泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第9話 今日は何人に、届けられるかなっ(後編)

門柱に、『陽向』の表札がかかっていた。

 

玄関の横には、陽太(ようた)くんの小さな自転車。台所の窓から、夕ごはんの匂いが流れてくる。

 

何も変わっていなかった。

 

澪はチャイムを押した。少しして、ドアが開いた。

 

「あら、澪ちゃん」

 

ひまりのお母さんだった。エプロンをつけて、穏やかに微笑んでいる。

 

小春ちゃんのお母さんと、同じ微笑みだった。

 

「おばさん。ひまりのことで、話があります」

 

「ひまりはね、大事な用事があるのよ」

 

澪は、両手を握りしめた。

 

今日は、帰らない。そう決めて、ここまで来た。

 

「ひまりは、町の人たちに、ゴーグルをかけてまわってるんです。小春ちゃんにも、小春ちゃんのお母さんにも。昨日は、公園の子供たちにも。お願いです。ひまりを、止めてください」

 

言い切った。

 

あの夜の電話でも、学校の廊下でも、小春ちゃんのお母さんの前でも、言えなかったことだった。

 

お母さんは、微笑んだままだった。

 

「ひまりはね、大事な用事があるのよ」

 

同じ速さで、同じ高さで。

 

それから、くるりと背中を向けて、家の奥へ戻っていった。ドアは、開いたままだった。

 

「……おじゃまします」

 

澪は、靴を脱いで上がった。

 

誰も、止めなかった。

 

廊下の先に、食卓があった。おじさんが新聞を広げて、ページの端を指で撫でている。めくらない。その向かいで、陽太くんが、赤いヒーローのソフビを両手で握って座っていた。

 

「陽太くん」

 

小さな背中は、振り向かなかった。

 

食卓の奥が、台所だった。

 

お母さんは、コンロの前に立っていた。鍋を、お玉でかき混ぜている。ゆっくりと、同じ手つきで。一回、また一回。止まらなかった。

 

台所の隅のコンセントに、充電器が三つ、並んでつながっていた。

 

その先に、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルが三つ。小さな灯りが、緑色にともっていた。

 

澪は、食卓と台所の境で立ちつくした。

 

それが何なのか、もう、聞かなくても分かった。

 

食卓には、お茶碗が三つ並んでいた。おじさんの前と、陽太くんの前と、お母さんの席と。

 

四つ目は、どこにもなかった。

 

ひまりは、この家に帰ってきていない。

 

疲れていたのでは、なかった。

 

鞄を抱えてこの玄関に立ったあの日も、この家は、もう、こうだった。

 

「……また、来ます」

 

お母さんは、鍋をかき混ぜながら、振り返らずに言った。

 

「ええ。またね、澪ちゃん」

 

あの日と、同じ言葉だった。

 

その夜、澪はベッドの上で、ひまりとのトーク画面を開いた。

 

『ひまり、今どこ?』から始まる澪の吹き出しが、縦に長く並んでいた。

 

既読は、一つもついていなかった。

 

澪は、何も送らずに画面を閉じた。

 

次の日から、ひまりは毎朝、行き先を教えてくれた。

 

「ボク、今日は川沿いのアパートに用事!」

 

隠しごとは、一つもなかった。

 

澪は、先回りした。左手でブルーベルを掲げて、ひまりの前に立った。

 

そして、リボンが出なかった。

 

ステッキをくるりと回しても、青い光は、花の下のひびのところでほつれて、伸びる前に花びらになって散った。何度回しても、同じだった。

 

どうしてなのか、澪にも分からなかった。ステッキを握る左手の奥で、ぷつん、という小さな音が、ずっと鳴っていた。

 

光弾は、二重の盾に弾かれた。リリィは急がずに歩いてきて、澪の足元の地面を打った。澪は、また転んだ。

 

転んだ澪の前に、ひまりはすぐにしゃがみこんだ。

 

「澪ちゃん、明日の小テスト、一緒にがんばろうね!」

 

さっきまでと同じ声で。いつもの、親友の声で。

 

それから立ち上がって、アパートの階段を上っていった。

 

次の日も、その次の日も、同じだった。

 

「ボク、今日は商店街に用事!」

 

その日、澪は走った。

 

アーケードの入り口で、足が一度だけ止まった。

 

事務所の前の掲示板に、ポスターと子供たちの絵が、まだ貼ってあった。水色の傘を持ったオレンジの女の子と、リボンを伸ばす青い女の子。『リリィ アイリス ありがとう』。

 

澪は、目をそらして中へ入った。

 

本屋の前で、おじいちゃんが、店先の棚の同じ段を、同じ手つきではたいていた。八百屋のおじさんが、同じ大根を、同じ場所に並べ直していた。誰も、何もしゃべっていなかった。

 

入り口に近い魚屋の前のベンチで、泣き声がした。

 

「おかあさん……おかあさん、おきて……」

 

ゆうくんだった。

 

眠りこんだ母親の膝にしがみついて、袖を引っぱっている。アーケードの梁のあいだで、ドローンがぶうんと羽音を立てていた。

 

通りの真ん中で、段ボール箱の上に、ユメミが座っていた。

 

その向こうから、ラベンダーのスカートが歩いてくる。右腕の籠手で、歯車がぎり、ぎり、と鳴っていた。

 

澪は、入り口の植え込みの陰で、左手でブルーベルを掲げた。

 

青い光をくぐって、ベンチの前に降りる。ゆうくんを背中にかばって、通りの奥を向いた。

 

リリィは、六歩ほど手前で足を止めた。

 

「澪ちゃん!」

 

嬉しそうな声だった。

 

澪は、ステッキを回した。

 

青い光は、やっぱり、ひびのところでほどけて散った。

 

光弾を撃つ。左手の狙いはずれて、二重の盾の端で弾けた。

 

リリィが、一歩踏み出した。

 

「アイリスさん、ご心配なく!」

 

ユメミが、箱の上で立ち上がった。

 

「今日は、ぜーんぜん痛くないですよ! おやすみハンモックちゃん、お願いします!」

 

白衣のポケットから、ドローンが四機、飛び出した。

 

澪の頭の上で、四方に散る。そのあいだに、淡い光の網が、ふわりと広がった。

 

逃げる間もなかった。網は、毛布みたいに澪の上に落ちてきて、肩から足まで、やわらかく包みこんだ。四機のドローンが網の端を持ち上げると、澪の体は、石畳から少しだけ浮いた。

 

痛くは、なかった。あたたかくて、ふわふわしていた。

 

ただ、腕が、一本も動かなかった。

 

「同志が、もうアイリスさんを転ばせなくてすむように、作りました!」

 

むふーっ、とユメミが胸を張った。

 

リリィが、ぱっと振り返った。

 

「ユメちゃん、ありがと!」

 

ユメミさん、ではなかった。

 

廊下で友達を呼ぶみたいに、ひまりはその人を、そう呼んだ。

 

リリィは、網の中の澪のそばに膝をついた。左手で、網の上から澪の髪をそっと撫でる。顔が近かった。目の下の影は、また少し濃くなっていた。

 

「澪ちゃん、明日、道徳の授業あるね! 楽しみだね!」

 

小さな声だった。

 

カサオバケの次の朝、ひまりは澪のノートを抱えて、廊下を走っていった。ちょっと、私のノートを人質にしないでってば、と笑いながら、澪は思ったのだ。

 

この子が隣にいる限り、自分はたぶん大丈夫だ、と。

 

ひまりは、今、隣にいた。

 

膝をついて、網の上から澪の髪を撫でて、明日の授業の話をしている。あの朝と同じ、体温の高そうな手で。

 

それでも、もう大丈夫だとは、思えなかった。

 

リリィは立ち上がって、ベンチのほうを向いた。

 

ゆうくんの前に、しゃがみこむ。目線が、ちょうど同じ高さになった。

 

「どうしたの?」

 

「……おかあさんが、おきないの……」

 

リリィは、うん、と頷いた。左手で、ゆうくんの頭をくしゃっと撫でる。

 

それから、首をかしげずに言った。

 

「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」

 

ユメミが、箱からゴーグルを二つ持ってきた。リリィは左手で一つを取って、ゆうくんの目元に、眼鏡をかけてあげるみたいにそっとかけた。

 

もう一つは、眠っている母親に。

 

「もう泣かなくてすむからね」

 

あの日、澪が抱えて逃げた子だった。光の外へ連れ出して、お母さんに返した子だった。

 

網の中で、澪は、それを見ていることしかできなかった。

 

研究所に戻ったのは、九時を過ぎてからだった。

 

ひまりは変身を解いて、真っ先にお茶のテーブルへ駆け寄った。ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。

 

「ただいま!」

 

それから、くるりと振り向いた。

 

「ユメちゃん、今日ね、十五人! それに、ハンモックちゃん、すっごかった!」

 

「でしょう! ユメミ、天才ですから!」

 

ユメミはソファに座ったまま、胸を張った。

 

ハンモックちゃんを作ったのは、ゆうべだった。

 

公園の日から、同志は澪さんを転ばせるたびに、帰り道で少しだけ静かになった。ユメミは、それを見ていた。それだけで、作る理由には十分だった。

 

ひまりは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。

 

「よーし! あと五人、行ってくる!」

 

バイザーに手をかけて、扉のほうへ歩きだす。目の下の影が、明かりの下で、ユメミと同じくらい濃かった。

 

ユメミは、とっさに手を伸ばした。

 

ソファの前を通りすぎようとしたひまりの、制服の袖をつかむ。

 

ひまりが、足を止めて見下ろした。

 

ユメミは、座ったまま見上げた。

 

「だめです」

 

それから、ソファの上の自分の膝を、ぽんぽんと叩いた。

 

「ユメミはお姉さんなんだから! 疲れてる同志を放っておけないの!」

 

ひまりは、ぱちぱちとまばたきをした。

 

それから、えへへ、と笑った。

 

「じゃあ、ちょっとだけ!」

 

ひまりはソファに横になって、ユメミの膝に頭をのせた。バイザーは、かけたままだった。足は、扉のほうへ向いていた。

 

「あのね、今日の、ベンチの男の子がね……」

 

話しているうちに、声がゆっくりになっていった。

 

五分もしないうちに、寝息に変わった。

 

二十分たったころ、ユメミの足がしびれはじめた。

 

四十分たったころには、膝が小さく震えていた。

 

それでも、ユメミは動かなかった。

 

膝の上で、ひまりが眠っている。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。ユメミは、それを指でそっとなでつけた。手を離すと、すぐにまた跳ねた。

 

窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが点滅していた。

 

今日の十五人のことを、ユメミは思い出そうとした。

 

一人も、思い出せなかった。

 

ゴーグルを届けた人たちの顔も、その人たちが泣いていたのかどうかも。覚えているのは、ハンモックちゃんに「ありがと!」と振り返った、ひまりの顔だけだった。

 

この町の人が泣こうが、泣くまいが。

 

もう、ユメミには、どうでもよかった。

 

ひまりちゃんが、こうして笑っていれば。

 

そう気がついても、ユメミは少しも驚かなかった。ずっと前から、そうだった気がした。

 

膝の上の寝息を聞いているうちに、ユメミのまぶたも、重くなっていった。

 

目を開けると、膝が軽かった。

 

ソファの上に、ひまりはいなかった。

 

ユメミの肩に、タオルケットがかかっていた。いつもは、ユメミがひまりにかけているものだった。

 

お茶のテーブルの、ティーカップの隣に、バイザーが置いてあった。

 

いってきます、と言ったのだろう。ユメミには、聞こえなかった。

 

時計の針は、夜中の二時を回っていた。

 

ユメミは、しびれた足で立ち上がった。よろけて、ソファの背につかまる。

 

窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが、点いては消えていた。

 

あれが、町じゅうに届くようになれば。ひまりちゃんが、一人で夜を走らなくてもよくなる。

 

町のためではなかった。それでも、ひまりちゃんが望むことだった。

 

だから、急ぐ。

 

ユメミは作業台に向かう途中で、ノートを開いた。

 

『同志の観測 十二日目』

 

『おやすみハンモックちゃん、大成功。同志、大喜び』

 

『膝枕、四十分』

 

『ユメミの足、しびれた』

 

『同志、夜中にいなくなった』

 

少し考えて、もう一行、書き足した。

 

『タオルケットを、かけてもらった』

 

ユメミはノートを閉じて、白衣の袖をまくった。三回目で、ようやく肘のところで止まった。

 

拡大鏡を下ろし、ドライバーを手に取る。

 

ひまりちゃんが、もう夜を走らなくてすむように。

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