クロスロードへ通い始めて、三週間ほど経った。
「じゃあ行ってきます」
「行ってきます、マスター」
「ああ。気をつけて」
玄関脇の神姫用出入口から、すみれとすずらんが順番に外へ出る。二人とも背中には、日常移動用の飛行ユニットを装着していた。
今日は貴明の午後の講義が長く、授業が終わってから三人で向かうと遅くなる。そのため、すずらんとすみれだけ先にクロスロードへ行くことになっていた。
「帰りどうする?」
貴明が聞く。
「まだ決めてません」
すみれが答えた。
「脚使う日ですよね?」
「今日はフットワーク多めです」
「じゃあ無理して飛んで帰るなよ」
「分かってます」
「すずらんも」
「はい」
すずらんは短く返してから、少し間を置いた。
「マスターの方こそ、今日はちゃんと昼食食べてください」
「食べる」
「昨日は?」
「食べた」
「パン一つでしたよね」
「昼食には違いないだろ」
「違うと思います」
すみれが即答した。
「行きましょう、すずらん」
「そうですね」
「話終わってないけど」
二人は聞かなかったことにしたらしく、そのまま離陸した。
貴明は玄関先に立ったまま、飛んでいく二人をしばらく見送った。
数週間前なら、神姫だけで数駅先のジムへ向かわせることを多少は気にしていた。飛行そのものは二人とも慣れているし、経路も確認してある。それでも、新しい土地で二人だけということが少し引っかかっていたのだ。
今では貴明も慣れたし、二人にも不安そうな様子はない。クロスロードへ行くこと自体が、三人にとって特別な予定ではなくなりつつあった。
◇
「今日は空いてますね」
クロスロードへ到着したすみれが、ジムの中を見回して言った。
平日の昼過ぎとあって、人間側のリングでは高城がフィットネス会員のミットを持っていたものの、神姫側で使われているリングは二面だけだった。サンドバッグも半分以上空いている。
「夕方になれば増えますよ」
リング脇からコハクが答える。
「二人とも、準備してください」
「はい」
「お願いします」
二人は飛行ユニットを外して充電ラックへ置き、練習着へ着替えた。バッテリー残量を確かめ、関節、アクチュエータ、センサーの状態も順に確認する。いずれも異常はなかった。
「今日はどうします?」
すみれが聞いた。
「予定通りです」
コハクが端末を確認する。
「最初にシャドー。その後、すみれさんはハルさんとフットワーク。すずらんさんは私とミット」
「クロエさんは?」
すずらんが聞く。
「今日は夕方からです」
「そうですか」
「残念そうですね」
「別に」
「またやりたかったんですよね?」
すみれが横から言った。
「機会があれば」
「それをやりたいって言うんですよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
「二人とも」
コハクが手を叩く。
「話してないで始めますよ」
「はい」
二人の返事が重なった。
最初のシャドーは二ラウンド。一ラウンド目は自由に動き、二ラウンド目はそれぞれの課題を意識する。
すみれはいつも通り丁寧だった。ジャブを出して戻し、ワンツーからステップを踏んで、また構え直す。一つ一つの動作はきれいにつながり、形も崩れない。ただ、その安定した動きが、そのまま課題にもなっていた。
「すみれさん」
「はい」
「今、右打った後に何しました?」
「ガードへ戻しました」
「その前」
「……姿勢を戻しました」
「それです」
コハクがリングへ入る。
「戻すこと自体はいいんです。でも、一回『完成した構え』に戻ってから次を考えてます」
「はい」
「試合だと、その時間にも相手は動きます」
コハクがすみれの前に立った。
「右、打ってください」
「はい」
すみれが右ストレート。
「そのまま左へ」
すみれは一度姿勢を戻しかけてから、左へ動いた。
「今です」
「遅い?」
「少し」
すみれは自分の足元を見る。
「戻ってから動こうとしました」
「そうです」
今度はコハクが構えた。
右。
拳を戻し切るより先に、身体が横へ流れる。上体だけを崩すことなく、次の位置へ移っていた。
「打った動作と次の動作を分けない」
「続けるんですね」
「はい」
「でも、姿勢崩れません?」
「崩さないように続けるんです」
すみれは自分の動きを確かめるように足元を見てから、口を開いた。
「難しいですね」
「だから練習します」
「前にも聞きました、それ」
「大事なことなので」
コハクは真面目な顔のまま答えた。
すみれが動きのつなぎ方を確かめている間、すずらんは少し離れた場所でコハクのミットに向かっていた。
「好きに打ってください」
コハクが左右のミットを構える。
すずらんはジャブから左右の拳を続けて出した。コハクがミットの位置を変えると、すずらんは追わずに一度相手を見て、その位置を確かめてからまたジャブを打つ。
「止めます」
コハクが言った。
「はい」
「今、何待ってました?」
「位置です」
「何の?」
「次に打つ位置」
「相手が待ってくれるなら、それでもいいです」
「……はい」
すずらんは一瞬、目を伏せた。クロエとのスパーでは、相手を見てから判断しようとする間に何度も距離を詰められた。
見ることも判断することも、すずらんの強みだ。けれど、相手がその時間を与えてくれなければ、強みを使う前に押されてしまう。
「今日は少し変えます」
コハクがミットを下げた。
「すずらんさん」
「はい」
「私を見るのをやめてください」
「無理です」
即答だった。
「完全にじゃないです」
「どういうことですか?」
「見る前に打つ」
「……適当に?」
「違います」
コハクは左ミットを構えた。
「ここへジャブ」
すずらんが打つ。
ぱん、と軽い音がする。
「もう一回」
もう一発。
「今度は私が動きます。でも、動いてから打たない」
「先に打つ?」
「はい」
「当たらなくても?」
「当てるためだけのジャブじゃありません」
すずらんが少し黙る。
コハクが一歩、横へ動いた。
「今」
すずらんがジャブを打つ。しかしミットはすでに少し外れていて、拳は空を切った。
「外れました」
「はい」
「それでいいんですか?」
「いいです」
コハクが元の位置へ戻る。
「今のジャブを見たら、私は次にどうします?」
「距離を変えるか、ガードするか」
「それを見ればいいんです」
すずらんは少し目を細めた。
「先に相手を動かす」
「そうです」
「自分が見るために?」
「そうです」
今度は、すずらんもすぐに構えた。コハクが動き出しても待たず、先にジャブを放つ。
コハクが右へ。
もう一発。
今度はミットに当たった。ぱん、と軽い音が響く。
「いいです」
すずらんはさらに踏み込んで右を打ち、コハクが受けると左を続けた。
「そこまで」
すずらんが拳を止めた。
「どうです?」
「落ち着かないです」
「でしょうね」
「いつもより適当に打ってる感じがします」
「最初はそれでいいです」
「よくないと思いますけど」
「じゃあ、適当じゃなくしてください」
「……難しいですね」
「だから練習するんです」
「それ、すみれにも言ってました」
「二人とも同じところで引っかかるので」
少し離れたリングから声が飛んできた。
「聞こえてますよ」
すみれだった。
ミット練習がひと区切りつく頃、すみれはハルとフットワーク練習に入った。
「右!」
すみれが右へ動く。
「左!」
今度は左。
「前!」
踏み込む。
「戻らない!」
「え?」
「そのまま右!」
「はい!」
反射的に元の位置へ戻りかけたすみれが、慌てて方向を変える。足運びが少し乱れた。
ハルが笑う。
「今、戻ろうとしたでしょ」
「しました」
「癖なんだね」
「みたいです」
「でも、すみれさんは崩れてもすぐ直せるから大丈夫だよ」
「それ褒めてます?」
「褒めてる!」
ハルは右へ左へ、さらに前後へとよく動いた。一つの場所に留まらず、前の動きからそのまま次へつないでいく。すみれとはかなり違うリズムで、最初は合わせるだけで忙しかった。
それでも何度か繰り返すうちに、すみれの動きも少しずつ滑らかになっていった。
「今の!」
ハルが嬉しそうに声を上げる。
「良かった?」
「うん!」
「じゃあもう一回」
「やろう!」
すみれも笑った。
ミットを終えたすずらんは、サンドバッグの横から二人の練習を見ていた。
「気になります?」
コハクが聞く。
「少し」
「すみれさん?」
「ハルさんの動きです」
「どこが?」
「止まらないところ」
「すずらんさんとは違いますね」
「はい」
「やってみます?」
すずらんが一瞬黙った。
「今日はいいです」
「じゃあ次回」
「決定なんですか?」
「嫌です?」
「別に」
「なら決定です」
すずらんは軽くため息をついた。
練習の後半は、二人ともサンドバッグを使った。
すみれはワンツーからステップを踏み、右を打った勢いを次の移動へつないだ。構えを完成させてから動こうとする癖はまだ残り、多少ぎこちない。それでも、練習を始めた時よりは動きが続くようになっていた。
すずらんはジャブを中心に打つ。一発目は当てるため、二発目は相手を反応させるため、三発目は距離を測るため。同じジャブでも目的を変える意識を持ち、打つ位置やタイミングを確かめていた。
「それです」
コハクが言った。
「全部当てなくていいです」
「分かってます」
「顔が納得してません」
「顔では分からないと思います」
「分かりますよ」
「そうですか」
「長く見てると」
すずらんが少しだけ困った顔をした。
「まだ三週間です」
「十分です」
◇
夕方になるとジムの中は少しずつ賑やかになり、人間側には会社帰りらしい会員や学生が増えた。神姫側でもリングが埋まり始めている。
「こんにちは」
すみれが新しく来た神姫へ普通に挨拶した。
向こうもすぐに返す。
「すみれ、また知り合い増えましたね」
その様子を見ていたすずらんが言った。
「同じジムなんだから話しますよ」
「私は増えてないです」
「すずらんも話してるじゃないですか」
「聞かれたら」
「それで十分ですよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
その時、後ろから声がした。
「すずらん」
振り返ると、クロエが立っていた。
「来てたんだ」
「はい」
「今日やる?」
すずらんの返事は早かった。
「やります」
「さっきまで『今日はいいです』って言ってませんでした?」
すみれが聞く。
「それはハルさんとの練習です」
「クロエさんは別?」
「別です」
クロエが少し笑った。
「じゃあ一ラウンドだけ」
「はい」
「すずらんさん」
コハクが割って入る。
「今日はもう十分動いてます」
「一ラウンド」
「軽くですよ」
「分かってます」
「クロエさんも」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「不安ですね」
コハクがため息をついた。
一ラウンドだけの軽いスパーが始まった。クロエはいつも通り前へ出て、すずらんが下がる。そこまでは以前と同じだった。
ただ、今度はクロエが踏み込むより先に、すずらんの左が出た。
ジャブ。
クロエがガードする。
その反応を見て、すずらんは右へ。
もう一発。
今度は無理に当てにいかず、そのまま距離を取った。
「お」
リング外で高城が声を出した。
クロエがまた来る。
すずらんは全部見ようとしない。
先に左。
クロエが反応する。
そこへ右。
当たらない。
それでも、以前のように一方的に押され続ける形にはなっていない。先に手を出すことで、クロエにもガードや距離の調整を選ばせていた。
「なるほど」
クロエが呟いた。
「何です?」
「前より面倒」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「ならいいです」
以前にも聞いたようなやり取りだったが、今度はすずらんの口元が少しだけ緩んでいた。
「そこまで!」
コハクの声で二人が動きを止めた。
約束どおり、スパーは一ラウンドで終わった。リングを降りたすずらんの負荷表示をコハクが確認すると、肩、脚、腰の各部に問題はなく、数値もすべて許容範囲だった。
「今日は終了です」
コハクが言う。
「もう?」
すみれが聞いた。
「もうです」
「まだ動けます」
「動けるかどうかと、動くべきかは別です」
「……はい」
すずらんも素直に頷いた。
「明日も来るんでしょう?」
「来る予定です」
「なら終わり」
「はい」
二人は言われた通り、クールダウンへ入った。
「帰りどうします?」
着替えを終えて更衣スペースから出たすみれが聞いた。
「電車でいいと思います」
すずらんが答える。
「私も」
「飛行ユニットは満充電ですけど」
「脚重いんでしょう?」
「少し」
「じゃあ電車」
「ですね」
朝なら少し迷ったかもしれない。飛行ユニットのバッテリーは十分あり、二人とも飛んで帰ることはできる。けれど今日は脚をかなり使った。飛べるからといって、わざわざ飛ぶ必要はなかった。
帰り支度をしていると、受付で端末を確認していた高城が顔を上げた。
「二人とも」
「はい?」
「春季オープン、出るんだろ?」
すみれが足を止めた。
「はい」
「申し込み済みです」
すずらんが答える。
「なら、来週から少し内容変える」
「大会向け?」
「そう」
高城は二人を順番に見る。
「ここまでが基礎の修正だ。ここからは、それを試合で使えるようにする」
すみれが小さく頷いた。
すずらんも続く。
「分かりました」
「お願いします」
「あと」
高城が続けた。
「練習量、増やすんじゃないぞ」
「え?」
すみれが少し意外そうな顔をした。
「大会前に焦って増やす奴、多いからな」
「私達は大丈夫です」
すずらんが言う。
「本当か?」
「たぶん」
「たぶん?」
「マスター次第です」
「そこなんですよね」
すみれが納得したように頷いた。
高城が笑う。
「じゃあマスターにも言っとく」
「お願いします」
「二人とも容赦ないな」
◇
帰りの電車では、二人は神姫用乗車スペースに並んで座っていた。
「今日どうでした?」
すみれが聞く。
「何が?」
「クロエさん」
「前よりは」
「やれました?」
「少し」
「良かったですね」
「すみれは?」
「ハルさん速いです」
「見てました」
「でも、前よりついていけました」
「そうですね」
列車が小さく揺れる。
二人とも普段より口数が少なかった。脚を使う練習が多かった分、疲れているのだろう。それでも、帰りを急ぐ様子はなく、電車の揺れに身を任せていた。
「春季オープン」
しばらくして、すみれが言った。
「もうすぐですね」
「はい」
「緊張します?」
「まだ」
「私は少し」
「早くないですか?」
「そうかもしれません」
すみれは少し黙ってから、窓の外へ目を向けた。
「でも、このジムに来てから初めての大会ですから」
「そうですね」
「結果出したいです」
すずらんはしばらく何も言わなかった。
やがて、短く答える。
「私も」
◇
貴明が帰宅した時には、二人はすでに家に戻っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい、マスター」
リュックを肩から下ろしながら、貴明が聞く。
「今日どうだった?」
「動画あります」
すみれが答えた。
「見る?」
「見ます」
返事が早い。
すずらんが貴明を見る。
「その前に」
「何?」
「夕飯」
「……先?」
「先です」
「ログだけコピーして」
「夕飯」
「コピーするだけ」
「マスター」
「はい」
貴明は諦めてリュックを床へ下ろした。
「分かった」
すみれが満足そうに笑う。
クロスロードへ通い始めた頃は、誰がいて、どんな相手と何を練習するのか、ジムに行くたび新しいことばかりだった。三週間が経った今、二人だけでジムへ向かい、顔見知りと練習し、疲れたら電車で帰ってくることも珍しくなくなった。帰宅後には貴明と映像を見返し、翌日になればまた練習へ行く。
そうした一日が、三人にとっての「いつも」になり始めている。そしてその練習を、もうすぐ新しい土地で迎える春季オープンで試すことになる。