泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第8話 もう、これからずーっと、泣かなくてすむからね(後編)

窓の下で。

 

その言葉だけが、耳の中に残った。

 

四月の最初の日曜日だった。お父さんを駅で見送って、家に帰って、いつも通りに晩ごはんを食べた。眠れなくて、机のスタンドをつけた。隣の部屋からいびきが聞こえなくて、それだけで、涙が止まらなくなった。

 

声が漏れないように、膝を抱えて顔を押しつけた。

 

漏れていない、と思っていた。

 

スタンドの明かりは、朝まで消せなかった。

 

あの窓の下に、ひまりがいた。

 

澪が膝に顔を押しつけているあいだ、ずっと。明かりが消えないのを、見上げていた。

 

次の朝、玄関のチャイムが鳴った。

 

おはよっ、迎えに来た、とひまりは笑った。早起きが何より苦手なひまりが、いつもより三十分も早く。寝癖を跳ねさせて、目の下にうっすら影を作って。

 

どうしたの、こんなに早く、と澪は聞いた。ひまりは、えへへ、と頭をかいただけだった。

 

たまたま早く目が覚めたんだろう、と澪は思った。

 

たまたまでは、なかった。

 

ひまりは、眠っていなかった。

 

それから、もう一つの朝を思い出した。

 

ひまりが帰ってこなかった三日目の夜、澪は眠れないまま朝を迎えた。家を出る三十分前に、チャイムが鳴った。

 

あの朝も、三十分だった。

 

あの夜の涙を、ひまりは知っていた。

 

知らないままでいい、と思っていたのは、澪だけだった。

 

ステッキを握る左手から、力が抜けた。

 

ぎり、と歯車が一つ鳴った。

 

青いリボンが、籠手の上でかすかにきしんだ。

 

澪は、握り直そうとした。

 

指が、うまく動かなかった。

 

「えいっ!」

 

リリィが、縛られた右腕に、ほんの少しだけ力を入れた。

 

商店街で身をよじったときのような、力いっぱいの引き方ではなかった。固い瓶のふたを開けるときみたいな、いつもの明るい声だった。

 

ぷつん、と小さな音がした。

 

リボンが、リリィの腕の上でちぎれた。

 

ちぎれたところから、青い光がほろほろとほどけていく。花びらになって、湿った砂の上に散って、消えていく。

 

澪のステッキの先から伸びていたものが、何もなくなった。

 

ひまりの右手と、澪の左手。

 

その二つをつないでいたものが、もうどこにもなかった。

 

商店街では、あれだけ身をよじっても、ひまりにはほどけなかったリボンだった。

 

ちぎったのは、ひまりの拳だった。あの白衣の人が作った、籠手の拳だった。

 

二重の盾、ちゃんと出ました、とあの人は手を叩いていた。

 

あの人の作ったものが、ひまりと澪のあいだを、こんなに簡単に断ち切った。

 

入り口のほうで、ユメミが箱から跳び下りた。

 

「ほら! やっぱり、ユメミの発明があれば同志は最強なんです!」

 

むふーっ、と鼻息を一つ吐いて、白衣の胸を張る。自分の作ったものがひまりの役に立ったことが、嬉しくてたまらない顔だった。

 

リリィが、右腕を一度振った。ちぎれた花びらの最後の一枚が、籠手から落ちた。

 

それから、澪を見た。

 

眉が、すとんと下がっていた。

 

「ごめんね、ちょっとだけ痛いかも! すぐ終わらせるから!」

 

リリィの体が沈んだ。

 

次の瞬間、もう目の前にいた。

 

籠手の拳が、振り上げられる。

 

澪は、目をつぶらなかった。

 

拳は、澪には届かなかった。

 

澪の一歩手前の地面に、まっすぐ打ちこまれた。

 

どん、と足の裏から響いた。

 

ひまわりの花弁の形をした光が、拳を中心に、輪になって弾けた。澪の足が、地面から離れた。

 

体が後ろへ持っていかれて、背中から、砂場に落ちた。

 

湿った砂が、冷たかった。

 

ステッキが左手からすっぽ抜けて、砂の上をころころと転がった。

 

起き上がろうとして、膝が笑った。

 

腕をついて、上半身だけを起こす。右の手首が、グローブの下でじんと響いた。髪にも、ケープにも、湿った砂がついている。

 

ステッキは、澪と、リリィのあいだに落ちていた。

 

リリィが、歩いてくる。

 

急がずに、砂場の縁をまたいで。澪の正面まで来て、砂の上に膝をついた。

 

左手が、伸びてきた。

 

澪の髪についた砂を、そっと払う。何度も。指先が、こめかみに一瞬だけ触れた。

 

それから、リリィは足元のステッキに手を伸ばした。

 

右手だった。

 

籠手の指が、ステッキの柄をつかんだ。

 

ミシッ。

 

青いアイリスの花の下で、柄が嫌な音を立てた。

 

「あれっ」

 

リリィは、ぱっと指を開いた。

 

それから、少しのあいだ、ステッキを見ていた。

 

籠手の指の離れたところに、細いひびが一本、走っていた。

 

リリィの左手が、ゆっくりと伸びた。柄の真ん中ではなく、端のほうを、指先でそっとつまむ。持ち上げるのにも、時間をかけた。卵でも拾い上げるみたいな手つきだった。

 

壊さないように、慎重に、左手に持ち替える。

 

澪の目には、ひまりが、ステッキの軽さを初めて知ったように見えた。これは、こんなに脆いものだったんだ、と。

 

リリィは一度、手を止めた。

 

それから体を少し乗り出して、包帯の右手のほうではなく、澪の左手を取った。その指に、ステッキをそっと握らせる。

 

手の甲を、上から一度だけ包んでから、離れた。

 

あったかい手だった。

 

澪は、自分の左手を見下ろした。

 

握らせてくれたのは、ひまりの左手だった。

 

右手では、なかった。

 

変身するとき、いつも澪の左手を握っていた手。昇降口で、昨日の朝も、一瞬だけ握ってくれた手。

 

その手は、今、ボルトの継ぎ目の向こうにあった。リボンをちぎった拳の中に。

 

「リリィー!」

 

ブランコの柵から、子供たちが駆けてきた。

 

とっくん、終わったと思ったのだろう。砂を蹴って、口々に何か叫びながら、リリィを取り囲む。

 

リリィは立ち上がって、子供たちのほうを向き、すぐにまたしゃがみこんだ。

 

「みんな、お待たせ! よーし、ハイタッチ!」

 

右手を、上げた。

 

一番に飛びついてきたのは、二つ結びの女の子だった。小さな手のひらが、勢いよく籠手へ向かっていく。

 

ぎり、と歯車が鳴った。

 

女の子の手が、金属の手前でぴたりと止まった。ひゃっ、と小さな声を上げて、手を引っこめる。

 

「あれっ」

 

リリィは、自分の右手を見た。それから、えへへ、と笑って、左手を差し出した。

 

「こっちこっち!」

 

ぱちん、と音がした。

 

女の子は、すぐに笑顔に戻った。次の子も、その次の子も、左手と手を合わせていく。ぱちん、ぱちん。

 

カサオバケの日と同じ音だった。あの日は、どの子とも、右手で鳴らしていた。

 

ユメミが、段ボール箱を抱えてやってきた。

 

ふたが開いて、シャボン玉みたいなレンズが、いくつも重なって光る。

 

リリィは、左手で一つ取った。

 

二つ結びの女の子の目元に、眼鏡をかけてあげるみたいに、そっとかける。耳の後ろで、ベルトの長さを確かめる。

 

「もう、これからずーっと、泣かなくてすむからね」

 

女の子は、泣いてなんかいなかった。

 

レンズの中で、淡い光がきらきらと揺れた。わあ、と女の子が声を上げる。

 

「きらきらしてる!」

 

「でしょ! 寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ」

 

リリィはそう言って、ゴーグルを女の子の額の上に押し上げてやった。

 

前髪の上で、レンズが光る。

 

リリィの額で光っている飾りと、そっくりだった。

 

「リリィとおそろいだ!」

 

子供たちが、わっと箱に群がった。

 

一人ずつ、順番に。リリィは左手でゴーグルを取って、目元にかけて、もう泣かなくてすむからね、と言って、額に押し上げてやる。ユメミが、箱の底から小さな充電器を一つずつ配っていく。

 

誰にも、どうしたの、とは聞かなかった。

 

泣いている子は、一人もいなかったから。

 

おかっぱの女の子の番が来た。

 

首には、縄跳びの縄がかかったままだった。女の子は、ゴーグルを受け取る前に、一度だけ砂場のほうを見た。

 

座りこんだままの、澪を。

 

それから、リリィの左手に目元を預けた。

 

最後は、あの男の子だった。

 

水色に黄色い星の傘を、両手で抱えていた。目のふちは、もう乾いていた。

 

「よんだら、きてくれた」

 

男の子は、リリィを見上げて笑った。

 

「約束したもん!」

 

リリィは、左手で男の子の頭をくしゃっと撫でた。それから、その手でゴーグルを取った。

 

男の子は、何も聞かれなかった。

 

自分から、目をつぶって、顔を上げた。

 

「もう泣かなくてすむからね!」

 

澪は、砂の上に座ったまま、それを見ていた。

 

立てなかった。膝は、まだ笑っていた。

 

子供たちは、ゴーグルを額に光らせて、手を振りながら公園を出ていった。リリィに、ユメミに、それから、砂場の澪にも。

 

澪は、手を振り返せなかった。

 

子供たちの声が、住宅街の角の向こうへ遠ざかっていく。

 

ユメミが、空になった箱を足元に置いて、両手を上げた。

 

「同志! 大成功です!」

 

リリィが、右手でそれを叩いた。

 

がちん、と金属の音がした。

 

ユメミは、痛がらなかった。ぴょんと跳ねて、籠手の手を両手で握り、ぶんぶんと振った。リリィも笑って、握り返していた。

 

右手で。

 

あの籠手で、何のためらいもなく握れる相手は、この人だけなのだ、と澪は思った。

 

リリィが、こちらへ歩いてきた。

 

澪の前に、もう一度しゃがみこむ。顔が、すぐ近くにあった。寝癖が跳ねていた。目の下の影が、近くで見ると、思っていたよりずっと濃かった。

 

「本当はね、一番最初に澪ちゃんを助けたいの」

 

小さな声だった。

 

「でも、この町のみんなが、ボクの助けを求めてるんだ。だから、澪ちゃんは待っててくれるって信じてるから」

 

リリィは、ふっと笑った。

 

「……急ぐね、ボク」

 

そう言って、立ち上がった。

 

ユメミの手を取って、フェンスのほうへ駆けていく。白衣の裏に、葉脈のような光が走る。二人の体が、ふわりとフェンスを越えた。

 

カサオバケの日、ひまりは、信じてる、と言って走っていった。

 

澪は、その背中に言葉を返した。後ろは私が見てるから、ちゃんと戻ってきてね、と。

 

今、同じ背中が遠ざかっていく。

 

あの言葉は、喉まで来て、そこから先へ出てこなかった。

 

後ろで見守るためのリボンは、もう、ちぎれていた。

 

公園が、静かになった。

 

ブランコの鎖が、きい、と鳴った。

 

澪は、変身を解かなかった。解けば、立ち上がらなければならない気がした。

 

砂の上に、ちぎれたリボンの花びらは一枚も残っていなかった。

 

左手の中のステッキが、少しだけ重かった。柄の、籠手がつかんだところに、細いひびが一本入っていた。

 

あの夜のことを、もう一度思った。

 

スタンドの明かりを、どうして朝まで消せなかったのか。

 

眠れなかったからだと、ずっと思っていた。

 

消してしまえば、真っ暗な部屋で、一人きりで泣くことになる。明かりがついていれば、窓の外から、誰かが気づいてくれるかもしれない。

 

そう思っていたのかもしれない。

 

あの夜、ひまりはチャイムを鳴らさなかった。

 

澪が自分で選んだから。泣くのも、澪のものだから。

 

だから、待ってくれた。

 

その待っていた夜が、今、子供たちの額で、きらきらと光っている。

 

お父さんを見送った日。

 

私は本当は、止めてほしかったのかもしれない。

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