泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第6話 待っててくれてる人、いっぱいいるもん!(後編)

リリィが通りへ出ると、ユメミが段ボール箱の上で跳び上がった。

 

「リリィちゃん、どうぞ!」

 

ゴーグルが一つ、放物線を描いて飛んでいく。リリィはそれを、右手でぱしっと受け止めた。

 

「ありがと!」

 

まどろむ人たちのあいだを、リリィは軽やかに歩いていく。柱にもたれた女の人。椅子に沈んだ八百屋のおじさん。一人ずつ、顔を覗きこんでいく。

 

順番を、確かめているみたいだった。

 

澪は、路地の入り口から動けずにいた。

 

そのとき、通りの向こうで、細い声がした。

 

泣き声だった。

 

アーケードの入り口に近い、魚屋の前のベンチで、女の人が眠っていた。光の輪の、いちばん外側だった。その膝に、小さな男の子がしがみついている。四つか、五つくらい。母親の袖を両手で引っぱって、しゃくり上げながら呼んでいる。

 

「おかあさん、おきて……おかあさん……」

 

ドローンの光は、あの子には届いていないようだった。目を開けたまま、涙だけがぼろぼろとこぼれている。

 

リリィが、そちらを向いた。

 

ラベンダーのスカートが、まっすぐに男の子のほうへ向かう。

 

男の子の前で、リリィはぴたりと足を止めた。

 

それから、しゃがみこんだ。

 

目線が、ちょうど同じ高さになる。

 

リリィの唇が動いた。何か言っている。頭の上で鳴る羽音にかき消されて、澪のところまでは、声が届かなかった。

 

男の子が、しゃくり上げながら何か答えた。

 

リリィはうんうんと頷いて、男の子の頭を撫でた。

 

くしゃっと、優しく。

 

傘を取り返してあげた、あの日の男の子にしたのと、同じ手つきだった。

 

澪は、知っていた。この次に、ひまりがすることを。

 

ひまりの右手が、持ち上がった。

 

握っていたのは、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルだった。

 

眼鏡をかけてあげるみたいに、そっと。男の子の目元へ、近づいていく。

 

気がついたときには、澪はブルーベルを掲げていた。

 

右手で。

 

つなぐ相手のいない左手が、体の横で空いたまま、青い光が澪を包んだ。

 

光が晴れるより早く、澪はアイリスステッキを振り抜いていた。

 

「ひまり、だめ!」

 

光のリボンが、しゅるりと伸びた。

 

ゴーグルを持つ右手の手首に巻きつき、そのまま腕ごと、肩ごと、ぐるぐると縛り上げていく。

 

ゴーグルが、男の子の目の前で止まった。

 

レンズの淡い光が、涙で濡れた頬を照らしたまま、それ以上は近づかなかった。

 

公園で、眠りかけたリリィの手首に巻いたリボンだった。あの日は、引き戻すために巻いた。

 

今は、止めるために巻いている。

 

リリィが、こちらを振り向いた。

 

「澪ちゃん、離して!」

 

困ったような声だった。怒ってはいなかった。

 

リリィが身をよじる。リボンがぎしりと鳴った。澪は両足を踏ん張って、ステッキを握りしめた。

 

「リリィちゃーん、がんばれー!」

 

段ボール箱の上で、ユメミが両手を振っていた。助けに来るでもなく、ドローンを向けるでもなく。運動会の応援席みたいに、ぴょんぴょん跳ねている。

 

リリィちゃん、と澪は思った。

 

公園では、リリィさん、と呼んでいたのに。

 

リリィが、もう一度大きく身をよじった。

 

縛られていない左手が、肩に巻きついたリボンをつかんだ。

 

ぐい、と。

 

力いっぱい、引っぱり上げられた。

 

リボンの先は、澪のステッキにつながっている。ステッキごと、澪の腕が前へ持っていかれた。とっさに握りしめた右の手首が、おかしな向きにねじれた。

 

ずん、と重いものが響いた。

 

指から力が抜ける。アイリスステッキが、澪の手を離れてくるくると宙を舞い、石畳の上で乾いた音を立てた。

 

澪は、右の手首を押さえた。

 

じんじんと、鈍い痛みが脈を打っていた。

 

それでも、リボンは解けなかった。

 

ステッキが手を離れても、青い光の帯は、リリィの腕にしっかりと巻きついたままだった。

 

リリィは、ゴーグルを握ったまま、そこに立っていた。

 

澪は、リリィの顔を見た。

 

いつもの顔だった。寝癖の跳ねた、朝の光みたいな顔。額のゴーグルの飾りだけが、知らない光を跳ね返していた。

 

「……なんで」

 

声が、かすれた。

 

リリィは、少しだけ首をかしげた。

 

それから、なんでもないことのように答えた。

 

「この子、泣いてたから」

 

それだけだった。

 

言い訳でも、ごまかしでもなかった。困っている人がいたから、走っていった。いつものひまりと、同じ答え方だった。

 

澪は、それ以上何も聞けなかった。

 

澪は石畳に駆け寄って、左手でステッキを拾い上げた。

 

それから、魚屋の前まで走って、男の子を右腕で抱き上げた。手首が悲鳴を上げたけれど、離さなかった。

 

ベンチの上で、母親は眠ったままだった。抱えていけるのは、一人だけだった。

 

「つかまってて」

 

男の子は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、澪の首にしがみついた。

 

澪は走った。

 

アーケードの入り口を抜けて、ドローンの光の外へ。

 

背中で、ユメミの声がした。

 

「アイリスさーん、リボン、ほどいてあげてくださーい!」

 

振り返らなかった。

 

アーケードを出て、角の電柱のところで、ようやく足が止まった。息が切れていた。

 

澪は振り返った。

 

魚屋の前で、青いリボンがほろほろとほどけて、花びらになって消えていくところだった。

 

リリィが、立っていた。

 

ゴーグルを持った右手を、だらりと下ろして。肩が、しょんぼりと落ちていた。

 

段ボール箱のほうから、ユメミが駆けてきた。

 

ユメミは背伸びをして、リリィの頭を撫でていた。袖の余った手で、何度も、何度も。

 

「惜しかったです! 次はきっと大丈夫ですよ!」

 

明るい声が、ここまで届いた。

 

リリィはこくりと頷いて、それから、ユメミの手を右手で握った。

 

澪は、それを見ていた。

 

あの手は、変身するとき、いつも澪の左手を握っていた手だった。

 

二人は手をつないだまま、アーケードの奥へ戻っていった。光の真ん中の、段ボール箱の置いてあるほうへ。

 

魚屋の前のベンチで、女の人が身じろぎした。

 

光の輪の縁には、ドローンの光が、もう薄くしか届いていなかった。女の人は目をこすりながらゆっくりと体を起こし、きょろきょろと辺りを見回している。

 

澪は、男の子を抱えたまま、ベンチの前まで戻った。

 

「……あれ、私……」

 

男の子が、澪の腕の中で身を乗り出した。

 

「おかあさん!」

 

「えっ……ゆうくん!?」

 

女の人が、男の子を抱きとめた。澪の青いケープを見上げて、目を丸くする。

 

「アイリス……? あの、何が……」

 

「ここは危ないから、今日は帰ってください」

 

それだけ言うのが、精いっぱいだった。

 

女の人は何度も頭を下げて、男の子の手を引いて歩いていった。男の子は一度だけ振り返って、小さく手を振った。

 

澪は、手を振り返せなかった。

 

アーケードの奥では、まだ淡い光が降り続いていた。八百屋のおじさんも、柱にもたれた女の人も、あの光の中にいる。

 

戻らなきゃ、と思った。

 

足が、動かなかった。

 

右の手首が、どくどくと脈を打っている。ステッキを握る左手が、細かく震えていた。

 

何かの間違いだ。

 

あの人に、何かされたんだ。ひまりは、操られているだけ。

 

そう言い聞かせる自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

研究所に戻ったのは、日が沈んでからだった。

 

ひまりは変身を解いて、真っ先にお茶のテーブルへ駆け寄った。ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。

 

「ただいま!」

 

それから、くるりと振り向いた。

 

「ユメミさん、見てた!? ケープ!」

 

「見てました! 見てました!」

 

ユメミは両手を握りしめた。

 

「ユメミの白衣みたいでした! すっごく、すっごく、似合ってました!」

 

「えへへ、おそろい!」

 

ひまりは嬉しそうに、肩のあたりを手で撫でた。今はもう、制服の肩だったけれど。

 

それから、ひまりは研究所の中を見回した。

 

配線の束。論文の山。その地層のあちこちから、栄養ゼリーの空き袋が顔を出している。

 

ひまりの眉が、ぎゅっと寄った。

 

「ユメミさん、ゼリーの袋ばっかり!」

 

「えっ。あ、それは、その、効率的な栄養補給というやつで……」

 

「だめ!」

 

ひまりは制服の袖を、肘の上までぐいっとまくった。

 

そこからは、あっという間だった。

 

ゼリーの空き袋が、次々と大きなごみ袋に放りこまれていく。論文は、ユメミが「あっ、それは大事なやつです!」と叫んだものだけ、机の上にきちんと積まれた。

 

配線の地層の、いちばん深いところから、ひまりが箱を一つ掘り出した。

 

「炊飯器、あったー!」

 

「……それ、いつのでしたっけ」

 

箱の中には、手つかずの炊飯器と、お米の袋が一つ入っていた。ユメミは、ずっと前に誰かからもらって、そのままにしていたことを、ぼんやり思い出した。

 

三十分後、お茶のテーブルに、おにぎりが四つ並んだ。

 

塩だけの、少しいびつなおにぎりだった。

 

「はい、ユメミさん!」

 

ユメミは、一つを両手で受け取った。

 

あったかかった。

 

一口食べると、塩の味がした。それだけなのに、胸の奥がぎゅっとなった。

 

誰かが、ユメミのためにごはんを作ってくれた。

 

「……おいしいです」

 

「でしょ!」

 

ひまりはにっと笑って、自分も一つ頬張った。

 

それから、手が止まった。

 

おにぎりを持ったまま、ひまりは自分の右手を見下ろしていた。ゴーグルを握っていた手だった。

 

「あの子、泣いたままだった」

 

小さな声だった。

 

ひまりの肩が、すとんと落ちた。バイザーの奥で、目がテーブルの木目を見ている。

 

「澪ちゃんも、手首、痛そうだった」

 

ユメミは、おにぎりを置いた。

 

今日、商店街でひまりの隣に立っていた子のことを、ユメミは思い出した。リボンをぎゅっと握って、ずっとこっちを見ていた子。

 

ひまりの話に、毎日出てくる名前。

 

「澪さんも、きっとすぐ分かってくれますよ!」

 

口に出してから、ユメミは気がついた。

 

その名前を声に出して呼んだのは、はじめてだった。

 

ひまりが、顔を上げた。

 

「……うん!」

 

それでも、肩はまだ少し落ちていた。

 

ユメミは、立ち上がった。

 

白衣の袖をまくる。余った袖が、すぐにずり落ちてくる。もう一度まくる。また落ちる。三回目で、ようやく肘のところで止まった。

 

「任せてください、一晩でちゃちゃっと作っちゃいます!」

 

「作るって、何を!」

 

「リボンなんかに、ぜーんぜん負けないやつです!」

 

ユメミが胸を張ると、ひまりの目が、ゆっくりと丸くなった。

 

それから、ぱっと輝いた。

 

「ユメミさん、すごい!」

 

ひまりは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。

 

「よーし! ボクも、行ってくる!」

 

「えっ、今からですか? もう夜ですよ?」

 

「大丈夫大丈夫! 待っててくれてる人、いっぱいいるもん!」

 

ひまりはバイザーを外して、ユメミの手のひらにそっとのせた。

 

「これ、テーブルにお願い! いってきます!」

 

扉が閉まって、坂を駆け下りていく足音が、すぐに聞こえなくなった。

 

ユメミは、手の中のバイザーを、ティーカップの隣にそっと置いた。

 

片付いた床の上を歩いて、作業台に向かう。拡大鏡を下ろし、ドライバーを手に取った。

 

口の中に、まだ少しだけ、塩の味が残っていた。

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