図書室の鍵を職員室に返したとき、時計は五時を少し過ぎていた。
通知が一つ、来ていた。
『ドローン見つけた! 町外れのほうに行ったから、追いかけるね!』
送られてきたのは、三十分前だった。
澪は、廊下の真ん中で足を止めた。
一人で無理しないでね、と言ったのは、今日の放課後だ。
半分どころでは、なかった。
『ひまり、今どこ?』
送信して、澪は走り出した。
公園には、誰もいなかった。
ブランコが、風に少しだけ揺れている。公園で待ってるね、と言っていたのに、オレンジ色の髪はどこにも見えなかった。
『今、公園。どこにいるの?』
『すぐ行くから、場所だけ教えて』
既読は、つかなかった。
澪は町外れのほうへ走った。川沿いの土手を、工場跡のフェンスの外を、雑木林の手前の細い道を。ドローンの羽音がしないか、耳を澄ませながら。
聞こえたのは、自分の息の音だけだった。
当番じゃなければ。
走りながら、何度もそう思った。今日でなければ。図書室の鍵を、誰かに代わってもらっていれば。隣にいれば、あの日の公園みたいに、手首にリボンを巻いて引き戻してあげられたのに。
空が藍色になって、街灯がともっても、ひまりは見つからなかった。
八時を過ぎたころ、家の電話が鳴った。
出たのは、お母さんだった。
「はい、蒼井です。……あら、陽向さん」
明るかったお母さんの声が、途中で低くなった。
「ひまりちゃん? いいえ、今日はうちには……澪、ちょっと」
受話器の向こうから、ひまりのお母さんの声がかすかに漏れていた。言葉までは聞き取れない。ただ、いつもの、のんびりした声ではなかった。
「今日、ひまりちゃんと一緒だった?」
澪は、口を開いて、閉じた。
ドローンを追いかけていきました。たぶん、ユメミのところへ。シャインリリィになって。
どれも、言えなかった。
「……放課後は、一緒じゃなかった。私、図書委員の当番で」
本当のことだけを言って、澪は唇を噛んだ。
電話が切れたあと、お母さんは受話器に手を置いたまま、しばらく黙っていた。それから、澪の頭にそっと手をのせた。
「ひまりちゃん、きっと大丈夫よ。あの子、元気だけが取り柄なんだから」
その夜、澪はベッドの上で、何度もメッセージを送った。
『ひまり、返事して』
『怒ってないから』
『一言だけでいいから』
画面の上に、澪の吹き出しだけが、縦に長く伸びていった。
次の日、ひまりの席は空いたままだった。
一時間目が終わると、担任の先生に廊下へ呼ばれた。
「蒼井。陽向のこと、何か聞いてないか」
おうちの人から連絡があってな、と先生は声を落とした。昨日から帰っていないらしい、と。
「……分かりません。昨日は、当番で一緒じゃなかったので」
ゆうべと同じ言葉を、澪は繰り返した。先生は「そうか」とうなずいて、何か分かったらすぐに言うように、とだけ言った。
分かっていることなら、ある。ひまりが何を追いかけていったのか。それを、この町で知っているのは澪だけだ。
それなのに、誰にも言えない。
放課後、澪は商店街から歩き直した。
町外れのほうへ向かうなら、ひまりはどの道を通るだろう。肉屋の角を曲がって、住宅街の細い道へ。そこから先は、たぶん屋根の上だ。
だったら、どこかで変身している。
変身するなら、路地の陰。
澪は、塀と塀のあいだを一本ずつ覗いていった。三本目の路地の奥、室外機の陰に、見覚えのある鞄が押しこまれていた。
ひまわりのキーホルダーが、揺れていた。
澪はしゃがんで、鞄を胸に抱えた。少し湿っていて、土の匂いがした。
ひまりは、ここでリリィになったのだ。
ファスナーの隙間から、教科書の角がのぞいている。スマホは入っていなかった。ひまりはいつも、スマホをスカートのポケットに入れている。だから、メッセージは届いているはずだった。
届いているのに、開かれない。
澪はその日も、暗くなるまで町外れを走った。
夜、鞄を持ってもう一度出かけようとすると、玄関でお母さんに腕をつかまれた。
「澪。今日はもう、だめ」
「でも、これ、ひまりの鞄なの。帰り道で見つけたの。おばさんに届けないと」
「明日にしなさい」
お母さんの手は、思ったより強かった。
「澪まで帰ってこなかったら、お母さん、どうしたらいいの」
澪は、何も言えなくなった。
鞄は、机の上に置いた。キーホルダーのひまわりが、スタンドの明かりの下で、こちらを向いていた。
三日目の朝、先生がまた廊下で澪を呼び止めた。
「陽向な、おうちの人と連絡がついたそうだ。心配いらない、って」
膝から力が抜けそうになって、澪は壁に手をついた。
よかった。帰ってきたんだ。
休み時間に、スマホを開いた。
澪の吹き出しは、ゆうべのまま並んでいた。既読は、一つもついていなかった。
ひまりの席は、その日も空いていた。
放課後、澪はひまりの鞄を抱えて、陽向家の前に立った。
門柱に、『陽向』の表札。玄関の横には、
チャイムを押すと、少しして、ドアが開いた。
「あら、澪ちゃん」
ひまりのお母さんだった。エプロンをつけて、穏やかに微笑んでいる。
おとといの夜、受話器の向こうで聞いた声とは、まるで違った。
「こんばんは。あの、ひまりが帰ってきたって聞いて。それと、これ」
澪は鞄を差し出した。
「ひまりの鞄です。路地に、落ちてて」
お母さんは、微笑んだままだった。
「ひまりはね、大事な用事があるのよ」
鞄のほうを、見なかった。
ひまわりのキーホルダーが、澪の手の中で小さく揺れた。
「用事って……ひまり、今どこにいるんですか?」
「ひまりはね、大事な用事があるのよ」
同じ言葉だった。同じ速さで、同じ高さで、同じ微笑みのまま。
澪は、差し出した鞄を、少しずつ胸もとへ引き戻した。
お母さんの肩越しに、廊下の先が見えた。食卓に、おじさんが座っている。新聞を広げて、ときどき思い出したように、ページの端を指で撫でている。めくらない。同じ面を開いたままだった。
その向かいに、小さな背中があった。陽太くんだ。赤いヒーローのソフビを両手で握って、椅子の上で、じっと座っている。
いつもなら、澪の声がしたとたん、廊下を走ってくる子だった。
台所の奥で、火にかけたままの鍋が、くつくつと小さく鳴っていた。
「……あの、また、来ます」
「ええ。またね、澪ちゃん」
ドアが、静かに閉まった。
帰り道、澪は鞄を抱えたまま歩いた。
連絡がついて、安心したんだ、と思った。おとといからずっと捜して、きっと眠れなくて、疲れていただけだ。
ひまりは帰ってきた。先生も、心配いらないと言った。
だから、大丈夫。
いつもの角まで来て、澪は足を止めた。
あの雨の日、ひまりと一つの傘に入って、ここまで歩いた。
風邪ひかないでね、としか言えなかった。
あのとき、本当は何を言いたかったのか。澪には、今もうまく言葉にできない。ただ、何か言えばよかった、ということだけが、角の水たまりみたいに、そこに残っていた。
ひまりは傘を断って、雨の中を一人で帰っていった。
あの背中を、走って追いかければよかった。
その夜、澪は机の上の鞄を見ながら、一つだけメッセージを送った。
『鞄、預かってるよ』
既読は、つかなかった。
スタンドの明かりを消して、布団にもぐった。眠ったのか眠っていないのか分からないまま、窓の外が白くなっていった。
目覚ましを止めて、それでも起き上がれずにいたときだった。
玄関のチャイムが、鳴った。
家を出る時間には、まだ三十分あった。