春季オープンまで、あと二週間。クロスロードでは、高城が予告していたとおり、普段の基礎練習に加えて試合を意識したメニューが増えていた。その日も神姫用リングの一つでは、軽い実戦形式のスパーリングが行われている。
「右、気をつけて」
リングサイドから飛んだのは、短い一言だけだった。
貴明は少し離れたところで、ノートPCの画面とリングを交互に見ていた。リング上のクロエが相手にしているのは、同じクロスロードに所属する別の神姫だ。クロエとは対照的に、距離を取りながら戦っている。
クロエが前へ出ると、相手はジャブを出しながら下がった。クロエはそれをガードし、さらに一歩詰める。
「追わなくていい」
また声が飛ぶ。クロエのマスター、佐伯蓮だった。
蓮はリング脇の椅子に座り、セコンド用端末を手にしていた。画面に表示されているのは、クロエ自身の温度やアクチュエータ負荷、左右の出力差、ラウンド時間といった情報だ。
貴明には、ほかにも使えそうな情報がいくらでも思いついた。相手が左へ回る頻度、ジャブの回数、右を出す前の足の位置。クロエが追った時の被弾率も、リング上の動きから確かめられる。映像を残せば、後から拾える情報はさらに増えるはずだ。
それなのに、蓮はほとんど喋らなかった。
「……それだけ?」
思わず貴明が言う。
「何が?」
蓮がこちらを見る。
「指示」
「今は」
「もっと言えることあるだろ」
「あるよ」
「じゃあ言えばいいのに」
蓮は少し笑った。
「全部?」
「全部とは言ってないけど」
二人がリングへ視線を戻すと、クロエは相手をロープ際まで追い込んでいた。相手はそこから左へ回る。
貴明にはすぐ分かった。
「また左」
「うん」
「三回目」
「そうだね」
「なら――」
「言わない」
「何で?」
蓮はリングから視線を外さない。
「クロエも分かってるから」
貴明は黙ってリングを見た。相手がもう一度左へ回ろうとする。
だが、クロエは後を追わなかった。一歩だけ位置を変え、先に逃げ道へ入る。
左ボディ。
相手が止まった。
「ほら」
蓮が言う。
「……見えてたのか」
「クロエがね」
「そこまで!」
コハクの声で一ラウンド目が終わり、クロエは自陣のコーナーへ戻ってきた。神姫用のセコンドが外装をタオルで軽く拭き、Coolantを渡す。その間に蓮は端末の表示を確認した。
「右肩?」
「問題ない」
クロエが答える。
「温度ちょっと高い」
「分かってる」
「次、最初の三十秒は追わなくていい」
「理由は?」
「向こう、こっちが止まると自分からジャブ増える」
「その後?」
「右が増える」
「分かった」
「以上」
クロエがCoolantを置いた。
貴明は思わず聞く。
「それだけ?」
クロエがこちらを見る。
「また?」
「いや」
蓮が笑った。
「篠原君、情報いっぱい渡したいタイプなんだよ」
「悪い?」
「悪くない」
クロエが答える。
「でも、多いと邪魔」
「邪魔?」
「考えるの私だから」
貴明は少し黙った。
「でも、相手の左回りが多いとか」
「見えてる」
「右の前に足止まるとか」
「それも」
「じゃあセコンド何するんだ?」
「見えてないところ見る」
クロエは当然のように答えた。貴明が考えていると、蓮が横から続ける。
「あと、本人が見えてても、熱くなって忘れてることを戻す」
「戻す?」
「今のクロエなら『追うな』とか」
「ああ」
「戦ってる本人は、情報が少ないわけじゃないよ」
蓮は手にした端末を軽く振った。
「むしろ多い」
貴明は改めてクロエを見た。距離も攻撃のタイミングも、リングにいる彼女自身が見て判断している。自分の身体の調子も分かっているはずだ。その上で外からさらにいくつも情報を投げ込まれれば、役立つどころか邪魔になることもある。
「……そういうものか」
「そういうもの」
蓮が答えた。
◇
二ラウンド目は、クロエが最初から前へ出なかった。追いかけてくるはずの相手が止まったことで、向こうは少し戸惑ったように見える。それでも距離を保ったまま、自分からジャブを一発、二発、三発と繰り出してきた。
蓮は黙ったまま見ていた。貴明もリングから目を離さない。
相手の右足が、一瞬止まった。
右ストレート。
クロエが外へかわし、左を返す。続けてボディ。
「今」
蓮が言った。
クロエが一気に詰める。
右。
左。
相手がロープへ下がる。
「そこまで!」
コハクが止めた。
短い攻防だったが、どちらが優勢だったかは貴明にもはっきり分かった。クロエだった。
貴明はノートPCの画面へ視線を落とした。今の一連の動きも、相手のジャブ回数や右の発生率、回避方向、クロエが仕掛けた位置と接近に成功した割合など、数字に置き換えられる要素はいくらでもある。映像とログを合わせれば、もっと細かく分析できるだろう。
けれど、あの瞬間に蓮が使った言葉は一つだけだった。
「今」
それだけで、クロエには十分だった。
「マスター、難しい顔してますね」
後ろからすみれの声がした。振り返ると、すずらんとすみれが自分達の練習を終えて戻ってきたところだった。
「見てたの?」
「途中から」
「蓮さんのセコンド?」
「うん」
すみれがリングを見る。
「静かですよね」
「静かすぎない?」
「マスターよりは」
「俺も試合中そんな喋ってないだろ」
すずらんが少し考えた。
「試合中は」
「ほら」
「終わった後は長いです」
「それ必要だから」
「長いです」
すみれも頷く。
「長いですね」
「二人して」
貴明は少し不満を覚えながら、ノートPCを閉じた。
「でも」
すずらんが続ける。
「試合中に全部言われたら、たぶん困ります」
「全部は言わない」
「マスター、気になると説明したくなるので」
「……否定できないな」
「でしょう?」
すみれが笑う。貴明にも思い当たるところがあった。映像で何かに気づけば理由まで説明したくなるし、ログに傾向が出れば数字も見せたくなる。そうすることが役に立つと思っていたのだ。少なくとも、今までは。
◇
少しして、今度はすずらんがリングに上がった。相手はハル。春季オープンを想定し、軽い実戦形式で三ラウンド行う予定だ。
「今日はマスターがセコンドやってみましょう」
コハクが言う。
「いつもやってるけど」
「今日は意識して」
「何を?」
「言いすぎないこと」
貴明は少し嫌そうな顔をした。
「そんなに言ってる?」
「今のうちに確認します」
リング上から、すずらんもこちらを見る。
「マスター」
「何?」
「私も気になります」
「お前まで」
「お願いします」
逃げ道はなさそうだった。
「分かった」
貴明はセコンド端末を受け取った。
一ラウンド目が始まると、ハルは右へ左へと動き続けた。すずらんは追わず、先にジャブを置く。
一発目は外れる。
二発目。ハルが外へ回る。
そこへ右。
届かない。
貴明はリングを見ながら、ハルがすずらんの左を見た後に右へ回ることが多いと気づいた。それを伝えようとして、口を開く。
「すずらん、ジャブの後――」
途中で止めた。すずらんがもう動いていた。
左。
ハルが右へ。すずらんは先にそちらへ回る。
「……見えてるか」
貴明は小さく呟いた。
次にハルが距離を詰めてくると、すずらんは下がった。
さらに下がる。
ロープが近い。
「左」
貴明が言う。
すずらんが左へ抜けた。
それだけでハルの右が外れ、すずらんはジャブを返して距離を作った。
貴明は少し妙な感覚を覚えていた。相手の動きで気になることは、ほかにもある。だが何も言わなくても、すずらんはすでに動いている。リングの中で実際に相手を見ているのは、すずらんなのだから。
一ラウンド目が終わり、すずらんがコーナーへ戻ってきた。
「どう?」
「ハルさん、右へ回るの多いです」
「分かってる」
「だよな」
「あと、入る前に一回止まります」
「それも見えてる」
「……言うことないな」
すずらんが少しだけ笑った。
「何かあるでしょう」
「あるけど」
貴明は端末を確認する。
負荷や温度、左肩の状態はいずれも問題ない。続いて直前の映像に目を移し、最後の三十秒の動きを振り返る。
「じゃあ、一個だけ」
「はい」
「ハル、近づく前に一回だけ足止まる」
「それは見えてます」
「その後、左はほぼ出してない」
すずらんが少し考えた。
「右?」
「多分」
「分かりました」
「以上」
「短いですね」
「文句ある?」
「いえ」
すずらんは少し楽しそうだった。貴明にはまだ二つ三つ言いたいことがあったが、それ以上は飲み込んだ。残りは次のラウンドで確認すればいい。
二ラウンド目。
ハルが動く。
すずらんは待つ。
ジャブ。
ハルが回って距離を作る。そして、一瞬。
足が止まった。
すずらんが半歩だけ外へ。
ハルの右。
空振り。
すずらんの左が、頬へ軽く入る。
「そこ」
貴明が短く言った。
すずらんが追う。
右。
ボディ。
ハルが離れる。すずらんは深追いしない。
「いいですね」
コハクがリング外から言った。
貴明は何も言わなかった。
言わなくても、すずらんは自分で判断して動いている。それが、さっきより少し自然に感じられた。
◇
三ラウンドが終わった。
「お疲れさまでした!」
ハルが笑いながらグローブを差し出す。
「お疲れさまでした」
すずらんもグローブを合わせた。二人がリングを降りると、コハクが貴明へ声をかける。
「どうでした?」
「何が?」
「喋らないセコンド」
「……慣れない」
「でしょうね」
「でも」
貴明はすずらんを見る。
「思ったより、言わなくていい」
「当たり前です」
すずらんが答えた。
「私、自分で戦ってるので」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってる」
そこへ、すみれが横から入る。
「マスター、Fバトルの感覚も少し混ざってません?」
「Fバトル?」
「ライドだと、マスターが大まかな判断するじゃないですか」
「ああ」
「ボクシングだと違いますから」
貴明は少し考えた。
Fバトルのライド中は、貴明とすずらんが共同で戦う。進む方向、使う武装、仕掛けるタイミング、相手の追い方といった大まかな判断を貴明が担い、姿勢の維持や細かな回避などの身体制御はすずらんが行う。
けれど神姫ボクシングは違う。リングの中にいるのはすずらん本人で、貴明はロープの外にいる。直接身体を動かすことはできない。外から見えたことを伝えるのが、自分の役割だった。
「……そうだな」
貴明が頷く。
すずらんも小さく頷いた。
◇
練習後、蓮は自販機の前に立っていた。貴明も飲み物を買いに行き、その隣へ立つ。
「分かった?」
蓮が聞く。
「少し」
「何が?」
「全部言わなくていい理由」
「でしょ」
「でも、言わない方が難しいな」
「それはある」
蓮が笑った。
「見えてると、言いたくなるんだよ」
「そう」
「俺も最初そうだった」
「蓮さんも?」
「そりゃね」
「どうやって直した?」
「クロエに怒られた」
「何て?」
少し離れた場所から、クロエが答えた。
「うるさいって」
「……分かりやすいな」
「一番効いた」
蓮がまた笑う。
「だから今は、試合中は必要なことだけ」
「インターバルは?」
「増やす。でも三つまで」
「三つ?」
「俺はね」
「理由は?」
「それ以上言うと、次のラウンドで全部やろうとして崩れるから」
「ああ」
貴明は少し考える。
「三つって決めてるのか」
「絶対じゃないけど。絞らないと、こっちも欲張るから」
「なるほど」
「篠原君は分析強そうだから、むしろ絞る方が大変かもね」
「かも」
「全部伝えるんじゃなくて、一番効く一個を選ぶ」
貴明は「一番効く一個」という言葉を頭の中で繰り返した。自分がログを詳しく見て、相手の傾向を調べることは変えなくていい。問題は、その結果を全部渡そうとしていたことだ。集めた情報の中から、今必要なものを選ぶ。
「セコンドも結構難しいな」
「今さら?」
「今まで我流だから」
「じゃあ伸びしろあるじゃん」
「そういう言い方する?」
「する」
◇
帰宅して夕食と風呂を済ませると、三人はいつものようにデスクトップPCの前へ集まった。画面には、今日のすずらんとハルのスパー映像が映っている。
貴明が再生を止める。
「ここ」
「はい」
「ハル、足止まってる」
「試合中も聞きました」
「分かってる」
「じゃあ次」
「いや、ここから右が出るまでが――」
「マスター」
すみれが止めた。
「何?」
「長くなってます」
「今は試合後だろ」
「それならいいんですか?」
「いいだろ」
すずらんが少し笑った。
「蓮さんの教え、もう忘れました?」
「試合中の話だろ」
「そうでしたね」
「終わった後はちゃんと説明する」
「やっぱり長いんですね」
「必要だから」
貴明は映像を少し戻して、もう一度再生した。ハルが前へ出る。
一瞬、足が止まる。
そこから右。
すずらんが外す。
「ほら、ここ」
「はいはい」
すみれとすずらんが顔を見合わせた。
「好きですね、本当に」
すずらんが言う。
「何が?」
「こういうの」
「好きじゃなきゃ何年もやってない」
「それはそうですね」
すずらんはモニターへ向き直った。
貴明も続きを再生する。
試合を見て、動きを分析し、ログを残す。それ自体は今までと変わらない。ただ、集めた情報をすべてリングの中へ持ち込む必要はない。相手の動きを整理するだけでなく、どの情報をいつ伝えるか選ぶことも、セコンドの仕事なのだ。
最後に判断し、拳を出すのは神姫自身。その当たり前の役割分担を、貴明は今になって少しだけ理解し直していた。
春季オープンまで、あと二週間。大会へ向けて準備するのは、すずらんとすみれだけではなかった。