日も結構普通だったけどな」
「もっと色々打てるやつです」
「なるほど」
「ミオさんも、右打ちたそうでしたし」
「そうだったな」
貴明は頷く。
「じゃあ、次はコハクさんに相談してみるか」
「はい!」
すみれの声が弾んだ。すずらんが窓の外を見る。
「次、クロエさんも来てるといいですね」
「……お前もそれか」
「はい」
「本当に好きだな」
「練習相手としてです」
「分かってるよ」
貴明が笑う。次にジムへ行く日も、もう決まっている。特別な大会があるわけではない。ランキング戦でもない。ただ、いつもの練習をするだけだ。それでも、行く理由はいくつもある。
貴明はリュックの中のノートPCへ軽く触れた。今日の映像も、帰ったら整理しよう。それから、すみれと一緒に確認する。ミオがどこで動いたのか。すみれはどう対応したのか。次なら何ができるのか。
「……マスター」
すみれが言った。
「何?」
「今、また映像のこと考えてました?」
「……」
「考えてたんですね」
「少しだけ」
「帰ったら夕飯が先ですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
すずらんが小さく笑った。
「確認しておきます」
「二人とも厳しくない?」
「普段の行いです」
すみれが即答する。貴明は何も言い返せなかった。
電車がホームへ滑り込む。
三人はいつも通り家へ帰る。そしてまた、次の練習に出かける。そんな日々が、新しい暮らしの当たり前になりつつあった。