朝の昇降口は、今日も湿った傘と上履きのゴムの匂いがした。
ゆうべ遅くに降った雨で、傘立てのビニール傘はどれもまだ濡れている。下駄箱の錆びた番号札も、掲示板の剥がれかけた画鋲も、入学したときから何も変わっていない。
右手は使わなかった。ブラウスの袖口から、包帯の白が少しだけのぞいている。
ゆうべ、手首を押さえて帰ってきた澪を見て、お母さんは「あらあら」と救急箱を出してきた。
「どうしたの、それ」
「ちょっと、ひねっちゃって」
嘘ではなかった。ひねったのは本当だ。どうしてひねったのかを、言わなかっただけだった。
お母さんはそれ以上聞かずに、湿布を貼って、包帯を巻いてくれた。きつすぎないように、何度も巻き直しながら。
違うのは、この包帯くらいだ、と澪は思う。昇降口も、傘の匂いも、昨日までと同じなのに。
背後から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
振り向かなくても分かった。
分かってしまうことが、少しだけ怖かった。
体を起こして振り向くと、目の前に、両手が差し出されていた。
「澪ちゃん、一生のお願い!」
ぴたりと合わさった手のひら。
澪は、まず手を見た。擦り傷はなかった。少し日に焼けた、いつもの手だった。
合わせた手の、左のほう。
昨日、あの手が澪のリボンをつかんで、ステッキごと引っぱり上げた。
「……その一生、今月何回目」
「えへへ、数えてない!」
寝癖が一房、右耳の上で跳ねている。目の下の影は、昨日より、また濃くなっていた。表情だけが、朝の光みたいに明るい。
「昨日ね、ゴーグル配るのに朝方までかかっちゃって。商店街の人たち、みんな順番に待っててくれたんだよ。優しいよね」
声を落とすこともなく、ひまりは言った。
澪は思わず辺りを見た。下駄箱の向こうで、誰かが傘をたたむ音がする。靴を履き替えた一年生が二人、おしゃべりしながら階段のほうへ歩いていく。こちらを見ている人は、いなかった。
澪は答えなかった。答えられなかった。
八百屋のおじさん。柱にもたれていた女の人。自転車を押していたおばさん。
昨日、澪はあの人たちを、光の中に置いてきた。
男の子を抱えて走って、光の外へ出て、それから振り返った。アーケードの奥では、まだ淡い光が降り続いていた。戻らなきゃ、と思った。思ったのに、足が動かなかった。
あの人たちのところへ戻ったのは、ひまりのほうだった。
夜のあいだ、まどろんだまま待っていた人たちに、一人ずつ、順番に。
「で、数学!」
ひまりが、合わせた手をぱっとほどいた。
澪は左手で鞄を開けた。ノートの角が、指に触れる。
渡すべきじゃない、と頭のどこかが言った。この子はゆうべ、商店街の人たちの顔に、一つずつゴーグルをかけてきた。
なのに、指は勝手にノートを引き出していた。
「……見るだけ、だからね」
「うんうん、見るだけ見るだけ」
「もう、その顔は絶対写す顔だよ」
言ってから、澪は唇を噛んだ。
いつもの台詞が、いつもの順番で、勝手に口から出ていく。何度も繰り返してきた言葉は、考えるより先に、喉が覚えていた。
「澪ちゃん神! 今度パフェおごる!」
澪は、何も返さなかった。
苺のやつがいいな、とは、言わなかった。
ひまりはノートを左腕で胸に抱えて、くるりと一回転した。スカートの裾がふわりと広がる。
回り終えたところで、ひまりの目が、澪の右手に留まった。
ブラウスの袖口からのぞく、白い包帯に。
ひまりの眉が、すとんと下がった。
「あっ……手首、まだ痛いよね。ごめんね、昨日ちょっと強くやりすぎちゃった」
本気の声だった。本気で心配している声だった。
「平気」
「そっか。……うん、そうだよね。澪ちゃんなら絶対大丈夫だって、信じてるもん」
ひまりの右手が、澪の手を一瞬だけぎゅっと握った。
包帯の右手ではなかった。左の手だった。
変身するとき、いつもつないでいた組み合わせだった。ひまりの右手と、澪の左手。昨日、路地の入り口で、何もつかめずに宙で止まった手。
体温の高い手は、何も変わっていなかった。
階段を上るあいだも、ひまりはずっとしゃべっていた。
一時間目の小テストのこと。購買に新しく入ったパンのこと。澪のノートを左腕に抱えたまま、一段飛ばしで先を行く。
澪は二、三歩遅れて、その背中を追った。
二階まで上がったところで、ひまりが足を止めた。
廊下の隅、階段の脇の壁際に、一年生の女の子がうずくまっていた。膝を抱えて、顔を半分うずめている。肩が、小さく震えていた。
カサオバケの次の朝も、ちょうどこのあたりだった。体操服を忘れた一年生が、同じようにしゃがみこんでいた。
ひまりは、すっと膝を折った。
しゃがみこんで、目線を合わせる。
「どうしたの?」
澪は、ひまりの斜め後ろで立ち止まった。ひまりの肩越しに、女の子の赤くなった目が見えた。
澪の胸が、とくんと跳ねた。
次の言葉を、澪は知っている。
この子が答えるのを待って、うん、と頷いて、少しだけ首をかしげる。それから、聞くのだ。
キミはどうしたいのかな、と。
頭の中で、その声が先に鳴っていた。何十回も聞いてきた、ひまりの声で。
女の子が、しゃくり上げながら顔を上げた。
「……ともだちと、けんか、しちゃって……」
ひまりはうんうんと頷いた。それから右手を伸ばして、女の子の頭を撫でた。くしゃっと、優しく。
澪は、ひまりが首をかしげるのを待った。
ひまりは、首をかしげなかった。
にっこり笑った。
「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」
そして、立ち上がった。
「放課後、迎えに来るね!」
女の子はきょとんとして、ひまりを見上げた。それから、涙のあとの残る顔で、少しだけ笑った。
ひまりも笑って手を振り、また階段を上りはじめる。
「澪ちゃん、行こ!」
澪は、動けなかった。
聞かなかった。
どうしたいのかな、と。たったそれだけの言葉を、ひまりは聞かなかった。しゃがむ角度も、頭を撫でる手も、笑顔も、何一つ変わらないのに。その一言だけが、最初から存在しなかったみたいに抜け落ちていた。
体操服を忘れたあの子には、ちゃんと聞いていたのに。
もう泣かなくていい。
聞いたことのない言葉だった。ひまりの声で、ひまりの笑顔のまま、聞いたことのない言葉が出てきた。
予想が、外れた。
ひまりのことなら、だいたい分かる。ずっと、そう思ってきた。あの朝の、お腹すいちゃった、まで当てたのに。
それから澪は、中庭の花壇を思い出した。
渡り廊下でプリントを受け取っていたとき、声だけが聞こえてきた。どうしたの、とひまりは聞いた。鍵、失くしちゃって、と女の子が答えた。
その次に聞こえたのは、大丈夫、ボクが見つけてくる、だった。
あいだに、何もなかった。
あの日も、聞いていなかった。
澪は気づかなかった。いつものひまりだった、と思った。ハンカチを出して、膝の土を払ってあげて、それで終わりにした。
昨日の、あの男の子にも。羽音にかき消されて届かなかった言葉の中にも、きっと、その一言はなかった。
放課後、迎えに来る。
その言葉の意味を、ここで知っているのは澪だけだった。
商店街の人たちに、朝方まで、順番に。公園で、白衣の人は笑って言っていた。ずーっと夢の中にいられる。今のこの世界には、もう興味もなくなっちゃいますけど、と。
あの子は、ついさっきまで泣いていた。泣いていたから、ひまりは迎えに来る。
「澪ちゃーん! ノート、人質にしちゃうよー!」
二階と三階のあいだの踊り場から、ひまりが手を振っていた。
いつも通りの、朝の光みたいな笑顔で。
澪は、階段の手すりを握りしめた。
包帯を巻いた、右の手で。
包帯の下で、手首が鈍く疼いた。