泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第5話 心配かけてごめんなさい!(後編)

階段の下で、お母さんの声がした。

 

「はーい。……まあ!」

 

澪は布団を跳ねのけた。パジャマのまま、階段を駆け下りる。

 

開いたドアの向こうに、オレンジ色の髪が見えた。

 

「おはよっ!」

 

ひまりが立っていた。制服を着て、右耳の上の寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で笑っていた。

 

澪は、まず手を見た。

 

ドアの縁にかかった右手。擦り傷も、絆創膏もない。いつもの、少し日に焼けた手だった。

 

それから、目の下を見た。

 

影があった。三日前より、ずっと濃い。

 

「ひまりちゃん、心配したのよ」

 

お母さんが、ひまりの肩を両手で包んだ。

 

「ごめんなさい、おばさん!」

 

ひまりはぺこりと頭を下げて、それから澪のほうを向いた。

 

「澪ちゃん、心配かけてごめん! ちょっと大事な用事があって!」

 

澪は、何か言おうとした。

 

言葉より先に、目の奥が熱くなった。

 

「……もう」

 

声が震えそうになって、澪は笑った。

 

「もう、ひまりってば。朝から、声が大きいよ」

 

笑っていないと、泣いてしまいそうだった。三日分の『今どこ?』が、喉の奥でつかえていた。

 

「澪ちゃん、パジャマだ!」

 

「誰のせいだと思ってるの。……ちょっと待ってて」

 

澪は階段を駆け上がって、机の上の鞄を抱えて戻った。

 

「これ」

 

ひまりの目が、まんまるになった。

 

「あっ、ボクの鞄! 澪ちゃんが見つけてくれたんだ! ありがと!」

 

鞄を受け取る右手が、澪の指に触れた。体温の高い手だった。

 

「……怪我、してない?」

 

それだけは、聞けた。

 

「してないよ!」

 

ひまりは両腕を広げて、くるっと回ってみせた。スカートの裾が、玄関の狭いたたきでふわりと広がる。

 

どこに行ってたの。誰といたの。ドローンは、ユメミは。

 

聞きたいことは、山ほどあった。でも、お母さんがすぐ後ろにいた。それに、口を開いたら、今度こそ泣いてしまいそうだった。

 

次にひまりが言うことは、分かっていた。

 

「えへへ。澪ちゃん、ボクお腹すいちゃった!」

 

ほらね、と澪は思った。ひまりのことなら、だいたい分かる。

 

「あらあら。上がって、朝ごはん食べていきなさい」

 

お母さんが笑って、台所へ戻っていく。ひまりは「やったー!」と靴を脱ぎかけて、それから、ふと澪を見た。

 

「あのね、澪ちゃん」

 

「……なに」

 

「澪ちゃんには、今度ちゃんと話すね!」

 

まっすぐな目だった。

 

澪は、少しだけ黙った。それから、うなずいた。

 

「……うん」

 

今度、とひまりは言った。だったら、それまで待っていよう。ひまりが話してくれるまで。

 

待つのは、苦手じゃない。

 

教室に入ると、担任の先生がひまりを見て、ほっとした顔をした。

 

「おう、陽向。家の用事は、もういいのか」

 

「はい! 心配かけてごめんなさい!」

 

クラスの何人かが「風邪?」と聞き、ひまりは「ううん、用事!」と笑った。それで、話はおしまいだった。

 

一時間目の数学で、ひまりは三回あてられて、三回とも答えられなかった。休み時間には、誰かの机に腰かけて、大きな声で笑っていた。

 

いつものひまりだった。

 

目の下の影だけが、いつもより濃い。用事で、あまり寝ていないんだろう。澪は、そう思うことにした。

 

昼休み、二人で中庭のベンチへ向かう途中だった。

 

渡り廊下で、図書委員の子に呼び止められた。返却期限のプリントを受け取って顔を上げると、ひまりはもう隣にいなかった。

 

中庭の花壇の前に、隣のクラスの女の子がしゃがんでいた。今にも泣きそうな顔で、土の上を見回している。

 

その前に、ひまりもしゃがんでいた。

 

「どうしたの?」

 

声が、渡り廊下まで届いた。

 

「鍵、失くしちゃって……今日、おうちに誰もいないの」

 

澪は、プリントを畳んで歩き出した。

 

「大丈夫! ボクが見つけてくる!」

 

澪が中庭に下りたときには、ひまりはもう花壇の向こうへ駆け出していた。

 

ひまりはいつもこうだ。困っている人を見つけると、お昼ごはんも、隣にいる澪のことも、全部後回しにして飛んでいく。

 

澪は女の子の隣に立って、少しだけ笑った。

 

五分もしないうちに、ひまりが戻ってきた。片手を高く掲げている。指のあいだで、小さな鍵が光っていた。

 

「あったよ! 植え込みの、いちばん奥!」

 

女の子は鍵を両手で受け取って、何度も頭を下げた。ひまりは「えへへ」と頭をかいて、女の子の手を右手でぎゅっと握った。

 

「もう、落とさないようにね!」

 

膝に、土がついていた。澪はため息をついて、ハンカチを出した。

 

いつものひまりだった。

 

放課後、二人は並んで校門を出た。

 

ひまりは、走らなかった。

 

水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待って、また隣に並ぶ。三日前までと、何も変わらなかった。

 

澪は、歩きながら何度もひまりの横顔を見た。ちゃんといる。隣にいる。それを確かめるたびに、胸の奥のこわばりが、少しずつほどけていった。

 

いつもの角まで来ると、ひまりは足を止めた。

 

「ボク、今日も用事あるんだ。また明日ね!」

 

「……ひまり」

 

呼び止めてから、何を言うつもりだったのか、澪は自分でも分からなかった。

 

「明日も、来るよね」

 

「うん!」

 

迷いのない返事だった。

 

ひまりは手を振って、くるっと一回転して、走り出した。陽向家のほうではなかった。町外れへ向かう道だった。

 

オレンジ色の髪が、夕方の光の中で跳ねて、すぐに見えなくなった。

 

用事、なんだろう。澪は、追いかけなかった。

 

今度ちゃんと話す、とひまりは言った。だから、待つ。

 

それでいいんだと、澪は思った。

 

研究所の屋上は、夕方になると町がよく見える。

 

ユメミがお菓子の箱を抱えて上がっていくと、ひまりは手すりにもたれて、ノートとにらめっこしていた。夜明け前の空の色をしたバイザーが、夕日を映している。

 

「ひまりちゃん、休憩ですよー! 今日のおやつは、なんと期間限定のいちごチョコです!」

 

「やったー! ユメミさん大好き!」

 

ひまりはノートを放り出して駆け寄ってきた。箱を開ける前から、もうバイザーの奥の目がきらきらしている。ユメミはそれだけで胸がいっぱいになった。研究所で誰かと一緒におやつを食べるなんて、何年ぶりだろう。

 

「それ、宿題ですか?」

 

「うん、数学。ぜーんぜんわかんないの」

 

「見せてください! ユメミ、こう見えて天才なので!」

 

ユメミはノートを覗き込み、三秒で問題を解き、五分かけて解説した。途中から、なぜか偏微分方程式の話になっていた。

 

「……ユメミさん、今の、日本語じゃなかった!」

 

「あれっ」

 

「えへへ、大丈夫! 明日、澪ちゃんに見せてもらうから!」

 

ひまりは笑ってチョコを頬張った。

 

「今日ね、澪ちゃんに会えたの! 朝ごはんも、一緒に食べたんだよ」

 

澪さん、とユメミは口の中で繰り返す。ひまりの話には、毎日その名前が出てくる。

 

「今日は何人でした?」

 

「えっとね、十二人! 商店街のおばあちゃんが、最後に『ありがとう』って言ってくれたの」

 

「すっごいです! 昨日より三人も多い!」

 

「でしょ!」

 

ひまりはくるりと一回転した。

 

「あ、でもね、ユメミさん。ゴーグルのベルト、ちょっと固いって。おばあちゃんの髪がひっかかっちゃって」

 

「なんと! それは改良しなきゃですね」

 

二人で笑った。笑い声が屋上に響いて、町のほうへ流れていく。その町では、昨日より少しだけ泣き声が減っている。

 

「ねえ、ユメミさん」

 

「はい?」

 

「ボク、ユメミさんに会えてよかった」

 

ユメミは、チョコを持ったまま固まった。それから、子供みたいに顔をくしゃくしゃにして笑った。

 

「……ユメミもです。ずっと、ずーっと、ひまりちゃんみたいな人を待ってたんです」

 

ひまりは両手で頬をぱちんと叩き、立ち上がった。

 

「よーし、休憩終わり! 今日はあと五人いけそう!」

 

「えっ、もう暗くなりますよ? 無理しちゃだめです!」

 

「大丈夫大丈夫! 泣いてる人、待ってるもん!」

 

ひまりはバイザーを外して、ユメミの手のひらにそっとのせた。

 

「これ、テーブルにお願い! いってきます!」

 

駆け出していく背中を見送りながら、ユメミは手の中のバイザーを見下ろした。それから、手すりの向こうの電波塔に目をやった。

 

もっと急がなきゃ、と思った。あの子が、夜更かししなくて済むように。

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