泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第11話 ユメちゃんとおそろい!(後編)

泣いたまま、澪は家を出た。

 

外は、まぶしかった。

 

空に、雲が一つもなかった。きのうの水たまりは、もうどこにも残っていなかった。塀の上の紫陽花が、乾いた光の中で青く透けていた。

 

駅のほうへ、大人たちが歩いていた。

 

スーツの人も、自転車を押す人も、みんな同じ速さだった。誰も、しゃべっていなかった。角を曲がると、小学生が一列になって学校のほうへ歩いていた。黄色い帽子が、同じ間隔で揺れていた。

 

澪は、袖で目元をこすった。

 

すれ違う人は、誰も、こちらを見なかった。泣いている中学生が一人、道の真ん中に立っていても、足を止める人はいなかった。

 

いつもの角を、一人で曲がった。

 

教室は、予鈴の前から静かだった。

 

クラスの子たちは、みんな自分の席に座っていた。机をくっつけている子も、誰かの机に腰かけている子もいなかった。ペンギンの話に笑っていた二人も、前を向いて、筆箱を机の真ん中に置いていた。

 

澪の机の端は、空いていた。

 

ひまりの席も、空いていた。

 

チャイムが鳴って、担任の先生が入ってきた。出席簿を開いて、名前を呼びはじめる。いつもと同じ順番で、いつもと同じ声で。

 

「陽向」

 

返事は、なかった。

 

先生は顔を上げずに、出席簿に小さく何か書きこんで、次の名前を呼んだ。

 

家の用事は、もういいのか。ひまりが帰ってきた朝、先生はそう言って、ほっとした顔をした。

 

今日は、誰も、ひまりの席を見なかった。

 

「蒼井」

 

「……はい」

 

先生は、顔を上げなかった。

 

一時間目は、数学だった。

 

先生が黒板に問題を書く。みんなが、同じ速さでノートに写す。チョークの音と、鉛筆の音だけがしていた。陽向、宿題は、とは、誰も言わなかった。次は出せよ、とため息をつく人もいなかった。

 

澪は、数学のノートを開いた。

 

表紙と最初のページのあいだに、栞が挟まっていた。

 

ひまわりの押し花を、透明なフィルムで閉じ込めたもの。花びらを一枚ずつはがして、小さなひまわりの形に並べ直してある。一枚だけ、向きが逆だった。フィルムの隅に、ひまりの指の跡が一つ、閉じ込められていた。

 

ボクの花だから。澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。

 

澪は、ひまりの空いた席を見た。

 

それから、机の端を見た。

 

ひまりは、どこにもいなかった。今日はどこに用事なのか、誰も教えてくれなかった。

 

放課後、澪は商店街を通って帰った。

 

カサオバケの日、ひまりと二人で歩いた道だった。

 

アーケードの入り口で、足が止まった。

 

事務所の前の掲示板に、ポスターと子供たちの絵が、まだ貼ってあった。

 

『ありがとう! シャインリリィ&シャインアイリス』

 

その横の、端の一枚。

 

水色の傘を持った、オレンジの女の子。傘には黄色い星が、はみ出すくらいたくさん。その後ろで、青い女の子が長いリボンを伸ばして、灰色のもじゃもじゃした何かを縛っていた。

 

『リリィ アイリス ありがとう』

 

あの日、ひまりは何も言わずに、この絵の剥がれかけたテープを、右手でそっと押さえ直した。

 

澪は、今度は目をそらさなかった。

 

青い女の子のリボンを、ずっと見ていた。

 

もう、出せないものだった。

 

これを描いた子は、もう、夢の中にいた。この絵の前で立ち止まる人は、もう、この町に澪しかいなかった。

 

掲示板の横の、忘れ傘の籠を見た。

 

籠には、傘が何本か入っていた。そのいちばん底に、骨の曲がったビニール傘があった。カサオバケの日、ひまりが指でまっすぐに直そうとして、うまくいかなかった傘だった。誰のものか、とうとう分からなかった傘だった。

 

アーケードの中は、いつもと同じ匂いがしていた。

 

肉屋の前で、油のはねる音がした。揚げたての時間だった。おばさんが、同じ手つきで唐揚げを網に上げていく。一つ、また一つ。並べる人はいても、買う人はいなかった。

 

一個だけね、と笑ったのは、カサオバケの日の澪だった。

 

唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ゆうべ、お母さんはそう言った。

 

澪は、肉屋の前を通り過ぎた。

 

パン屋のおばさんは、同じ場所に同じパンを並べていた。本屋のおじいちゃんは、同じ段をはたいていた。

 

アーケードを抜けると、空が広かった。

 

雲一つない、夕方の空だった。西の空が、オレンジ色からゆっくりと薄紫に変わっていく。こんなにきれいな夕焼けを、澪は見たことがなかった。

 

それを見上げているのは、澪だけだった。

 

夜、澪はカーテンを開けた。

 

今夜も、雲がなかった。

 

坂の上で、赤い灯りが点いては消えていた。ゆうべと同じ速さで、同じ赤さで。今夜も、町じゅうに届けているのだと思った。

 

その上に、星が出ていた。東の空の高いところに、織姫星が光っていた。

 

胸の真ん中で、お守りの硬いものが当たっていた。寝るときもね、必ず。言われたとおりに、澪はそれを外さなかった。

 

朝、泣いた。

 

声を殺さずに、泣いた。

 

悲しくなったら必ず呼んでね、すぐに飛んできて、涙なんか吹き飛ばしちゃうんだから。

 

泣けば、ひまりは来る。そう思って、ずっとこらえてきた。

 

ひまりは、来なかった。

 

澪は、スマホを開いた。

 

『ひまり、今どこ?』から始まる吹き出しの列の、いちばん下に、一言だけ打った。

 

『ひまり』

 

送信した。

 

既読は、つかなかった。

 

窓の外で、赤い灯りが、点いては消えていた。

 

泣いても、もう誰も振り向かない。

 

ランプの緑色が灯った瞬間、ユメミは、ひまりと両手をつないで跳び上がっていた。

 

「成功です!」

 

「ユメちゃん、すごい!」

 

籠手の右手と、素手の左手が、ユメミの両手をぎゅっと握っていた。そのまま、二人でぐるぐる回った。白衣の裾と、ラベンダーのスカートが、ライトの中で何度も広がった。

 

ユメミは、目が回る前に、はっと思い出した。

 

「そうだ、同志! 大事なものを忘れてました!」

 

白衣のポケットに手を入れる。

 

「じゃーん!」

 

手のひらに、小さなイヤリングが二組のっていた。ラベンダー色の、丸い石が一粒ずつ。耳たぶに挟むだけの、穴をあけなくていいものだった。

 

「塔の電波が、ぜーんぜん効かなくなるイヤリングです! 寝るときも、これさえつけていれば平気なんです!」

 

それから、少しだけ声が小さくなった。

 

「……同志とユメミで、おそろいです」

 

ひまりの目が、まんまるになった。

 

「わっ、かわいい! ありがとう。ユメちゃん」

 

ひまりは、くるっと一回転した。

 

「ユメちゃんとおそろい! ボク、イヤリングなんて初めて!」

 

ユメミは、ひまりの耳たぶに、そっと一つずつ挟んだ。バイザーをかけてあげたときと、同じ手つきだった。ひまりは、じっと動かずに待っていた。

 

それから、ユメミも自分の耳につけた。

 

ひまりが、ユメミの耳を指さして笑った。

 

むふーっ、とユメミは胸を張った。

 

研究所に戻るころには、東の空が白んでいた。

 

ひまりは変身を解いて、ティーカップの隣のバイザーをかけ直した。「ただいま!」とバイザーに言って、ソファの前でくるりと振り向いた。

 

耳もとで、ラベンダーの石が揺れていた。

 

「さあ、次は澪ちゃんの番だね!」

 

ユメミの胸の奥が、ひやりとした。

 

お守りの中の板を作ったのは、少し前の夜だった。

 

澪ちゃんは、一番最後に、ボクが迎えに行くの。だから、塔の電波が届かないようにしてあげて。ユメちゃんにしか、頼めないの。

 

ひまりにそう頼まれて、ユメミは大喜びで作業台に向かった。

 

首にかけ忘れても、だめにならないように。枕元に置いたままでも、机の上に置いたままでも。同じ部屋にさえあれば、届かないように。

 

ユメミは何度も作り直して、届かない範囲を半径二メートルまで広げた。澪さんが、一晩でもうっかり夢へ行ってしまわないように。同志のお願いだったから。同志が、ありがとって笑ってくれるから。

 

あのときは、それしか考えていなかった。

 

今、ひまりは、扉のほうを向いていた。

 

町じゅうで、目を覚ましているのは、もう澪さんだけだった。同志が迎えに行けば、澪さんは、同志と一緒にここへ来る。

 

ここへ来て、同志の隣に立つ。

 

そうしたら、同志は、ユメミの隣に、いてくれるのだろうか。

 

誰かのことを、こんなふうに怖いと思ったのは、初めてだった。

 

「けほっ、けほっ……」

 

ユメミは、ソファにぺたりと座りこんだ。

 

「ユメミ、なんだか、お熱っぽいです……」

 

ひまりが、ぱっと駆け寄ってきた。右手を、ユメミのおでこに当てる。体温の高い手だった。

 

「ちょっとあったかい!」

 

ひまりは、すぐに眉を下げた。

 

「今日は、学校お休み! ボクが看病する!」

 

ひまりはタオルを濡らして、ユメミのおでこにのせた。栄養ゼリーを、ちゅうちゅうと飲ませた。ユメミは、ずっと目をつぶっていた。

 

お昼を過ぎて、ユメミはがばっと起き上がった。

 

「大発見です! 今すぐ実験しないと! 助手が必要です!」

 

ひまりは、ぱちぱちとまばたきをした。それから、えへへ、と笑った。

 

「ユメちゃんは仕方ないなぁ」

 

日が沈むまで、ひまりはユメミの隣で、言われたとおりにねじを渡し続けた。

 

夜になって、ひまりがまた扉のほうを向いた。

 

ユメミは、ソファの上の膝を、ぽんぽんと叩いた。

 

ひまりは、えへへ、と笑って、ユメミの膝に頭をのせた。バイザーは、かけたままだった。耳もとのイヤリングが、ユメミの白衣の膝に小さく当たった。

 

五分もしないうちに、寝息に変わった。

 

二十分たって、足がしびれはじめた。

 

一時間たって、まぶたが重くなった。

 

この前は、ここで眠ってしまった。目を開けたら、膝が軽くなっていた。

 

ユメミは、自分の手の甲をつねった。

 

今夜は、眠らなかった。

 

窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが点滅していた。今夜も、町じゅうに届けている。澪さん一人を、残して。

 

膝の上で、ひまりが寝返りを打った。

 

ユメミは、そっと口を開いた。

 

「……ひまちゃ」

 

「……なあに」

 

眠そうな声だった。

 

「ど、同志! な、なんでもないです!」

 

ひまりは目をつぶったまま、えへへ、と笑った。それから、また寝息に戻った。

 

ユメミは、熱くなった頬を、白衣の袖で隠した。

 

夜が明けるまで、ユメミは一度も目を閉じなかった。

 

膝の上の寝息を聞きながら、ノートを片手で開いた。

 

『同志の観測 十九日目』

 

『塔、大成功』

 

『おそろいのイヤリング。同志、大喜び』

 

『同志、学校お休み。看病してもらった』

 

少し考えて、もう一行、書き足した。

 

『膝枕、ひと晩。ユメミは、ねむらなかった』

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