泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第6話 待っててくれてる人、いっぱいいるもん!(前編)

陽向(ひなた)ひまりは、毎朝ちゃんと学校に来た。

 

あの朝の次の日、ひまりは休み時間に「約束どおり!」と言って、数学のノートを借りていった。授業中はあくびを噛み殺し、休み時間には誰かの机に腰かけて笑っている。目の下の影だけが、日ごとに少しずつ濃くなっていった。

 

放課後は、二人で校門を出る。水たまりのたびに振り返って待つ歩き方も、いつもの角で手を振るのも、何も変わらなかった。

 

「ボク、今日も用事! また明日ね!」

 

そう言って、ひまりは町外れのほうへ走っていく。

 

蒼井澪(あおいみお)は、その背中を追いかけなかった。

 

今度ちゃんと話す、とひまりは言った。だから、待つ。

 

待っているあいだ、澪は一人で町を見回ることにした。白衣の子が現れてから、二人で毎日続けてきた見回りだった。商店街、公園、川沿いの土手。ひまりの隣を歩くはずだった道を、一人で歩く。

 

角で別れるのは、これで四日目だった。

 

その日の商店街は、少しだけ静かだった。

 

本屋の前で、おじいちゃんが店先の棚にはたきをかけていた。いつもなら澪に気づいて「おや」と手を止める人が、今日は顔を上げなかった。同じ段を、同じ手つきで、何度もはたいている。

 

忙しいのかな、と澪は思った。

 

夕方のアーケードには、買い物袋を提げた人がまばらに行き交っている。肉屋の前を通りかかったときだった。

 

ぶうん、と小さな羽音がした。

 

見上げると、アーケードの梁のあいだに、手のひらほどの丸い機械がいくつも浮かんでいた。

 

澪の足が止まった。

 

淡い光が、ふわりと降りはじめる。夕方の教室の、窓から差しこむ日差しみたいな光。

 

八百屋のおじさんが、大根を持ったまま、店先の椅子にゆっくりと腰を落とした。買い物袋を提げた女の人が、柱にもたれて目を閉じる。自転車を押していたおばさんが、その場で足を止めた。

 

誰も、叫ばなかった。昼寝でもするみたいに、通りが静かになっていく。

 

光の輪は、通りの真ん中に落ちていた。澪は肉屋の軒下に身を寄せて、重くなりかけたまぶたを、強くまばたきして振り払った。

 

「あっ!」

 

明るい声がした。

 

アーケードの真ん中に、白衣が立っていた。両腕に大きな段ボール箱を抱えて、袖の余った手を、こちらへぶんぶん振っている。

 

「アイリスさん! こんにちは!」

 

ユメミだった。

 

澪は、息をのんだ。

 

制服のままだった。変身していない。それなのに、ユメミは迷わず、澪をそう呼んだ。

 

知られている。

 

だったら、ひまりのことも。

 

ユメミは段ボール箱を地面に下ろした。ふたが開いていて、中には、シャボン玉みたいなレンズがいくつも重なって光っていた。

 

公園で、小春ちゃんの顔に近づけられた、あのゴーグルだった。

 

「ご心配なく! 今日はユメミ、戦いに来たんじゃないんです」

 

ユメミは一つを持ち上げて、ベルトを指でみょんと伸ばしてみせた。

 

「見てください、ベルトをふわふわに改良したんです! これなら、髪の長い方でもぜーんぜん引っかかりません!」

 

「……それを、ここの人たちに?」

 

声が、思ったより低く出た。

 

「はい! 町のみなさんに、順番に。でも」

 

ユメミは、えへんと胸を張った。

 

「届けるのは、ユメミじゃないんです」

 

意味が、分からなかった。

 

ユメミは白衣のポケットからドローンを一機取り出して、両手でそっと包んだ。

 

「お迎え、お願いしますね」

 

ドローンはぶうんと羽音を立てて、町外れのほうへ飛んでいった。

 

澪はスカートのポケットからスマホを出した。

 

『商店街に、ユメミが来てる』

 

画面の上で、吹き出しが一つ増えた。

 

既読は、つかない。

 

それでも澪は、変身しなかった。

 

ひまりは来る。困っている人がいれば、ひまりは必ず飛んでくる。そうしたら、いつものように手をつないで、二人で止める。

 

ユメミは段ボール箱に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。鼻歌まで歌っている。ゴーグルを配る気配は、なかった。

 

まるで、誰かを待っているみたいだった。

 

足音が聞こえたのは、それから五分もしないうちだった。

 

ぱたぱたぱた、と、アーケードの向こうから。

 

振り向かなくても分かった。

 

オレンジ色の髪が、夕方の光の中で跳ねていた。制服のまま、鞄は持っていない。その頭の上を、さっきのドローンが、道案内でもするみたいに飛んでいた。

 

「ひまり……」

 

澪の声は、届かなかった。

 

ひまりは、まっすぐユメミのほうへ走っていった。

 

「ユメミさーん! お待たせ!」

 

「同志! 来てくれました!」

 

ユメミが箱から跳び下りて、両手を上げる。ひまりはその手を、右手でぱちんと叩いた。

 

ハイタッチだった。

 

澪は、軒下から動けなかった。

 

ユメミさん、とひまりは呼んだ。廊下で友達を呼ぶみたいに。

 

ドローンを追いかけていった日から、今日まで。用事、とひまりは言っていた。大事な用事、と。

 

その用事の先に、この人がいた。

 

ひまりが、くるっとこちらを振り向いた。

 

目が合った。

 

ぱっと、顔が明るくなった。

 

「澪ちゃん!」

 

ひまりは駆け寄ってきて、澪の前でくるっと一回転した。

 

「澪ちゃんも、来てくれたんだ!」

 

本当に、嬉しそうな声だった。

 

「ひまり、なんで——」

 

その人と、と続けるはずの言葉は、最後まで出てこなかった。

 

ひまりは、もう走り出していた。

 

「ちょっと待っててね!」

 

向かった先は、肉屋と八百屋のあいだの、細い路地だった。

 

澪は、その背中を追った。

 

追いかけながら、思った。

 

変身するんだ。だったら、まだ間に合う。あの路地で、いつもみたいに手をつないで。そうしたら、ひまりはきっと、隣で——

 

路地の入り口で、澪は足を止めた。

 

薄暗い奥に、ひまりが立っていた。人目がないのを確かめるように、一度だけ左右を見る。雨上がりのあの日、二人でそうしたのと同じ場所で、同じ仕草だった。

 

澪の左手が、勝手に前へ出た。

 

ひまりの右手を、迎えに行くみたいに。

 

ひまりは、振り返らなかった。

 

左手で、胸元のサンブルームを掲げる。

 

「シャイン・ブルーム!」

 

声は、一つだけだった。

 

ひまりの右手は、体の横で、空いたままだった。

 

澪の左手が、宙で止まった。

 

ブローチが光った。黄色ではなかった。やわらかいラベンダー色の光が、路地の暗がりいっぱいに広がっていく。

 

足元から、花びらが渦を巻いて立ちのぼる。ひまわりの花びらだけだった。黄色い花びらだけが、ひまりの周りをくるくると回っている。青い花びらは、一枚も混ざらなかった。

 

ブーツが、グローブが現れる。二段のフリルのスカートが広がり、腰の後ろで、大きなオレンジのリボンが結ばれる。

 

いつもと同じ順番だった。

 

ただ、白いはずのところが、端から順にラベンダーに染まっていく。

 

それから、肩に何かが、ふわりとかかった。

 

短い、白いケープだった。

 

澪の肩にかかるケープと、同じ場所。けれど、形が違った。裾が少しだけ長くて、ぱりっとしている。

 

ついさっき見た、白衣の裾に似ていた。

 

ひまわりの髪飾りが、右側に咲く。

 

最後に、額で何かが光った。

 

小さなゴーグルの形をした飾りが現れて、ぴょんと跳ね上がる。シャボン玉みたいなレンズが、前髪の上で淡くきらめいた。

 

胸のサンブルームの真ん中に、ラベンダー色の小さな宝石が灯った。

 

ひまりは右腕を突き出し、ひまわりの花弁の形をした光の盾を、ぱっと広げて弾けさせた。

 

それから、胸を張った。

 

「みんなの笑顔は、ボクが作る! 陽だまりの花、シャインリリィ!」

 

澪の口が、勝手に開いていた。

 

背中合わせに立って、二人で言うはずの言葉が、喉もとまで来ていた。

 

ふたりで照らす——

 

その先を、誰も言わなかった。

 

路地に、少しだけ静けさが落ちた。

 

ひまりはくるっと一回転して、にっと笑った。

 

隣で照らす、だった。

 

みんなの笑顔を、隣で照らす。何十回も、背中越しに聞いてきた名乗りだった。

 

それが、ボクが作る、になっていた。

 

声の弾み方も、胸の張り方も、何一つ変わっていないのに。

 

ケープ。額のゴーグル。胸の宝石。

 

なのに、ひまりはきれいだった。ラベンダーとオレンジは、思っていたよりずっとよく似合っていた。白いケープが動くたびにふわりと揺れて、額の飾りが夕方の光を跳ね返す。

 

前より可愛い、と思ってしまった。

 

そう思った自分に、澪は息が詰まった。

 

何かの間違いだ。

 

あの人に、何かされたんだ。ひまりは、操られているだけ。だって、ひまりは今も、こんなふうに笑っている。

 

リリィが、路地の入り口へ駆けてくる。

 

「行ってくるね!」

 

すれ違いざまの声も、いつもと同じだった。ラベンダーのスカートが、澪のすぐ横をすり抜けていく。

 

アーケードのほうから、ユメミの弾んだ声が聞こえた。

 

澪は、差し出しかけたままの左手を、ゆっくりと握りしめた。

 

指のあいだには、何もなかった。

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