リリィが通りへ出ると、ユメミが段ボール箱の上で跳び上がった。
「リリィちゃん、どうぞ!」
ゴーグルが一つ、放物線を描いて飛んでいく。リリィはそれを、右手でぱしっと受け止めた。
「ありがと!」
まどろむ人たちのあいだを、リリィは軽やかに歩いていく。柱にもたれた女の人。椅子に沈んだ八百屋のおじさん。一人ずつ、顔を覗きこんでいく。
順番を、確かめているみたいだった。
澪は、路地の入り口から動けずにいた。
そのとき、通りの向こうで、細い声がした。
泣き声だった。
アーケードの入り口に近い、魚屋の前のベンチで、女の人が眠っていた。光の輪の、いちばん外側だった。その膝に、小さな男の子がしがみついている。四つか、五つくらい。母親の袖を両手で引っぱって、しゃくり上げながら呼んでいる。
「おかあさん、おきて……おかあさん……」
ドローンの光は、あの子には届いていないようだった。目を開けたまま、涙だけがぼろぼろとこぼれている。
リリィが、そちらを向いた。
ラベンダーのスカートが、まっすぐに男の子のほうへ向かう。
男の子の前で、リリィはぴたりと足を止めた。
それから、しゃがみこんだ。
目線が、ちょうど同じ高さになる。
リリィの唇が動いた。何か言っている。頭の上で鳴る羽音にかき消されて、澪のところまでは、声が届かなかった。
男の子が、しゃくり上げながら何か答えた。
リリィはうんうんと頷いて、男の子の頭を撫でた。
くしゃっと、優しく。
傘を取り返してあげた、あの日の男の子にしたのと、同じ手つきだった。
澪は、知っていた。この次に、ひまりがすることを。
ひまりの右手が、持ち上がった。
握っていたのは、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルだった。
眼鏡をかけてあげるみたいに、そっと。男の子の目元へ、近づいていく。
気がついたときには、澪はブルーベルを掲げていた。
右手で。
つなぐ相手のいない左手が、体の横で空いたまま、青い光が澪を包んだ。
光が晴れるより早く、澪はアイリスステッキを振り抜いていた。
「ひまり、だめ!」
光のリボンが、しゅるりと伸びた。
ゴーグルを持つ右手の手首に巻きつき、そのまま腕ごと、肩ごと、ぐるぐると縛り上げていく。
ゴーグルが、男の子の目の前で止まった。
レンズの淡い光が、涙で濡れた頬を照らしたまま、それ以上は近づかなかった。
公園で、眠りかけたリリィの手首に巻いたリボンだった。あの日は、引き戻すために巻いた。
今は、止めるために巻いている。
リリィが、こちらを振り向いた。
「澪ちゃん、離して!」
困ったような声だった。怒ってはいなかった。
リリィが身をよじる。リボンがぎしりと鳴った。澪は両足を踏ん張って、ステッキを握りしめた。
「リリィちゃーん、がんばれー!」
段ボール箱の上で、ユメミが両手を振っていた。助けに来るでもなく、ドローンを向けるでもなく。運動会の応援席みたいに、ぴょんぴょん跳ねている。
リリィちゃん、と澪は思った。
公園では、リリィさん、と呼んでいたのに。
リリィが、もう一度大きく身をよじった。
縛られていない左手が、肩に巻きついたリボンをつかんだ。
ぐい、と。
力いっぱい、引っぱり上げられた。
リボンの先は、澪のステッキにつながっている。ステッキごと、澪の腕が前へ持っていかれた。とっさに握りしめた右の手首が、おかしな向きにねじれた。
ずん、と重いものが響いた。
指から力が抜ける。アイリスステッキが、澪の手を離れてくるくると宙を舞い、石畳の上で乾いた音を立てた。
澪は、右の手首を押さえた。
じんじんと、鈍い痛みが脈を打っていた。
それでも、リボンは解けなかった。
ステッキが手を離れても、青い光の帯は、リリィの腕にしっかりと巻きついたままだった。
リリィは、ゴーグルを握ったまま、そこに立っていた。
澪は、リリィの顔を見た。
いつもの顔だった。寝癖の跳ねた、朝の光みたいな顔。額のゴーグルの飾りだけが、知らない光を跳ね返していた。
「……なんで」
声が、かすれた。
リリィは、少しだけ首をかしげた。
それから、なんでもないことのように答えた。
「この子、泣いてたから」
それだけだった。
言い訳でも、ごまかしでもなかった。困っている人がいたから、走っていった。いつものひまりと、同じ答え方だった。
澪は、それ以上何も聞けなかった。
澪は石畳に駆け寄って、左手でステッキを拾い上げた。
それから、魚屋の前まで走って、男の子を右腕で抱き上げた。手首が悲鳴を上げたけれど、離さなかった。
ベンチの上で、母親は眠ったままだった。抱えていけるのは、一人だけだった。
「つかまってて」
男の子は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、澪の首にしがみついた。
澪は走った。
アーケードの入り口を抜けて、ドローンの光の外へ。
背中で、ユメミの声がした。
「アイリスさーん、リボン、ほどいてあげてくださーい!」
振り返らなかった。
アーケードを出て、角の電柱のところで、ようやく足が止まった。息が切れていた。
澪は振り返った。
魚屋の前で、青いリボンがほろほろとほどけて、花びらになって消えていくところだった。
リリィが、立っていた。
ゴーグルを持った右手を、だらりと下ろして。肩が、しょんぼりと落ちていた。
段ボール箱のほうから、ユメミが駆けてきた。
ユメミは背伸びをして、リリィの頭を撫でていた。袖の余った手で、何度も、何度も。
「惜しかったです! 次はきっと大丈夫ですよ!」
明るい声が、ここまで届いた。
リリィはこくりと頷いて、それから、ユメミの手を右手で握った。
澪は、それを見ていた。
あの手は、変身するとき、いつも澪の左手を握っていた手だった。
二人は手をつないだまま、アーケードの奥へ戻っていった。光の真ん中の、段ボール箱の置いてあるほうへ。
魚屋の前のベンチで、女の人が身じろぎした。
光の輪の縁には、ドローンの光が、もう薄くしか届いていなかった。女の人は目をこすりながらゆっくりと体を起こし、きょろきょろと辺りを見回している。
澪は、男の子を抱えたまま、ベンチの前まで戻った。
「……あれ、私……」
男の子が、澪の腕の中で身を乗り出した。
「おかあさん!」
「えっ……ゆうくん!?」
女の人が、男の子を抱きとめた。澪の青いケープを見上げて、目を丸くする。
「アイリス……? あの、何が……」
「ここは危ないから、今日は帰ってください」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
女の人は何度も頭を下げて、男の子の手を引いて歩いていった。男の子は一度だけ振り返って、小さく手を振った。
澪は、手を振り返せなかった。
アーケードの奥では、まだ淡い光が降り続いていた。八百屋のおじさんも、柱にもたれた女の人も、あの光の中にいる。
戻らなきゃ、と思った。
足が、動かなかった。
右の手首が、どくどくと脈を打っている。ステッキを握る左手が、細かく震えていた。
何かの間違いだ。
あの人に、何かされたんだ。ひまりは、操られているだけ。
そう言い聞かせる自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
研究所に戻ったのは、日が沈んでからだった。
ひまりは変身を解いて、真っ先にお茶のテーブルへ駆け寄った。ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。
「ただいま!」
それから、くるりと振り向いた。
「ユメミさん、見てた!? ケープ!」
「見てました! 見てました!」
ユメミは両手を握りしめた。
「ユメミの白衣みたいでした! すっごく、すっごく、似合ってました!」
「えへへ、おそろい!」
ひまりは嬉しそうに、肩のあたりを手で撫でた。今はもう、制服の肩だったけれど。
それから、ひまりは研究所の中を見回した。
配線の束。論文の山。その地層のあちこちから、栄養ゼリーの空き袋が顔を出している。
ひまりの眉が、ぎゅっと寄った。
「ユメミさん、ゼリーの袋ばっかり!」
「えっ。あ、それは、その、効率的な栄養補給というやつで……」
「だめ!」
ひまりは制服の袖を、肘の上までぐいっとまくった。
そこからは、あっという間だった。
ゼリーの空き袋が、次々と大きなごみ袋に放りこまれていく。論文は、ユメミが「あっ、それは大事なやつです!」と叫んだものだけ、机の上にきちんと積まれた。
配線の地層の、いちばん深いところから、ひまりが箱を一つ掘り出した。
「炊飯器、あったー!」
「……それ、いつのでしたっけ」
箱の中には、手つかずの炊飯器と、お米の袋が一つ入っていた。ユメミは、ずっと前に誰かからもらって、そのままにしていたことを、ぼんやり思い出した。
三十分後、お茶のテーブルに、おにぎりが四つ並んだ。
塩だけの、少しいびつなおにぎりだった。
「はい、ユメミさん!」
ユメミは、一つを両手で受け取った。
あったかかった。
一口食べると、塩の味がした。それだけなのに、胸の奥がぎゅっとなった。
誰かが、ユメミのためにごはんを作ってくれた。
「……おいしいです」
「でしょ!」
ひまりはにっと笑って、自分も一つ頬張った。
それから、手が止まった。
おにぎりを持ったまま、ひまりは自分の右手を見下ろしていた。ゴーグルを握っていた手だった。
「あの子、泣いたままだった」
小さな声だった。
ひまりの肩が、すとんと落ちた。バイザーの奥で、目がテーブルの木目を見ている。
「澪ちゃんも、手首、痛そうだった」
ユメミは、おにぎりを置いた。
今日、商店街でひまりの隣に立っていた子のことを、ユメミは思い出した。リボンをぎゅっと握って、ずっとこっちを見ていた子。
ひまりの話に、毎日出てくる名前。
「澪さんも、きっとすぐ分かってくれますよ!」
口に出してから、ユメミは気がついた。
その名前を声に出して呼んだのは、はじめてだった。
ひまりが、顔を上げた。
「……うん!」
それでも、肩はまだ少し落ちていた。
ユメミは、立ち上がった。
白衣の袖をまくる。余った袖が、すぐにずり落ちてくる。もう一度まくる。また落ちる。三回目で、ようやく肘のところで止まった。
「任せてください、一晩でちゃちゃっと作っちゃいます!」
「作るって、何を!」
「リボンなんかに、ぜーんぜん負けないやつです!」
ユメミが胸を張ると、ひまりの目が、ゆっくりと丸くなった。
それから、ぱっと輝いた。
「ユメミさん、すごい!」
ひまりは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。
「よーし! ボクも、行ってくる!」
「えっ、今からですか? もう夜ですよ?」
「大丈夫大丈夫! 待っててくれてる人、いっぱいいるもん!」
ひまりはバイザーを外して、ユメミの手のひらにそっとのせた。
「これ、テーブルにお願い! いってきます!」
扉が閉まって、坂を駆け下りていく足音が、すぐに聞こえなくなった。
ユメミは、手の中のバイザーを、ティーカップの隣にそっと置いた。
片付いた床の上を歩いて、作業台に向かう。拡大鏡を下ろし、ドライバーを手に取った。
口の中に、まだ少しだけ、塩の味が残っていた。