泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第5話 心配かけてごめんなさい!(前編)

図書室の鍵を職員室に返したとき、時計は五時を少し過ぎていた。

 

蒼井澪(あおいみお)は、廊下を歩きながらスマホを取り出した。

 

通知が一つ、来ていた。

 

『ドローン見つけた! 町外れのほうに行ったから、追いかけるね!』

 

送られてきたのは、三十分前だった。

 

澪は、廊下の真ん中で足を止めた。

 

一人で無理しないでね、と言ったのは、今日の放課後だ。陽向(ひなた)ひまりは「大丈夫大丈夫!」と笑って、商店街のほうへ歩いていった。ひまりの大丈夫は、半分くらいで聞いておく。そう返したのも、澪だった。

 

半分どころでは、なかった。

 

『ひまり、今どこ?』

 

送信して、澪は走り出した。

 

公園には、誰もいなかった。

 

ブランコが、風に少しだけ揺れている。公園で待ってるね、と言っていたのに、オレンジ色の髪はどこにも見えなかった。

 

『今、公園。どこにいるの?』

 

『すぐ行くから、場所だけ教えて』

 

既読は、つかなかった。

 

澪は町外れのほうへ走った。川沿いの土手を、工場跡のフェンスの外を、雑木林の手前の細い道を。ドローンの羽音がしないか、耳を澄ませながら。

 

聞こえたのは、自分の息の音だけだった。

 

当番じゃなければ。

 

走りながら、何度もそう思った。今日でなければ。図書室の鍵を、誰かに代わってもらっていれば。隣にいれば、あの日の公園みたいに、手首にリボンを巻いて引き戻してあげられたのに。

 

空が藍色になって、街灯がともっても、ひまりは見つからなかった。

 

八時を過ぎたころ、家の電話が鳴った。

 

出たのは、お母さんだった。

 

「はい、蒼井です。……あら、陽向さん」

 

明るかったお母さんの声が、途中で低くなった。

 

「ひまりちゃん? いいえ、今日はうちには……澪、ちょっと」

 

受話器の向こうから、ひまりのお母さんの声がかすかに漏れていた。言葉までは聞き取れない。ただ、いつもの、のんびりした声ではなかった。

 

「今日、ひまりちゃんと一緒だった?」

 

澪は、口を開いて、閉じた。

 

ドローンを追いかけていきました。たぶん、ユメミのところへ。シャインリリィになって。

 

どれも、言えなかった。

 

「……放課後は、一緒じゃなかった。私、図書委員の当番で」

 

本当のことだけを言って、澪は唇を噛んだ。

 

電話が切れたあと、お母さんは受話器に手を置いたまま、しばらく黙っていた。それから、澪の頭にそっと手をのせた。

 

「ひまりちゃん、きっと大丈夫よ。あの子、元気だけが取り柄なんだから」

 

その夜、澪はベッドの上で、何度もメッセージを送った。

 

『ひまり、返事して』

 

『怒ってないから』

 

『一言だけでいいから』

 

画面の上に、澪の吹き出しだけが、縦に長く伸びていった。

 

次の日、ひまりの席は空いたままだった。

 

一時間目が終わると、担任の先生に廊下へ呼ばれた。

 

「蒼井。陽向のこと、何か聞いてないか」

 

おうちの人から連絡があってな、と先生は声を落とした。昨日から帰っていないらしい、と。

 

「……分かりません。昨日は、当番で一緒じゃなかったので」

 

ゆうべと同じ言葉を、澪は繰り返した。先生は「そうか」とうなずいて、何か分かったらすぐに言うように、とだけ言った。

 

分かっていることなら、ある。ひまりが何を追いかけていったのか。それを、この町で知っているのは澪だけだ。

 

それなのに、誰にも言えない。

 

放課後、澪は商店街から歩き直した。

 

町外れのほうへ向かうなら、ひまりはどの道を通るだろう。肉屋の角を曲がって、住宅街の細い道へ。そこから先は、たぶん屋根の上だ。

 

だったら、どこかで変身している。

 

変身するなら、路地の陰。

 

澪は、塀と塀のあいだを一本ずつ覗いていった。三本目の路地の奥、室外機の陰に、見覚えのある鞄が押しこまれていた。

 

ひまわりのキーホルダーが、揺れていた。

 

澪はしゃがんで、鞄を胸に抱えた。少し湿っていて、土の匂いがした。

 

ひまりは、ここでリリィになったのだ。

 

ファスナーの隙間から、教科書の角がのぞいている。スマホは入っていなかった。ひまりはいつも、スマホをスカートのポケットに入れている。だから、メッセージは届いているはずだった。

 

届いているのに、開かれない。

 

澪はその日も、暗くなるまで町外れを走った。

 

夜、鞄を持ってもう一度出かけようとすると、玄関でお母さんに腕をつかまれた。

 

「澪。今日はもう、だめ」

 

「でも、これ、ひまりの鞄なの。帰り道で見つけたの。おばさんに届けないと」

 

「明日にしなさい」

 

お母さんの手は、思ったより強かった。

 

「澪まで帰ってこなかったら、お母さん、どうしたらいいの」

 

澪は、何も言えなくなった。

 

鞄は、机の上に置いた。キーホルダーのひまわりが、スタンドの明かりの下で、こちらを向いていた。

 

三日目の朝、先生がまた廊下で澪を呼び止めた。

 

「陽向な、おうちの人と連絡がついたそうだ。心配いらない、って」

 

膝から力が抜けそうになって、澪は壁に手をついた。

 

よかった。帰ってきたんだ。

 

休み時間に、スマホを開いた。

 

澪の吹き出しは、ゆうべのまま並んでいた。既読は、一つもついていなかった。

 

ひまりの席は、その日も空いていた。

 

放課後、澪はひまりの鞄を抱えて、陽向家の前に立った。

 

門柱に、『陽向』の表札。玄関の横には、陽太(ようた)くんの小さな自転車。いつもと同じ家だった。台所の窓から、夕ごはんの匂いが流れてくる。

 

チャイムを押すと、少しして、ドアが開いた。

 

「あら、澪ちゃん」

 

ひまりのお母さんだった。エプロンをつけて、穏やかに微笑んでいる。

 

おとといの夜、受話器の向こうで聞いた声とは、まるで違った。

 

「こんばんは。あの、ひまりが帰ってきたって聞いて。それと、これ」

 

澪は鞄を差し出した。

 

「ひまりの鞄です。路地に、落ちてて」

 

お母さんは、微笑んだままだった。

 

「ひまりはね、大事な用事があるのよ」

 

鞄のほうを、見なかった。

 

ひまわりのキーホルダーが、澪の手の中で小さく揺れた。

 

「用事って……ひまり、今どこにいるんですか?」

 

「ひまりはね、大事な用事があるのよ」

 

同じ言葉だった。同じ速さで、同じ高さで、同じ微笑みのまま。

 

澪は、差し出した鞄を、少しずつ胸もとへ引き戻した。

 

お母さんの肩越しに、廊下の先が見えた。食卓に、おじさんが座っている。新聞を広げて、ときどき思い出したように、ページの端を指で撫でている。めくらない。同じ面を開いたままだった。

 

その向かいに、小さな背中があった。陽太くんだ。赤いヒーローのソフビを両手で握って、椅子の上で、じっと座っている。

 

いつもなら、澪の声がしたとたん、廊下を走ってくる子だった。

 

台所の奥で、火にかけたままの鍋が、くつくつと小さく鳴っていた。

 

「……あの、また、来ます」

 

「ええ。またね、澪ちゃん」

 

ドアが、静かに閉まった。

 

帰り道、澪は鞄を抱えたまま歩いた。

 

連絡がついて、安心したんだ、と思った。おとといからずっと捜して、きっと眠れなくて、疲れていただけだ。

 

ひまりは帰ってきた。先生も、心配いらないと言った。

 

だから、大丈夫。

 

いつもの角まで来て、澪は足を止めた。

 

あの雨の日、ひまりと一つの傘に入って、ここまで歩いた。小春(こはる)ちゃんの家の門が閉まるまで、泣き声が聞こえていた日。何か言わなきゃ、と思った。

 

風邪ひかないでね、としか言えなかった。

 

あのとき、本当は何を言いたかったのか。澪には、今もうまく言葉にできない。ただ、何か言えばよかった、ということだけが、角の水たまりみたいに、そこに残っていた。

 

ひまりは傘を断って、雨の中を一人で帰っていった。

 

あの背中を、走って追いかければよかった。

 

その夜、澪は机の上の鞄を見ながら、一つだけメッセージを送った。

 

『鞄、預かってるよ』

 

既読は、つかなかった。

 

スタンドの明かりを消して、布団にもぐった。眠ったのか眠っていないのか分からないまま、窓の外が白くなっていった。

 

目覚ましを止めて、それでも起き上がれずにいたときだった。

 

玄関のチャイムが、鳴った。

 

家を出る時間には、まだ三十分あった。

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