泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第9話 今日は何人に、届けられるかなっ(前編)

朝の教室は、窓から差しこむ光でまぶしかった。

 

久しぶりに、雲のない朝だった。

 

蒼井澪(あおいみお)は、教室の入り口で足を止めた。

 

自分の机に、誰かが座っていた。

 

机の端に横向きに腰かけて、足をぶらぶらさせている。オレンジ色の髪。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。

 

「あっ、澪ちゃん! おはよっ!」

 

陽向(ひなた)ひまりが、ぱっと手を振った。

 

そのまわりに、クラスの子が二人立っていて、何か笑っていた。

 

「……おはよう。そこ、私の机」

 

「知ってる! 澪ちゃんのこと待ってたの!」

 

ひまりは、降りなかった。

 

澪は、包帯の右手をかばって、左手で鞄を机の横にかけた。包帯は、今朝も自分で巻いた。昨日よりは少しましに巻けた気がしたけれど、袖口からは、やっぱり白い端がのぞいていた。

 

椅子に座ると、ひまりの横顔が、ちょうど目の高さにあった。

 

ひまりは、大きなあくびを一つした。口を隠しもせずに、ふわあ、と。それから、えへへ、と笑った。

 

目の下の影は、昨日より濃かった。

 

「あのね、昨日ね、届けたおうちでテレビがついてたの!」

 

澪の指が、机の上で止まった。

 

「動物の番組でね、ペンギンの赤ちゃんが、お母さんのあとを一列になって歩くの。でね、いちばん後ろの子だけ、ずーっと転んでるの! 何回も、何回も!」

 

ひまりは肘を体につけて、手首から先をぱたぱたさせた。ペンギンのまねだった。

 

クラスの子たちが、声を立てて笑った。

 

「ひまり、それ何時の番組?」

 

「わかんない! 夜中!」

 

「夜中にテレビ見てたの?」

 

「うん! そのおうちのみんなが眠るまで、待ってたから!」

 

みんな、また笑った。ひまりの話は、いつもどこか少しずれていて、それがおかしいのだ。

 

澪は、笑えなかった。

 

そのおうちのみんなが、眠るまで。

 

何を待っていたのか、澪には分かった。知らない家の居間で、テレビの明かりの中で、ひまりはペンギンを見ながら、その家の人たちが眠りに落ちるのを待っていたのだ。

 

昨日の公園のことは、一言も出てこなかった。

 

「あっ、そうだ。数学の宿題、やってない!」

 

ひまりは、ぱちんと自分の額を叩いた。

 

澪の左手は、いつのまにか、鞄の中のノートの角に触れていた。

 

「だって、寝てないもん!」

 

それだけだった。

 

両手を合わせることもなかった。一生のお願い、とも言わなかった。ひまりはノートのほうを見もせずに、またペンギンの話に戻っていった。

 

この前は、朝方まで、だった。

 

今日は、寝てない、だった。

 

澪は、ノートから指を離した。

 

予鈴まで、あと少しだった。クラスの子たちが、自分の席へ戻っていく。

 

ひまりは、まだ澪の机に座っていた。窓からの光で、寝癖の先が透けて見えた。右手は、机のふちをつかんでいた。

 

止めてほしかったのかもしれない、と思ったのは、昨日の夕方だった。

 

一晩たって、澪は、止める側に立っていた。

 

「ひまり」

 

「なあに」

 

「今日の放課後、用事を休んで。一緒に帰ろう」

 

声は、思ったよりまっすぐ出た。

 

「角まで、じゃなくて。今日は、ずっと」

 

ひまりは、まばたきを一つした。

 

それから、すぐに笑った。

 

「ごめんね! でも、ボクの助けを待ってる人が、まだまだいるから!」

 

一秒も、かからなかった。

 

澪は、ひまりの手を見ていた。

 

右手は、机のふちをつかんだままだった。

 

澪は、その手が持ち上がるのを待っていた。右耳の上に伸びて、跳ねた髪を指に巻きつけるのを。くるくると、いじるのを。

 

手は、動かなかった。

 

カサオバケの日のことを、澪は思い出した。

 

商店街の石畳に、持ち主のいない傘が、いくつも散らばっていた。リリィはそれを見下ろして、この子たちも誰かのお気に入りだったのかも、とつぶやいた。それから、右耳の上の髪を、指でくるくるといじった。

 

隣でそれを見たとき、澪にはもう分かっていた。

 

探すんでしょ、持ち主。そう言うと、ひまりは、えへへ、バレた、と笑った。何年一緒にいると思ってるの、と澪は返した。

 

ひまりのことなら、なんでもお見通しだ。そう思えたのは、あの指があったからだった。迷うとき、ひまりの指は必ず髪に行く。澪はそれを見て、ひまりの気持ちがどちらへ傾きかけているのかを知った。そうして、先に手を貸した。

 

最後にあの指を見たのは、いつだったろう。

 

思い出せなかった。

 

ひまりが帰ってきた朝、いつもの角で、明日も来るよね、と聞いた。うん、とひまりは答えた。迷いのない返事だった、と澪はあのとき思った。

 

迷いがなかったのではなかった。

 

迷うということが、もう、なかったのだ。

 

「あ、チャイム!」

 

予鈴が鳴った。ひまりは机から、ぴょんと跳び下りた。

 

「じゃあね、澪ちゃん!」

 

右手で机のふちを一度ぽんと叩いて、自分の席へ戻っていく。

 

寝癖は、跳ねたままだった。

 

一時間目は、数学だった。

 

「陽向、宿題は」

 

「やってません! 寝てないので!」

 

まっすぐな声だった。教室のあちこちで、くすくすと笑いが起きる。先生はため息をついて、次は出せよ、とだけ言った。

 

「はい!」

 

ひまりは元気よく返事をして、座るなり、また大きなあくびをした。

 

誰も、変だとは思わなかった。陽向ひまりは、前からこうだったから。

 

澪だけが、ひまりの背中を見ていた。

 

放課後、ひまりは誰よりも早く教室を出た。

 

澪が昇降口に下りたときには、ひまりはもう靴を履き替えていた。澪の右隣で、かかとを靴に押しこみながら、指を一本ずつ折っている。

 

「今日は何人に、届けられるかなっ」

 

誰に言ったのでもない声だった。遠足の前の日みたいな、弾んだ声だった。

 

折った指を、ぱっと開く。

 

それから、澪のほうを振り向いた。

 

「ボク、急ぐね! また明日ね!」

 

ひまりは、走り出した。

 

昇降口の段を跳び下りて、校門のほうへ。一度も振り返らなかった。

 

昨日までは、いつもの角まで一緒に帰っていた。水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待ってくれていた。

 

今日は、校門を出たところで、オレンジ色の髪が見えなくなった。

 

晴れた日の校庭には、飛び越える水たまりも、なかった。

 

澪は、昇降口の段の上に立っていた。

 

公園へ向かったのは、子供たちのことが気になったからだった。

 

昨日、額にゴーグルを光らせて帰っていった子たち。寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ。

 

その夜は、もう過ぎていた。

 

入り口の車止めの横に、小春(こはる)ちゃんがしゃがんでいた。

 

赤いリードを、両手で握っている。リードの先には、何もつながっていない。この前と同じ場所で、同じ姿勢だった。

 

澪は、少しだけ歩幅をゆるめて、その横を通り過ぎた。小春ちゃんは、顔を上げなかった。

 

フェンス沿いのベンチに、小春ちゃんのお母さんが座っていた。

 

この前と、同じベンチだった。

 

澪は、足を止めた。

 

お母さんは、小春ちゃんのほうを見ていなかった。

 

この前は、ずっと見ていた。車止めの横にしゃがむ小さな背中を、止めたほうがいいのか分からない、という顔で。目の下に、薄い影を作って。

 

今は、まっすぐ前を見ていた。何もない、砂場の向こうを。

 

目の下の影は、もうなかった。

 

「……こんにちは」

 

お母さんが、ゆっくりとこちらを向いた。

 

それから、穏やかに微笑んだ。

 

「あら、澪ちゃん」

 

喉の奥が、つかえた。

 

その微笑みを、澪は知っていた。夕方の玄関で、エプロン姿で、ひまりの鞄を見ないまま浮かべていた微笑みだった。

 

「あの」

 

声が、かすれた。

 

「この前の、ひまりへの伝言。私、まだ、伝えられてなくて」

 

お母さんは、微笑んだままだった。

 

「小春は、もう泣いてないのよ」

 

澪は、何も言えなかった。

 

「小春は、もう泣いてないのよ」

 

同じ言葉だった。同じ速さで、同じ高さで。

 

それが誰の言葉なのか、澪には分かる気がした。

 

小春ちゃん、もう泣いてないよ。きっとひまりは、笑ってそう言ったのだ。このお母さんの前にしゃがんで、目線を合わせて。それから、ゴーグルをかけた。

 

伝えれば、ひまりは行く。今日にでも、笑って。

 

だから、伝えなかった。

 

……ひまりなら、そうするって、思っていたのに。

 

伝えなくても、ひまりは来た。順番が来たから。

 

澪が鞄の底にしまっておいたものは、最初から、何の役にも立っていなかった。

 

広場のほうから、きい、きい、と音がしていた。

 

ブランコの鎖だった。

 

澪は、砂場のほうへ歩いた。

 

砂は、もう乾いていた。昨日、澪が背中から落ちて、座りこんでいた場所だった。どこがへこんでいたのかも、もう分からなかった。

 

砂場の北の縁に立つと、ブランコが見えた。

 

子供たちが、いた。

 

二人がブランコをこいでいる。残りの子は、低い柵の前に一列に並んで、順番を待っていた。昨日、額にゴーグルを光らせて帰っていった子たちだった。

 

誰も、しゃべっていなかった。

 

ブランコの二人は、同じ高さまで上がって、同じ速さで戻ってくる。きい、きい。鎖の音だけが、晴れた空の下で鳴っていた。

 

二つ結びの女の子は、柵の前に立っていた。両腕は、体の横に下ろしたままだった。

 

ひかりのたて、と叫ぶ声は、どこからも聞こえなかった。

 

列のいちばん後ろに、あの男の子がいた。

 

水色に黄色い星の傘を、両手で抱えていた。雲一つない空の下で、閉じたままの傘を、胸にぎゅっと。

 

雨の日も、晴れの日も。きっと明日も、あの子はあの傘を抱えて、ここに来る。

 

ブランコの一人が、足を地面について止まった。

 

降りて、列のいちばん後ろへ歩いていく。かわりに、先頭の子がブランコに座った。

 

おかっぱの女の子だった。

 

首には、縄跳びの縄がかかったままだった。

 

澪は、その子を見ていた。

 

昨日、一人だけ、アイリス、がんばれ、と叫んでくれた子だった。ゴーグルを受け取る前に、一度だけ、砂場の澪を見てくれた子だった。

 

女の子は、ブランコをこぎはじめた。

 

足を伸ばして、縮めて。前を向いたまま。

 

砂場のほうは、一度も見なかった。

 

遠くで、夕焼けのチャイムが鳴った。

 

ブランコが、二つ同時に止まった。

 

子供たちは、柵の前から、公園の出口へ歩きだした。走る子は、一人もいなかった。誰も、またね、と言わなかった。

 

車止めの横で、小春ちゃんが立ち上がった。小さな歩幅で、帰っていく。ベンチから、お母さんが立ち上がって、その後ろについていった。

 

もう、小春ちゃんの背中を見てはいなかった。ただ、同じ方向へ歩いていた。

 

公園に、澪だけが残った。

 

ブランコの鎖が、まだ少しだけ揺れていた。

 

止めなきゃ、と思った。

 

守る人が、一人もいなくなる前に。

 

けれど、昨日、澪一人では止められなかった。

 

ひまりを止められる人。ひまりを、本気で叱れる人。

 

おじさんと、おばさん。

 

いなくなったひまりを、夜通し捜した人たち。一週間前、あの家の玄関で、澪は何も言えずに帰ってきた。

 

澪は、公園の出口へ歩きだした。

 

陽向家のほうへ。

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