泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第10話 ボクが迎えに行くからね!(前編)

四日間、同じことが続いた。

 

「ボク、今日は駅のほうに用事!」

 

朝の教室で、陽向(ひなた)ひまりは毎朝、行き先を教えてくれた。澪の机の端に腰かけて、口を隠しもせずにあくびをしてから。目の下の影は、一日ごとに濃くなった。

 

蒼井澪(あおいみお)は、放課後になると先回りした。左手でブルーベルを掲げて、ひまりの前に立った。

 

リボンは、一度も出なかった。

 

ステッキを回すたび、青い光は花の下のひびのところでほつれて、花びらになって散った。光弾は、二重の盾の端で弾けた。

 

毎日、左手でステッキを握った。毎日、ひびのところで光がほつれた。家に帰ってからも、左手の指は、ステッキの形に曲がったまま、しばらく開かなかった。

 

負けるたびに、ひまりはすぐにしゃがみこんで、明日の話をした。一日目は、給食の揚げパンの話だった。二日目は、席替えの話だった。どれも、いつもの親友の声だった。

 

ゆうべ、どこに行ってたの、とは、もう聞かなかった。聞けば、ひまりは全部答える。

 

三日目は、ユメミも来ていた。

 

段ボール箱の上で、白衣がぴょんと立ち上がった。

 

「アイリスさん、ご心配なく! 今日のは、ぷかぷかドームちゃんです!」

 

白衣のポケットから、虹色の泡のようなものがふわりと飛び出した。泡は澪の頭の上でみるみるふくらんで、澪をすっぽりと包みこんだ。

 

大きな、大きなシャボン玉の中にいた。

 

ステッキで叩いても、ぽよん、と押し返されるだけだった。肩でぶつかっても、ぽよん。痛くはなかった。外の音が、少しだけ遠くなった。

 

ユメミが箱の上で手を叩く音も、膜を通すと、遠い雨みたいだった。

 

リリィが、膜のすぐ外に膝をついた。左手を、膜に当てる。虹色の向こうで、手のひらの形が少しだけ平たくなった。

 

「澪ちゃん、来週プール開きだね! 楽しみ!」

 

いつもの、親友の声だった。

 

それからリリィは立ち上がって、団地の階段を上っていった。

 

膜の向こうで、ラベンダーのスカートが、虹色ににじんで見えた。四階の、いちばん奥のドアの前で止まる。ドアが開いて、閉まった。

 

澪は、そのドアがもう一度開くのを、膜の中から見ていた。

 

日が傾いても、ドアは開かなかった。

 

ドームが小さな泡になって消えたのは、日が沈んでからだった。

 

四日間、誕生日の話は一度も出なかった。

 

去年は、六月の終わりにはもう、そわそわしていた。何も聞いていないのに、ひみつだからね、と自分から言いに来ていた。

 

忘れているのかもしれない、と澪は思った。

 

それを寂しいと思った自分に、少しだけ驚いた。

 

その夜、澪は包帯をほどいた。

 

最後のひと巻きを外すと、手首は、ほかのところより少しだけ白かった。商店街でねじれてから、十日がたっていた。

 

ゆっくり、指を握ってみる。

 

握れた。奥のほうが、まだ少しこわばっていた。

 

ほどいた包帯を丸めて、机の端に置いた。

 

その夜も、あまり眠れなかった。

 

目覚ましが鳴る前に、澪は起きて制服を着ていた。

 

鏡の前で、ブラウスの袖のボタンを留める。袖口から、もう白いものはのぞかなかった。

 

ベッドの端に座って、時計を見た。

 

誕生日まで、あと一週間だった。

 

三日前くらいに、半分しゃべってしまう。去年までのひまりなら、そろそろ何か言いに来るころだった。

 

今年は、何も言ってこない。

 

それでいいのかもしれない、と澪は思った。誕生日に、あのベンチへ行ったって、ひまりはきっと、来ない。

 

玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。

 

時計を見た。家を出る時間には、まだ三十分あった。

 

澪の指が、ボタンの上で止まった。

 

三十分。

 

お父さんを見送った、次の朝。ひまりが帰ってこなかった三日目の、次の朝。

 

その三十分が何でできていたのか、澪はもう知っていた。

 

階段の下で、お母さんの声がした。

 

「はーい。……あら、ひまりちゃん!」

 

階段の上で、一度だけ足が止まった。

 

下りれば、ひまりがいる。三十分早い朝の、ひまりが。

 

澪は階段を下りた。

 

今朝は、パジャマではなかった。

 

ひまりは、玄関のたたきに立っていた。

 

「澪ちゃん、おはよっ!」

 

制服を着て、右耳の上の寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で笑っていた。

 

澪は、上がり框の上で足を止めた。一段高いところから向き合うと、ひまりの顔が、少しだけ下にあった。

 

澪は、まず手を見た。

 

ドアの縁にかかった、左の手。

 

人差し指と中指の先に、絆創膏が一枚ずつ巻いてあった。

 

自分用に持ち歩いているはずの絆創膏が、ひまりに貼られているのを、澪はほとんど見たことがない。膝をすりむいても、最後の一枚を泣いている子にあげてしまう子だった。

 

その指先に、二枚。

 

それから、目の下を見た。影は、昨日教室で見たときより、また濃くなっていた。

 

ひまりは、ふわあ、と口を隠さずにあくびをして、えへへ、と笑った。制服から、夜の外の匂いがした。

 

「ひまりちゃん、朝ごはん食べていきなさい。すぐできるから」

 

お母さんが、エプロンで手を拭きながら言った。

 

「おはようございます、おばさん! ごめんなさい、ボク、急ぐの!」

 

ひまりは、ぺこりと頭を下げた。

 

「あらあら。じゃあ今度は、ちゃんとごはん食べにいらっしゃいね」

 

「はーい!」

 

お母さんは笑って、台所へ戻っていった。廊下の奥で、フライパンの音がまた鳴りはじめた。

 

ひまりの目が、澪の右手に留まった。

 

ブラウスの袖口に。何も巻いていない手首に。

 

「あっ! 手首、包帯取れたんだ!」

 

ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「よかったぁ!」

 

本気の声だった。昇降口で、ごめんね、と眉を下げたときと同じくらい、本気の声だった。

 

「……うん。もう、平気」

 

「えへへ。よかった!」

 

ひまりは、スカートのポケットに右手を入れた。

 

「はい、これ!」

 

差し出された右の手のひらに、小さな袋がのっていた。

 

水色の布で縫った、手のひらに収まるくらいの袋だった。表に、オレンジ色の糸で、ひまわりの刺繍がしてある。口のところを、オレンジの紐がくるりと結んでいた。首からも下げられそうな、長い紐だった。

 

「今年はちょっと早いけど、誕生日プレゼント! 絶対つけててね」

 

お守りだった。

 

澪は、左手を伸ばした。

 

袋が手のひらにのると、ひまりの右手が、澪の左手ごと、上から一度だけ包んだ。

 

体温の高い手だった。

 

それから、離れた。

 

左手に、ひまりの手の温度が、少しだけ残った。

 

袋も、少しだけあたたかかった。ひまりのポケットの中で、ここまで運ばれてきた温度だった。

 

澪は、手の中のものを見下ろした。

 

縫い目は、ところどころ大きくなったり、小さくなったりしていた。糸が一か所、ほんの少しだけ布から浮いている。ひまわりの花びらは、一枚ずつ丁寧に刺してあった。

 

一枚だけ、向きが逆だった。

 

去年の栞と、同じだった。

 

ボクの花だから。澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。

 

右手が、勝手に口元へ行っていた。

 

嬉しいとき、澪はいつもそうする。誰も見ていなくても。

 

嬉しかった。

 

胸の奥に、久しぶりに、何かがぽっと灯った気がした。ひまりの前に立って、負けて、転んで、包まれて。この十日あまり、一度も感じなかったものだった。

 

三日前くらいに、半分しゃべってしまう。あのベンチで、澪はそう思っていた。

 

一言も、漏らさなかった。

 

隠しごとを一つもしなくなったひまりが、これだけは、隠しきった。

 

それが、自分のためだったことが、嬉しかった。

 

「……ありがとう」

 

声が、少しだけかすれた。

 

「えへへ」

 

ひまりは頭をかいて、絆創膏の指先を照れくさそうに背中へ隠した。

 

「……でも、なんで、早いの」

 

去年は、ギリギリだった。ひまり自身が、そう言っていた。

 

「間に合わなかったら、困るもん!」

 

ひまりは、迷わずに答えた。

 

誕生日に間に合わなかったら。そういう意味だと、澪は思った。

 

指で、袋をそっと押してみる。

 

やわらかい布の奥に、硬くて、平たいものが入っていた。

 

「これ、中に何が入ってるの」

 

「ひみつ!」

 

ひまりは、胸を張った。あのベンチで、毎日持ち歩けるやつ、と言ったときと同じ顔だった。

 

「開けちゃだめだよ、お守りだもん!」

 

それから、ぱちんと手を叩いた。

 

「あっ、そうだ。当日は、パフェおごるね! 苺のやつ!」

 

澪は、何も言えなかった。

 

苺のやつがいいな、と言わなくなったのは、澪のほうだった。ひまりは、覚えていた。

 

「じゃあね、澪ちゃん!」

 

ひまりは、ドアを押し開けた。

 

外へ一歩出かけて、ひまりが振り返った。

 

開いたドアの縁に手をかけたまま、朝の光が、オレンジ色の髪のふちを透かしていた。

 

「澪ちゃん」

 

「……なに」

 

「寝るときもね、必ずつけてるんだよ」

 

にっと笑って、ひまりは外へ出た。

 

門の前で、くるっと一回転する。それから、走っていった。門を出てからは、一度も振り返らなかった。

 

ドアが、ゆっくりと閉まった。

 

澪は、上がり框の上に立っていた。

 

台所から、フライパンの音が聞こえていた。お味噌汁の匂いがした。

 

「澪、ひまりちゃん、もう行っちゃったの」

 

台所から、お母さんの声がした。

 

「……うん」

 

寝るときもね、必ず。

 

どこかで、聞いた形だった。

 

公園の砂場に座りこんで、澪はそれを聞いていた。二つ結びの女の子の目元に、左手でゴーグルをかけて、ひまりは笑って言ったのだ。

 

寝るときはね、必ずこれをかけるんだよ。

 

同じ形だった。同じ明るさで、同じ笑顔で。

 

背中のどこかが、すっと冷えた。

 

どうして同じなのかは、まだ分からなかった。

 

左手の中で、硬いものが、手のひらに当たっていた。

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