四日間、同じことが続いた。
「ボク、今日は駅のほうに用事!」
朝の教室で、
リボンは、一度も出なかった。
ステッキを回すたび、青い光は花の下のひびのところでほつれて、花びらになって散った。光弾は、二重の盾の端で弾けた。
毎日、左手でステッキを握った。毎日、ひびのところで光がほつれた。家に帰ってからも、左手の指は、ステッキの形に曲がったまま、しばらく開かなかった。
負けるたびに、ひまりはすぐにしゃがみこんで、明日の話をした。一日目は、給食の揚げパンの話だった。二日目は、席替えの話だった。どれも、いつもの親友の声だった。
ゆうべ、どこに行ってたの、とは、もう聞かなかった。聞けば、ひまりは全部答える。
三日目は、ユメミも来ていた。
段ボール箱の上で、白衣がぴょんと立ち上がった。
「アイリスさん、ご心配なく! 今日のは、ぷかぷかドームちゃんです!」
白衣のポケットから、虹色の泡のようなものがふわりと飛び出した。泡は澪の頭の上でみるみるふくらんで、澪をすっぽりと包みこんだ。
大きな、大きなシャボン玉の中にいた。
ステッキで叩いても、ぽよん、と押し返されるだけだった。肩でぶつかっても、ぽよん。痛くはなかった。外の音が、少しだけ遠くなった。
ユメミが箱の上で手を叩く音も、膜を通すと、遠い雨みたいだった。
リリィが、膜のすぐ外に膝をついた。左手を、膜に当てる。虹色の向こうで、手のひらの形が少しだけ平たくなった。
「澪ちゃん、来週プール開きだね! 楽しみ!」
いつもの、親友の声だった。
それからリリィは立ち上がって、団地の階段を上っていった。
膜の向こうで、ラベンダーのスカートが、虹色ににじんで見えた。四階の、いちばん奥のドアの前で止まる。ドアが開いて、閉まった。
澪は、そのドアがもう一度開くのを、膜の中から見ていた。
日が傾いても、ドアは開かなかった。
ドームが小さな泡になって消えたのは、日が沈んでからだった。
四日間、誕生日の話は一度も出なかった。
去年は、六月の終わりにはもう、そわそわしていた。何も聞いていないのに、ひみつだからね、と自分から言いに来ていた。
忘れているのかもしれない、と澪は思った。
それを寂しいと思った自分に、少しだけ驚いた。
その夜、澪は包帯をほどいた。
最後のひと巻きを外すと、手首は、ほかのところより少しだけ白かった。商店街でねじれてから、十日がたっていた。
ゆっくり、指を握ってみる。
握れた。奥のほうが、まだ少しこわばっていた。
ほどいた包帯を丸めて、机の端に置いた。
その夜も、あまり眠れなかった。
目覚ましが鳴る前に、澪は起きて制服を着ていた。
鏡の前で、ブラウスの袖のボタンを留める。袖口から、もう白いものはのぞかなかった。
ベッドの端に座って、時計を見た。
誕生日まで、あと一週間だった。
三日前くらいに、半分しゃべってしまう。去年までのひまりなら、そろそろ何か言いに来るころだった。
今年は、何も言ってこない。
それでいいのかもしれない、と澪は思った。誕生日に、あのベンチへ行ったって、ひまりはきっと、来ない。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。
時計を見た。家を出る時間には、まだ三十分あった。
澪の指が、ボタンの上で止まった。
三十分。
お父さんを見送った、次の朝。ひまりが帰ってこなかった三日目の、次の朝。
その三十分が何でできていたのか、澪はもう知っていた。
階段の下で、お母さんの声がした。
「はーい。……あら、ひまりちゃん!」
階段の上で、一度だけ足が止まった。
下りれば、ひまりがいる。三十分早い朝の、ひまりが。
澪は階段を下りた。
今朝は、パジャマではなかった。
ひまりは、玄関のたたきに立っていた。
「澪ちゃん、おはよっ!」
制服を着て、右耳の上の寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で笑っていた。
澪は、上がり框の上で足を止めた。一段高いところから向き合うと、ひまりの顔が、少しだけ下にあった。
澪は、まず手を見た。
ドアの縁にかかった、左の手。
人差し指と中指の先に、絆創膏が一枚ずつ巻いてあった。
自分用に持ち歩いているはずの絆創膏が、ひまりに貼られているのを、澪はほとんど見たことがない。膝をすりむいても、最後の一枚を泣いている子にあげてしまう子だった。
その指先に、二枚。
それから、目の下を見た。影は、昨日教室で見たときより、また濃くなっていた。
ひまりは、ふわあ、と口を隠さずにあくびをして、えへへ、と笑った。制服から、夜の外の匂いがした。
「ひまりちゃん、朝ごはん食べていきなさい。すぐできるから」
お母さんが、エプロンで手を拭きながら言った。
「おはようございます、おばさん! ごめんなさい、ボク、急ぐの!」
ひまりは、ぺこりと頭を下げた。
「あらあら。じゃあ今度は、ちゃんとごはん食べにいらっしゃいね」
「はーい!」
お母さんは笑って、台所へ戻っていった。廊下の奥で、フライパンの音がまた鳴りはじめた。
ひまりの目が、澪の右手に留まった。
ブラウスの袖口に。何も巻いていない手首に。
「あっ! 手首、包帯取れたんだ!」
ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。
「よかったぁ!」
本気の声だった。昇降口で、ごめんね、と眉を下げたときと同じくらい、本気の声だった。
「……うん。もう、平気」
「えへへ。よかった!」
ひまりは、スカートのポケットに右手を入れた。
「はい、これ!」
差し出された右の手のひらに、小さな袋がのっていた。
水色の布で縫った、手のひらに収まるくらいの袋だった。表に、オレンジ色の糸で、ひまわりの刺繍がしてある。口のところを、オレンジの紐がくるりと結んでいた。首からも下げられそうな、長い紐だった。
「今年はちょっと早いけど、誕生日プレゼント! 絶対つけててね」
お守りだった。
澪は、左手を伸ばした。
袋が手のひらにのると、ひまりの右手が、澪の左手ごと、上から一度だけ包んだ。
体温の高い手だった。
それから、離れた。
左手に、ひまりの手の温度が、少しだけ残った。
袋も、少しだけあたたかかった。ひまりのポケットの中で、ここまで運ばれてきた温度だった。
澪は、手の中のものを見下ろした。
縫い目は、ところどころ大きくなったり、小さくなったりしていた。糸が一か所、ほんの少しだけ布から浮いている。ひまわりの花びらは、一枚ずつ丁寧に刺してあった。
一枚だけ、向きが逆だった。
去年の栞と、同じだった。
ボクの花だから。澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。
右手が、勝手に口元へ行っていた。
嬉しいとき、澪はいつもそうする。誰も見ていなくても。
嬉しかった。
胸の奥に、久しぶりに、何かがぽっと灯った気がした。ひまりの前に立って、負けて、転んで、包まれて。この十日あまり、一度も感じなかったものだった。
三日前くらいに、半分しゃべってしまう。あのベンチで、澪はそう思っていた。
一言も、漏らさなかった。
隠しごとを一つもしなくなったひまりが、これだけは、隠しきった。
それが、自分のためだったことが、嬉しかった。
「……ありがとう」
声が、少しだけかすれた。
「えへへ」
ひまりは頭をかいて、絆創膏の指先を照れくさそうに背中へ隠した。
「……でも、なんで、早いの」
去年は、ギリギリだった。ひまり自身が、そう言っていた。
「間に合わなかったら、困るもん!」
ひまりは、迷わずに答えた。
誕生日に間に合わなかったら。そういう意味だと、澪は思った。
指で、袋をそっと押してみる。
やわらかい布の奥に、硬くて、平たいものが入っていた。
「これ、中に何が入ってるの」
「ひみつ!」
ひまりは、胸を張った。あのベンチで、毎日持ち歩けるやつ、と言ったときと同じ顔だった。
「開けちゃだめだよ、お守りだもん!」
それから、ぱちんと手を叩いた。
「あっ、そうだ。当日は、パフェおごるね! 苺のやつ!」
澪は、何も言えなかった。
苺のやつがいいな、と言わなくなったのは、澪のほうだった。ひまりは、覚えていた。
「じゃあね、澪ちゃん!」
ひまりは、ドアを押し開けた。
外へ一歩出かけて、ひまりが振り返った。
開いたドアの縁に手をかけたまま、朝の光が、オレンジ色の髪のふちを透かしていた。
「澪ちゃん」
「……なに」
「寝るときもね、必ずつけてるんだよ」
にっと笑って、ひまりは外へ出た。
門の前で、くるっと一回転する。それから、走っていった。門を出てからは、一度も振り返らなかった。
ドアが、ゆっくりと閉まった。
澪は、上がり框の上に立っていた。
台所から、フライパンの音が聞こえていた。お味噌汁の匂いがした。
「澪、ひまりちゃん、もう行っちゃったの」
台所から、お母さんの声がした。
「……うん」
寝るときもね、必ず。
どこかで、聞いた形だった。
公園の砂場に座りこんで、澪はそれを聞いていた。二つ結びの女の子の目元に、左手でゴーグルをかけて、ひまりは笑って言ったのだ。
寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ。
同じ形だった。同じ明るさで、同じ笑顔で。
背中のどこかが、すっと冷えた。
どうして同じなのかは、まだ分からなかった。
左手の中で、硬いものが、手のひらに当たっていた。