窓の下で。
その言葉だけが、耳の中に残った。
四月の最初の日曜日だった。お父さんを駅で見送って、家に帰って、いつも通りに晩ごはんを食べた。眠れなくて、机のスタンドをつけた。隣の部屋からいびきが聞こえなくて、それだけで、涙が止まらなくなった。
声が漏れないように、膝を抱えて顔を押しつけた。
漏れていない、と思っていた。
スタンドの明かりは、朝まで消せなかった。
あの窓の下に、ひまりがいた。
澪が膝に顔を押しつけているあいだ、ずっと。明かりが消えないのを、見上げていた。
次の朝、玄関のチャイムが鳴った。
おはよっ、迎えに来た、とひまりは笑った。早起きが何より苦手なひまりが、いつもより三十分も早く。寝癖を跳ねさせて、目の下にうっすら影を作って。
どうしたの、こんなに早く、と澪は聞いた。ひまりは、えへへ、と頭をかいただけだった。
たまたま早く目が覚めたんだろう、と澪は思った。
たまたまでは、なかった。
ひまりは、眠っていなかった。
それから、もう一つの朝を思い出した。
ひまりが帰ってこなかった三日目の夜、澪は眠れないまま朝を迎えた。家を出る三十分前に、チャイムが鳴った。
あの朝も、三十分だった。
あの夜の涙を、ひまりは知っていた。
知らないままでいい、と思っていたのは、澪だけだった。
ステッキを握る左手から、力が抜けた。
ぎり、と歯車が一つ鳴った。
青いリボンが、籠手の上でかすかにきしんだ。
澪は、握り直そうとした。
指が、うまく動かなかった。
「えいっ!」
リリィが、縛られた右腕に、ほんの少しだけ力を入れた。
商店街で身をよじったときのような、力いっぱいの引き方ではなかった。固い瓶のふたを開けるときみたいな、いつもの明るい声だった。
ぷつん、と小さな音がした。
リボンが、リリィの腕の上でちぎれた。
ちぎれたところから、青い光がほろほろとほどけていく。花びらになって、湿った砂の上に散って、消えていく。
澪のステッキの先から伸びていたものが、何もなくなった。
ひまりの右手と、澪の左手。
その二つをつないでいたものが、もうどこにもなかった。
商店街では、あれだけ身をよじっても、ひまりにはほどけなかったリボンだった。
ちぎったのは、ひまりの拳だった。あの白衣の人が作った、籠手の拳だった。
二重の盾、ちゃんと出ました、とあの人は手を叩いていた。
あの人の作ったものが、ひまりと澪のあいだを、こんなに簡単に断ち切った。
入り口のほうで、ユメミが箱から跳び下りた。
「ほら! やっぱり、ユメミの発明があれば同志は最強なんです!」
むふーっ、と鼻息を一つ吐いて、白衣の胸を張る。自分の作ったものがひまりの役に立ったことが、嬉しくてたまらない顔だった。
リリィが、右腕を一度振った。ちぎれた花びらの最後の一枚が、籠手から落ちた。
それから、澪を見た。
眉が、すとんと下がっていた。
「ごめんね、ちょっとだけ痛いかも! すぐ終わらせるから!」
リリィの体が沈んだ。
次の瞬間、もう目の前にいた。
籠手の拳が、振り上げられる。
澪は、目をつぶらなかった。
拳は、澪には届かなかった。
澪の一歩手前の地面に、まっすぐ打ちこまれた。
どん、と足の裏から響いた。
ひまわりの花弁の形をした光が、拳を中心に、輪になって弾けた。澪の足が、地面から離れた。
体が後ろへ持っていかれて、背中から、砂場に落ちた。
湿った砂が、冷たかった。
ステッキが左手からすっぽ抜けて、砂の上をころころと転がった。
起き上がろうとして、膝が笑った。
腕をついて、上半身だけを起こす。右の手首が、グローブの下でじんと響いた。髪にも、ケープにも、湿った砂がついている。
ステッキは、澪と、リリィのあいだに落ちていた。
リリィが、歩いてくる。
急がずに、砂場の縁をまたいで。澪の正面まで来て、砂の上に膝をついた。
左手が、伸びてきた。
澪の髪についた砂を、そっと払う。何度も。指先が、こめかみに一瞬だけ触れた。
それから、リリィは足元のステッキに手を伸ばした。
右手だった。
籠手の指が、ステッキの柄をつかんだ。
ミシッ。
青いアイリスの花の下で、柄が嫌な音を立てた。
「あれっ」
リリィは、ぱっと指を開いた。
それから、少しのあいだ、ステッキを見ていた。
籠手の指の離れたところに、細いひびが一本、走っていた。
リリィの左手が、ゆっくりと伸びた。柄の真ん中ではなく、端のほうを、指先でそっとつまむ。持ち上げるのにも、時間をかけた。卵でも拾い上げるみたいな手つきだった。
壊さないように、慎重に、左手に持ち替える。
澪の目には、ひまりが、ステッキの軽さを初めて知ったように見えた。これは、こんなに脆いものだったんだ、と。
リリィは一度、手を止めた。
それから体を少し乗り出して、包帯の右手のほうではなく、澪の左手を取った。その指に、ステッキをそっと握らせる。
手の甲を、上から一度だけ包んでから、離れた。
あったかい手だった。
澪は、自分の左手を見下ろした。
握らせてくれたのは、ひまりの左手だった。
右手では、なかった。
変身するとき、いつも澪の左手を握っていた手。昇降口で、昨日の朝も、一瞬だけ握ってくれた手。
その手は、今、ボルトの継ぎ目の向こうにあった。リボンをちぎった拳の中に。
「リリィー!」
ブランコの柵から、子供たちが駆けてきた。
とっくん、終わったと思ったのだろう。砂を蹴って、口々に何か叫びながら、リリィを取り囲む。
リリィは立ち上がって、子供たちのほうを向き、すぐにまたしゃがみこんだ。
「みんな、お待たせ! よーし、ハイタッチ!」
右手を、上げた。
一番に飛びついてきたのは、二つ結びの女の子だった。小さな手のひらが、勢いよく籠手へ向かっていく。
ぎり、と歯車が鳴った。
女の子の手が、金属の手前でぴたりと止まった。ひゃっ、と小さな声を上げて、手を引っこめる。
「あれっ」
リリィは、自分の右手を見た。それから、えへへ、と笑って、左手を差し出した。
「こっちこっち!」
ぱちん、と音がした。
女の子は、すぐに笑顔に戻った。次の子も、その次の子も、左手と手を合わせていく。ぱちん、ぱちん。
カサオバケの日と同じ音だった。あの日は、どの子とも、右手で鳴らしていた。
ユメミが、段ボール箱を抱えてやってきた。
ふたが開いて、シャボン玉みたいなレンズが、いくつも重なって光る。
リリィは、左手で一つ取った。
二つ結びの女の子の目元に、眼鏡をかけてあげるみたいに、そっとかける。耳の後ろで、ベルトの長さを確かめる。
「もう、これからずーっと、泣かなくてすむからね」
女の子は、泣いてなんかいなかった。
レンズの中で、淡い光がきらきらと揺れた。わあ、と女の子が声を上げる。
「きらきらしてる!」
「でしょ! 寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ」
リリィはそう言って、ゴーグルを女の子の額の上に押し上げてやった。
前髪の上で、レンズが光る。
リリィの額で光っている飾りと、そっくりだった。
「リリィとおそろいだ!」
子供たちが、わっと箱に群がった。
一人ずつ、順番に。リリィは左手でゴーグルを取って、目元にかけて、もう泣かなくてすむからね、と言って、額に押し上げてやる。ユメミが、箱の底から小さな充電器を一つずつ配っていく。
誰にも、どうしたの、とは聞かなかった。
泣いている子は、一人もいなかったから。
おかっぱの女の子の番が来た。
首には、縄跳びの縄がかかったままだった。女の子は、ゴーグルを受け取る前に、一度だけ砂場のほうを見た。
座りこんだままの、澪を。
それから、リリィの左手に目元を預けた。
最後は、あの男の子だった。
水色に黄色い星の傘を、両手で抱えていた。目のふちは、もう乾いていた。
「よんだら、きてくれた」
男の子は、リリィを見上げて笑った。
「約束したもん!」
リリィは、左手で男の子の頭をくしゃっと撫でた。それから、その手でゴーグルを取った。
男の子は、何も聞かれなかった。
自分から、目をつぶって、顔を上げた。
「もう泣かなくてすむからね!」
澪は、砂の上に座ったまま、それを見ていた。
立てなかった。膝は、まだ笑っていた。
子供たちは、ゴーグルを額に光らせて、手を振りながら公園を出ていった。リリィに、ユメミに、それから、砂場の澪にも。
澪は、手を振り返せなかった。
子供たちの声が、住宅街の角の向こうへ遠ざかっていく。
ユメミが、空になった箱を足元に置いて、両手を上げた。
「同志! 大成功です!」
リリィが、右手でそれを叩いた。
がちん、と金属の音がした。
ユメミは、痛がらなかった。ぴょんと跳ねて、籠手の手を両手で握り、ぶんぶんと振った。リリィも笑って、握り返していた。
右手で。
あの籠手で、何のためらいもなく握れる相手は、この人だけなのだ、と澪は思った。
リリィが、こちらへ歩いてきた。
澪の前に、もう一度しゃがみこむ。顔が、すぐ近くにあった。寝癖が跳ねていた。目の下の影が、近くで見ると、思っていたよりずっと濃かった。
「本当はね、一番最初に澪ちゃんを助けたいの」
小さな声だった。
「でも、この町のみんなが、ボクの助けを求めてるんだ。だから、澪ちゃんは待っててくれるって信じてるから」
リリィは、ふっと笑った。
「……急ぐね、ボク」
そう言って、立ち上がった。
ユメミの手を取って、フェンスのほうへ駆けていく。白衣の裏に、葉脈のような光が走る。二人の体が、ふわりとフェンスを越えた。
カサオバケの日、ひまりは、信じてる、と言って走っていった。
澪は、その背中に言葉を返した。後ろは私が見てるから、ちゃんと戻ってきてね、と。
今、同じ背中が遠ざかっていく。
あの言葉は、喉まで来て、そこから先へ出てこなかった。
後ろで見守るためのリボンは、もう、ちぎれていた。
公園が、静かになった。
ブランコの鎖が、きい、と鳴った。
澪は、変身を解かなかった。解けば、立ち上がらなければならない気がした。
砂の上に、ちぎれたリボンの花びらは一枚も残っていなかった。
左手の中のステッキが、少しだけ重かった。柄の、籠手がつかんだところに、細いひびが一本入っていた。
あの夜のことを、もう一度思った。
スタンドの明かりを、どうして朝まで消せなかったのか。
眠れなかったからだと、ずっと思っていた。
消してしまえば、真っ暗な部屋で、一人きりで泣くことになる。明かりがついていれば、窓の外から、誰かが気づいてくれるかもしれない。
そう思っていたのかもしれない。
あの夜、ひまりはチャイムを鳴らさなかった。
澪が自分で選んだから。泣くのも、澪のものだから。
だから、待ってくれた。
その待っていた夜が、今、子供たちの額で、きらきらと光っている。
お父さんを見送った日。
私は本当は、止めてほしかったのかもしれない。