あの朝の次の日、ひまりは休み時間に「約束どおり!」と言って、数学のノートを借りていった。授業中はあくびを噛み殺し、休み時間には誰かの机に腰かけて笑っている。目の下の影だけが、日ごとに少しずつ濃くなっていった。
放課後は、二人で校門を出る。水たまりのたびに振り返って待つ歩き方も、いつもの角で手を振るのも、何も変わらなかった。
「ボク、今日も用事! また明日ね!」
そう言って、ひまりは町外れのほうへ走っていく。
今度ちゃんと話す、とひまりは言った。だから、待つ。
待っているあいだ、澪は一人で町を見回ることにした。白衣の子が現れてから、二人で毎日続けてきた見回りだった。商店街、公園、川沿いの土手。ひまりの隣を歩くはずだった道を、一人で歩く。
角で別れるのは、これで四日目だった。
その日の商店街は、少しだけ静かだった。
本屋の前で、おじいちゃんが店先の棚にはたきをかけていた。いつもなら澪に気づいて「おや」と手を止める人が、今日は顔を上げなかった。同じ段を、同じ手つきで、何度もはたいている。
忙しいのかな、と澪は思った。
夕方のアーケードには、買い物袋を提げた人がまばらに行き交っている。肉屋の前を通りかかったときだった。
ぶうん、と小さな羽音がした。
見上げると、アーケードの梁のあいだに、手のひらほどの丸い機械がいくつも浮かんでいた。
澪の足が止まった。
淡い光が、ふわりと降りはじめる。夕方の教室の、窓から差しこむ日差しみたいな光。
八百屋のおじさんが、大根を持ったまま、店先の椅子にゆっくりと腰を落とした。買い物袋を提げた女の人が、柱にもたれて目を閉じる。自転車を押していたおばさんが、その場で足を止めた。
誰も、叫ばなかった。昼寝でもするみたいに、通りが静かになっていく。
光の輪は、通りの真ん中に落ちていた。澪は肉屋の軒下に身を寄せて、重くなりかけたまぶたを、強くまばたきして振り払った。
「あっ!」
明るい声がした。
アーケードの真ん中に、白衣が立っていた。両腕に大きな段ボール箱を抱えて、袖の余った手を、こちらへぶんぶん振っている。
「アイリスさん! こんにちは!」
ユメミだった。
澪は、息をのんだ。
制服のままだった。変身していない。それなのに、ユメミは迷わず、澪をそう呼んだ。
知られている。
だったら、ひまりのことも。
ユメミは段ボール箱を地面に下ろした。ふたが開いていて、中には、シャボン玉みたいなレンズがいくつも重なって光っていた。
公園で、小春ちゃんの顔に近づけられた、あのゴーグルだった。
「ご心配なく! 今日はユメミ、戦いに来たんじゃないんです」
ユメミは一つを持ち上げて、ベルトを指でみょんと伸ばしてみせた。
「見てください、ベルトをふわふわに改良したんです! これなら、髪の長い方でもぜーんぜん引っかかりません!」
「……それを、ここの人たちに?」
声が、思ったより低く出た。
「はい! 町のみなさんに、順番に。でも」
ユメミは、えへんと胸を張った。
「届けるのは、ユメミじゃないんです」
意味が、分からなかった。
ユメミは白衣のポケットからドローンを一機取り出して、両手でそっと包んだ。
「お迎え、お願いしますね」
ドローンはぶうんと羽音を立てて、町外れのほうへ飛んでいった。
澪はスカートのポケットからスマホを出した。
『商店街に、ユメミが来てる』
画面の上で、吹き出しが一つ増えた。
既読は、つかない。
それでも澪は、変身しなかった。
ひまりは来る。困っている人がいれば、ひまりは必ず飛んでくる。そうしたら、いつものように手をつないで、二人で止める。
ユメミは段ボール箱に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。鼻歌まで歌っている。ゴーグルを配る気配は、なかった。
まるで、誰かを待っているみたいだった。
足音が聞こえたのは、それから五分もしないうちだった。
ぱたぱたぱた、と、アーケードの向こうから。
振り向かなくても分かった。
オレンジ色の髪が、夕方の光の中で跳ねていた。制服のまま、鞄は持っていない。その頭の上を、さっきのドローンが、道案内でもするみたいに飛んでいた。
「ひまり……」
澪の声は、届かなかった。
ひまりは、まっすぐユメミのほうへ走っていった。
「ユメミさーん! お待たせ!」
「同志! 来てくれました!」
ユメミが箱から跳び下りて、両手を上げる。ひまりはその手を、右手でぱちんと叩いた。
ハイタッチだった。
澪は、軒下から動けなかった。
ユメミさん、とひまりは呼んだ。廊下で友達を呼ぶみたいに。
ドローンを追いかけていった日から、今日まで。用事、とひまりは言っていた。大事な用事、と。
その用事の先に、この人がいた。
ひまりが、くるっとこちらを振り向いた。
目が合った。
ぱっと、顔が明るくなった。
「澪ちゃん!」
ひまりは駆け寄ってきて、澪の前でくるっと一回転した。
「澪ちゃんも、来てくれたんだ!」
本当に、嬉しそうな声だった。
「ひまり、なんで——」
その人と、と続けるはずの言葉は、最後まで出てこなかった。
ひまりは、もう走り出していた。
「ちょっと待っててね!」
向かった先は、肉屋と八百屋のあいだの、細い路地だった。
澪は、その背中を追った。
追いかけながら、思った。
変身するんだ。だったら、まだ間に合う。あの路地で、いつもみたいに手をつないで。そうしたら、ひまりはきっと、隣で——
路地の入り口で、澪は足を止めた。
薄暗い奥に、ひまりが立っていた。人目がないのを確かめるように、一度だけ左右を見る。雨上がりのあの日、二人でそうしたのと同じ場所で、同じ仕草だった。
澪の左手が、勝手に前へ出た。
ひまりの右手を、迎えに行くみたいに。
ひまりは、振り返らなかった。
左手で、胸元のサンブルームを掲げる。
「シャイン・ブルーム!」
声は、一つだけだった。
ひまりの右手は、体の横で、空いたままだった。
澪の左手が、宙で止まった。
ブローチが光った。黄色ではなかった。やわらかいラベンダー色の光が、路地の暗がりいっぱいに広がっていく。
足元から、花びらが渦を巻いて立ちのぼる。ひまわりの花びらだけだった。黄色い花びらだけが、ひまりの周りをくるくると回っている。青い花びらは、一枚も混ざらなかった。
ブーツが、グローブが現れる。二段のフリルのスカートが広がり、腰の後ろで、大きなオレンジのリボンが結ばれる。
いつもと同じ順番だった。
ただ、白いはずのところが、端から順にラベンダーに染まっていく。
それから、肩に何かが、ふわりとかかった。
短い、白いケープだった。
澪の肩にかかるケープと、同じ場所。けれど、形が違った。裾が少しだけ長くて、ぱりっとしている。
ついさっき見た、白衣の裾に似ていた。
ひまわりの髪飾りが、右側に咲く。
最後に、額で何かが光った。
小さなゴーグルの形をした飾りが現れて、ぴょんと跳ね上がる。シャボン玉みたいなレンズが、前髪の上で淡くきらめいた。
胸のサンブルームの真ん中に、ラベンダー色の小さな宝石が灯った。
ひまりは右腕を突き出し、ひまわりの花弁の形をした光の盾を、ぱっと広げて弾けさせた。
それから、胸を張った。
「みんなの笑顔は、ボクが作る! 陽だまりの花、シャインリリィ!」
澪の口が、勝手に開いていた。
背中合わせに立って、二人で言うはずの言葉が、喉もとまで来ていた。
ふたりで照らす——
その先を、誰も言わなかった。
路地に、少しだけ静けさが落ちた。
ひまりはくるっと一回転して、にっと笑った。
隣で照らす、だった。
みんなの笑顔を、隣で照らす。何十回も、背中越しに聞いてきた名乗りだった。
それが、ボクが作る、になっていた。
声の弾み方も、胸の張り方も、何一つ変わっていないのに。
ケープ。額のゴーグル。胸の宝石。
なのに、ひまりはきれいだった。ラベンダーとオレンジは、思っていたよりずっとよく似合っていた。白いケープが動くたびにふわりと揺れて、額の飾りが夕方の光を跳ね返す。
前より可愛い、と思ってしまった。
そう思った自分に、澪は息が詰まった。
何かの間違いだ。
あの人に、何かされたんだ。ひまりは、操られているだけ。だって、ひまりは今も、こんなふうに笑っている。
リリィが、路地の入り口へ駆けてくる。
「行ってくるね!」
すれ違いざまの声も、いつもと同じだった。ラベンダーのスカートが、澪のすぐ横をすり抜けていく。
アーケードのほうから、ユメミの弾んだ声が聞こえた。
澪は、差し出しかけたままの左手を、ゆっくりと握りしめた。
指のあいだには、何もなかった。