門柱に、『陽向』の表札がかかっていた。
玄関の横には、
何も変わっていなかった。
澪はチャイムを押した。少しして、ドアが開いた。
「あら、澪ちゃん」
ひまりのお母さんだった。エプロンをつけて、穏やかに微笑んでいる。
小春ちゃんのお母さんと、同じ微笑みだった。
「おばさん。ひまりのことで、話があります」
「ひまりはね、大事な用事があるのよ」
澪は、両手を握りしめた。
今日は、帰らない。そう決めて、ここまで来た。
「ひまりは、町の人たちに、ゴーグルをかけてまわってるんです。小春ちゃんにも、小春ちゃんのお母さんにも。昨日は、公園の子供たちにも。お願いです。ひまりを、止めてください」
言い切った。
あの夜の電話でも、学校の廊下でも、小春ちゃんのお母さんの前でも、言えなかったことだった。
お母さんは、微笑んだままだった。
「ひまりはね、大事な用事があるのよ」
同じ速さで、同じ高さで。
それから、くるりと背中を向けて、家の奥へ戻っていった。ドアは、開いたままだった。
「……おじゃまします」
澪は、靴を脱いで上がった。
誰も、止めなかった。
廊下の先に、食卓があった。おじさんが新聞を広げて、ページの端を指で撫でている。めくらない。その向かいで、陽太くんが、赤いヒーローのソフビを両手で握って座っていた。
「陽太くん」
小さな背中は、振り向かなかった。
食卓の奥が、台所だった。
お母さんは、コンロの前に立っていた。鍋を、お玉でかき混ぜている。ゆっくりと、同じ手つきで。一回、また一回。止まらなかった。
台所の隅のコンセントに、充電器が三つ、並んでつながっていた。
その先に、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルが三つ。小さな灯りが、緑色にともっていた。
澪は、食卓と台所の境で立ちつくした。
それが何なのか、もう、聞かなくても分かった。
食卓には、お茶碗が三つ並んでいた。おじさんの前と、陽太くんの前と、お母さんの席と。
四つ目は、どこにもなかった。
ひまりは、この家に帰ってきていない。
疲れていたのでは、なかった。
鞄を抱えてこの玄関に立ったあの日も、この家は、もう、こうだった。
「……また、来ます」
お母さんは、鍋をかき混ぜながら、振り返らずに言った。
「ええ。またね、澪ちゃん」
あの日と、同じ言葉だった。
その夜、澪はベッドの上で、ひまりとのトーク画面を開いた。
『ひまり、今どこ?』から始まる澪の吹き出しが、縦に長く並んでいた。
既読は、一つもついていなかった。
澪は、何も送らずに画面を閉じた。
次の日から、ひまりは毎朝、行き先を教えてくれた。
「ボク、今日は川沿いのアパートに用事!」
隠しごとは、一つもなかった。
澪は、先回りした。左手でブルーベルを掲げて、ひまりの前に立った。
そして、リボンが出なかった。
ステッキをくるりと回しても、青い光は、花の下のひびのところでほつれて、伸びる前に花びらになって散った。何度回しても、同じだった。
どうしてなのか、澪にも分からなかった。ステッキを握る左手の奥で、ぷつん、という小さな音が、ずっと鳴っていた。
光弾は、二重の盾に弾かれた。リリィは急がずに歩いてきて、澪の足元の地面を打った。澪は、また転んだ。
転んだ澪の前に、ひまりはすぐにしゃがみこんだ。
「澪ちゃん、明日の小テスト、一緒にがんばろうね!」
さっきまでと同じ声で。いつもの、親友の声で。
それから立ち上がって、アパートの階段を上っていった。
次の日も、その次の日も、同じだった。
「ボク、今日は商店街に用事!」
その日、澪は走った。
アーケードの入り口で、足が一度だけ止まった。
事務所の前の掲示板に、ポスターと子供たちの絵が、まだ貼ってあった。水色の傘を持ったオレンジの女の子と、リボンを伸ばす青い女の子。『リリィ アイリス ありがとう』。
澪は、目をそらして中へ入った。
本屋の前で、おじいちゃんが、店先の棚の同じ段を、同じ手つきではたいていた。八百屋のおじさんが、同じ大根を、同じ場所に並べ直していた。誰も、何もしゃべっていなかった。
入り口に近い魚屋の前のベンチで、泣き声がした。
「おかあさん……おかあさん、おきて……」
ゆうくんだった。
眠りこんだ母親の膝にしがみついて、袖を引っぱっている。アーケードの梁のあいだで、ドローンがぶうんと羽音を立てていた。
通りの真ん中で、段ボール箱の上に、ユメミが座っていた。
その向こうから、ラベンダーのスカートが歩いてくる。右腕の籠手で、歯車がぎり、ぎり、と鳴っていた。
澪は、入り口の植え込みの陰で、左手でブルーベルを掲げた。
青い光をくぐって、ベンチの前に降りる。ゆうくんを背中にかばって、通りの奥を向いた。
リリィは、六歩ほど手前で足を止めた。
「澪ちゃん!」
嬉しそうな声だった。
澪は、ステッキを回した。
青い光は、やっぱり、ひびのところでほどけて散った。
光弾を撃つ。左手の狙いはずれて、二重の盾の端で弾けた。
リリィが、一歩踏み出した。
「アイリスさん、ご心配なく!」
ユメミが、箱の上で立ち上がった。
「今日は、ぜーんぜん痛くないですよ! おやすみハンモックちゃん、お願いします!」
白衣のポケットから、ドローンが四機、飛び出した。
澪の頭の上で、四方に散る。そのあいだに、淡い光の網が、ふわりと広がった。
逃げる間もなかった。網は、毛布みたいに澪の上に落ちてきて、肩から足まで、やわらかく包みこんだ。四機のドローンが網の端を持ち上げると、澪の体は、石畳から少しだけ浮いた。
痛くは、なかった。あたたかくて、ふわふわしていた。
ただ、腕が、一本も動かなかった。
「同志が、もうアイリスさんを転ばせなくてすむように、作りました!」
むふーっ、とユメミが胸を張った。
リリィが、ぱっと振り返った。
「ユメちゃん、ありがと!」
ユメミさん、ではなかった。
廊下で友達を呼ぶみたいに、ひまりはその人を、そう呼んだ。
リリィは、網の中の澪のそばに膝をついた。左手で、網の上から澪の髪をそっと撫でる。顔が近かった。目の下の影は、また少し濃くなっていた。
「澪ちゃん、明日、道徳の授業あるね! 楽しみだね!」
小さな声だった。
カサオバケの次の朝、ひまりは澪のノートを抱えて、廊下を走っていった。ちょっと、私のノートを人質にしないでってば、と笑いながら、澪は思ったのだ。
この子が隣にいる限り、自分はたぶん大丈夫だ、と。
ひまりは、今、隣にいた。
膝をついて、網の上から澪の髪を撫でて、明日の授業の話をしている。あの朝と同じ、体温の高そうな手で。
それでも、もう大丈夫だとは、思えなかった。
リリィは立ち上がって、ベンチのほうを向いた。
ゆうくんの前に、しゃがみこむ。目線が、ちょうど同じ高さになった。
「どうしたの?」
「……おかあさんが、おきないの……」
リリィは、うん、と頷いた。左手で、ゆうくんの頭をくしゃっと撫でる。
それから、首をかしげずに言った。
「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」
ユメミが、箱からゴーグルを二つ持ってきた。リリィは左手で一つを取って、ゆうくんの目元に、眼鏡をかけてあげるみたいにそっとかけた。
もう一つは、眠っている母親に。
「もう泣かなくてすむからね」
あの日、澪が抱えて逃げた子だった。光の外へ連れ出して、お母さんに返した子だった。
網の中で、澪は、それを見ていることしかできなかった。
研究所に戻ったのは、九時を過ぎてからだった。
ひまりは変身を解いて、真っ先にお茶のテーブルへ駆け寄った。ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。
「ただいま!」
それから、くるりと振り向いた。
「ユメちゃん、今日ね、十五人! それに、ハンモックちゃん、すっごかった!」
「でしょう! ユメミ、天才ですから!」
ユメミはソファに座ったまま、胸を張った。
ハンモックちゃんを作ったのは、ゆうべだった。
公園の日から、同志は澪さんを転ばせるたびに、帰り道で少しだけ静かになった。ユメミは、それを見ていた。それだけで、作る理由には十分だった。
ひまりは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。
「よーし! あと五人、行ってくる!」
バイザーに手をかけて、扉のほうへ歩きだす。目の下の影が、明かりの下で、ユメミと同じくらい濃かった。
ユメミは、とっさに手を伸ばした。
ソファの前を通りすぎようとしたひまりの、制服の袖をつかむ。
ひまりが、足を止めて見下ろした。
ユメミは、座ったまま見上げた。
「だめです」
それから、ソファの上の自分の膝を、ぽんぽんと叩いた。
「ユメミはお姉さんなんだから! 疲れてる同志を放っておけないの!」
ひまりは、ぱちぱちとまばたきをした。
それから、えへへ、と笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ!」
ひまりはソファに横になって、ユメミの膝に頭をのせた。バイザーは、かけたままだった。足は、扉のほうへ向いていた。
「あのね、今日の、ベンチの男の子がね……」
話しているうちに、声がゆっくりになっていった。
五分もしないうちに、寝息に変わった。
二十分たったころ、ユメミの足がしびれはじめた。
四十分たったころには、膝が小さく震えていた。
それでも、ユメミは動かなかった。
膝の上で、ひまりが眠っている。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。ユメミは、それを指でそっとなでつけた。手を離すと、すぐにまた跳ねた。
窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが点滅していた。
今日の十五人のことを、ユメミは思い出そうとした。
一人も、思い出せなかった。
ゴーグルを届けた人たちの顔も、その人たちが泣いていたのかどうかも。覚えているのは、ハンモックちゃんに「ありがと!」と振り返った、ひまりの顔だけだった。
この町の人が泣こうが、泣くまいが。
もう、ユメミには、どうでもよかった。
ひまりちゃんが、こうして笑っていれば。
そう気がついても、ユメミは少しも驚かなかった。ずっと前から、そうだった気がした。
膝の上の寝息を聞いているうちに、ユメミのまぶたも、重くなっていった。
目を開けると、膝が軽かった。
ソファの上に、ひまりはいなかった。
ユメミの肩に、タオルケットがかかっていた。いつもは、ユメミがひまりにかけているものだった。
お茶のテーブルの、ティーカップの隣に、バイザーが置いてあった。
いってきます、と言ったのだろう。ユメミには、聞こえなかった。
時計の針は、夜中の二時を回っていた。
ユメミは、しびれた足で立ち上がった。よろけて、ソファの背につかまる。
窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが、点いては消えていた。
あれが、町じゅうに届くようになれば。ひまりちゃんが、一人で夜を走らなくてもよくなる。
町のためではなかった。それでも、ひまりちゃんが望むことだった。
だから、急ぐ。
ユメミは作業台に向かう途中で、ノートを開いた。
『同志の観測 十二日目』
『おやすみハンモックちゃん、大成功。同志、大喜び』
『膝枕、四十分』
『ユメミの足、しびれた』
『同志、夜中にいなくなった』
少し考えて、もう一行、書き足した。
『タオルケットを、かけてもらった』
ユメミはノートを閉じて、白衣の袖をまくった。三回目で、ようやく肘のところで止まった。
拡大鏡を下ろし、ドライバーを手に取る。
ひまりちゃんが、もう夜を走らなくてすむように。