階段の下で、お母さんの声がした。
「はーい。……まあ!」
澪は布団を跳ねのけた。パジャマのまま、階段を駆け下りる。
開いたドアの向こうに、オレンジ色の髪が見えた。
「おはよっ!」
ひまりが立っていた。制服を着て、右耳の上の寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で笑っていた。
澪は、まず手を見た。
ドアの縁にかかった右手。擦り傷も、絆創膏もない。いつもの、少し日に焼けた手だった。
それから、目の下を見た。
影があった。三日前より、ずっと濃い。
「ひまりちゃん、心配したのよ」
お母さんが、ひまりの肩を両手で包んだ。
「ごめんなさい、おばさん!」
ひまりはぺこりと頭を下げて、それから澪のほうを向いた。
「澪ちゃん、心配かけてごめん! ちょっと大事な用事があって!」
澪は、何か言おうとした。
言葉より先に、目の奥が熱くなった。
「……もう」
声が震えそうになって、澪は笑った。
「もう、ひまりってば。朝から、声が大きいよ」
笑っていないと、泣いてしまいそうだった。三日分の『今どこ?』が、喉の奥でつかえていた。
「澪ちゃん、パジャマだ!」
「誰のせいだと思ってるの。……ちょっと待ってて」
澪は階段を駆け上がって、机の上の鞄を抱えて戻った。
「これ」
ひまりの目が、まんまるになった。
「あっ、ボクの鞄! 澪ちゃんが見つけてくれたんだ! ありがと!」
鞄を受け取る右手が、澪の指に触れた。体温の高い手だった。
「……怪我、してない?」
それだけは、聞けた。
「してないよ!」
ひまりは両腕を広げて、くるっと回ってみせた。スカートの裾が、玄関の狭いたたきでふわりと広がる。
どこに行ってたの。誰といたの。ドローンは、ユメミは。
聞きたいことは、山ほどあった。でも、お母さんがすぐ後ろにいた。それに、口を開いたら、今度こそ泣いてしまいそうだった。
次にひまりが言うことは、分かっていた。
「えへへ。澪ちゃん、ボクお腹すいちゃった!」
ほらね、と澪は思った。ひまりのことなら、だいたい分かる。
「あらあら。上がって、朝ごはん食べていきなさい」
お母さんが笑って、台所へ戻っていく。ひまりは「やったー!」と靴を脱ぎかけて、それから、ふと澪を見た。
「あのね、澪ちゃん」
「……なに」
「澪ちゃんには、今度ちゃんと話すね!」
まっすぐな目だった。
澪は、少しだけ黙った。それから、うなずいた。
「……うん」
今度、とひまりは言った。だったら、それまで待っていよう。ひまりが話してくれるまで。
待つのは、苦手じゃない。
教室に入ると、担任の先生がひまりを見て、ほっとした顔をした。
「おう、陽向。家の用事は、もういいのか」
「はい! 心配かけてごめんなさい!」
クラスの何人かが「風邪?」と聞き、ひまりは「ううん、用事!」と笑った。それで、話はおしまいだった。
一時間目の数学で、ひまりは三回あてられて、三回とも答えられなかった。休み時間には、誰かの机に腰かけて、大きな声で笑っていた。
いつものひまりだった。
目の下の影だけが、いつもより濃い。用事で、あまり寝ていないんだろう。澪は、そう思うことにした。
昼休み、二人で中庭のベンチへ向かう途中だった。
渡り廊下で、図書委員の子に呼び止められた。返却期限のプリントを受け取って顔を上げると、ひまりはもう隣にいなかった。
中庭の花壇の前に、隣のクラスの女の子がしゃがんでいた。今にも泣きそうな顔で、土の上を見回している。
その前に、ひまりもしゃがんでいた。
「どうしたの?」
声が、渡り廊下まで届いた。
「鍵、失くしちゃって……今日、おうちに誰もいないの」
澪は、プリントを畳んで歩き出した。
「大丈夫! ボクが見つけてくる!」
澪が中庭に下りたときには、ひまりはもう花壇の向こうへ駆け出していた。
ひまりはいつもこうだ。困っている人を見つけると、お昼ごはんも、隣にいる澪のことも、全部後回しにして飛んでいく。
澪は女の子の隣に立って、少しだけ笑った。
五分もしないうちに、ひまりが戻ってきた。片手を高く掲げている。指のあいだで、小さな鍵が光っていた。
「あったよ! 植え込みの、いちばん奥!」
女の子は鍵を両手で受け取って、何度も頭を下げた。ひまりは「えへへ」と頭をかいて、女の子の手を右手でぎゅっと握った。
「もう、落とさないようにね!」
膝に、土がついていた。澪はため息をついて、ハンカチを出した。
いつものひまりだった。
放課後、二人は並んで校門を出た。
ひまりは、走らなかった。
水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待って、また隣に並ぶ。三日前までと、何も変わらなかった。
澪は、歩きながら何度もひまりの横顔を見た。ちゃんといる。隣にいる。それを確かめるたびに、胸の奥のこわばりが、少しずつほどけていった。
いつもの角まで来ると、ひまりは足を止めた。
「ボク、今日も用事あるんだ。また明日ね!」
「……ひまり」
呼び止めてから、何を言うつもりだったのか、澪は自分でも分からなかった。
「明日も、来るよね」
「うん!」
迷いのない返事だった。
ひまりは手を振って、くるっと一回転して、走り出した。陽向家のほうではなかった。町外れへ向かう道だった。
オレンジ色の髪が、夕方の光の中で跳ねて、すぐに見えなくなった。
用事、なんだろう。澪は、追いかけなかった。
今度ちゃんと話す、とひまりは言った。だから、待つ。
それでいいんだと、澪は思った。
研究所の屋上は、夕方になると町がよく見える。
ユメミがお菓子の箱を抱えて上がっていくと、ひまりは手すりにもたれて、ノートとにらめっこしていた。夜明け前の空の色をしたバイザーが、夕日を映している。
「ひまりちゃん、休憩ですよー! 今日のおやつは、なんと期間限定のいちごチョコです!」
「やったー! ユメミさん大好き!」
ひまりはノートを放り出して駆け寄ってきた。箱を開ける前から、もうバイザーの奥の目がきらきらしている。ユメミはそれだけで胸がいっぱいになった。研究所で誰かと一緒におやつを食べるなんて、何年ぶりだろう。
「それ、宿題ですか?」
「うん、数学。ぜーんぜんわかんないの」
「見せてください! ユメミ、こう見えて天才なので!」
ユメミはノートを覗き込み、三秒で問題を解き、五分かけて解説した。途中から、なぜか偏微分方程式の話になっていた。
「……ユメミさん、今の、日本語じゃなかった!」
「あれっ」
「えへへ、大丈夫! 明日、澪ちゃんに見せてもらうから!」
ひまりは笑ってチョコを頬張った。
「今日ね、澪ちゃんに会えたの! 朝ごはんも、一緒に食べたんだよ」
澪さん、とユメミは口の中で繰り返す。ひまりの話には、毎日その名前が出てくる。
「今日は何人でした?」
「えっとね、十二人! 商店街のおばあちゃんが、最後に『ありがとう』って言ってくれたの」
「すっごいです! 昨日より三人も多い!」
「でしょ!」
ひまりはくるりと一回転した。
「あ、でもね、ユメミさん。ゴーグルのベルト、ちょっと固いって。おばあちゃんの髪がひっかかっちゃって」
「なんと! それは改良しなきゃですね」
二人で笑った。笑い声が屋上に響いて、町のほうへ流れていく。その町では、昨日より少しだけ泣き声が減っている。
「ねえ、ユメミさん」
「はい?」
「ボク、ユメミさんに会えてよかった」
ユメミは、チョコを持ったまま固まった。それから、子供みたいに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「……ユメミもです。ずっと、ずーっと、ひまりちゃんみたいな人を待ってたんです」
ひまりは両手で頬をぱちんと叩き、立ち上がった。
「よーし、休憩終わり! 今日はあと五人いけそう!」
「えっ、もう暗くなりますよ? 無理しちゃだめです!」
「大丈夫大丈夫! 泣いてる人、待ってるもん!」
ひまりはバイザーを外して、ユメミの手のひらにそっとのせた。
「これ、テーブルにお願い! いってきます!」
駆け出していく背中を見送りながら、ユメミは手の中のバイザーを見下ろした。それから、手すりの向こうの電波塔に目をやった。
もっと急がなきゃ、と思った。あの子が、夜更かししなくて済むように。