持ち主探しは、思っていたよりずっと大変だった。
商店街の事務所のおじさんは、空っぽになった忘れ傘の籠を見て「こりゃまた派手にやられたなあ」と頭をかいた。
それから、籠の横に貼ってあった忘れ物の記録を見せてくれた。日付と、傘の色と、ときどき落とした人の名前。
「えーっと、花柄の傘は……五月十二日、パン屋さんの前! 澪ちゃん、パン屋さん行こう!」
ひまりはもう走り出している。
変身を解いた制服姿で、両手に三本ずつ傘を抱えて。
澪はため息をついて、残りの傘を抱え直した。
パン屋のおばさんは花柄の傘を見るなり「あらまあ、常連の佐藤さんのよ」と目を丸くし、お礼にとラスクを二袋くれた。
名前シールの貼られた折りたたみ傘は、文房具屋の息子さんのものだった。骨の曲がったビニール傘は、結局、誰のものか分からなかった。
「この子は、もう一回籠に戻してあげよっか」
ひまりはそう言って、ビニール傘の曲がった骨を、指でそっとまっすぐに直そうとした。うまくいかなかった。
澪は、その手を見ていた。
傘を抱えすぎて赤くなった指。爪の先に、ちょっとだけついた泥。
それから、膝。スカートの裾から、さっきのすり傷がのぞいている。乾きかけてはいるけれど、まだ赤い。
「ひまり、膝。絆創膏、持ってたよね?」
「持ってたよ! さっきの男の子が、ほっぺたちょっと擦りむいてたから、あげちゃった」
「全部?」
「最後の一枚だった!」
ひまりは胸を張った。澪はもう一度ため息をつく。
自分用に持ち歩いているはずの絆創膏が、ひまりの膝に貼られているのを、澪はほとんど見たことがない。
空が藍色に変わりはじめたころ、澪のスマホが震えた。
画面には「お母さん」。
『澪、今どこ? 雨また降りそうよー。ごはんできてるからね』
「……あ」
時計を見ると、もうすぐ七時だった。
ひまりが澪の手元を覗き込んで、すぐに察した顔をした。
「澪ちゃん、先に帰って! おばさん心配しちゃう」
「でも、まだ五本も残ってるよ」
「ボク一人で大丈夫! ほら、あとは八百屋さんと、本屋さんと、えーっと……」
「ひまり」
澪が名前を呼ぶと、ひまりはぱちんと両手を合わせた。
「お願い! ね?」
この顔に、澪はいつも勝てない。
「……十時までには帰ってね。おじさんもおばさんも、今日は夜勤でしょ」
「なんで知ってるの!?」
「ひまりが朝言ってたんだよ」
ひまりは「えへへ」と頭をかいた。それから、澪の手をきゅっと握った。体温の高い手だった。
「今日はありがと、澪ちゃん。足止め、一人で任せちゃってごめんね」
「平気だよ。言ったでしょ、後ろは私が見てるって」
「うん。……また明日ね!」
ひまりは傘を抱えて、くるっと一回転してから走っていった。
アーケードの明かりの下で、オレンジ色の髪が跳ねて、すぐに人ごみに紛れて見えなくなった。
家に帰ると、台所から煮物の匂いがした。
「おかえりー。また怪人が出たって聞いたけど、大丈夫だった?」
お母さんは、菜箸を置いて振り返る。
「うん。大丈夫だったよ。シャインリリィと、……それと、シャインアイリスがすぐに退治してくれたから」
「まあ、シャインリリィとシャインアイリスに会ったの? かっこよかった?」
澪は「うん。あと、これ。パン屋さんでもらった」とだけ答えて、ラスクの袋を食卓に置いた。二袋のうち、一袋はひまりのぶんだ。明日渡そう、と思って、鞄の横にそっと寄せた。
「ひまりちゃんにも、たまにはうちでごはん食べにおいでって言っといてね」
お母さんは、もう一度菜箸を手に取りながら言った。
夜、宿題を広げても、なかなか手が進まなかった。
窓の外では、また雨が降り出している。
澪は数学のノートを閉じた。表紙と最初のページのあいだに、手作りの栞が挟まっている。ひまわりの押し花を、透明なフィルムで丁寧に閉じ込めたもの。去年の誕生日に、ひまりがくれた。
縁が、ほんの少しだけ曲がっている。不器用なひまりが、一生懸命作ったのを知っている。
十時を少し過ぎたころ、スマホが鳴った。
『ただいまー! 四本見つかった! 最後の一本はあした!! おやすみ澪ちゃん!!』
感嘆符だらけのメッセージに、澪は思わず口元を手で隠した。誰も見ていないのに。
『おつかれさま。膝、ちゃんと洗ってね。おやすみ』
送信して、ノートを鞄にしまう。
明日もきっと、あの子は宿題を忘れてくる。ひまりのことなら、なんでもお見通しだ。
朝の昇降口は、湿った傘と上履きのゴムの匂いがする。
澪が靴を履き替えていると、背後からぱたぱたと足音が近づいてきた。
振り向くより先に、目の前に両手が差し出される。
ぴたりと合わさった、少し擦り傷のある手のひら。
「澪ちゃん、一生のお願い!」
「もう、その一生、今月三回目だよ?」
「えへへ。今回のは本当に一生ぶん!」
陽向ひまりは顔を上げて笑った。
寝癖が一房、右耳の上で跳ねている。目の下にうっすら影があるのに、表情だけは朝の光みたいに明るい。
「昨日のカサオバケ、倒したあとも傘の持ち主を探して商店街を走り回ってたの。で、帰ったら十時で、気づいたら机で寝てて」
「知ってる。メッセージ来たもん」
「そうだった!」
「で、数学?」
「数学!」
澪はため息をついて、鞄からノートを取り出した。
「写すんじゃなくて、解き方を見るだけだからね?」
「うんうん、見るだけ見るだけ」
「もう、その顔は絶対写す顔だよ」
「澪ちゃん神! 今度パフェおごる!」
「それも今月三回目だからね。……苺のやつがいいな」
ひまりはノートを胸に抱えて、くるりと一回転した。スカートの裾がふわりと広がる。
それから急に真面目な顔になって、澪を覗き込んだ。
「澪ちゃんは? 昨日、カサオバケの足止め一人で任せちゃったけど、怪我してない?」
「してないよ。平気だって言ったでしょ? ひまりこそ、その膝のすり傷どうしたの」
膝には、まだ何も貼られていなかった。
「あとで保健室行く!」
「絶対行かないやつだ、それ」
「そっか。……うん、そうだよね。澪ちゃんなら絶対大丈夫だって、信じてたもん」
都合の悪いところだけ聞こえないふりをして、ひまりは澪の手を一瞬だけぎゅっと握った。
体温の高い手だった。
澪は鞄から、ラスクの袋を一つ出してひまりに渡した。
「パン屋さんから。昨日のお礼だって」
「やったー! 澪ちゃんとはんぶんこね!」
「それ、ひまりのぶんなんだけど」
「はんぶんこのほうがおいしいもん!」
階段を上る途中、ひまりは隣のクラスの子に手を振り、落ちていたハンカチを拾って届けた。
それから、廊下の隅にしゃがみこんで泣きそうな顔をしている一年生を見つけて、足を止めた。
「どうしたの?」
しゃがみこんで、目線を合わせる。
一年生はしどろもどろに、体操服を忘れたと言った。ひまりは少し考えて、首をかしげた。
「キミはどうしたいのかな? 先生に言いに行く? それとも、ボクのクラスの子に借りられるか聞いてみる?」
一年生が「……借りたい」と小さく答えると、ひまりはぱっと立ち上がった。
「よし、任せて!」
澪のノートを抱えたまま走っていく背中を、澪は少し遅れて追いかけた。
ひまりはいつもこうだ。
困っている人を見つけると、宿題もパフェの約束も、膝のすり傷も全部後回しにして飛んでいく。
それでいて、決して相手の手を勝手に引っ張らない。必ず一度相手と目を合わせて、聞くのだ。
どうしたいのかな、と。
昨日の男の子にも、ひまりはきっと同じことを聞いていた。屋根の上から飛び降りていく背中を、澪はリボンを握りながら見ていた。
澪はその質問が好きだった。
お父さんについていくかどうか迷っていた日に、ひまりが同じことを聞いてくれたからかもしれない。
「澪ちゃーん、ノートちょっとだけ借りてくねー!」
「ちょっと、私のノートを人質にしないでってば!」
笑いながら、澪は思う。
この子が隣にいる限り、自分はたぶん大丈夫だ。