朝の教室は、窓から差しこむ光でまぶしかった。
久しぶりに、雲のない朝だった。
自分の机に、誰かが座っていた。
机の端に横向きに腰かけて、足をぶらぶらさせている。オレンジ色の髪。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。
「あっ、澪ちゃん! おはよっ!」
そのまわりに、クラスの子が二人立っていて、何か笑っていた。
「……おはよう。そこ、私の机」
「知ってる! 澪ちゃんのこと待ってたの!」
ひまりは、降りなかった。
澪は、包帯の右手をかばって、左手で鞄を机の横にかけた。包帯は、今朝も自分で巻いた。昨日よりは少しましに巻けた気がしたけれど、袖口からは、やっぱり白い端がのぞいていた。
椅子に座ると、ひまりの横顔が、ちょうど目の高さにあった。
ひまりは、大きなあくびを一つした。口を隠しもせずに、ふわあ、と。それから、えへへ、と笑った。
目の下の影は、昨日より濃かった。
「あのね、昨日ね、届けたおうちでテレビがついてたの!」
澪の指が、机の上で止まった。
「動物の番組でね、ペンギンの赤ちゃんが、お母さんのあとを一列になって歩くの。でね、いちばん後ろの子だけ、ずーっと転んでるの! 何回も、何回も!」
ひまりは肘を体につけて、手首から先をぱたぱたさせた。ペンギンのまねだった。
クラスの子たちが、声を立てて笑った。
「ひまり、それ何時の番組?」
「わかんない! 夜中!」
「夜中にテレビ見てたの?」
「うん! そのおうちのみんなが眠るまで、待ってたから!」
みんな、また笑った。ひまりの話は、いつもどこか少しずれていて、それがおかしいのだ。
澪は、笑えなかった。
そのおうちのみんなが、眠るまで。
何を待っていたのか、澪には分かった。知らない家の居間で、テレビの明かりの中で、ひまりはペンギンを見ながら、その家の人たちが眠りに落ちるのを待っていたのだ。
昨日の公園のことは、一言も出てこなかった。
「あっ、そうだ。数学の宿題、やってない!」
ひまりは、ぱちんと自分の額を叩いた。
澪の左手は、いつのまにか、鞄の中のノートの角に触れていた。
「だって、寝てないもん!」
それだけだった。
両手を合わせることもなかった。一生のお願い、とも言わなかった。ひまりはノートのほうを見もせずに、またペンギンの話に戻っていった。
この前は、朝方まで、だった。
今日は、寝てない、だった。
澪は、ノートから指を離した。
予鈴まで、あと少しだった。クラスの子たちが、自分の席へ戻っていく。
ひまりは、まだ澪の机に座っていた。窓からの光で、寝癖の先が透けて見えた。右手は、机のふちをつかんでいた。
止めてほしかったのかもしれない、と思ったのは、昨日の夕方だった。
一晩たって、澪は、止める側に立っていた。
「ひまり」
「なあに」
「今日の放課後、用事を休んで。一緒に帰ろう」
声は、思ったよりまっすぐ出た。
「角まで、じゃなくて。今日は、ずっと」
ひまりは、まばたきを一つした。
それから、すぐに笑った。
「ごめんね! でも、ボクの助けを待ってる人が、まだまだいるから!」
一秒も、かからなかった。
澪は、ひまりの手を見ていた。
右手は、机のふちをつかんだままだった。
澪は、その手が持ち上がるのを待っていた。右耳の上に伸びて、跳ねた髪を指に巻きつけるのを。くるくると、いじるのを。
手は、動かなかった。
カサオバケの日のことを、澪は思い出した。
商店街の石畳に、持ち主のいない傘が、いくつも散らばっていた。リリィはそれを見下ろして、この子たちも誰かのお気に入りだったのかも、とつぶやいた。それから、右耳の上の髪を、指でくるくるといじった。
隣でそれを見たとき、澪にはもう分かっていた。
探すんでしょ、持ち主。そう言うと、ひまりは、えへへ、バレた、と笑った。何年一緒にいると思ってるの、と澪は返した。
ひまりのことなら、なんでもお見通しだ。そう思えたのは、あの指があったからだった。迷うとき、ひまりの指は必ず髪に行く。澪はそれを見て、ひまりの気持ちがどちらへ傾きかけているのかを知った。そうして、先に手を貸した。
最後にあの指を見たのは、いつだったろう。
思い出せなかった。
ひまりが帰ってきた朝、いつもの角で、明日も来るよね、と聞いた。うん、とひまりは答えた。迷いのない返事だった、と澪はあのとき思った。
迷いがなかったのではなかった。
迷うということが、もう、なかったのだ。
「あ、チャイム!」
予鈴が鳴った。ひまりは机から、ぴょんと跳び下りた。
「じゃあね、澪ちゃん!」
右手で机のふちを一度ぽんと叩いて、自分の席へ戻っていく。
寝癖は、跳ねたままだった。
一時間目は、数学だった。
「陽向、宿題は」
「やってません! 寝てないので!」
まっすぐな声だった。教室のあちこちで、くすくすと笑いが起きる。先生はため息をついて、次は出せよ、とだけ言った。
「はい!」
ひまりは元気よく返事をして、座るなり、また大きなあくびをした。
誰も、変だとは思わなかった。陽向ひまりは、前からこうだったから。
澪だけが、ひまりの背中を見ていた。
放課後、ひまりは誰よりも早く教室を出た。
澪が昇降口に下りたときには、ひまりはもう靴を履き替えていた。澪の右隣で、かかとを靴に押しこみながら、指を一本ずつ折っている。
「今日は何人に、届けられるかなっ」
誰に言ったのでもない声だった。遠足の前の日みたいな、弾んだ声だった。
折った指を、ぱっと開く。
それから、澪のほうを振り向いた。
「ボク、急ぐね! また明日ね!」
ひまりは、走り出した。
昇降口の段を跳び下りて、校門のほうへ。一度も振り返らなかった。
昨日までは、いつもの角まで一緒に帰っていた。水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待ってくれていた。
今日は、校門を出たところで、オレンジ色の髪が見えなくなった。
晴れた日の校庭には、飛び越える水たまりも、なかった。
澪は、昇降口の段の上に立っていた。
公園へ向かったのは、子供たちのことが気になったからだった。
昨日、額にゴーグルを光らせて帰っていった子たち。寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ。
その夜は、もう過ぎていた。
入り口の車止めの横に、
赤いリードを、両手で握っている。リードの先には、何もつながっていない。この前と同じ場所で、同じ姿勢だった。
澪は、少しだけ歩幅をゆるめて、その横を通り過ぎた。小春ちゃんは、顔を上げなかった。
フェンス沿いのベンチに、小春ちゃんのお母さんが座っていた。
この前と、同じベンチだった。
澪は、足を止めた。
お母さんは、小春ちゃんのほうを見ていなかった。
この前は、ずっと見ていた。車止めの横にしゃがむ小さな背中を、止めたほうがいいのか分からない、という顔で。目の下に、薄い影を作って。
今は、まっすぐ前を見ていた。何もない、砂場の向こうを。
目の下の影は、もうなかった。
「……こんにちは」
お母さんが、ゆっくりとこちらを向いた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「あら、澪ちゃん」
喉の奥が、つかえた。
その微笑みを、澪は知っていた。夕方の玄関で、エプロン姿で、ひまりの鞄を見ないまま浮かべていた微笑みだった。
「あの」
声が、かすれた。
「この前の、ひまりへの伝言。私、まだ、伝えられてなくて」
お母さんは、微笑んだままだった。
「小春は、もう泣いてないのよ」
澪は、何も言えなかった。
「小春は、もう泣いてないのよ」
同じ言葉だった。同じ速さで、同じ高さで。
それが誰の言葉なのか、澪には分かる気がした。
小春ちゃん、もう泣いてないよ。きっとひまりは、笑ってそう言ったのだ。このお母さんの前にしゃがんで、目線を合わせて。それから、ゴーグルをかけた。
伝えれば、ひまりは行く。今日にでも、笑って。
だから、伝えなかった。
……ひまりなら、そうするって、思っていたのに。
伝えなくても、ひまりは来た。順番が来たから。
澪が鞄の底にしまっておいたものは、最初から、何の役にも立っていなかった。
広場のほうから、きい、きい、と音がしていた。
ブランコの鎖だった。
澪は、砂場のほうへ歩いた。
砂は、もう乾いていた。昨日、澪が背中から落ちて、座りこんでいた場所だった。どこがへこんでいたのかも、もう分からなかった。
砂場の北の縁に立つと、ブランコが見えた。
子供たちが、いた。
二人がブランコをこいでいる。残りの子は、低い柵の前に一列に並んで、順番を待っていた。昨日、額にゴーグルを光らせて帰っていった子たちだった。
誰も、しゃべっていなかった。
ブランコの二人は、同じ高さまで上がって、同じ速さで戻ってくる。きい、きい。鎖の音だけが、晴れた空の下で鳴っていた。
二つ結びの女の子は、柵の前に立っていた。両腕は、体の横に下ろしたままだった。
ひかりのたて、と叫ぶ声は、どこからも聞こえなかった。
列のいちばん後ろに、あの男の子がいた。
水色に黄色い星の傘を、両手で抱えていた。雲一つない空の下で、閉じたままの傘を、胸にぎゅっと。
雨の日も、晴れの日も。きっと明日も、あの子はあの傘を抱えて、ここに来る。
ブランコの一人が、足を地面について止まった。
降りて、列のいちばん後ろへ歩いていく。かわりに、先頭の子がブランコに座った。
おかっぱの女の子だった。
首には、縄跳びの縄がかかったままだった。
澪は、その子を見ていた。
昨日、一人だけ、アイリス、がんばれ、と叫んでくれた子だった。ゴーグルを受け取る前に、一度だけ、砂場の澪を見てくれた子だった。
女の子は、ブランコをこぎはじめた。
足を伸ばして、縮めて。前を向いたまま。
砂場のほうは、一度も見なかった。
遠くで、夕焼けのチャイムが鳴った。
ブランコが、二つ同時に止まった。
子供たちは、柵の前から、公園の出口へ歩きだした。走る子は、一人もいなかった。誰も、またね、と言わなかった。
車止めの横で、小春ちゃんが立ち上がった。小さな歩幅で、帰っていく。ベンチから、お母さんが立ち上がって、その後ろについていった。
もう、小春ちゃんの背中を見てはいなかった。ただ、同じ方向へ歩いていた。
公園に、澪だけが残った。
ブランコの鎖が、まだ少しだけ揺れていた。
止めなきゃ、と思った。
守る人が、一人もいなくなる前に。
けれど、昨日、澪一人では止められなかった。
ひまりを止められる人。ひまりを、本気で叱れる人。
おじさんと、おばさん。
いなくなったひまりを、夜通し捜した人たち。一週間前、あの家の玄関で、澪は何も言えずに帰ってきた。
澪は、公園の出口へ歩きだした。
陽向家のほうへ。