泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

16 / 21
第7話 ユメちゃん、すごい!(後編)

放課後のチャイムが鳴ると、ひまりは澪の机にノートを置いた。

 

「ありがと、澪ちゃん! 助かっちゃった!」

 

そう言ったときには、もう教室の扉に向かって走っていた。

 

澪は鞄をつかんで、その後を追った。

 

階段を二階まで下りると、ひまりは一年生の教室の前に立っていた。扉から、朝の女の子が顔を出す。ひまりを見つけて、ぱっと表情が明るくなった。

 

「迎えに来たよ!」

 

ひまりが右手を差し出す。女の子は、その手をきゅっと握った。

 

二人は手をつないで、階段を下りていく。澪は、数段後ろからついていった。

 

昇降口で靴を履き替えたところで、ひまりが振り向いた。

 

「澪ちゃん! ボク、今日はこの子と帰るね! また明日ね!」

 

女の子と手をつないだまま、空いた左手を大きく振る。女の子も、真似をして小さく手を振った。

 

澪は、手を振り返さなかった。

 

止めなきゃ、と思った。

 

でも、どうやって。

 

この子の手を、ひまりの手から引き離すのか。みんなの見ている昇降口で、笑っている一年生の前で。誰にでも話しかけて、学校じゅうの誰もが知っている陽向ひまりのことを、その人についていっちゃだめ、と言うのか。

 

変身して、リボンで縛るのか。ここで。

 

どれも、できなかった。

 

「……うん」

 

それだけ言うのが、精いっぱいだった。

 

二人は校門を出ていった。

 

澪は昇降口の段の上から、その背中を見ていた。

 

ひまりは、走らなかった。

 

女の子の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いていた。水たまりの手前で立ち止まって、女の子が跳び越えるのを待って、また並んで歩き出す。

 

澪と帰るときの、歩き方だった。

 

二人の背中は、校門の先の角を曲がって、見えなくなった。

 

商店街には、足が向かなかった。

 

見回りの道は、いつも商店街から始まる。それを、澪は今日、逆からたどった。川沿いの土手を歩いて、住宅街を抜けて、最後に公園へ。アーケードの屋根が遠くに見えるたびに、目をそらした。

 

公園に入ると、広場のほうから子供たちの声が聞こえた。

 

「ひかりのたて!」

 

誰かが、リリィ役をやっているらしかった。甲高い笑い声が、砂場の向こうで弾けている。

 

澪は、その声のほうを見なかった。

 

入り口の車止めの横に、小さな背中があった。

 

赤いリードを両手で持って、しゃがみこんでいる。リードの先には、何もつながっていなかった。

 

小春(こはる)ちゃんだった。

 

雨の日、ひまりがその前にしゃがんで、待って、待って、それでも泣き声が止まなかった場所だった。

 

澪は足を止めた。

 

小春ちゃんは、泣いていなかった。

 

頬は乾いていて、目も赤くなかった。ただ車止めの横にしゃがんで、リードの先の、何もない地面を見ていた。

 

「小春ちゃん」

 

声をかけると、小春ちゃんは顔を上げた。

 

澪を見た。それだけだった。

 

通りすがりの誰かを見るみたいに澪の顔を見て、それから、またリードの先へ目を戻した。

 

「澪ちゃん」

 

後ろから、声がした。

 

フェンスのそばのベンチから、小春ちゃんのお母さんが立ち上がるところだった。

 

「こんにちは。学校の帰り?」

 

「……はい。こんにちは」

 

お母さんは、小春ちゃんの背中に目をやった。

 

「毎日ね、この時間になると、ここに来るの。コタロウのお散歩の時間」

 

澪は、何も言えずにうなずいた。

 

「止めたほうがいいのか、分からなくて。だから、こうして後ろからついてきてるの」

 

お母さんは、少しだけ笑った。目の下の影は、ひまりと二人で玄関を訪ねたときより、薄くなっていた。

 

「ねえ、澪ちゃん。少しだけ、聞いてもらってもいい?」

 

小春ちゃんが泣かなくなったのは、一週間くらい前の朝だった、とお母さんは言った。

 

「起こしに行ったら、もう起きてたの。ちゃんと着替えて、ベッドに座って。それから、学校に行くって」

 

あれだけ行けなかったのにね、とお母さんは言った。

 

それから毎朝、同じ時間に起きてくる。同じパンを選んで、同じ順番で食べる。ランドセルを背負って、行ってきます、と言う。帰ってくると宿題をして、この時間になると、リードを持って公園へ行く。

 

「泣かないのよ。一度も」

 

お母さんは、ベンチの背もたれに手を置いた。

 

「でもね、笑いもしないの。学校どうだった、って聞くと、ふつう、って。それだけ。……コタロウの話も、一度もしないの。あんなに泣いてたのに」

 

広場のほうで、また子供たちが笑った。小春ちゃんは振り向かなかった。

 

「それとね、変なことがあって」

 

お母さんは、声を少しだけ落とした。

 

「いつの間にか、あの子の枕元に、ゴーグルがあったの。子供用の、小さいの。レンズがシャボン玉みたいに、きらきらしてて。充電器まで、ちゃんとつないであったのよ」

 

澪の指先が、冷たくなった。

 

「誰にもらったのって聞いても、答えないの。でも、寝るときになると、自分でかけて寝るのよ。毎晩」

 

シャボン玉みたいなレンズ。

 

公園で、白衣の人が小春ちゃんの顔に近づけていった、あのゴーグルだった。あの日、ひまりが手首をつかんで止めた、あのゴーグル。

 

小春ちゃんが、一人目のお客さまです。

 

雨の公園で、あの人はそう言っていた。

 

町のみなさんに、順番に。今朝、ひまりも言っていた。みんな順番に待っててくれたんだよ、と。

 

「取り上げたほうがいいのかしら、とも思ったんだけど」

 

お母さんは、小春ちゃんの背中を見たまま言った。

 

「あれをかけるようになってから、あの子、夜に泣かなくなったの。ちゃんと眠れてるのよ。だったら、って……そのままにしてるの」

 

言うべきことは、いくつもあった。

 

白衣の人のこと。商店街のこと。町の人たちにゴーグルを届けて回っているのが、誰なのか。

 

どれも、言えなかった。言えば、ひまりの名前を出すことになる。お母さんは、きっと信じない。澪自身が、まだ信じたくなかった。

 

「泣かなくなったのは、いいことよね」

 

お母さんは、自分に言い聞かせるみたいに言った。

 

それから澪のほうを向いて、少しだけ明るい声を出した。

 

「そうだ。ひまりちゃんにも、また会いに来てって伝えてくれる? あの子、ひまりちゃんのこと、大好きだったから」

 

「……はい」

 

それしか、言えなかった。

 

この人のところにも、ひまりは来る。

 

順番が来たら、きっと、笑って。

 

夕焼けのチャイムが鳴った。

 

小春ちゃんが、すっと立ち上がった。リードを両手で持ち直して、公園の出口へ歩き出す。

 

小さな歩幅だった。

 

ゆっくり、ゆっくり。リードの先の、もういない誰かの足に合わせるみたいに。

 

お母さんは「またね、澪ちゃん」と頭を下げて、その少し後ろをついていった。

 

二つの背中が、住宅街の角の向こうへ消えた。

 

澪は、車止めの横に立ったまま、自分の左手を見下ろした。

 

今朝、ひまりに握られた手だった。

 

体温の高い手だった。何も変わっていなかった。笑顔も、しゃがむ角度も、頭を撫でる手つきも。

 

全部、同じなのに。

 

あの一言だけが、どこにもなかった。

 

研究所の時計が九時を回ったころ、扉が開いた。

 

「ただいま!」

 

ひまりはまっすぐお茶のテーブルへ駆けていって、ティーカップの隣のバイザーをかけ直した。それから、もう一度。

 

「ただいま!」

 

二回目は、バイザーに言ったのだ。

 

ユメミは、作業台の前で跳び上がった。

 

「同志! 待ってました! 待ってましたよ!」

 

昨日の夜から、一度も眠っていない。目の下には、ひまりと同じくらいの影ができている。でも、眠くなんてなかった。ぜーんぜん。

 

ユメミは作業台の上のものを、両手で抱え上げようとした。

 

「……っ、お、重いです……!」

 

結局、引きずるようにしてテーブルまで運んだ。ごとん、と重たい音がした。

 

「一晩のつもりが、こだわりすぎて丸一日かかっちゃいました!」

 

テーブルの上に、それはあった。

 

右腕にはめる、ガントレットだった。

 

肘から指の付け根までを覆う、ぶ厚い金属の籠手。ボルトの継ぎ目があちこちに並んで、関節のところからは、色とりどりのケーブルがむき出しのまま束ねてある。手の甲には、ひまわりの形をした歯車が一つ、はめこまれていた。

 

急いで作ったから、見た目はちょっと、がたがただ。でも、中身は自信作だった。

 

ユメミは歯車を指でつまんで、くるりと回してみせた。ぎり、ぎり、と小さな音が鳴った。

 

「サンライズ・コアちゃんです! 変身したら、右腕にがしゃーんって出てくるようにしてあります。光の盾も二重になりますし、リボンなんか、ぜーんぜん怖くありません!」

 

ユメミは胸を張った。

 

「見てください、すっごいでしょう! これでもう澪さんに困らされませんよ!」

 

ひまりは、テーブルの上をじっと見ていた。

 

バイザーの奥の目が、ゆっくりと丸くなる。

 

それから、ぱっと輝いた。

 

「ユメちゃん、すごい!」

 

次の瞬間、ユメミはひまりの腕の中にいた。

 

両腕で、ぎゅうっと抱きしめられていた。ひまりの髪から、夜の外の匂いがした。

 

ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。

 

「……ユメ、ちゃん?」

 

今、何と呼ばれたのだろう。

 

ユメちゃん。

 

頭の中で、もう一度繰り返す。それから、顔が一気に熱くなった。

 

「なっ、何をぉ! ユメミの方がお姉さんなんだぞーっ!」

 

腕の中でじたばたすると、ひまりは声を上げて笑った。

 

「えへへ。ユメちゃん!」

 

「ユメミさん、です! ユメミは二十八歳なんですからね!」

 

「ユメちゃん、ユメちゃん!」

 

ユメミは頬をぷうっとふくらませた。ふくらませたまま、口元がどうしてもゆるんでしまうので、白衣の袖で隠した。

 

ひまりはソファにぼすんと座って、今日のことを話しはじめた。

 

一年生の女の子と、手をつないで帰ったこと。その子が、帰り道で一度だけ笑ったこと。

 

話しているうちに、声がだんだんゆっくりになって、まぶたが下がっていった。

 

そのまま、ひまりは眠ってしまった。バイザーをかけたまま。目の下の影は、昨日より、また少し濃くなっていた。

 

ユメミはタオルケットを持ってきて、ひまりの肩までかけた。それから、ソファの横の床に座りこんだ。膝を抱えて、寝顔を見る。

 

眠れなかった。

 

丸一日起きていたのに、目がちっとも閉じてくれない。胸の奥が、ずっとぽかぽかしている。

 

天才だね、と言われたことは、何度もある。すごい発明だね、とも。ドクター、と呼ばれたこともある。ユメミさん、とも。

 

さっきのひまりは、「すごい」のあとに、ユメミを呼んだ。

 

抱きしめられたのは、ガントレットではなかった。ユメミだった。

 

ユメちゃん、なんて、誰にも呼ばれたことがない。

 

ユメミは作業台から『観測記録』を取ってきて、新しいページを開いた。

 

『同志の観測 七日目』

 

『サンライズ・コアちゃん、完成。同志、大喜び』

 

少し考えて、もう一行。

 

『同志が、ユメミのことを、ユメちゃんと呼んだ』

 

その下に、小さく書き足した。

 

『ユメミはお姉さんです』

 

書いてから、ユメミは一人でくすくす笑った。

 

窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが、ゆっくりと点滅している。

 

この町を、誰も泣かない町にする。ユメミがずっと考えてきたことだった。

 

今は、ソファの上の寝息のほうが、ずっと大事だった。

 

町の誰が泣いていても、笑っていても。

 

ひまりちゃんさえ、ここにいれば。

 

ほかのことは、もう、どうでもいいのかもしれない。

 

ユメミはそう思って、それから、そう思ったのははじめてだと気がついた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。