朝の廊下は、ゆうべの雨の匂いがまだ少しだけ残っていた。
「澪ちゃん、おはよっ!」
二階まで来たところで、後ろから声がした。
「……おはよう」
ひまりは澪の隣に並んで、それから、廊下の先にぱっと手を振った。
「おはよ!」
昨日の一年生の女の子だった。
ほかの一年生たちと同じ速さで、廊下をまっすぐ歩いていく。階段の脇の、昨日うずくまっていた壁際の前を通るときも、そちらを見なかった。ひまりが振った手にも、顔を上げなかった。
そのまま、教室の扉の向こうへ消えた。
「あの子、もう泣いてないね!」
ひまりは嬉しそうに言って、また階段を上りはじめた。
澪は、女の子が消えた扉を見ていた。
昨日、きょとんとして、それから少しだけ笑った子だった。その子が、手を振られても、もう誰のほうも見なかった。
ひまりちゃんにも、また会いに来てって。
伝えれば、ひまりは行く。今日にでも、笑って。
だから澪は、まだ伝えていなかった。
放課後は、ひまりもいつもの角まで一緒に帰った。
水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待つ。何も変わらない歩き方だった。
角で、ひまりはくるっと振り返った。
「ボク、今日は公園に用事! また明日ね!」
そう言って、走り出した。
公園のほうではなかった。町外れの、坂のほうへ。
澪は、その背中を見送らなかった。
公園。
昨日、砂場の向こうで聞こえていた声を思い出す。ひかりのたて、と叫んでいた、甲高い声。
澪は、反対の方向へ走り出した。
公園には、まだ誰も来ていない時間だった。
入り口の車止めの横にも、小春ちゃんの姿はなかった。
澪は、フェンス沿いのベンチに座った。昨日、小春ちゃんのお母さんが座っていたベンチだった。
砂場の向こうの広場で、子供たちが輪になっていた。五人、六人。
昨日は、その声のほうを見なかった。
今日は、見た。
「じゃんけん、ぽん!」
二つ結びの女の子が、拳を高く突き上げる。おかっぱの女の子が、縄跳びの縄を首にかけたまま「あいこでしょ!」と続ける。
その輪の端に、水色の傘があった。
黄色い星の模様の、子供用の傘。曇り空の下で、男の子がそれを両手で抱えている。
「……ぼく、カサオバケ?」
男の子が、自分の出したチョキを見下ろした。
「だって負けたもん」
「傘持ってるし、ちょうどいいじゃん」
前は、誰もやりたがらなかった役だった。いないけど、いることにする。そう決めていたはずの役だった。
男の子の口が、への字に曲がった。
「……やだ」
傘を抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。
「ぼく、カサオバケ、やだ……」
声が、ふるえていた。目のふちに、みるみる涙がたまっていく。
二つ結びの女の子が、輪から一歩出た。
それから、男の子の前にしゃがみこんだ。
目線を、合わせる。
「どうしたの?」
澪の手が、膝の上で止まった。
女の子は、男の子がしゃくり上げるのを待った。うん、うん、と小さく頷いて、それから、少しだけ首をかしげた。
「キミはどうしたいのかな?」
男の子が、袖で目をこすった。
「……ほんものの、リリィに、あいたい」
女の子は、困ったように眉を寄せた。
ほんものはこないよ、と誰かが言った。
澪は、立ち上がっていた。
ベンチの前で、膝が少しふるえていた。
あの子の言葉は、まだ、あの子のまねの中にだけ残っていた。
足音が聞こえたのは、そのときだった。
ぱたぱたぱた、と入り口のほうから。
振り向かなくても分かった。
オレンジ色の髪が、車止めのあいだから飛びこんでくる。制服のまま、鞄は持っていなかった。
その後ろに、白衣があった。
ユメミは両腕で段ボール箱を抱えて、小走りについてきていた。袖の余った手が、箱のふちをしっかりとつかんでいる。
澪は、二人の前に立った。
ひまりの足が、止まった。
「あっ、澪ちゃん!」
ぱっと、顔が明るくなる。
「アイリスさん! こんにちは!」
ユメミが、箱を抱えたままぺこりと頭を下げた。
澪は、ユメミを見なかった。ひまりだけを見た。
「ひまり。あの子たちは、だめ」
声は、ふるえなかった。
ひまりは、きょとんとして澪を見た。それから、にっと笑った。
「大丈夫! みんな、ちゃんと笑顔にするから!」
本気の声だった。
澪が何か言うより早く、広場のほうから、声が上がった。
「リリィーーっ!」
男の子だった。
傘を抱えたまま、曇った空に向かって叫んでいた。涙で、声が裏返っていた。
ひまりが、そちらを向いた。
その目が、ぱっと輝いた。
「呼ばれちゃった!」
ひまりは澪の横をすり抜けて、走り出した。
入り口から右へ。滑り台のほうへ。
澪は、その背中を追った。
滑り台の陰。
コタロウがいなくなった雨の日、小春ちゃんのそばを離れて、二人で駆けこんだ場所だった。あのときは、いつものように右手と左手をつないで、黄色と青の光に包まれた。
澪は、滑り台の端で足を止めた。
ひまりが、立っていた。
一度だけ、左右を見る。人目がないのを確かめる、いつもの仕草だった。
それから、左手で、胸元のサンブルームを掲げた。
「シャイン・ブルーム!」
右手は、体の横で、空いたままだった。
ラベンダー色の光が広がる。ひまわりの花びらだけが、ひまりの周りを渦を巻いて立ちのぼる。ブーツ、グローブ、スカート、腰のリボン。白いケープが肩にかかり、額でゴーグルの形の飾りが跳ね上がる。
商店街の路地で見たのと、同じだった。
そこまでは。
光の盾が、開かなかった。
かわりに、光が、ひまりの右腕に集まっていった。
空いたままの右手に、肘に、まるで吸い寄せられるように。ラベンダーの光がそこだけ濃くなって、ぎゅっと固まっていく。
がしゃん、と音がした。
金属の音だった。
光が晴れると、ひまりの右腕は、肘から指の付け根まで、ぶ厚い籠手に覆われていた。
ボルトの継ぎ目が、いくつも並んでいる。関節のところから、色とりどりのケーブルがむき出しのまま束ねてある。手の甲には、ひまわりの形をした歯車が一つ。
ぎり、と歯車が回った。
ぎり、ぎり。
ひまりが、その右腕を前へ突き出した。
ひまわりの花弁の形をした光の盾が、ぱっと開いた。その内側に、もう一枚。二重になった花弁が、重なって光る。
「みんなの笑顔は、ボクが作る! 陽だまりの花、シャインリリィ!」
ひまりは籠手の拳を、ぎゅっと握って、開いた。
くるっと一回転して、笑う。
ラベンダーのスカートがふわりと広がって、元に戻った。
歯車の回る音だけが、まだ鳴っていた。
ぎり、ぎり、と。
澪は、その継ぎ目のボルトから、目を離せなかった。
リリィが、滑り台の陰から飛び出した。
広場で、歓声が弾けた。
「リリィだ!」
「ほんものだ!」
「見て、手! 新しいリリィだ! かっこいい!」
「ロボットの手だ!」
子供たちが、跳びはねていた。輪の真ん中で、男の子が傘を抱えたまま、口を開けて固まっている。
「……ほんとに、きた」
リリィは子供たちに大きく手を振って、広場のほうへ歩き出した。
左手だった。
澪は、胸元のブルーベルを掲げた。
左手で。
右の手首は、ペンダントを握れるほど曲がらなかった。つなぐ相手のいない右手が、体の横で空いたまま、青い光が澪を包んだ。
肘までのグローブが、包帯の白を隠した。痛みは、隠れなかった。
澪は左手でアイリスステッキを握り、地面を蹴った。
リリィの横を抜けて、前へ。広場と、リリィのあいだへ。
砂場の手前で、澪は着地した。
湿った砂の縁を、かかとが踏んだ。背中の向こうに、子供たちがいる。
「アイリスもきた!」
「アイリスだ!」
澪は、振り向かずに言った。
「みんな、下がってて!」
えー、なんで、と声が上がる。
リリィが、足を止めた。澪の六歩ほど手前だった。それから澪の肩越しに、子供たちへ笑いかけた。
「ちょっとだけ待っててね!」
子供たちは、顔を見合わせた。それから、わっとブランコのほうへ駆けていった。低い柵にしがみついて、こちらを見ている。
「とっくん?」
「リリィとアイリスの、とっくんだ!」
「リリィ、がんばれー!」
その中に、一つだけ、違う声が混じった。
「アイリス、がんばれー!」
おかっぱの女の子だった。首にかけた縄跳びの縄を、両手で握りしめていた。
リリィが、一歩前へ出た。
澪は、ステッキを振った。
青い花びらの光弾が、リリィの足元めがけて飛ぶ。当てるつもりはなかった。止まって、と言うつもりだった。
左手の狙いは、わずかにずれた。
光弾は、リリィの右へ逸れた。
リリィが、右腕を上げた。
二重の盾が開く。花びらが二枚、重なって光る。逸れた光弾も、まっすぐの光弾も、外側の花弁に当たって、ぱちぱちと弾けて消えた。内側の花弁は、揺れもしなかった。
ぎり、と歯車が回った。
入り口のほうで、ぱちぱちと拍手が聞こえた。
段ボール箱の上に、ユメミが座っていた。両手を胸の前で合わせて、目を輝かせている。
「二重の盾、ちゃんと出ました……!」
それから、自分の頬を両手で包んだ。
「やっぱりユメミって、天才かも!」
リリィの後ろで、白衣が嬉しそうに揺れていた。
リリィは、もう一歩、前へ出た。
澪は、もう一度撃った。今度は、盾の真ん中へ。
花びらが、ぱちんと弾けた。リリィは止まらなかった。盾を構えたまま、急ぎもせず、歩いて距離を詰めてくる。
五歩。
澪は、ステッキをくるりと回した。
光のリボンが、しゅるりと伸びた。
リリィの右腕に巻きつく。籠手の手首から、肘まで。継ぎ目のボルトの上を、青い光の帯が何重にも締めつけていく。
盾が、ほろりとほどけて消えた。
リリィの足が、止まった。
リボンが、ぴんと張った。
澪の左手から、リリィの右腕まで。曇り空の下で、青い光が一本、まっすぐにつながっていた。
変身するとき、いつもつないでいた組み合わせだった。
ひまりの右手と、澪の左手。
リリィは、腕を引かなかった。
商店街のときのように、身をよじりもしなかった。縛られた右腕を、ただ体の前に下ろして、澪を見ていた。
歯車だけが、ぎり、ぎり、と鳴っていた。
「澪ちゃん。これ、ほどいて」
困ったような声だった。怒ってはいなかった。
澪は、ステッキを握り直した。
左の指に、力をこめる。右の手首が、グローブの下でじんと疼いた。
「ひまりは、聞いてくれたじゃない」
声が、勝手に出ていた。
「あのベンチで。どうしたいのかなって。私が答えるまで、ずっと待っててくれた」
リリィは、黙って聞いていた。
「私に、選ばせてくれたじゃない」
ブランコの柵の向こうで、子供たちが何か叫んでいる。澪には、もう聞こえなかった。
「今のひまりは、間違ってるよ」
息を、吸う。
「泣くかどうかを決めるのだって、その子なんだよ」
リリィの目が、少しだけ細くなった。
笑ったのではなかった。
澪が泣きそうになったとき、ひまりはいつも、こういう目をした。困ったように眉を下げて、それでも目だけは、まっすぐこちらを見ている。
リボンの向こうで、リリィの唇が動いた。
「あの日、澪ちゃん本当は泣いてたよね。ボク、窓の下で聞いてたのに止めなかった。もう、あんな思いさせたくないの」