泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第8話 もう、これからずーっと、泣かなくてすむからね(前編)

朝の廊下は、ゆうべの雨の匂いがまだ少しだけ残っていた。

 

蒼井澪(あおいみお)は、右手首をかばいながら階段を上った。包帯は今朝、自分で巻き直した。お母さんほど上手には巻けなくて、袖口から白い端が少しだけはみ出している。

 

「澪ちゃん、おはよっ!」

 

二階まで来たところで、後ろから声がした。

 

陽向(ひなた)ひまりが、一段飛ばしで追いついてくる。寝癖が一房、右耳の上で跳ねていた。目の下の影は、昨日と同じくらい濃かった。

 

「……おはよう」

 

ひまりは澪の隣に並んで、それから、廊下の先にぱっと手を振った。

 

「おはよ!」

 

昨日の一年生の女の子だった。

 

ほかの一年生たちと同じ速さで、廊下をまっすぐ歩いていく。階段の脇の、昨日うずくまっていた壁際の前を通るときも、そちらを見なかった。ひまりが振った手にも、顔を上げなかった。

 

そのまま、教室の扉の向こうへ消えた。

 

「あの子、もう泣いてないね!」

 

ひまりは嬉しそうに言って、また階段を上りはじめた。

 

澪は、女の子が消えた扉を見ていた。

 

昨日、きょとんとして、それから少しだけ笑った子だった。その子が、手を振られても、もう誰のほうも見なかった。

 

小春(こはる)ちゃんのお母さんの言葉が、まだ鞄の底にしまってある気がした。

 

ひまりちゃんにも、また会いに来てって。

 

伝えれば、ひまりは行く。今日にでも、笑って。

 

だから澪は、まだ伝えていなかった。

 

放課後は、ひまりもいつもの角まで一緒に帰った。

 

水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待つ。何も変わらない歩き方だった。

 

角で、ひまりはくるっと振り返った。

 

「ボク、今日は公園に用事! また明日ね!」

 

そう言って、走り出した。

 

公園のほうではなかった。町外れの、坂のほうへ。

 

澪は、その背中を見送らなかった。

 

公園。

 

昨日、砂場の向こうで聞こえていた声を思い出す。ひかりのたて、と叫んでいた、甲高い声。

 

澪は、反対の方向へ走り出した。

 

公園には、まだ誰も来ていない時間だった。

 

入り口の車止めの横にも、小春ちゃんの姿はなかった。

 

澪は、フェンス沿いのベンチに座った。昨日、小春ちゃんのお母さんが座っていたベンチだった。

 

砂場の向こうの広場で、子供たちが輪になっていた。五人、六人。

 

昨日は、その声のほうを見なかった。

 

今日は、見た。

 

「じゃんけん、ぽん!」

 

二つ結びの女の子が、拳を高く突き上げる。おかっぱの女の子が、縄跳びの縄を首にかけたまま「あいこでしょ!」と続ける。

 

その輪の端に、水色の傘があった。

 

黄色い星の模様の、子供用の傘。曇り空の下で、男の子がそれを両手で抱えている。

 

「……ぼく、カサオバケ?」

 

男の子が、自分の出したチョキを見下ろした。

 

「だって負けたもん」

 

「傘持ってるし、ちょうどいいじゃん」

 

前は、誰もやりたがらなかった役だった。いないけど、いることにする。そう決めていたはずの役だった。

 

男の子の口が、への字に曲がった。

 

「……やだ」

 

傘を抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。

 

「ぼく、カサオバケ、やだ……」

 

声が、ふるえていた。目のふちに、みるみる涙がたまっていく。

 

二つ結びの女の子が、輪から一歩出た。

 

それから、男の子の前にしゃがみこんだ。

 

目線を、合わせる。

 

「どうしたの?」

 

澪の手が、膝の上で止まった。

 

女の子は、男の子がしゃくり上げるのを待った。うん、うん、と小さく頷いて、それから、少しだけ首をかしげた。

 

「キミはどうしたいのかな?」

 

男の子が、袖で目をこすった。

 

「……ほんものの、リリィに、あいたい」

 

女の子は、困ったように眉を寄せた。

 

ほんものはこないよ、と誰かが言った。

 

澪は、立ち上がっていた。

 

ベンチの前で、膝が少しふるえていた。

 

あの子の言葉は、まだ、あの子のまねの中にだけ残っていた。

 

足音が聞こえたのは、そのときだった。

 

ぱたぱたぱた、と入り口のほうから。

 

振り向かなくても分かった。

 

オレンジ色の髪が、車止めのあいだから飛びこんでくる。制服のまま、鞄は持っていなかった。

 

その後ろに、白衣があった。

 

ユメミは両腕で段ボール箱を抱えて、小走りについてきていた。袖の余った手が、箱のふちをしっかりとつかんでいる。

 

澪は、二人の前に立った。

 

ひまりの足が、止まった。

 

「あっ、澪ちゃん!」

 

ぱっと、顔が明るくなる。

 

「アイリスさん! こんにちは!」

 

ユメミが、箱を抱えたままぺこりと頭を下げた。

 

澪は、ユメミを見なかった。ひまりだけを見た。

 

「ひまり。あの子たちは、だめ」

 

声は、ふるえなかった。

 

ひまりは、きょとんとして澪を見た。それから、にっと笑った。

 

「大丈夫! みんな、ちゃんと笑顔にするから!」

 

本気の声だった。

 

澪が何か言うより早く、広場のほうから、声が上がった。

 

「リリィーーっ!」

 

男の子だった。

 

傘を抱えたまま、曇った空に向かって叫んでいた。涙で、声が裏返っていた。

 

ひまりが、そちらを向いた。

 

その目が、ぱっと輝いた。

 

「呼ばれちゃった!」

 

ひまりは澪の横をすり抜けて、走り出した。

 

入り口から右へ。滑り台のほうへ。

 

澪は、その背中を追った。

 

滑り台の陰。

 

コタロウがいなくなった雨の日、小春ちゃんのそばを離れて、二人で駆けこんだ場所だった。あのときは、いつものように右手と左手をつないで、黄色と青の光に包まれた。

 

澪は、滑り台の端で足を止めた。

 

ひまりが、立っていた。

 

一度だけ、左右を見る。人目がないのを確かめる、いつもの仕草だった。

 

それから、左手で、胸元のサンブルームを掲げた。

 

「シャイン・ブルーム!」

 

右手は、体の横で、空いたままだった。

 

ラベンダー色の光が広がる。ひまわりの花びらだけが、ひまりの周りを渦を巻いて立ちのぼる。ブーツ、グローブ、スカート、腰のリボン。白いケープが肩にかかり、額でゴーグルの形の飾りが跳ね上がる。

 

商店街の路地で見たのと、同じだった。

 

そこまでは。

 

光の盾が、開かなかった。

 

かわりに、光が、ひまりの右腕に集まっていった。

 

空いたままの右手に、肘に、まるで吸い寄せられるように。ラベンダーの光がそこだけ濃くなって、ぎゅっと固まっていく。

 

がしゃん、と音がした。

 

金属の音だった。

 

光が晴れると、ひまりの右腕は、肘から指の付け根まで、ぶ厚い籠手に覆われていた。

 

ボルトの継ぎ目が、いくつも並んでいる。関節のところから、色とりどりのケーブルがむき出しのまま束ねてある。手の甲には、ひまわりの形をした歯車が一つ。

 

ぎり、と歯車が回った。

 

ぎり、ぎり。

 

ひまりが、その右腕を前へ突き出した。

 

ひまわりの花弁の形をした光の盾が、ぱっと開いた。その内側に、もう一枚。二重になった花弁が、重なって光る。

 

「みんなの笑顔は、ボクが作る! 陽だまりの花、シャインリリィ!」

 

ひまりは籠手の拳を、ぎゅっと握って、開いた。

 

くるっと一回転して、笑う。

 

ラベンダーのスカートがふわりと広がって、元に戻った。

 

歯車の回る音だけが、まだ鳴っていた。

 

ぎり、ぎり、と。

 

澪は、その継ぎ目のボルトから、目を離せなかった。

 

リリィが、滑り台の陰から飛び出した。

 

広場で、歓声が弾けた。

 

「リリィだ!」

 

「ほんものだ!」

 

「見て、手! 新しいリリィだ! かっこいい!」

 

「ロボットの手だ!」

 

子供たちが、跳びはねていた。輪の真ん中で、男の子が傘を抱えたまま、口を開けて固まっている。

 

「……ほんとに、きた」

 

リリィは子供たちに大きく手を振って、広場のほうへ歩き出した。

 

左手だった。

 

澪は、胸元のブルーベルを掲げた。

 

左手で。

 

右の手首は、ペンダントを握れるほど曲がらなかった。つなぐ相手のいない右手が、体の横で空いたまま、青い光が澪を包んだ。

 

肘までのグローブが、包帯の白を隠した。痛みは、隠れなかった。

 

澪は左手でアイリスステッキを握り、地面を蹴った。

 

リリィの横を抜けて、前へ。広場と、リリィのあいだへ。

 

砂場の手前で、澪は着地した。

 

湿った砂の縁を、かかとが踏んだ。背中の向こうに、子供たちがいる。

 

「アイリスもきた!」

 

「アイリスだ!」

 

澪は、振り向かずに言った。

 

「みんな、下がってて!」

 

えー、なんで、と声が上がる。

 

リリィが、足を止めた。澪の六歩ほど手前だった。それから澪の肩越しに、子供たちへ笑いかけた。

 

「ちょっとだけ待っててね!」

 

子供たちは、顔を見合わせた。それから、わっとブランコのほうへ駆けていった。低い柵にしがみついて、こちらを見ている。

 

「とっくん?」

 

「リリィとアイリスの、とっくんだ!」

 

「リリィ、がんばれー!」

 

その中に、一つだけ、違う声が混じった。

 

「アイリス、がんばれー!」

 

おかっぱの女の子だった。首にかけた縄跳びの縄を、両手で握りしめていた。

 

リリィが、一歩前へ出た。

 

澪は、ステッキを振った。

 

青い花びらの光弾が、リリィの足元めがけて飛ぶ。当てるつもりはなかった。止まって、と言うつもりだった。

 

左手の狙いは、わずかにずれた。

 

光弾は、リリィの右へ逸れた。

 

リリィが、右腕を上げた。

 

二重の盾が開く。花びらが二枚、重なって光る。逸れた光弾も、まっすぐの光弾も、外側の花弁に当たって、ぱちぱちと弾けて消えた。内側の花弁は、揺れもしなかった。

 

ぎり、と歯車が回った。

 

入り口のほうで、ぱちぱちと拍手が聞こえた。

 

段ボール箱の上に、ユメミが座っていた。両手を胸の前で合わせて、目を輝かせている。

 

「二重の盾、ちゃんと出ました……!」

 

それから、自分の頬を両手で包んだ。

 

「やっぱりユメミって、天才かも!」

 

リリィの後ろで、白衣が嬉しそうに揺れていた。

 

リリィは、もう一歩、前へ出た。

 

澪は、もう一度撃った。今度は、盾の真ん中へ。

 

花びらが、ぱちんと弾けた。リリィは止まらなかった。盾を構えたまま、急ぎもせず、歩いて距離を詰めてくる。

 

五歩。

 

澪は、ステッキをくるりと回した。

 

光のリボンが、しゅるりと伸びた。

 

リリィの右腕に巻きつく。籠手の手首から、肘まで。継ぎ目のボルトの上を、青い光の帯が何重にも締めつけていく。

 

盾が、ほろりとほどけて消えた。

 

リリィの足が、止まった。

 

リボンが、ぴんと張った。

 

澪の左手から、リリィの右腕まで。曇り空の下で、青い光が一本、まっすぐにつながっていた。

 

変身するとき、いつもつないでいた組み合わせだった。

 

ひまりの右手と、澪の左手。

 

リリィは、腕を引かなかった。

 

商店街のときのように、身をよじりもしなかった。縛られた右腕を、ただ体の前に下ろして、澪を見ていた。

 

歯車だけが、ぎり、ぎり、と鳴っていた。

 

「澪ちゃん。これ、ほどいて」

 

困ったような声だった。怒ってはいなかった。

 

澪は、ステッキを握り直した。

 

左の指に、力をこめる。右の手首が、グローブの下でじんと疼いた。

 

「ひまりは、聞いてくれたじゃない」

 

声が、勝手に出ていた。

 

「あのベンチで。どうしたいのかなって。私が答えるまで、ずっと待っててくれた」

 

リリィは、黙って聞いていた。

 

「私に、選ばせてくれたじゃない」

 

ブランコの柵の向こうで、子供たちが何か叫んでいる。澪には、もう聞こえなかった。

 

「今のひまりは、間違ってるよ」

 

息を、吸う。

 

「泣くかどうかを決めるのだって、その子なんだよ」

 

リリィの目が、少しだけ細くなった。

 

笑ったのではなかった。

 

澪が泣きそうになったとき、ひまりはいつも、こういう目をした。困ったように眉を下げて、それでも目だけは、まっすぐこちらを見ている。

 

リボンの向こうで、リリィの唇が動いた。

 

「あの日、澪ちゃん本当は泣いてたよね。ボク、窓の下で聞いてたのに止めなかった。もう、あんな思いさせたくないの」

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