泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第10話 ボクが迎えに行くからね!(後編)

お守りは、スカートのポケットに入れて学校へ行った。

 

首から下げるには、まだ決められなかった。鞄の奥にしまうのも、遠すぎる気がした。

 

授業のあいだ、澪は何度もポケットの上から、布の手ざわりを確かめた。指で押すたびに、奥の硬いものが当たった。

 

四時間目のあいだ、澪は一度だけ、ポケットからお守りを半分だけ出した。机の陰で、逆向きの花びらを指でなぞって、またしまった。

 

ひまりは、いつもどおりだった。一時間目からあくびをして、二時間目には先生にあてられて、えへへ、と笑った。誕生日の話は、もう出なかった。今朝のことなんて、なかったみたいに。

 

昼休みの教室は、半分くらい空いていた。

 

窓際の澪の席に、ひまりがやってきた。机の端に横向きに腰かけて、足をぶらぶらさせる。窓からの光を背中に受けて、寝癖の先が透けていた。

 

クラスの子たちは、廊下側の席で机をくっつけて、お弁当を広げていた。こちらの話は聞こえない距離だった。

 

「ねえ、澪ちゃん。いいこと教えてあげる!」

 

ひまりの目が、きらきらしていた。

 

「もうすぐユメちゃんがね、町のみんなをいっぺんに助けられるようにしてくれるんだって!」

 

澪の箸が、止まった。

 

ユメちゃん。その呼び方には、もう驚かなかった。

 

「……いっぺんに」

 

「うん! 一人ずつゴーグル届けなくても、みんなが寝てるあいだに、いっぺんに!」

 

ひまりは、くるっと上半身をひねった。窓のほうを向いて、右手を伸ばす。

 

「あれ!」

 

指の先を、澪は目で追った。

 

ひまりの肩越しに、町の屋根が並んでいた。その向こう、町外れの坂の上のほうに、細い鉄塔が一本、空に刺さるように立っていた。

 

電波塔だった。

 

小さいころから、ずっとそこにあった。夜になると、てっぺんで赤い灯りが点いたり消えたりする。

 

小学生のころ、一度だけ、ひまりと土手を歩きながら、あの赤い灯りを数えたことがあった。点いて、消えて、また点いて。十まで数えたら願いごとが叶う、とひまりが言い出して、二人で何度も数え直した。

 

何を願ったのかは、もう覚えていない。それきり、気にしたこともなかった。

 

坂の上のほう。

 

放課後、ひまりがいつも走っていく方角だった。

 

「あれでね、ゴーグルとおんなじのを、町じゅうに届けるの! そしたら、もう誰も、一人で泣かなくてすむんだよ!」

 

ひまりは、窓のほうを向いたまま言った。

 

それから、くるりと振り返った。

 

「それでね、澪ちゃんの番は、一番最後! ボクが迎えに行くからね!」

 

朝の光みたいな顔だった。

 

澪は、スカートのポケットに手を入れた。

 

布の手ざわりがあった。指で押すと、奥の硬いものが当たった。

 

「……ひまり。このお守りの中のもの、ユメミが作ったの?」

 

自分の声が、ひどく平らに聞こえた。

 

「うん!」

 

ひまりは、迷わずに答えた。

 

「中のはね、ユメちゃんが作ってくれたの! すっごく張り切ってたんだよ! 袋はボクが縫ったの!」

 

えへへ、と頭をかく。左手の指先で、絆創膏が二枚、白く光った。

 

「澪ちゃんのためだけの、お守り!」

 

予鈴が鳴った。

 

ひまりは机からぴょんと跳び下りて、右手で机のふちをぽんと叩いた。

 

「じゃあね、澪ちゃん!」

 

澪のお弁当は、半分残っていた。

 

五時間目の先生の声が、遠かった。

 

澪はノートを開いたまま、ペンを持っていなかった。

 

いっぺんに。みんなが寝ているあいだに。ゴーグルと同じものを、町じゅうに。

 

一番最後。

 

公園の砂場で、ひまりは小さな声で言った。本当はね、一番最初に澪ちゃんを助けたいの。でも、この町のみんなが、ボクの助けを求めてるんだ。だから、澪ちゃんは待っててくれるって信じてるから。

 

あの塔が灯った夜、町じゅうの人が、眠ったまま夢へ落ちていく。お母さんも、クラスの子たちも、先生も。

 

クラスの子たちが、ペンギンの話に笑っていた顔を思い出した。先生が、次は出せよ、とため息をついた顔を。

 

あの顔が、みんな、小春ちゃんのお母さんと同じ微笑みになる。

 

眠らずにいられる人は、いない。

 

その中で、澪だけが目を覚ます。

 

ポケットの中の、これがあるから。

 

寝るときもね、必ずつけてるんだよ。

 

ゴーグルを渡すとき、ひまりは、寝るときの話をした。眠っているあいだに、夢が届くから。だったら、お守りはその反対だった。眠っているあいだも、届かないように。

 

今年はちょっと早いけど。

 

間に合わなかったら、困るもん。

 

誕生日に、ではなかった。あの塔に、間に合うように。去年はギリギリだったひまりが、今年は一週間も早く、一言も漏らさずに縫い上げた。

 

指先に、二枚の絆創膏を巻いて。

 

澪ちゃんが、毎日持ち歩けるやつ。

 

あのベンチでひまりがそう決めたのは、まだ、ひまりがいなくなる前だった。川がきらきらしていた夕方に、両手で頬をぱちんと叩いて。今年は、去年よりもっとすごいの作る、と。

 

あの日のひまりが、考えたものだった。

 

それが今、澪をいちばん最後まで取っておくための形になって、ポケットの中にあった。

 

縫い目も、逆向きの花びらも、去年と同じだった。中に入っているものだけが、違っていた。

 

放課後、ひまりは誰よりも早く教室を出た。

 

昇降口で、澪の右隣に並んで靴を履き替える。かかとを押しこみながら、ぱっと顔を上げた。

 

「ボク、今日は川向こうのおうちに用事! また明日ね!」

 

ひまりは走っていった。校門のほうへ。一度も振り返らなかった。

 

澪は、昇降口の段の上に立っていた。

 

この四日間、澪は毎日、その行き先へ走った。ひまりより先に着いて、左手でブルーベルを掲げて、前に立った。

 

今日は、足が動かなかった。

 

止めなきゃ、と思わなかったのではなかった。

 

止めても、もう、意味がなかった。

 

澪が一人を守っても、あの塔が、いっぺんに届ける。

 

オレンジ色の髪は、校門の先で見えなくなった。

 

澪は、ポケットの中のお守りを握った。

 

その日は、まっすぐ家へ帰った。いつもの角を、一人で曲がった。

 

夕ごはんは、肉じゃがだった。

 

お母さんは、湯気の向こうでいつものようにしゃべっていた。明日の天気の話。隣の家の猫の話。駅前に、新しいパン屋ができるらしい話。

 

澪は、いつのまにかポケットからお守りを出して、膝の上で握っていた。

 

「あら」

 

お母さんの箸が止まった。

 

「かわいいじゃない。それ、ひまりちゃんから?」

 

「……うん。誕生日の」

 

「まあ、一週間も早く。あの子らしいわね」

 

「ちょっと見せて」

 

お母さんの手が、テーブルの向こうから伸びてきた。

 

澪の手が、勝手に動いた。お守りを握ったまま、膝の上から胸のほうへ引いていた。

 

お母さんは、目を丸くした。

 

「あら、大事なのね。ごめんごめん」

 

お母さんは、目を細めて笑った。

 

「今朝、ひまりちゃん、元気そうだったわね。ちょっと痩せたみたいだったけど。……そうだ、今度うちに来たら、唐揚げにしようかしら。あの子、好きでしょう」

 

お母さんは、自分の器からじゃがいもを一つ、澪の器に移した。澪が小さいころから、そうする人だった。

 

澪は、お母さんの顔を見た。

 

あの塔が灯った夜、この人も眠る。眠ったまま、夢の中へ行く。次の朝には、エプロンをつけて、穏やかに微笑んで、同じ言葉を繰り返す。

 

このお守りを、お母さんに渡せば。

 

お母さんだけでも、と思った。

 

それから、すぐに分かった。

 

渡して、どうするのだろう。これは何、と聞かれる。澪は、全部を話さなければならない。ひまりのこと。ゴーグルのこと。あの塔のこと。

 

ひまりのお母さんには、言い切った。届かなかった。

 

それに、澪ちゃんのためだけの、とひまりは言った。ほかの人が持っていても守ってくれるのかどうか、澪には分からなかった。

 

守ってくれたとしても。

 

町じゅうが眠った朝、お母さんは一人で目を覚ます。澪の部屋のドアを叩く。澪は穏やかに微笑んで、ひまりのお母さんと同じ声で、何か答える。

 

お母さんは、その澪の前に、毎朝立つことになる。

 

ひまりの家の台所で、澪が立ちつくしたように。

 

その朝を、お母さんに渡すのか。

 

本当は、もう一つあった。

 

膝の上で、ひまわりの花びらが一枚、逆を向いていた。指先に絆創膏を巻いて、ひまりが縫った袋だった。

 

手放したくなかった。

 

お母さんを守れるかもしれないものを、澪は、ひまりがくれたから、という理由で握りしめていた。

 

そのことが、いちばん、自分で許せなかった。

 

「澪、お箸、止まってるわよ」

 

「……ごめん。おいしい」

 

お母さんの肉じゃがは、いつもと同じ味のはずなのに、少しだけしょっぱかった。

 

部屋に戻って、澪は机のスタンドをつけた。

 

机の端に、ゆうべ丸めた包帯が、まだ置いてあった。

 

スマホを開いた。

 

『ひまり、今どこ?』から始まる吹き出しが、縦に長く並んでいた。いちばん下に何か打とうとして、指が止まった。

 

今どこ、と聞かなくても、もう分かっていた。坂の上の、あの灯りの近くだ。

 

澪は、何も打たずに画面を伏せた。

 

窓のカーテンを、少しだけ開ける。

 

屋根の向こう、坂の上のほうで、赤い灯りが点いては消えていた。

 

小さいころから、毎晩そこにあった灯りだった。

 

窓の下を、見下ろす。

 

家の前の道に、街灯が一つ灯っている。誰もいなかった。

 

四月の夜、ひまりはあそこに立っていた。明かりが消えるのを、朝まで待っていた。

 

明かりがついていれば、窓の外から、誰かが気づいてくれるかもしれない。あの夜の澪は、そう思っていたのかもしれなかった。

 

今、その誰かは、ゴーグルを持って来る。

 

澪は、スタンドの明かりを消した。

 

今夜は、窓の外の誰にも、気づいてほしくなかった。

 

暗い部屋で、ベッドに座った。

 

右手に、お守りを握った。手首の奥が、じんと疼いた。

 

目の奥が、熱くなった。

 

澪は、息を止めた。

 

悲しくなったら必ず呼んでね。すぐに飛んできて、涙なんか吹き飛ばしちゃうんだから。

 

傘の男の子が空に向かって呼んだら、リリィは来た。

 

泣けば、ひまりは来る。

 

澪は唇を噛んで、熱いものが引いていくのを待った。

 

枕に顔を押しつけて泣くことも、しなかった。あの夜、そうしても、声は窓の外まで漏れていた。

 

捨てれば、あの塔が届いた朝、澪はひまりのお母さんと同じ顔で笑っている。

 

持っていれば、町じゅうが眠ったあと、ひまりが迎えに来るまで、一人で待つことになる。

 

窓の向こうで、赤い灯りが、点いては消えていた。

 

待つのは、苦手じゃない。

 

そう思っていたのは、ついこのあいだまでのことだった。

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