泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

10 / 11
幕間 はじめての夜

同志が、できた。

 

ユメミは、さっきから足が床についていない気がしていた。

 

研究所の窓の外では、夜の色がほどけはじめている。坂の下の町の屋根が、一枚、また一枚と、白っぽく浮かび上がってくる。

 

その窓の前で、ラベンダー色のスカートがくるりと回った。

 

「ユメミさん!」

 

ひまりが振り返った。夜明け前の空の色をしたバイザーの奥で、目がきらきらしている。

 

「小春(こはる)ちゃんのところ、行こう!」

 

「……今から、ですか?」

 

「うん、今から! 小春ちゃんを、泣かせたままではいられない!」

 

返事を待たずに、ひまりはもう扉のほうへ歩きだしていた。

 

ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。

 

三晩眠っていない頭が、ふわふわしている。でも、眠くはなかった。ぜーんぜん。

 

「待ってください、同志! 届けるものを、忘れてます!」

 

ユメミは作業台の引き出しを開けた。

 

小さなゴーグルが、そこにあった。子供の顔にちょうど合う大きさの、公園で小春ちゃんに差し出したゴーグル。レンズが、シャボン玉みたいに淡く光っている。

 

「それと、充電器も!」

 

ユメミが両手で差し出すと、ひまりは右手で受け取った。

 

「ありがと!」

 

それから、ふと思い出したように、自分の目元に指を当てた。

 

バイザーのつるをつまんで、そっと外す。耳の後ろのベルトをゆるめる手つきが、なんだかとても丁寧だった。

 

ひまりはバイザーを、お茶のテーブルの上に置いた。ティーカップ二つの隣に。

 

「これは、ここに置いてくね」

 

「えっ。……かけていかないんですか?」

 

「だって、大事なものだもん。壊したくないの」

 

ひまりはバイザーのレンズを、指先でちょんとつついた。

 

「帰ってきたら、またかけるね!」

 

ユメミの胸の奥が、またぽかぽかした。

 

大事なもの。ユメミの作ったものを、そんなふうに言ってくれた人が、今までにいただろうか。

 

外に出ると、空気はひんやりしていた。

 

ユメミは白衣の胸元をぽんと叩いた。裏地に、葉脈のような光が走る。

 

ひまりは、もうフェンスの上にいた。

 

「行くよっ!」

 

ひと跳びで、坂の下の屋根へ。ユメミも慌てて後を追う。

 

速い。ひまりは一度も振り返らずに、屋根から屋根へと跳んでいく。ラベンダーのスカートと、オレンジのリボンが、白みはじめた空の下で揺れていた。

 

電柱の上で着地に失敗しかけたユメミの手首を、何かがぐいとつかんだ。

 

ひまりの右手だった。

 

「ユメミさん、こっち!」

 

引っぱられて、隣の屋根に降りる。

 

公園では、この手に手首をつかまれて、待って、と止められた。

 

今は、こっちだよ、と引っぱってくれる。

 

ユメミは、つかまれた手首を見下ろして、にへらと笑った。

 

遠くで、バイクの音がした。新聞配達だろうか。小さなエンジンの音が、角を曲がっては、また遠ざかっていく。町は、まだほとんど眠っていた。

 

小春ちゃんの家は、住宅街の角を曲がった先にあった。

 

二階建ての、小さな家。一階の屋根の上に、二階の窓が一つ。

 

カーテンの隙間から、小さな明かりが漏れていた。

 

ひまりは、向かいの家の屋根の上で足を止めた。ユメミも、その隣にしゃがみこむ。

 

耳を澄ませるまでもなかった。

 

細い声がした。

 

しゃくり上げる声。息を吸って、また震える声。枕か何かに押しつけているのか、くぐもっていて、でも止まらない。

 

一晩じゅう泣いていたのだろうか。もう、声がかすれていた。

 

ユメミは、ひまりの横顔を見た。

 

ひまりは、窓を見上げた。

 

それから、跳んだ。

 

音もなく一階の屋根に降りて、窓の前にしゃがむ。右手の指の背で、ガラスを軽く叩いた。

 

こん、こん。

 

一秒も、迷わなかった。

 

泣き声が止まった。

 

カーテンが、少しだけ動く。隙間から、小さな顔がのぞいた。目も鼻も、真っ赤に腫れていた。

 

「……リリィ?」

 

窓が、そっと開いた。小春ちゃんが、自分で鍵を開けたのだった。

 

「こんばんは、小春ちゃん。……もう、おはようかな」

 

ひまりは窓枠に手をかけて、するりと部屋に入った。

 

ユメミは屋根の端まで這っていって、身を乗り出した。開いた窓から、部屋の中がよく見えた。

 

小さなベッドと、勉強机。机の上で、星の形のスタンドがぼんやり光っている。床の隅には、もう使われない犬用のクッションが、きちんと畳んで置いてあった。

 

小春ちゃんはベッドの上にぺたんと座って、両手で何かを握っていた。

 

赤いリードだった。

 

ひまりはベッドの横にしゃがんだ。目線が、ちょうど同じ高さになる。

 

公園でも、そうだった、とユメミは思い出した。雨の中、湿った砂の上で、ひまりはこうしてしゃがんでいた。

 

「小春ちゃん」

 

小春ちゃんの顔が、くしゃっと崩れた。

 

「リリィ……コタロウ、ね……」

 

しゃくり上げる。言葉がちぎれる。

 

「ゆめで、会えると、思ったのに……ねむれ、なくて……」

 

ひまりは、うん、と一度だけ頷いた。

 

それから、にっこり笑った。

 

「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」

 

ひまりは、ゴーグルを取り出した。

 

レンズの淡い光が、小春ちゃんの濡れた頬を照らす。小春ちゃんは目を丸くして、それを見つめていた。

 

ひまりの手が、小春ちゃんの目元にそっとゴーグルを添えた。

 

眼鏡をかけてあげるみたいに、丁寧に。耳の後ろでベルトの長さを確かめて、少しだけ締める。

 

ユメミは、息をのんだ。

 

ユメミがひまりちゃんにバイザーをかけたときと、同じ手つきだった。

 

「ちょっとだけ、ひんやりするよ。……ね、横になろっか」

 

ひまりは小春ちゃんの肩を支えて、ゆっくりと枕に寝かせた。タオルケットを胸までかけてやる。それから、ベッドの横に膝をついて、小春ちゃんの手を右手で包んだ。

 

リードを握ったままの、小さな手を。

 

「寝るときはね、これからも、これをかけるんだよ」

 

小春ちゃんは、こくりと頷いた。

 

ユメミは、屋根の上で膝を抱えた。

 

部屋の中は、静かだった。

 

しゃくり上げる音が、一つ。

 

少しあいて、もう一つ。

 

公園では、ここから先が長かった。ひまりちゃんがどれだけ待っても、泣き声は止まらなかった。雨が降り出しても、ブランコの鎖が鳴っても、お母さんの腕の中に移っても。

 

ユメミはあのとき、雨の中でずっと見ていた。

 

今は。

 

しゃくり上げる音の間が、少しずつ、少しずつ長くなっていく。

 

息の音が、ゆっくりになる。

 

遠くで、またバイクの音がした。

 

それが聞こえなくなるころには、部屋の中から聞こえるのは、小さな寝息だけになっていた。

 

ユメミは、自分の胸を両手で押さえた。

 

一人目のお客さま。

 

公園でユメミが届けられなかったものを、ひまりちゃんが届けてくれた。

 

部屋の中で、ひまりはまだ、小春ちゃんの手を握っていた。寝息がすっかり落ち着くまで、そうしていた。

 

それから、そっと指をほどいた。

 

小春ちゃんの手から、赤いリードが少しずれる。ひまりはそれを取り上げずに、枕元にきちんと置き直した。預かった充電器を、枕元のコンセントにつなぐ。

 

最後に、ひまりは机の上に手を伸ばした。

 

星の形のスタンドの明かりが、ぱちん、と消えた。

 

ひまりが窓から出てきて、静かに窓を閉める。

 

カーテンの向こうは、もう暗かった。そのかわりに、空のほうが明るくなっていた。屋根の向こうから、朝の光が少しずつ町に流れこんでくる。

 

ひまりは、ユメミのいる屋根へ、ひょいと跳んできた。

 

着地して、くるっと一回転する。

 

「小春ちゃん、もう泣いてないよ!」

 

朝の光みたいな顔だった。

 

「すっごいです、同志! すっごく、すっごく、すごいです!」

 

ユメミは両手を振り回して、それから、ひまりに飛びついた。ひまりは「わっ」と笑って、屋根の上で踏みとどまった。

 

研究所に戻るころには、すっかり朝になっていた。

 

ひまりは変身を解いて、制服姿になった。

 

それから真っ先にお茶のテーブルに駆け寄って、バイザーをかけ直した。

 

「ただいま!」

 

バイザーに言ったのだと分かって、ユメミはまた、胸を押さえた。

 

「あ、そうだ」

 

ひまりはスカートのポケットからスマホを取り出して、首をかしげた。画面は、真っ暗だった。

 

「あれっ。電池、切れちゃってる」

 

「充電しましょう! 充電器なら、いーっぱいあります!」

 

ユメミは配線の地層を掘り返して、ちょうどいい一本を引っぱり出した。

 

スマホをつなぐと、しばらくして、画面がぱっと明るくなった。

 

通知が、次々に流れてきた。

 

『お母さん』『お父さん』『お母さん』

 

それから、同じ名前が、何度も何度も。

 

『澪(みお)ちゃん』『澪ちゃん』『澪ちゃん』……

 

ユメミは、ひまりの肩越しに画面を覗いた。一番上の通知の続きが、少しだけ読めた。

 

『ひまり、今どこ?』

 

ユメミは、あっと声を上げた。

 

「もしかして、アイリスさんですか?」

 

「うん! 澪ちゃんだよ!」

 

ひまりは、あっさりと答えた。

 

昨日は、教えてくれなかった。……言わない、と、ドームの中で唇を結んでいたのに。

 

今は、聞いたらすぐに教えてくれる。

 

同志、だからだ。ユメミの胸が、くすぐったくなった。

 

「お返事、しなくていいんですか? たくさん来てますよ」

 

ひまりは、画面を見下ろした。

 

通知を開かないまま、スマホをテーブルの上に、そっと伏せた。

 

「澪ちゃんには、ちゃんと会って話したいから」

 

それから、ぱっと顔を上げる。

 

「それより、お母さんたち! ボク、ただいまって言わなきゃ!」

 

「ご家族、ですか」

 

「うん! 今日の夜、ユメミさんも一緒に来て! うちのごはん、一緒に食べよ!」

 

ユメミは、言葉に詰まった。

 

おうちの、ごはん。

 

誰かの家の食卓に、お客さまとして呼ばれたことなんて――

 

「……い、行きます! ユメミ、行きます!」

 

「やったー!」

 

ひまりはくるっと回って、そのままソファにぼすんと倒れこんだ。

 

「夜まで、ちょっとだけ寝よっと……」

 

言い終わらないうちに、寝息が聞こえはじめた。

 

バイザーをかけたまま。目の下に、うっすらと影ができている。でも、口元は笑ったままだった。

 

ユメミは作業台から『観測記録』を取ってきて、ソファの横の床に座りこんだ。

 

新しいページを開く。

 

『同志の観測 一日目』

 

『一人目のお客さま 小春ちゃん。届けたのは、ひまりちゃん』

 

『アイリスさんのお名前 澪ちゃん』

 

少し考えて、もう一行。

 

『同志は、とっても寝つきがいい』

 

テーブルの上で、伏せたスマホがかすかに震えた。画面の縁から、光が漏れている。

 

ひまりは、起きなかった。

 

ユメミは膝を抱えて、その寝顔を眺めた。

 

誰かが目を覚ますのを、こうして待つのは、はじめてだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。