明け方に、少しだけ雨が降ったらしかった。
七月になった最初の朝、通学路のあちこちに、水たまりが残っていた。
水たまりの中に、空があった。雲が、一つもなかった。濡れたアスファルトが朝の光をはじいて、塀の上の紫陽花も、電線から落ちるしずくも、どこもかしこもきらきらしていた。
雨上がりの日、ひまりはいつも、水たまりを飛び越えてはくるっと回った。見て見て、と澪を呼んで、虹っぽいのを探した。
澪は、水たまりを飛び越えずに、よけて歩いた。
振り返って待っていてくれる人は、もう、この道にはいなかった。
スカートのポケットの上から、布の手ざわりを確かめる。奥の硬いものが、指に当たった。
教室に入ると、澪の机に、
机の端に横向きに座って、足をぶらぶらさせている。窓からの光で、右耳の上の寝癖が透けていた。
「澪ちゃん、おはよっ!」
「……おはよう」
ひまりは、口を隠しもせずに、ふわあ、と大きなあくびをした。目の下の影は、昨日より、また濃くなっていた。
澪は椅子に座った。ひまりの横顔が、ちょうど目の高さにあった。その肩の向こう、窓の外の、町外れの坂の上のほうに、細い鉄塔が立っていた。
「あのね、澪ちゃん!」
ひまりの目が、きらきらしていた。
「ボク、今夜は塔に用事!」
毎朝、行き先を教えてくれるときと、同じ声だった。
「ユメちゃんの塔、今夜できるんだって! ゆうべ、ユメちゃんが教えてくれたの!」
ひまりは上半身をひねって、右手で窓の外を指した。
「明日の朝にはね、町のみんな、もう泣かなくてすむんだよ!」
澪は、塔を見ていた。
朝の光の中で、てっぺんの赤い灯りは消えていた。昼間は、いつもそうだった。ただの、細い鉄塔だった。
「……今夜」
「うん! 今夜!」
言えることは、何も浮かばなかった。止めて、とも、行かないで、とも。どれも、もう言ったことがあって、どれも、届かなかった言葉だった。
ひまりは、澪のポケットのほうを一度も見なかった。
予鈴が鳴ると、右手で机のふちをぽんと叩いて、跳び下りた。
「澪ちゃんは一番最後! ボクが迎えに行くからね!」
自分の席へ戻っていく背中を、澪は見ていた。寝癖は、跳ねたままだった。
放課後、ひまりは「ボク、急ぐね! また明日ね!」と言って、誰よりも早く校門を出ていった。
また明日。
ひまりの明日は、町じゅうが眠ったあとの朝だった。
澪は追いかけなかった。まっすぐ家へ帰って、いつもの角を一人で曲がった。
夕ごはんのあいだ、お母さんはいつものようにしゃべっていた。駅前のパン屋さんが、来週開くらしいこと。お隣の猫が、また塀の上で寝ていたこと。
「そうだ。唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ひまりちゃんに言っといてね」
「……うん」
澪は、それしか言えなかった。
十時を過ぎると、お母さんは「おやすみ、澪。あんまり夜更かししないのよ」と言って、二階へ上がっていった。澪の隣の、お父さんのいびきが聞こえていた部屋だった。
少しして、ドアの下の明かりが消えた。
二階の部屋に戻って、澪はカーテンを開けた。
空に、雲が一つもなかった。
屋根の向こう、坂の上のほうで、赤い灯りが点いては消えていた。そのずっと上に、星が出ていた。町の明かりに負けずに、数えきれないほど。
こんなにきれいな夜空を見るのは、久しぶりだった。
澪はベッドに座って、待とうとした。
時計の針が、十一時を過ぎた。立ち上がって、座り直して、また立ち上がった。
待つのは、苦手じゃなかった。ついこのあいだまでは。
今は、この部屋でじっと座っていることが、どうしてもできなかった。
澪は、机の上のお守りを手に取った。
水色の袋に、オレンジ色のひまわり。一枚だけ逆を向いた花びら。指先に絆創膏を巻いて、ひまりが縫ったもの。
両手で紐を広げて、頭からくぐらせた。
袋を、服の内側に落とす。胸の真ん中で、硬くて平たいものが、肌に冷たく当たった。
右手で、服の上からそれを押さえた。手首の奥が、じんと疼いた。
捨てられなかった。それだけだった。
澪は、音を立てないように部屋を出た。お母さんの部屋のドアの前を、息を止めて通り過ぎて、階段を下りた。
玄関の鍵を、そっと回した。
外は、思っていたよりずっと明るかった。
雨の名残が、まだ乾ききらない道の上で、街灯の光を返していた。どの家の窓も、暗かった。
澪は、町外れのほうへ歩いた。
放課後、ひまりがいつも走っていく方角だった。いつもの角を過ぎて、住宅街を抜けて、坂の下まで。
坂は、思っていたより急だった。
上っていくと、道が大きく曲がるところに、ガードレールがあった。澪は、そこで足を止めた。
見上げると、坂の上のほうに、塔の足元が見えた。
百メートルほど先だろうか。細い鉄骨の足元に、四角い明かりが一つ、ぽつんと灯っていた。作業用のライトのような、白い光だった。
その光の中に、人影が二つあった。
一つは、白かった。光を受けて、白衣の裾がひらひらしていた。
もう一つは、ラベンダーのスカートだった。右腕の籠手が、ライトの光をにぶく返していた。
ひまりは、変身していた。
二人は、塔の足元の、箱のようなものの前にしゃがみこんでいた。白衣の腕が、何度もそこへ伸びる。ラベンダーの肩が、その隣で跳ねる。
やがて、箱の上で、小さなランプが一つ、緑色に灯った。
ゴーグルの充電器の灯りと、同じ色だった。
「……成功です!」
夜の空気を伝って、声が切れ切れに降りてきた。
「ユメちゃん、すごい!」
二つの影が、跳び上がった。
向かい合って、両手をつなぐ。リリィは、籠手の右手と、素手の左手で、白衣の両手を握っていた。そのまま、ぐるぐると回りはじめた。くるくる、くるくると。ラベンダーのスカートが、光の中で何度も広がった。
あの籠手で、何のためらいもなく握れる相手は、この人だけ。
公園の砂場で、そう思ったことを、澪は思い出した。
塔のてっぺんを見上げた。
赤い灯りが、点いて、消えた。
何も、変わらなかった。
さっきまでと同じ速さで、同じ赤さで、点いては消えていた。町のどこからも、音一つしなかった。
それでも今、あの塔は、町じゅうに何かを届けていた。眠っている人の、目元に。
澪は、灯りを数えた。
一つ。二つ。
小学生のころ、ひまりと土手を歩きながら、同じことをした。十まで数えたら願いごとが叶う、とひまりが言い出して、二人で何度も数え直した。
九つ。十。
塔のずっと上に、夜空が広がっていた。
東の空の高いところに、青白い星が一つ、ひときわ明るく光っていた。その下のほう、ぼんやりと白い川のような光をはさんで、もう一つ。
織姫星と、彦星。
小学生のころ、図書室の星の本で覚えた。一年に一度、七夕の夜にだけ、天の川を渡って会える二人。
その夜まで、あと六日だった。澪の、誕生日だった。
町じゅうの人が、夢の中へ落ちていく夜だった。
それなのに、空は、こんなにもきれいだった。
坂の上で、ひまりの笑い声がした。
行って、言えることは、もう一つもなかった。
澪は、坂を下りた。
家に着いたのは、日付が変わったあとだった。
玄関の鍵を、そっと閉める。階段を上がって、お母さんの部屋の前で、足が止まった。
ドアを、少しだけ開けた。
廊下の明かりが、細い線になって部屋に差しこんだ。いちばん奥の、窓際のベッドで、お母さんは眠っていた。
いつもと同じ寝顔だった。穏やかで、口が少しだけ開いていた。
もう、届いているのかもしれなかった。まだ、届いていないのかもしれなかった。澪には、見分けがつかなかった。
胸の真ん中で、お守りの硬いものが当たっていた。
部屋に入れば、首からこれを外すことになる気がした。
澪は、ドアを閉めた。
自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。服の上から、右手でお守りを握った。
壁の向こうは、静かだった。お父さんのいびきは、もう一年以上聞こえない。お母さんの寝息も、壁越しには聞こえなかった。
窓の外で、赤い灯りが点いては消えていた。いつ眠ったのかは、覚えていない。
フライパンの音で、目が覚めた。
台所から、お味噌汁の匂いがしていた。
澪は、ベッドの上で息を止めた。
いつもの朝の音だった。いつもの朝の匂いだった。
階段を下りると、お母さんはエプロンをつけて、コンロの前に立っていた。
振り向いて、微笑んだ。
何も、言わなかった。いつもなら、澪の足音だけで、おはよう、と言う人だった。
澪は、その場で動けなくなった。
ひまりのお母さんと、同じ微笑みだった。
食卓に、目玉焼きとお味噌汁とごはんが並んだ。おととい、ひまりが三十分早く来た朝と、同じ献立だった。お茶碗は、二つ。いつもと同じ数だった。
お母さんは、澪の向かいに座った。
いただきます、と澪が言っても、お母さんは何も言わなかった。同じ速さで、箸を動かしていた。
明日の天気の話も、お隣の猫の話も、駅前のパン屋さんの話も、なかった。湯気の向こうで、お母さんは、ずっと微笑んでいた。
澪の箸が、止まった。
お箸、止まってるわよ、とは、誰も言わなかった。
澪は、台所の隅を見た。
コンセントには、何もつながっていなかった。シャボン玉みたいなレンズも、緑色の小さな灯りも、どこにもなかった。
ひまりの家の台所には、三つ並んでいた。
この家には、それさえ、いらなかった。
今度は、ちゃんとごはん食べにいらっしゃいね。おととい、お母さんは玄関でそう言った。唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ゆうべ、そう言った。
その今度は、もう来ない。
胸の真ん中で、硬いものが当たっていた。
ゆうべ、これを首にかけたまま、お母さんの部屋のドアを開けて、閉めた。
このお守りを、澪は、お母さんに渡さなかった。
目の奥が、熱くなった。
今度は、こらえなかった。
涙が、目玉焼きの皿の横に落ちた。一つ、二つ。喉の奥から、声が漏れた。お父さんを見送った夜、膝に顔を押しつけて殺した声を、澪は、もう殺さなかった。
「お母さん」
お母さんは、微笑んでいた。
泣いている澪を、まっすぐ見ていた。見ているのに、その目は少しも揺れなかった。
壁の時計の針が、いつも澪が家を出る時間を指した。
お母さんは、箸を置いた。
「いってらっしゃい」
いつもと同じ、優しい声だった。
澪は、まだ座っていた。
まだ、泣いていた。