放課後のチャイムが鳴ると、ひまりは澪の机にノートを置いた。
「ありがと、澪ちゃん! 助かっちゃった!」
そう言ったときには、もう教室の扉に向かって走っていた。
澪は鞄をつかんで、その後を追った。
階段を二階まで下りると、ひまりは一年生の教室の前に立っていた。扉から、朝の女の子が顔を出す。ひまりを見つけて、ぱっと表情が明るくなった。
「迎えに来たよ!」
ひまりが右手を差し出す。女の子は、その手をきゅっと握った。
二人は手をつないで、階段を下りていく。澪は、数段後ろからついていった。
昇降口で靴を履き替えたところで、ひまりが振り向いた。
「澪ちゃん! ボク、今日はこの子と帰るね! また明日ね!」
女の子と手をつないだまま、空いた左手を大きく振る。女の子も、真似をして小さく手を振った。
澪は、手を振り返さなかった。
止めなきゃ、と思った。
でも、どうやって。
この子の手を、ひまりの手から引き離すのか。みんなの見ている昇降口で、笑っている一年生の前で。誰にでも話しかけて、学校じゅうの誰もが知っている陽向ひまりのことを、その人についていっちゃだめ、と言うのか。
変身して、リボンで縛るのか。ここで。
どれも、できなかった。
「……うん」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
二人は校門を出ていった。
澪は昇降口の段の上から、その背中を見ていた。
ひまりは、走らなかった。
女の子の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いていた。水たまりの手前で立ち止まって、女の子が跳び越えるのを待って、また並んで歩き出す。
澪と帰るときの、歩き方だった。
二人の背中は、校門の先の角を曲がって、見えなくなった。
商店街には、足が向かなかった。
見回りの道は、いつも商店街から始まる。それを、澪は今日、逆からたどった。川沿いの土手を歩いて、住宅街を抜けて、最後に公園へ。アーケードの屋根が遠くに見えるたびに、目をそらした。
公園に入ると、広場のほうから子供たちの声が聞こえた。
「ひかりのたて!」
誰かが、リリィ役をやっているらしかった。甲高い笑い声が、砂場の向こうで弾けている。
澪は、その声のほうを見なかった。
入り口の車止めの横に、小さな背中があった。
赤いリードを両手で持って、しゃがみこんでいる。リードの先には、何もつながっていなかった。
雨の日、ひまりがその前にしゃがんで、待って、待って、それでも泣き声が止まなかった場所だった。
澪は足を止めた。
小春ちゃんは、泣いていなかった。
頬は乾いていて、目も赤くなかった。ただ車止めの横にしゃがんで、リードの先の、何もない地面を見ていた。
「小春ちゃん」
声をかけると、小春ちゃんは顔を上げた。
澪を見た。それだけだった。
通りすがりの誰かを見るみたいに澪の顔を見て、それから、またリードの先へ目を戻した。
「澪ちゃん」
後ろから、声がした。
フェンスのそばのベンチから、小春ちゃんのお母さんが立ち上がるところだった。
「こんにちは。学校の帰り?」
「……はい。こんにちは」
お母さんは、小春ちゃんの背中に目をやった。
「毎日ね、この時間になると、ここに来るの。コタロウのお散歩の時間」
澪は、何も言えずにうなずいた。
「止めたほうがいいのか、分からなくて。だから、こうして後ろからついてきてるの」
お母さんは、少しだけ笑った。目の下の影は、ひまりと二人で玄関を訪ねたときより、薄くなっていた。
「ねえ、澪ちゃん。少しだけ、聞いてもらってもいい?」
小春ちゃんが泣かなくなったのは、一週間くらい前の朝だった、とお母さんは言った。
「起こしに行ったら、もう起きてたの。ちゃんと着替えて、ベッドに座って。それから、学校に行くって」
あれだけ行けなかったのにね、とお母さんは言った。
それから毎朝、同じ時間に起きてくる。同じパンを選んで、同じ順番で食べる。ランドセルを背負って、行ってきます、と言う。帰ってくると宿題をして、この時間になると、リードを持って公園へ行く。
「泣かないのよ。一度も」
お母さんは、ベンチの背もたれに手を置いた。
「でもね、笑いもしないの。学校どうだった、って聞くと、ふつう、って。それだけ。……コタロウの話も、一度もしないの。あんなに泣いてたのに」
広場のほうで、また子供たちが笑った。小春ちゃんは振り向かなかった。
「それとね、変なことがあって」
お母さんは、声を少しだけ落とした。
「いつの間にか、あの子の枕元に、ゴーグルがあったの。子供用の、小さいの。レンズがシャボン玉みたいに、きらきらしてて。充電器まで、ちゃんとつないであったのよ」
澪の指先が、冷たくなった。
「誰にもらったのって聞いても、答えないの。でも、寝るときになると、自分でかけて寝るのよ。毎晩」
シャボン玉みたいなレンズ。
公園で、白衣の人が小春ちゃんの顔に近づけていった、あのゴーグルだった。あの日、ひまりが手首をつかんで止めた、あのゴーグル。
小春ちゃんが、一人目のお客さまです。
雨の公園で、あの人はそう言っていた。
町のみなさんに、順番に。今朝、ひまりも言っていた。みんな順番に待っててくれたんだよ、と。
「取り上げたほうがいいのかしら、とも思ったんだけど」
お母さんは、小春ちゃんの背中を見たまま言った。
「あれをかけるようになってから、あの子、夜に泣かなくなったの。ちゃんと眠れてるのよ。だったら、って……そのままにしてるの」
言うべきことは、いくつもあった。
白衣の人のこと。商店街のこと。町の人たちにゴーグルを届けて回っているのが、誰なのか。
どれも、言えなかった。言えば、ひまりの名前を出すことになる。お母さんは、きっと信じない。澪自身が、まだ信じたくなかった。
「泣かなくなったのは、いいことよね」
お母さんは、自分に言い聞かせるみたいに言った。
それから澪のほうを向いて、少しだけ明るい声を出した。
「そうだ。ひまりちゃんにも、また会いに来てって伝えてくれる? あの子、ひまりちゃんのこと、大好きだったから」
「……はい」
それしか、言えなかった。
この人のところにも、ひまりは来る。
順番が来たら、きっと、笑って。
夕焼けのチャイムが鳴った。
小春ちゃんが、すっと立ち上がった。リードを両手で持ち直して、公園の出口へ歩き出す。
小さな歩幅だった。
ゆっくり、ゆっくり。リードの先の、もういない誰かの足に合わせるみたいに。
お母さんは「またね、澪ちゃん」と頭を下げて、その少し後ろをついていった。
二つの背中が、住宅街の角の向こうへ消えた。
澪は、車止めの横に立ったまま、自分の左手を見下ろした。
今朝、ひまりに握られた手だった。
体温の高い手だった。何も変わっていなかった。笑顔も、しゃがむ角度も、頭を撫でる手つきも。
全部、同じなのに。
あの一言だけが、どこにもなかった。
研究所の時計が九時を回ったころ、扉が開いた。
「ただいま!」
ひまりはまっすぐお茶のテーブルへ駆けていって、ティーカップの隣のバイザーをかけ直した。それから、もう一度。
「ただいま!」
二回目は、バイザーに言ったのだ。
ユメミは、作業台の前で跳び上がった。
「同志! 待ってました! 待ってましたよ!」
昨日の夜から、一度も眠っていない。目の下には、ひまりと同じくらいの影ができている。でも、眠くなんてなかった。ぜーんぜん。
ユメミは作業台の上のものを、両手で抱え上げようとした。
「……っ、お、重いです……!」
結局、引きずるようにしてテーブルまで運んだ。ごとん、と重たい音がした。
「一晩のつもりが、こだわりすぎて丸一日かかっちゃいました!」
テーブルの上に、それはあった。
右腕にはめる、ガントレットだった。
肘から指の付け根までを覆う、ぶ厚い金属の籠手。ボルトの継ぎ目があちこちに並んで、関節のところからは、色とりどりのケーブルがむき出しのまま束ねてある。手の甲には、ひまわりの形をした歯車が一つ、はめこまれていた。
急いで作ったから、見た目はちょっと、がたがただ。でも、中身は自信作だった。
ユメミは歯車を指でつまんで、くるりと回してみせた。ぎり、ぎり、と小さな音が鳴った。
「サンライズ・コアちゃんです! 変身したら、右腕にがしゃーんって出てくるようにしてあります。光の盾も二重になりますし、リボンなんか、ぜーんぜん怖くありません!」
ユメミは胸を張った。
「見てください、すっごいでしょう! これでもう澪さんに困らされませんよ!」
ひまりは、テーブルの上をじっと見ていた。
バイザーの奥の目が、ゆっくりと丸くなる。
それから、ぱっと輝いた。
「ユメちゃん、すごい!」
次の瞬間、ユメミはひまりの腕の中にいた。
両腕で、ぎゅうっと抱きしめられていた。ひまりの髪から、夜の外の匂いがした。
ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。
「……ユメ、ちゃん?」
今、何と呼ばれたのだろう。
ユメちゃん。
頭の中で、もう一度繰り返す。それから、顔が一気に熱くなった。
「なっ、何をぉ! ユメミの方がお姉さんなんだぞーっ!」
腕の中でじたばたすると、ひまりは声を上げて笑った。
「えへへ。ユメちゃん!」
「ユメミさん、です! ユメミは二十八歳なんですからね!」
「ユメちゃん、ユメちゃん!」
ユメミは頬をぷうっとふくらませた。ふくらませたまま、口元がどうしてもゆるんでしまうので、白衣の袖で隠した。
ひまりはソファにぼすんと座って、今日のことを話しはじめた。
一年生の女の子と、手をつないで帰ったこと。その子が、帰り道で一度だけ笑ったこと。
話しているうちに、声がだんだんゆっくりになって、まぶたが下がっていった。
そのまま、ひまりは眠ってしまった。バイザーをかけたまま。目の下の影は、昨日より、また少し濃くなっていた。
ユメミはタオルケットを持ってきて、ひまりの肩までかけた。それから、ソファの横の床に座りこんだ。膝を抱えて、寝顔を見る。
眠れなかった。
丸一日起きていたのに、目がちっとも閉じてくれない。胸の奥が、ずっとぽかぽかしている。
天才だね、と言われたことは、何度もある。すごい発明だね、とも。ドクター、と呼ばれたこともある。ユメミさん、とも。
さっきのひまりは、「すごい」のあとに、ユメミを呼んだ。
抱きしめられたのは、ガントレットではなかった。ユメミだった。
ユメちゃん、なんて、誰にも呼ばれたことがない。
ユメミは作業台から『観測記録』を取ってきて、新しいページを開いた。
『同志の観測 七日目』
『サンライズ・コアちゃん、完成。同志、大喜び』
少し考えて、もう一行。
『同志が、ユメミのことを、ユメちゃんと呼んだ』
その下に、小さく書き足した。
『ユメミはお姉さんです』
書いてから、ユメミは一人でくすくす笑った。
窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが、ゆっくりと点滅している。
この町を、誰も泣かない町にする。ユメミがずっと考えてきたことだった。
今は、ソファの上の寝息のほうが、ずっと大事だった。
町の誰が泣いていても、笑っていても。
ひまりちゃんさえ、ここにいれば。
ほかのことは、もう、どうでもいいのかもしれない。
ユメミはそう思って、それから、そう思ったのははじめてだと気がついた。