お守りは、スカートのポケットに入れて学校へ行った。
首から下げるには、まだ決められなかった。鞄の奥にしまうのも、遠すぎる気がした。
授業のあいだ、澪は何度もポケットの上から、布の手ざわりを確かめた。指で押すたびに、奥の硬いものが当たった。
四時間目のあいだ、澪は一度だけ、ポケットからお守りを半分だけ出した。机の陰で、逆向きの花びらを指でなぞって、またしまった。
ひまりは、いつもどおりだった。一時間目からあくびをして、二時間目には先生にあてられて、えへへ、と笑った。誕生日の話は、もう出なかった。今朝のことなんて、なかったみたいに。
昼休みの教室は、半分くらい空いていた。
窓際の澪の席に、ひまりがやってきた。机の端に横向きに腰かけて、足をぶらぶらさせる。窓からの光を背中に受けて、寝癖の先が透けていた。
クラスの子たちは、廊下側の席で机をくっつけて、お弁当を広げていた。こちらの話は聞こえない距離だった。
「ねえ、澪ちゃん。いいこと教えてあげる!」
ひまりの目が、きらきらしていた。
「もうすぐユメちゃんがね、町のみんなをいっぺんに助けられるようにしてくれるんだって!」
澪の箸が、止まった。
ユメちゃん。その呼び方には、もう驚かなかった。
「……いっぺんに」
「うん! 一人ずつゴーグル届けなくても、みんなが寝てるあいだに、いっぺんに!」
ひまりは、くるっと上半身をひねった。窓のほうを向いて、右手を伸ばす。
「あれ!」
指の先を、澪は目で追った。
ひまりの肩越しに、町の屋根が並んでいた。その向こう、町外れの坂の上のほうに、細い鉄塔が一本、空に刺さるように立っていた。
電波塔だった。
小さいころから、ずっとそこにあった。夜になると、てっぺんで赤い灯りが点いたり消えたりする。
小学生のころ、一度だけ、ひまりと土手を歩きながら、あの赤い灯りを数えたことがあった。点いて、消えて、また点いて。十まで数えたら願いごとが叶う、とひまりが言い出して、二人で何度も数え直した。
何を願ったのかは、もう覚えていない。それきり、気にしたこともなかった。
坂の上のほう。
放課後、ひまりがいつも走っていく方角だった。
「あれでね、ゴーグルとおんなじのを、町じゅうに届けるの! そしたら、もう誰も、一人で泣かなくてすむんだよ!」
ひまりは、窓のほうを向いたまま言った。
それから、くるりと振り返った。
「それでね、澪ちゃんの番は、一番最後! ボクが迎えに行くからね!」
朝の光みたいな顔だった。
澪は、スカートのポケットに手を入れた。
布の手ざわりがあった。指で押すと、奥の硬いものが当たった。
「……ひまり。このお守りの中のもの、ユメミが作ったの?」
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「うん!」
ひまりは、迷わずに答えた。
「中のはね、ユメちゃんが作ってくれたの! すっごく張り切ってたんだよ! 袋はボクが縫ったの!」
えへへ、と頭をかく。左手の指先で、絆創膏が二枚、白く光った。
「澪ちゃんのためだけの、お守り!」
予鈴が鳴った。
ひまりは机からぴょんと跳び下りて、右手で机のふちをぽんと叩いた。
「じゃあね、澪ちゃん!」
澪のお弁当は、半分残っていた。
五時間目の先生の声が、遠かった。
澪はノートを開いたまま、ペンを持っていなかった。
いっぺんに。みんなが寝ているあいだに。ゴーグルと同じものを、町じゅうに。
一番最後。
公園の砂場で、ひまりは小さな声で言った。本当はね、一番最初に澪ちゃんを助けたいの。でも、この町のみんなが、ボクの助けを求めてるんだ。だから、澪ちゃんは待っててくれるって信じてるから。
あの塔が灯った夜、町じゅうの人が、眠ったまま夢へ落ちていく。お母さんも、クラスの子たちも、先生も。
クラスの子たちが、ペンギンの話に笑っていた顔を思い出した。先生が、次は出せよ、とため息をついた顔を。
あの顔が、みんな、小春ちゃんのお母さんと同じ微笑みになる。
眠らずにいられる人は、いない。
その中で、澪だけが目を覚ます。
ポケットの中の、これがあるから。
寝るときもね、必ずつけてるんだよ。
ゴーグルを渡すとき、ひまりは、寝るときの話をした。眠っているあいだに、夢が届くから。だったら、お守りはその反対だった。眠っているあいだも、届かないように。
今年はちょっと早いけど。
間に合わなかったら、困るもん。
誕生日に、ではなかった。あの塔に、間に合うように。去年はギリギリだったひまりが、今年は一週間も早く、一言も漏らさずに縫い上げた。
指先に、二枚の絆創膏を巻いて。
澪ちゃんが、毎日持ち歩けるやつ。
あのベンチでひまりがそう決めたのは、まだ、ひまりがいなくなる前だった。川がきらきらしていた夕方に、両手で頬をぱちんと叩いて。今年は、去年よりもっとすごいの作る、と。
あの日のひまりが、考えたものだった。
それが今、澪をいちばん最後まで取っておくための形になって、ポケットの中にあった。
縫い目も、逆向きの花びらも、去年と同じだった。中に入っているものだけが、違っていた。
放課後、ひまりは誰よりも早く教室を出た。
昇降口で、澪の右隣に並んで靴を履き替える。かかとを押しこみながら、ぱっと顔を上げた。
「ボク、今日は川向こうのおうちに用事! また明日ね!」
ひまりは走っていった。校門のほうへ。一度も振り返らなかった。
澪は、昇降口の段の上に立っていた。
この四日間、澪は毎日、その行き先へ走った。ひまりより先に着いて、左手でブルーベルを掲げて、前に立った。
今日は、足が動かなかった。
止めなきゃ、と思わなかったのではなかった。
止めても、もう、意味がなかった。
澪が一人を守っても、あの塔が、いっぺんに届ける。
オレンジ色の髪は、校門の先で見えなくなった。
澪は、ポケットの中のお守りを握った。
その日は、まっすぐ家へ帰った。いつもの角を、一人で曲がった。
夕ごはんは、肉じゃがだった。
お母さんは、湯気の向こうでいつものようにしゃべっていた。明日の天気の話。隣の家の猫の話。駅前に、新しいパン屋ができるらしい話。
澪は、いつのまにかポケットからお守りを出して、膝の上で握っていた。
「あら」
お母さんの箸が止まった。
「かわいいじゃない。それ、ひまりちゃんから?」
「……うん。誕生日の」
「まあ、一週間も早く。あの子らしいわね」
「ちょっと見せて」
お母さんの手が、テーブルの向こうから伸びてきた。
澪の手が、勝手に動いた。お守りを握ったまま、膝の上から胸のほうへ引いていた。
お母さんは、目を丸くした。
「あら、大事なのね。ごめんごめん」
お母さんは、目を細めて笑った。
「今朝、ひまりちゃん、元気そうだったわね。ちょっと痩せたみたいだったけど。……そうだ、今度うちに来たら、唐揚げにしようかしら。あの子、好きでしょう」
お母さんは、自分の器からじゃがいもを一つ、澪の器に移した。澪が小さいころから、そうする人だった。
澪は、お母さんの顔を見た。
あの塔が灯った夜、この人も眠る。眠ったまま、夢の中へ行く。次の朝には、エプロンをつけて、穏やかに微笑んで、同じ言葉を繰り返す。
このお守りを、お母さんに渡せば。
お母さんだけでも、と思った。
それから、すぐに分かった。
渡して、どうするのだろう。これは何、と聞かれる。澪は、全部を話さなければならない。ひまりのこと。ゴーグルのこと。あの塔のこと。
ひまりのお母さんには、言い切った。届かなかった。
それに、澪ちゃんのためだけの、とひまりは言った。ほかの人が持っていても守ってくれるのかどうか、澪には分からなかった。
守ってくれたとしても。
町じゅうが眠った朝、お母さんは一人で目を覚ます。澪の部屋のドアを叩く。澪は穏やかに微笑んで、ひまりのお母さんと同じ声で、何か答える。
お母さんは、その澪の前に、毎朝立つことになる。
ひまりの家の台所で、澪が立ちつくしたように。
その朝を、お母さんに渡すのか。
本当は、もう一つあった。
膝の上で、ひまわりの花びらが一枚、逆を向いていた。指先に絆創膏を巻いて、ひまりが縫った袋だった。
手放したくなかった。
お母さんを守れるかもしれないものを、澪は、ひまりがくれたから、という理由で握りしめていた。
そのことが、いちばん、自分で許せなかった。
「澪、お箸、止まってるわよ」
「……ごめん。おいしい」
お母さんの肉じゃがは、いつもと同じ味のはずなのに、少しだけしょっぱかった。
部屋に戻って、澪は机のスタンドをつけた。
机の端に、ゆうべ丸めた包帯が、まだ置いてあった。
スマホを開いた。
『ひまり、今どこ?』から始まる吹き出しが、縦に長く並んでいた。いちばん下に何か打とうとして、指が止まった。
今どこ、と聞かなくても、もう分かっていた。坂の上の、あの灯りの近くだ。
澪は、何も打たずに画面を伏せた。
窓のカーテンを、少しだけ開ける。
屋根の向こう、坂の上のほうで、赤い灯りが点いては消えていた。
小さいころから、毎晩そこにあった灯りだった。
窓の下を、見下ろす。
家の前の道に、街灯が一つ灯っている。誰もいなかった。
四月の夜、ひまりはあそこに立っていた。明かりが消えるのを、朝まで待っていた。
明かりがついていれば、窓の外から、誰かが気づいてくれるかもしれない。あの夜の澪は、そう思っていたのかもしれなかった。
今、その誰かは、ゴーグルを持って来る。
澪は、スタンドの明かりを消した。
今夜は、窓の外の誰にも、気づいてほしくなかった。
暗い部屋で、ベッドに座った。
右手に、お守りを握った。手首の奥が、じんと疼いた。
目の奥が、熱くなった。
澪は、息を止めた。
悲しくなったら必ず呼んでね。すぐに飛んできて、涙なんか吹き飛ばしちゃうんだから。
傘の男の子が空に向かって呼んだら、リリィは来た。
泣けば、ひまりは来る。
澪は唇を噛んで、熱いものが引いていくのを待った。
枕に顔を押しつけて泣くことも、しなかった。あの夜、そうしても、声は窓の外まで漏れていた。
捨てれば、あの塔が届いた朝、澪はひまりのお母さんと同じ顔で笑っている。
持っていれば、町じゅうが眠ったあと、ひまりが迎えに来るまで、一人で待つことになる。
窓の向こうで、赤い灯りが、点いては消えていた。
待つのは、苦手じゃない。
そう思っていたのは、ついこのあいだまでのことだった。