同志が、できた。
ユメミは、さっきから足が床についていない気がしていた。
研究所の窓の外では、夜の色がほどけはじめている。坂の下の町の屋根が、一枚、また一枚と、白っぽく浮かび上がってくる。
その窓の前で、ラベンダー色のスカートがくるりと回った。
「ユメミさん!」
ひまりが振り返った。夜明け前の空の色をしたバイザーの奥で、目がきらきらしている。
「
「……今から、ですか?」
「うん、今から! 小春ちゃんを、泣かせたままではいられない!」
返事を待たずに、ひまりはもう扉のほうへ歩きだしていた。
ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。
三晩眠っていない頭が、ふわふわしている。でも、眠くはなかった。ぜーんぜん。
「待ってください、同志! 届けるものを、忘れてます!」
ユメミは作業台の引き出しを開けた。
小さなゴーグルが、そこにあった。子供の顔にちょうど合う大きさの、公園で小春ちゃんに差し出したゴーグル。レンズが、シャボン玉みたいに淡く光っている。
「それと、充電器も!」
ユメミが両手で差し出すと、ひまりは右手で受け取った。
「ありがと!」
それから、ふと思い出したように、自分の目元に指を当てた。
バイザーのつるをつまんで、そっと外す。耳の後ろのベルトをゆるめる手つきが、なんだかとても丁寧だった。
ひまりはバイザーを、お茶のテーブルの上に置いた。ティーカップ二つの隣に。
「これは、ここに置いてくね」
「えっ。……かけていかないんですか?」
「だって、大事なものだもん。壊したくないの」
ひまりはバイザーのレンズを、指先でちょんとつついた。
「帰ってきたら、またかけるね!」
ユメミの胸の奥が、またぽかぽかした。
大事なもの。ユメミの作ったものを、そんなふうに言ってくれた人が、今までにいただろうか。
外に出ると、空気はひんやりしていた。
ユメミは白衣の胸元をぽんと叩いた。裏地に、葉脈のような光が走る。
ひまりは、もうフェンスの上にいた。
「行くよっ!」
ひと跳びで、坂の下の屋根へ。ユメミも慌てて後を追う。
速い。ひまりは一度も振り返らずに、屋根から屋根へと跳んでいく。ラベンダーのスカートと、オレンジのリボンが、白みはじめた空の下で揺れていた。
電柱の上で着地に失敗しかけたユメミの手首を、何かがぐいとつかんだ。
ひまりの右手だった。
「ユメミさん、こっち!」
引っぱられて、隣の屋根に降りる。
公園では、この手に手首をつかまれて、待って、と止められた。
今は、こっちだよ、と引っぱってくれる。
ユメミは、つかまれた手首を見下ろして、にへらと笑った。
遠くで、バイクの音がした。新聞配達だろうか。小さなエンジンの音が、角を曲がっては、また遠ざかっていく。町は、まだほとんど眠っていた。
小春ちゃんの家は、住宅街の角を曲がった先にあった。
二階建ての、小さな家。一階の屋根の上に、二階の窓が一つ。
カーテンの隙間から、小さな明かりが漏れていた。
ひまりは、向かいの家の屋根の上で足を止めた。ユメミも、その隣にしゃがみこむ。
耳を澄ませるまでもなかった。
細い声がした。
しゃくり上げる声。息を吸って、また震える声。枕か何かに押しつけているのか、くぐもっていて、でも止まらない。
一晩じゅう泣いていたのだろうか。もう、声がかすれていた。
ユメミは、ひまりの横顔を見た。
ひまりは、窓を見上げた。
それから、跳んだ。
音もなく一階の屋根に降りて、窓の前にしゃがむ。右手の指の背で、ガラスを軽く叩いた。
こん、こん。
一秒も、迷わなかった。
泣き声が止まった。
カーテンが、少しだけ動く。隙間から、小さな顔がのぞいた。目も鼻も、真っ赤に腫れていた。
「……リリィ?」
窓が、そっと開いた。小春ちゃんが、自分で鍵を開けたのだった。
「こんばんは、小春ちゃん。……もう、おはようかな」
ひまりは窓枠に手をかけて、するりと部屋に入った。
ユメミは屋根の端まで這っていって、身を乗り出した。開いた窓から、部屋の中がよく見えた。
小さなベッドと、勉強机。机の上で、星の形のスタンドがぼんやり光っている。床の隅には、もう使われない犬用のクッションが、きちんと畳んで置いてあった。
小春ちゃんはベッドの上にぺたんと座って、両手で何かを握っていた。
赤いリードだった。
ひまりはベッドの横にしゃがんだ。目線が、ちょうど同じ高さになる。
公園でも、そうだった、とユメミは思い出した。雨の中、湿った砂の上で、ひまりはこうしてしゃがんでいた。
「小春ちゃん」
小春ちゃんの顔が、くしゃっと崩れた。
「リリィ……コタロウ、ね……」
しゃくり上げる。言葉がちぎれる。
「ゆめで、会えると、思ったのに……ねむれ、なくて……」
ひまりは、うん、と一度だけ頷いた。
それから、にっこり笑った。
「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」
ひまりは、ゴーグルを取り出した。
レンズの淡い光が、小春ちゃんの濡れた頬を照らす。小春ちゃんは目を丸くして、それを見つめていた。
ひまりの手が、小春ちゃんの目元にそっとゴーグルを添えた。
眼鏡をかけてあげるみたいに、丁寧に。耳の後ろでベルトの長さを確かめて、少しだけ締める。
ユメミは、息をのんだ。
ユメミがひまりちゃんにバイザーをかけたときと、同じ手つきだった。
「ちょっとだけ、ひんやりするよ。……ね、横になろっか」
ひまりは小春ちゃんの肩を支えて、ゆっくりと枕に寝かせた。タオルケットを胸までかけてやる。それから、ベッドの横に膝をついて、小春ちゃんの手を右手で包んだ。
リードを握ったままの、小さな手を。
「寝るときはね、これからも、これをかけるんだよ」
小春ちゃんは、こくりと頷いた。
ユメミは、屋根の上で膝を抱えた。
部屋の中は、静かだった。
しゃくり上げる音が、一つ。
少しあいて、もう一つ。
公園では、ここから先が長かった。ひまりちゃんがどれだけ待っても、泣き声は止まらなかった。雨が降り出しても、ブランコの鎖が鳴っても、お母さんの腕の中に移っても。
ユメミはあのとき、雨の中でずっと見ていた。
今は。
しゃくり上げる音の間が、少しずつ、少しずつ長くなっていく。
息の音が、ゆっくりになる。
遠くで、またバイクの音がした。
それが聞こえなくなるころには、部屋の中から聞こえるのは、小さな寝息だけになっていた。
ユメミは、自分の胸を両手で押さえた。
一人目のお客さま。
公園でユメミが届けられなかったものを、ひまりちゃんが届けてくれた。
部屋の中で、ひまりはまだ、小春ちゃんの手を握っていた。寝息がすっかり落ち着くまで、そうしていた。
それから、そっと指をほどいた。
小春ちゃんの手から、赤いリードが少しずれる。ひまりはそれを取り上げずに、枕元にきちんと置き直した。預かった充電器を、枕元のコンセントにつなぐ。
最後に、ひまりは机の上に手を伸ばした。
星の形のスタンドの明かりが、ぱちん、と消えた。
ひまりが窓から出てきて、静かに窓を閉める。
カーテンの向こうは、もう暗かった。そのかわりに、空のほうが明るくなっていた。屋根の向こうから、朝の光が少しずつ町に流れこんでくる。
ひまりは、ユメミのいる屋根へ、ひょいと跳んできた。
着地して、くるっと一回転する。
「小春ちゃん、もう泣いてないよ!」
朝の光みたいな顔だった。
「すっごいです、同志! すっごく、すっごく、すごいです!」
ユメミは両手を振り回して、それから、ひまりに飛びついた。ひまりは「わっ」と笑って、屋根の上で踏みとどまった。
研究所に戻るころには、すっかり朝になっていた。
ひまりは変身を解いて、制服姿になった。
それから真っ先にお茶のテーブルに駆け寄って、バイザーをかけ直した。
「ただいま!」
バイザーに言ったのだと分かって、ユメミはまた、胸を押さえた。
「あ、そうだ」
ひまりはスカートのポケットからスマホを取り出して、首をかしげた。画面は、真っ暗だった。
「あれっ。電池、切れちゃってる」
「充電しましょう! 充電器なら、いーっぱいあります!」
ユメミは配線の地層を掘り返して、ちょうどいい一本を引っぱり出した。
スマホをつなぐと、しばらくして、画面がぱっと明るくなった。
通知が、次々に流れてきた。
『お母さん』『お父さん』『お母さん』
それから、同じ名前が、何度も何度も。
『
ユメミは、ひまりの肩越しに画面を覗いた。一番上の通知の続きが、少しだけ読めた。
『ひまり、今どこ?』
ユメミは、あっと声を上げた。
「もしかして、アイリスさんですか?」
「うん! 澪ちゃんだよ!」
ひまりは、あっさりと答えた。
昨日は、教えてくれなかった。……言わない、と、ドームの中で唇を結んでいたのに。
今は、聞いたらすぐに教えてくれる。
同志、だからだ。ユメミの胸が、くすぐったくなった。
「お返事、しなくていいんですか? たくさん来てますよ」
ひまりは、画面を見下ろした。
通知を開かないまま、スマホをテーブルの上に、そっと伏せた。
「澪ちゃんには、ちゃんと会って話したいから」
それから、ぱっと顔を上げる。
「それより、お母さんたち! ボク、ただいまって言わなきゃ!」
「ご家族、ですか」
「うん! 今日の夜、ユメミさんも一緒に来て! うちのごはん、一緒に食べよ!」
ユメミは、言葉に詰まった。
おうちの、ごはん。
誰かの家の食卓に、お客さまとして呼ばれたことなんて――
「……い、行きます! ユメミ、行きます!」
「やったー!」
ひまりはくるっと回って、そのままソファにぼすんと倒れこんだ。
「夜まで、ちょっとだけ寝よっと……」
言い終わらないうちに、寝息が聞こえはじめた。
バイザーをかけたまま。目の下に、うっすらと影ができている。でも、口元は笑ったままだった。
ユメミは作業台から『観測記録』を取ってきて、ソファの横の床に座りこんだ。
新しいページを開く。
『同志の観測 一日目』
『一人目のお客さま 小春ちゃん。届けたのは、ひまりちゃん』
『アイリスさんのお名前 澪ちゃん』
少し考えて、もう一行。
『同志は、とっても寝つきがいい』
テーブルの上で、伏せたスマホがかすかに震えた。画面の縁から、光が漏れている。
ひまりは、起きなかった。
ユメミは膝を抱えて、その寝顔を眺めた。
誰かが目を覚ますのを、こうして待つのは、はじめてだった。