武装神姫 ~うちの神姫たちとの日々~   作:IT.exe

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ボクシングをする理由

 大学の午後の講義が終わった頃には、外はもう夕方に近づいていた。

 

「今日は少し遅くなったな」

 

 貴明は講義棟を出ると、スマートフォンで時刻を確認した。

 

「でも、まだ練習できますよね?」

 肩に座っていたすみれが聞く。

「ああ。今日は軽めの予定だし」

「すずらんはどうします?」

「私も行きます」

 リュックの上にいたすずらんが答えた。

「今日はクロエさん、いるでしょうか」

「どうだろうな」

「いなかったら?」

「普通に練習します」

「……そうか」

 

 貴明が小さく笑う。クロスロードへ通い始めてから、まだそれほど経っていない。それでも、二人にはそれぞれ気になる相手ができていた。

 すずらんにとってはクロエだ。あのストラーフMk.2との最初のスパーリングは、なかなか刺激になったらしい。すみれもハルをはじめ、ジムの神姫たちと話す機会が増えていた。

 

「そういえば」

 すみれが言った。

「今日はミオさん、来てますかね?」

「田辺さんのところの?」

「はい。この前、今度スパーしようって話してたので」

「そうだったっけ」

「マスター、聞いてなかったんですか?」

「その時、佐伯さんと話してた気がする」

「もう。そういうところですよ」

 

 すみれが少し呆れたように言う。

 

「別に、全部の会話聞いてるわけじゃないし」

「それはそうですけど」

 

 すずらんが横から口を挟んだ。

 

「ミオさん、楽しそうでしたよ」

「何が?」

「すみれと練習する話です」

「そうなのか」

「はい」

 

 貴明は田辺誠のことを思い出した。三十代の会社員で、マオチャオ型のミオのマスターだ。神姫ボクシングとの付き合いは長いようだが、大会上位を目指して追い込んでいるという印象ではなかった。ミオ自身も、競技を楽しむことを大切にしているらしい。

 

「じゃあ、いたら聞いてみるか」

「はい!」

 

 すみれの返事は早かった。

 

     ◇

 

 クロスロードへ入ると、いつもの音が聞こえてきた。人間用リングからはミットを叩く乾いた音が、神姫用の練習スペースからは高い打撃音と神姫たちの声が響く。夕方のジムは昼間より人が増えていた。

 

「こんにちは」

 

 貴明が受付を通る。

 

「おう、篠原。今日は三人一緒か」

 

 高城が声をかけてきた。

 

「はい。大学からそのままです」

「今日はどうする?」

「すずらんはミット中心で。すみれは、相手がいれば軽くスパーを」

「そうか。じゃあ、ちょうどいいな」

「何がです?」

 

 高城が神姫用スペースを指した。

 

「田辺さんとこ、来てるぞ」

 

 見ると、リング脇に見覚えのある男性がいた。仕事帰りらしいシャツ姿の田辺が、小さなケースを開いている。その隣では、ミオがグローブを両手に持っていた。

 

「あ、すみれ!」

 

 こちらに気づくと、ミオが大きく手を振った。

 

「今日来たんだ!」

「こんにちは、ミオさん」

「ねえねえ、今日やろうよ!」

「スパーリングですか?」

「そう!」

 

 すみれが貴明を見上げる。

 

「マスター、いいですよね?」

「コハクさんに確認してからな」

「はい」

「やった!」

 

 ミオが嬉しそうに両手を上げた。その様子を見て、田辺が苦笑する。

 

「まだ何も決まってないだろ」

「決まったも同じだよ!」

「そういうところだぞ」

 

 貴明は田辺の方へ近づいた。

 

「こんにちは」

「篠原君。大学帰り?」

「はい」

「いいねえ。僕も大学生の頃は、もう少し時間があったんだけど」

「お仕事帰りですか?」

「そう。今日は割と早く終わったからね」

 

 田辺はケースの中から小さなタオルを取り出した。

 

「で、ミオがさっきから、すみれさんが来ないかなって」

「マスター!」

「何?」

「それ言わなくていい!」

「さっきまで言ってただろ」

「言ってたけど!」

 すみれが笑った。

「私もやってみたかったので、ちょうどよかったです」

「本当?」

「はい」

 

 ミオは一瞬嬉しそうに目を輝かせ、それから慌ててグローブを着け始めた。

 

「じゃあ準備する!」

「先に状態確認だよ」

「分かってる!」

 

 返事をしながらも手を止めない。田辺は慣れた様子で端末を手に取った。

 

「……本当に分かってるのかな」

「多分、分かってます」

 

 貴明が答える。

 

「多分かあ」

 

 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。

 

「今日は軽めにしましょう」

 

 コハクがリング脇で言った。

 

「すみれさんもミオさんも、身体を慣らすところからです」

「はい」

「分かった!」

「まずシャドー。そのあと、ジャブ中心の条件付きスパーリングにします」

「ジャブだけ?」

 ミオが聞く。

「最初はそうです」

「えー」

「嫌ですか?」

「嫌じゃないけど、右も打ちたい」

「様子を見てからですね」

「はーい」

 

 少し不満そうではあったが、ミオは素直に頷いた。すみれもリングへ上がり、二人が向かい合う。どちらも十五センチほどの神姫だが、すみれはアーンヴァルMk.2、ミオはマオチャオ型。体格や素体の特性は異なるものの、今は二人ともボクシング用のウェアとグローブを着けている。

 

「じゃあ、軽く動いてください」

 

 コハクの合図で、二人がシャドーを始めた。すみれはジャブから右ストレートを打ち、ガードを戻して横へステップする。一つ一つの動作を確かめるように繰り返していた。

 

 一方のミオは、ジャブを二つ打って小さく横へ動き、再びジャブを出したかと思えば、今度は足を止めて身体を左右へ揺らす。決まった順番を反復するというより、その時々で相手との距離を想像しながら動いているように見えた。

 

「……結構動きますね」

 貴明が言う。

「ミオ?」

 

 田辺が隣で聞いた。

 

「はい。シャドーでもずっと足使ってるので」

「じっとしてるの苦手だからね」

「そういう理由ですか?」

「本人に聞いてみる?」

 

 貴明がリングを見る。

 

「ミオさん」

「なーに?」

「結構ステップ多いですね」

「そう?」

「疲れません?」

「疲れるよ!」

「……そうですか」

「でも、止まってるとつまんないでしょ?」

 

 貴明は少し考えた。

 

「相手がいれば、止まって見るのも必要だと思いますけど」

「そういう時は止まるよ?」

「じゃあ、今は?」

「シャドーだから!」

 

 当然のように返される。田辺が隣で笑っていた。

 

「篠原君、あんまり真面目に考えなくていいよ」

「そうですか?」

「本人、楽しく動いてるだけだから」

「……なるほど」

 

 貴明は改めてミオの足元を見た。すべてが無駄のない動きとは言えなくても、足元が乱れているわけではない。ステップの幅を細かく変えることには慣れていて、長く練習を続けてきたのが分かる。

 

「ミオさん、経験長いんですか?」

「結構長いかな」

 田辺が答えた。

「試合にも出てますしね」

「うん。ただ、毎回大会に向けて練習してるわけじゃないけど」

 

 ミオがこちらを向く。

 

「ねえ、マスター!」

「何?」

「もうスパーしていい?」

「コハクさんに聞いて」

「コハクさーん!」

「もう少しですよ」

「えー」

 

 貴明は思わず笑ってしまった。すみれも、リングの向こうで笑っている。

 

「では、始めます」

 

 コハクが二人の装備と状態を確認した。

 今日は公式試合ではなく、ジャブを中心に打撃の強さを抑えた軽いスパーリングだ。勝敗を決めることより、相手との距離や反応を確かめるのが目的になる。

 

「お願いします」

 

 すみれがグローブを合わせる。

 

「よろしく!」

 

 ミオも笑顔で返した。

 

 開始。

 

 最初に動いたのはすみれだった。

 左ジャブ。

 ミオが軽く右へ避ける。

 すみれは追わず、距離を維持する。

 

 もう一度、左。

 

 今度はミオがグローブで受けた。

 

「お、速い!」

 ミオが言う。

「ありがとうございます」

「でも、こっちも!」

 

 ミオが踏み込んだ。

 左ジャブ。

 すみれがガード。

 続けて、もう一発。

 

 今度はすみれの肩口をかすめる。

 すみれが半歩下がった。

 

「今の、当たった?」

「少しだけ」

「やった!」

「まだ始まったばかりですよ」

「分かってる!」

 

 ミオが笑ったまま構え直す。

 

 貴明はリング脇の端末へ視線を落とした。映像は記録中で、すみれ自身の状態にも問題はない。貴明は端末からリングへ視線を戻した。

 

 すみれがジャブを出した。

 ミオはそれを外して横へ動く。

 

 すみれも向きを変える。

 

 今度はミオからジャブ。

 すみれが受ける。

 さらに、もう一発。

 

 すみれは今度こそ横へ外した。

 

「いいですね」

 

 コハクが声をかける。

 

「二人とも、今の距離を覚えてください」

「はい」

「分かった!」

 

 ミオは少し下がった。

 すみれも追わない。

 距離を取り直して、互いに構える。

 

 貴明は二人の距離を追った。すみれは普段どおり、自分の打てる位置を確保しようとする。一方、ミオはそこに長く留まらず、左右へ動きながらジャブを差し込んできた。無理に攻め続けるわけでもなく、すみれの右手が動けば距離を取る。相手をよく見ている。

 

「……結構上手いですね」

 貴明が呟いた。

「意外?」

 田辺が聞く。

「いや、そういうわけでは」

「ミオ、こう見えて長いからね」

「そうですね」

「競技志向じゃないからって、練習してないわけじゃないし」

「それは分かります」

 

 田辺が少し笑った。

 

「ならよかった」

 

 リングでは、すみれが左を二つ続けていた。

 ミオが一発目を避ける。

 二発目はガード。

 そこからすぐ、ジャブを返す。

 

 すみれが上体を引く。

 

 拳がわずかに届かない。

 

「惜しい!」

 

 ミオが声を上げる。

 

「今のは危なかったです」

 すみれが答えた。

「でしょ?」

「はい」

 

 その直後、すみれが踏み込んだ。

 左。

 ミオが受ける。

 もう一発。

 

 今度はガードの間を抜け、額の近くへ軽く当たった。

 

「あっ」

 

 ミオが一歩下がる。

 

「今のはすみれの!」

「そうですね」

「もう一回!」

「はい!」

 

 二人が再び構えたところで、コハクが手を上げた。

 

「そこまで」

「えー!」

「一度休憩です」

「もう?」

「時間です」

 

 ミオが時計を見る。

 

「本当だ」

「当然です」

 

 コハクが落ち着いた声で返す。

 

「休憩しましょう」

「はーい」

 

 インターバル。すみれとミオは、それぞれリング脇へ戻ってきた。

 

「どうだった?」

 貴明が聞く。

「楽しいです」

「……いや、動きの方」

「分かってますよ」

 

 すみれが小さく笑う。

 

「ミオさん、思ったより距離の取り方が上手いですね」

「思ったよりって何!」

 

 隣でミオが抗議した。

 

「あ、そういう意味じゃなくて」

「ひどい!」

「ごめんなさい」

 

 すみれが慌てて謝る。しかしミオはすぐ笑った。

 

「冗談だよ!」

「もう……」

 

 そのやり取りを見て、田辺が笑っている。貴明は端末の映像を確認した。

 

「すみれ、最初のジャブ」

「はい」

「ミオさんが右へ動いた時、少し追いかけてる」

「ああ、はい」

「その次は止まってるからいいけど、もう少し距離を――」

「マスター」

 

 すみれが遮った。

 

「何?」

「まだ休憩始まったばかりですよ」

「だから今確認してる」

「分かってますけど」

 

 貴明は端末を見る。記録映像は、いつでも確認できる。

 

「……あとで見る?」

「そうしてください」

「はい」

 

 少し離れたところですずらんが笑っていた。

 

「マスター、すぐ始めますから」

「何を?」

「反省会」

「必要だろ」

「必要ですけど、今じゃなくても」

「……分かった」

 

 貴明は端末を置いた。一方、田辺はミオのグローブを確認していた。

 

「どう?」

「楽しい!」

「身体は?」

「大丈夫!」

「足、少し熱くなってない?」

「ちょっとだけ」

「じゃあ次は動きすぎないようにね」

「分かった!」

「本当に?」

「うん!」

 

 田辺は端末を見て、ミオの状態を確認した。

 

「まだ余裕はあるね」

「でしょ?」

「でも、あと一ラウンドにしよう」

「えー」

「今日はこれで終わりじゃないんだから」

「もっとやりたい」

「気持ちは分かるけどね」

 

 田辺は穏やかな声のままだった。

 

「明日も動けるくらいで終わろう」

 

 ミオが少し考えた。

 

「……分かった」

「よし」

 

 貴明はその様子を見ていた。田辺は、あまり細かい戦術指示を出していない。何か気づいていないわけではないだろう。さっきの攻防もきちんと見ていたし、ミオの状態確認も手慣れている。

 

「田辺さん」

「ん?」

「次のラウンド、何か指示します?」

「一応ね」

「どんな?」

「そうだなあ」

 

 田辺は少し考えた。

 

「ミオ、さっきのジャブ、どうだった?」

「すみれ、ちゃんと避ける!」

「そりゃそうだね」

「でも何発か当たった!」

「うん。じゃあ次もそこからやってみようか」

「分かった!」

 

 それだけだった。貴明は少し首を傾げた。

 

「……それだけですか?」

「今のところは」

「もっと修正するところ、ありそうですけど」

「あるよ」

 

 田辺は否定しなかった。

 

「でも、今日はすみれさんと動きたいって言ってたからね」

「そうなんですか」

「そのために来たようなもんだし」

 

 ミオが横から言った。

 

「勝ちたいよ?」

「うん」

「ちゃんと当てたいし!」

「分かってるよ」

 田辺は笑った。

「だから、次も頑張っておいで」

「うん!」

 

 貴明は考え込んだ。ミオには勝ちたい気持ちがある。それでも今日は勝敗を決める練習ではない。田辺も分かっているからこそ、細かな修正より本人の意欲を優先しているのだろう。もちろん状態を確かめ、必要なところではきちんと止める。

 

「……なるほど」

 貴明が呟いた。

「何かあった?」

 田辺が聞く。

「いえ。ちょっと参考になります」

「そう?」

「はい」

 

 田辺は少し意外そうな顔をした。

 

「僕、そんなに大したこと言ってないけど」

「そういうところも含めて」

「……篠原君、真面目だねえ」

 

 貴明は返事に困った。

 

 二ラウンド目。今度はジャブ以外も使ってよいことになった。ただし、打撃の強さは引き続き抑える。

 

「無理に打ち合わないでくださいね」

 

 コハクが二人へ確認する。

 

「はい」

「分かった!」

「特にミオさん」

「え、あたし?」

「楽しくなると、少し前へ出すぎますから」

「そんなことないよ?」

「あります」

「……ちょっとだけ」

 すみれが笑った。

「私も気をつけます」

「お願いします」

 

 開始。

 

 ミオが先に動いた。

 左ジャブ。

 すみれが受ける。

 右へ回り込んで、もう一度左。

 

 今度はすみれが前へ出た。

 ミオが下がる。

 そこへすみれの右ストレート。

 ミオは上体をずらして避けると、短いジャブを返した。

 

 すみれのガードに当たる。

 もう一発。

 

 今度は頬の横を軽く叩いた。

 

「おっ」

 

 貴明が声を漏らした。

 ミオはすぐに距離を取る。

 

「今の、よかった!」

 田辺が言う。

「うん!」

 

 ミオの声が弾む。

 すみれも構えを直した。

 

「今のは上手でした」

「でしょ!」

「でも、次はそう簡単には当たりませんよ」

「やってみないと分かんないよ!」

「そうですね!」

 

 すみれが踏み込んだ。

 ジャブ。

 ミオが避ける。

 その先へ、もう一発。

 

 今度はミオがガード。

 右。

 ミオは下がりながら受けた。

 すみれは追いすぎず、距離を保つ。

 

 二人とも、拳を出す時は真剣だった。ミオも笑ってばかりではなく、すみれのパンチを見て避けるか受けるかを判断し、自分が打てる位置へ動く。すみれの正確なジャブに対し、細かな足運びで機会を探していた。

 

「……なるほど」

 

 貴明は小さく呟いた。

 

 ミオは単純に動き回っているのではない。すみれが打つたびに立ち位置を変え、相手の拳が届きにくい位置へ移りながら、自分の拳が届くところには踏み込んでくる。ただし、すべてがうまくいくわけではなかった。

 

 すみれが二発続けてジャブを出す。

 ミオが一発目を避ける。

 しかし二発目は間に合わず、ガードの上から押された。

 

「あっ」

 

 後ろへ一歩。

 すみれが踏み込む。

 右ストレート。

 ミオは両腕を上げて受けた。

 

「うわっ、危ない!」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫!」

 

 ミオはすぐに構え直す。

 

 今度は自分から左を出した。

 すみれが外す。

 右。

 ガード。

 

 さらに踏み込もうとしたところで、すみれが横へ動いた。

 ミオの拳が空を切る。

 

「あれっ」

「こっちです!」

 

 すみれが軽いジャブを返す。

 ミオの額の手前。

 

 グローブが当たった。

 

「あー!」

「今のは私ですね」

「うん! やられた!」

 

 ミオが笑う。しかし、その目はまだすみれを見ていた。

 

「もう一回!」

 

 今度はミオが動く。

 

 すみれも応じる。

 左。

 右。

 回避。

 

 ガード。

 互いの拳が交差する。

 

 どちらかが一方的に押しているわけではない。すみれは基本に忠実な動きで距離を作り、ミオは細かなステップでその距離を変えていく。

 貴明は端末の録画表示を確かめながら、ミオのジャブと、その直前の回避を思い返した。楽しそうに動いていても、攻防そのものは決して適当ではない。相手を見て、判断を積み重ねているからこそ、すみれとこうして拳を交えられるのだ。

 

「そこまで!」

 

 コハクの声が響いた。

 

 二人がすぐに構えを解く。

 

「お疲れさまでした」

「ありがとうございました!」

 

 すみれが頭を下げる。

 

「楽しかったー!」

 

 ミオが大きく伸びをした。

 

「すみれ、強いね!」

「ミオさんも上手でしたよ」

「本当?」

「はい。何度も当てられましたし」

「えへへ」

 

 ミオが嬉しそうに笑う。

 

「またやろうね!」

「ぜひ!」

 

 コハクが二人へ近づいた。

 

「まず状態確認しましょう」

「はーい」

「はい」

 

 すみれとミオは揃って返事をした。

 

     ◇

 

 練習が終わると、貴明はリング脇でノートPCを開いていた。

 

「マスター」

 

 すずらんが横から覗き込む。

 

「また映像ですか?」

「うん」

「すみれの?」

「そう」

 

 画面には、さっきのスパーリングが映っている。すみれが左を出すとミオが横へ避け、続けてミオがジャブを返す。すみれがガードする場面を、貴明は繰り返し再生していた。

 

「面白いな」

「何がです?」

「ミオさんの距離の変え方」

 

 すずらんが画面を見る。

 

「結構動きますね」

「ああ。でも無駄に動いてるわけじゃない」

「全部ではありませんけど」

「まあな」

 

 貴明は一度映像を止めた。

 

「すみれがジャブ出そうとする時、先に横へ動いてる」

「見えてるんでしょうね」

「そう思う」

「マスター」

「何?」

「また長くなります?」

「まだ何も説明してないだろ」

「これからする顔です」

「……」

 

 貴明は黙った。すずらんが少し笑う。

 

 その時だった。

 

「何見てるの?」

 

 明るい声が近づいてきた。ミオだった。グローブを外し、身軽になった姿で机へ飛び乗る。

 

「さっきの?」

「はい」

「見せて!」

 

 貴明は画面を少し傾けた。

 

「ここです」

 

 映像を再生する。

 ミオがジャブ。

 すみれが受ける。

 ミオが横へ動く。

 

 すみれが向きを変える。

 

「……あ」

 

 ミオが画面を指した。

 

「ここ、もっと早く動けばよかった!」

「どこです?」

「すみれが向き変える前!」

 

 貴明が映像を戻す。

 

「ここ?」

「そう!」

「確かに、もう少し早ければ」

「もう一発打てたかも!」

「そうですね」

 

 ミオが嬉しそうに頷く。

 

 少し離れたところから、田辺が声をかけた。

 

「ミオ、あんまり篠原君の邪魔しちゃ駄目だよ」

「邪魔してないよ!」

「そう?」

「一緒に見てる!」

 

 貴明は画面から顔を上げた。

 

「大丈夫ですよ」

「悪いね」

「いえ。本人の感想も聞きたいので」

「ほら!」

 

 ミオが胸を張る。田辺が苦笑した。

 

「はいはい」

 

 すみれも机へ上がってきた。

 

「私も見たいです」

「お疲れ」

「お疲れさまです」

 

 貴明は少し場所を空けた。

 

「今、ミオさんが気づいたところ」

「どこですか?」

「ここ!」

 

 ミオが画面を指す。

 

「もうちょっと早く回り込めばよかったんだよ!」

 

 映像が再生される。すみれは少し考えた。

 

「でも、私もその時には動いてますよ?」

「だから、その前に!」

「なるほど」

「ね?」

「そうですね。でも、次は私も警戒しますから」

「えー!」

「次も同じようにできるとは限りませんよ」

「じゃあ別のやり方考える!」

「私も考えます」

 

 二人が顔を見合わせて笑う。貴明はそのやり取りを聞きながら、練習への向き合い方は違っても、勝ちたい、うまくなりたい、もう一度試したいという気持ちは同じなのだと思った。違うのは、どこまでを目標にするかという部分なのだろう。

 

「そろそろ帰ろうか」

 

 田辺が時計を確認した。

 

「えー」

 

 ミオが振り返る。

 

「もう?」

「十分動いたでしょ」

「まだできるよ!」

「今日はもうおしまい」

「むー」

 

 ミオが頬を膨らませた。しかし田辺は慣れた様子だった。

 

「明日も仕事あるしね」

「マスターの仕事じゃん」

「僕が来なかったら、ミオも今日は一緒に来られないでしょ」

「それはそうだけど」

「それに、脚も少し熱かっただろ」

「……うん」

「じゃあ今日は帰って休もう」

 

 ミオは少し考えたあと、ようやく頷いた。

 

「分かった」

「よし」

 

 田辺が手を差し出す。ミオはその上へひょいと乗り、うつ伏せになった。両手を前へ伸ばし、田辺の指へ軽くしがみつくような姿勢だ。

 

「……疲れた」

「そうだろうね」

 

 田辺が笑う。

 

「さっきまでまだできるって言ってなかった?」

「言った」

「今は?」

「疲れた」

「はいはい」

 

 田辺は無理に起こそうとせず、そのまま手のひらを少し傾けて持ち直した。リングの上ではあれだけ動き回っていたミオが、今は田辺の手の中ですっかりくつろいでいる。

 

「……結構、甘えん坊なんですね」

 貴明が言う。

「そうだね」

 田辺が答えた。

「普段はあんまり言うこと聞かないけど」

「聞いてるよ」

 

 ミオが顔を上げずに反論した。

 

「さっき、あと一ラウンドって言った時は?」

「聞いた!」

「その前は?」

「……」

「ほら」

「むー」

 

 田辺が笑う。すみれもつられて笑った。

 

「仲がいいですね」

「まあ、長い付き合いだからね」

 

 田辺はミオを見下ろした。

 

「色々やってきたけど、結局これが一番続いてるかな」

「神姫ボクシングですか?」

「そう」

「他の競技も?」

「少しはね。でもミオが一番気に入ったのがボクシングだったんだ」

「そうなんですね」

「うん。身体動かすの好きだし、相手もたくさんいるし」

 

 田辺は少し笑った。

 

「僕も見てて面白いからね」

 貴明は頷いた。

「大会とかは、あまり出ないんですか?」

「たまには出るよ」

「上を目指そうとは?」

「それは、ミオがやりたくなったらかな」

「……なるほど」

 

 田辺は少し首を傾げる。

 

「篠原君は、結構上を目指してるんだよね?」

「はい。一応」

「いいね」

「そうですか?」

「もちろん」

 

 田辺は普通に答えた。

 

「それだけ頑張れるのも、いいことだと思うよ」

 

 少し間を置いて、続ける。

 

「僕らは、そこまでしないってだけで」

 

 貴明はその言葉を聞いていた。「そこまでしない」は真剣ではないという意味ではない。ミオは何度もすみれにジャブを当て、勝ちたいとも口にしていた。ただ、そのために生活のすべてを競技中心にするつもりはないのだ。

 

「ミオさん、次もすみれとやりたいそうですけど」

 貴明が言う。

「うん」

「なら、またお願いします」

「こちらこそ」

 田辺が笑った。

「ミオも喜ぶよ」

「聞こえてるよ!」

 

 ミオが手のひらの上から顔を上げた。

 

「すみれ!」

「はい?」

「またやろうね!」

「はい。ぜひ!」

「次はもっと当てるから!」

「私も負けませんよ」

「えへへ。楽しみ!」

 

 ミオは満足そうに頷くと、また田辺の手へ身体を預けた。

 

「……じゃあ帰る」

「はいはい」

 

 田辺が貴明へ軽く頭を下げる。

 

「じゃあ、お先に」

「お疲れさまでした」

「またね!」

 

 すみれとすずらんも手を振った。田辺はミオを手に乗せたまま、受付の方へ歩いていった。

 

     ◇

 

 帰りの電車では、すみれが貴明の肩に座っていた。

 

「今日は楽しかったです」

「スパー?」

「はい」

「ミオさん、結構強かったな」

「そうですね」

 

 すみれが頷く。

 

「私も、もう少し簡単にジャブを当てられるかと思ってました」

「足使うの上手かったからな」

「はい。ああいう動き方も面白いですね」

 

 貴明は少し考えた。

 

「次もやる?」

「もちろんです」

「なら、また予定合わせるか」

「お願いします」

 

 すずらんが横から言った。

 

「ミオさん、楽しそうでしたね」

「そうですね」

 

 すみれが笑う。

 

「私も楽しかったです」

「それはよかった」

 

 貴明が答える。しばらくして、すみれが聞いた。

 

「マスター」

「何?」

「今日の映像、帰ったら見ます?」

「一応」

「全部?」

「多分」

「……多分?」

「見ると思う」

 

 すみれが小さくため息をつく。

 

「ミオさん達は、ああいう練習したあと、何してるんでしょうね」

「田辺さん、帰って休むって言ってたな」

「そうですけど、映像とか」

「見てるんじゃない?」

「でも、マスターほどは見てなさそうです」

「それはそうかもな」

 

 貴明は少し笑った。

 

「何でそんなに見るんですか?」

「気になるから」

「何が?」

「当たった理由とか、避けられた理由とか」

「それは私も気になりますけど」

「じゃあ同じだろ」

「……少し違う気がします」

 

 すみれが考え込む。その横から、すずらんが言った。

 

「マスターは、気になったら全部見ますから」

「全部って」

「全部です」

「……まあ、見るけど」

「ほら」

 

 すみれが笑う。

 

「でも、別に悪いことじゃないだろ」

「悪いとは言ってませんよ」

 

 すみれは肩の上で座り直した。

 

「ただ、今日は少しだけミオさん達の気持ちも分かった気がします」

「どういう?」

「別に大会のためじゃなくても、こうして練習するのって楽しいんだなって」

「……なるほど」

 

 貴明は頷いた。高校時代からすずらんもすみれも、大会に出て勝つために練習してきた。その目標を変えるつもりはない。

 

 けれど、今日のミオはジャブを当てた時も避けられた時も、すみれに打たれた時でさえ楽しそうだった。そのたびに次の手を考え、練習が終われば田辺の手のひらで休む。そういうボクシングの続け方もある。

 

「まあ、俺も好きだからやってるんだけどな」

 貴明が言った。

「知ってます」

 

 すみれが即答した。

 

「そうですね」

 

 すずらんも頷く。

 

「マスターの場合、好きすぎるだけです」

「……そこまでか?」

「そこまでです」

 

 すみれが笑う。

 

「だって、帰ってからまた映像見るんでしょう?」

「見るけど」

「昨日も見てましたよね?」

「昨日のは別」

「一昨日は?」

「……」

「ほら」

 

 貴明は返事をしなかった。すずらんが隣で小さく笑う。

 

「でも」

 

 すみれが続ける。

 

「そういうマスターだから、私達もここまで続けてこられたんだと思いますよ」

「……そうか?」

「はい」

 

 すずらんも頷いた。

 

「それはそうですね」

 

 貴明は少しだけ視線を逸らした。

 

「……ならいいけど」

 

 電車が駅へ近づき、窓の外に見慣れ始めた街並みが流れる。新しい大学に街、そしてジム。そこには、今まで知らなかった練習相手や、違う目標を持つマスターがいる。それぞれの方法でボクシングを楽しむ神姫たちもいた。

 

「マスター」

 すみれが言った。

「次にミオさんとやる時は、もう少し違う練習してみたいです」

「例えば?」

「普通のスパーリングとか」

「今日も結構普通だったけどな」

「もっと色々打てるやつです」

「なるほど」

「ミオさんも、右打ちたそうでしたし」

「そうだったな」

 

 貴明は頷く。

 

「じゃあ、次はコハクさんに相談してみるか」

「はい!」

 

 すみれの声が弾んだ。すずらんが窓の外を見る。

 

「次、クロエさんも来てるといいですね」

「……お前もそれか」

「はい」

「本当に好きだな」

「練習相手としてです」

「分かってるよ」

 

 貴明が笑う。次にジムへ行く日も、もう決まっている。特別な大会があるわけではない。ランキング戦でもない。ただ、いつもの練習をするだけだ。それでも、行く理由はいくつもある。

 貴明はリュックの中のノートPCへ軽く触れた。今日の映像も、帰ったら整理しよう。それから、すみれと一緒に確認する。ミオがどこで動いたのか。すみれはどう対応したのか。次なら何ができるのか。

 

「……マスター」

 すみれが言った。

「何?」

「今、また映像のこと考えてました?」

「……」

「考えてたんですね」

「少しだけ」

「帰ったら夕飯が先ですよ」

「分かってる」

「本当に?」

「本当」

 

 すずらんが小さく笑った。

 

「確認しておきます」

「二人とも厳しくない?」

「普段の行いです」

 

 すみれが即答する。貴明は何も言い返せなかった。

 

 電車がホームへ滑り込む。

 

 三人はいつも通り家へ帰る。そしてまた、次の練習に出かける。そんな日々が、新しい暮らしの当たり前になりつつあった。

 

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