泣いたまま、澪は家を出た。
外は、まぶしかった。
空に、雲が一つもなかった。きのうの水たまりは、もうどこにも残っていなかった。塀の上の紫陽花が、乾いた光の中で青く透けていた。
駅のほうへ、大人たちが歩いていた。
スーツの人も、自転車を押す人も、みんな同じ速さだった。誰も、しゃべっていなかった。角を曲がると、小学生が一列になって学校のほうへ歩いていた。黄色い帽子が、同じ間隔で揺れていた。
澪は、袖で目元をこすった。
すれ違う人は、誰も、こちらを見なかった。泣いている中学生が一人、道の真ん中に立っていても、足を止める人はいなかった。
いつもの角を、一人で曲がった。
教室は、予鈴の前から静かだった。
クラスの子たちは、みんな自分の席に座っていた。机をくっつけている子も、誰かの机に腰かけている子もいなかった。ペンギンの話に笑っていた二人も、前を向いて、筆箱を机の真ん中に置いていた。
澪の机の端は、空いていた。
ひまりの席も、空いていた。
チャイムが鳴って、担任の先生が入ってきた。出席簿を開いて、名前を呼びはじめる。いつもと同じ順番で、いつもと同じ声で。
「陽向」
返事は、なかった。
先生は顔を上げずに、出席簿に小さく何か書きこんで、次の名前を呼んだ。
家の用事は、もういいのか。ひまりが帰ってきた朝、先生はそう言って、ほっとした顔をした。
今日は、誰も、ひまりの席を見なかった。
「蒼井」
「……はい」
先生は、顔を上げなかった。
一時間目は、数学だった。
先生が黒板に問題を書く。みんなが、同じ速さでノートに写す。チョークの音と、鉛筆の音だけがしていた。陽向、宿題は、とは、誰も言わなかった。次は出せよ、とため息をつく人もいなかった。
澪は、数学のノートを開いた。
表紙と最初のページのあいだに、栞が挟まっていた。
ひまわりの押し花を、透明なフィルムで閉じ込めたもの。花びらを一枚ずつはがして、小さなひまわりの形に並べ直してある。一枚だけ、向きが逆だった。フィルムの隅に、ひまりの指の跡が一つ、閉じ込められていた。
ボクの花だから。澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。
澪は、ひまりの空いた席を見た。
それから、机の端を見た。
ひまりは、どこにもいなかった。今日はどこに用事なのか、誰も教えてくれなかった。
放課後、澪は商店街を通って帰った。
カサオバケの日、ひまりと二人で歩いた道だった。
アーケードの入り口で、足が止まった。
事務所の前の掲示板に、ポスターと子供たちの絵が、まだ貼ってあった。
『ありがとう! シャインリリィ&シャインアイリス』
その横の、端の一枚。
水色の傘を持った、オレンジの女の子。傘には黄色い星が、はみ出すくらいたくさん。その後ろで、青い女の子が長いリボンを伸ばして、灰色のもじゃもじゃした何かを縛っていた。
『リリィ アイリス ありがとう』
あの日、ひまりは何も言わずに、この絵の剥がれかけたテープを、右手でそっと押さえ直した。
澪は、今度は目をそらさなかった。
青い女の子のリボンを、ずっと見ていた。
もう、出せないものだった。
これを描いた子は、もう、夢の中にいた。この絵の前で立ち止まる人は、もう、この町に澪しかいなかった。
掲示板の横の、忘れ傘の籠を見た。
籠には、傘が何本か入っていた。そのいちばん底に、骨の曲がったビニール傘があった。カサオバケの日、ひまりが指でまっすぐに直そうとして、うまくいかなかった傘だった。誰のものか、とうとう分からなかった傘だった。
アーケードの中は、いつもと同じ匂いがしていた。
肉屋の前で、油のはねる音がした。揚げたての時間だった。おばさんが、同じ手つきで唐揚げを網に上げていく。一つ、また一つ。並べる人はいても、買う人はいなかった。
一個だけね、と笑ったのは、カサオバケの日の澪だった。
唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ゆうべ、お母さんはそう言った。
澪は、肉屋の前を通り過ぎた。
パン屋のおばさんは、同じ場所に同じパンを並べていた。本屋のおじいちゃんは、同じ段をはたいていた。
アーケードを抜けると、空が広かった。
雲一つない、夕方の空だった。西の空が、オレンジ色からゆっくりと薄紫に変わっていく。こんなにきれいな夕焼けを、澪は見たことがなかった。
それを見上げているのは、澪だけだった。
夜、澪はカーテンを開けた。
今夜も、雲がなかった。
坂の上で、赤い灯りが点いては消えていた。ゆうべと同じ速さで、同じ赤さで。今夜も、町じゅうに届けているのだと思った。
その上に、星が出ていた。東の空の高いところに、織姫星が光っていた。
胸の真ん中で、お守りの硬いものが当たっていた。寝るときもね、必ず。言われたとおりに、澪はそれを外さなかった。
朝、泣いた。
声を殺さずに、泣いた。
悲しくなったら必ず呼んでね、すぐに飛んできて、涙なんか吹き飛ばしちゃうんだから。
泣けば、ひまりは来る。そう思って、ずっとこらえてきた。
ひまりは、来なかった。
澪は、スマホを開いた。
『ひまり、今どこ?』から始まる吹き出しの列の、いちばん下に、一言だけ打った。
『ひまり』
送信した。
既読は、つかなかった。
窓の外で、赤い灯りが、点いては消えていた。
泣いても、もう誰も振り向かない。
ランプの緑色が灯った瞬間、ユメミは、ひまりと両手をつないで跳び上がっていた。
「成功です!」
「ユメちゃん、すごい!」
籠手の右手と、素手の左手が、ユメミの両手をぎゅっと握っていた。そのまま、二人でぐるぐる回った。白衣の裾と、ラベンダーのスカートが、ライトの中で何度も広がった。
ユメミは、目が回る前に、はっと思い出した。
「そうだ、同志! 大事なものを忘れてました!」
白衣のポケットに手を入れる。
「じゃーん!」
手のひらに、小さなイヤリングが二組のっていた。ラベンダー色の、丸い石が一粒ずつ。耳たぶに挟むだけの、穴をあけなくていいものだった。
「塔の電波が、ぜーんぜん効かなくなるイヤリングです! 寝るときも、これさえつけていれば平気なんです!」
それから、少しだけ声が小さくなった。
「……同志とユメミで、おそろいです」
ひまりの目が、まんまるになった。
「わっ、かわいい! ありがとう。ユメちゃん」
ひまりは、くるっと一回転した。
「ユメちゃんとおそろい! ボク、イヤリングなんて初めて!」
ユメミは、ひまりの耳たぶに、そっと一つずつ挟んだ。バイザーをかけてあげたときと、同じ手つきだった。ひまりは、じっと動かずに待っていた。
それから、ユメミも自分の耳につけた。
ひまりが、ユメミの耳を指さして笑った。
むふーっ、とユメミは胸を張った。
研究所に戻るころには、東の空が白んでいた。
ひまりは変身を解いて、ティーカップの隣のバイザーをかけ直した。「ただいま!」とバイザーに言って、ソファの前でくるりと振り向いた。
耳もとで、ラベンダーの石が揺れていた。
「さあ、次は澪ちゃんの番だね!」
ユメミの胸の奥が、ひやりとした。
お守りの中の板を作ったのは、少し前の夜だった。
澪ちゃんは、一番最後に、ボクが迎えに行くの。だから、塔の電波が届かないようにしてあげて。ユメちゃんにしか、頼めないの。
ひまりにそう頼まれて、ユメミは大喜びで作業台に向かった。
首にかけ忘れても、だめにならないように。枕元に置いたままでも、机の上に置いたままでも。同じ部屋にさえあれば、届かないように。
ユメミは何度も作り直して、届かない範囲を半径二メートルまで広げた。澪さんが、一晩でもうっかり夢へ行ってしまわないように。同志のお願いだったから。同志が、ありがとって笑ってくれるから。
あのときは、それしか考えていなかった。
今、ひまりは、扉のほうを向いていた。
町じゅうで、目を覚ましているのは、もう澪さんだけだった。同志が迎えに行けば、澪さんは、同志と一緒にここへ来る。
ここへ来て、同志の隣に立つ。
そうしたら、同志は、ユメミの隣に、いてくれるのだろうか。
誰かのことを、こんなふうに怖いと思ったのは、初めてだった。
「けほっ、けほっ……」
ユメミは、ソファにぺたりと座りこんだ。
「ユメミ、なんだか、お熱っぽいです……」
ひまりが、ぱっと駆け寄ってきた。右手を、ユメミのおでこに当てる。体温の高い手だった。
「ちょっとあったかい!」
ひまりは、すぐに眉を下げた。
「今日は、学校お休み! ボクが看病する!」
ひまりはタオルを濡らして、ユメミのおでこにのせた。栄養ゼリーを、ちゅうちゅうと飲ませた。ユメミは、ずっと目をつぶっていた。
お昼を過ぎて、ユメミはがばっと起き上がった。
「大発見です! 今すぐ実験しないと! 助手が必要です!」
ひまりは、ぱちぱちとまばたきをした。それから、えへへ、と笑った。
「ユメちゃんは仕方ないなぁ」
日が沈むまで、ひまりはユメミの隣で、言われたとおりにねじを渡し続けた。
夜になって、ひまりがまた扉のほうを向いた。
ユメミは、ソファの上の膝を、ぽんぽんと叩いた。
ひまりは、えへへ、と笑って、ユメミの膝に頭をのせた。バイザーは、かけたままだった。耳もとのイヤリングが、ユメミの白衣の膝に小さく当たった。
五分もしないうちに、寝息に変わった。
二十分たって、足がしびれはじめた。
一時間たって、まぶたが重くなった。
この前は、ここで眠ってしまった。目を開けたら、膝が軽くなっていた。
ユメミは、自分の手の甲をつねった。
今夜は、眠らなかった。
窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが点滅していた。今夜も、町じゅうに届けている。澪さん一人を、残して。
膝の上で、ひまりが寝返りを打った。
ユメミは、そっと口を開いた。
「……ひまちゃ」
「……なあに」
眠そうな声だった。
「ど、同志! な、なんでもないです!」
ひまりは目をつぶったまま、えへへ、と笑った。それから、また寝息に戻った。
ユメミは、熱くなった頬を、白衣の袖で隠した。
夜が明けるまで、ユメミは一度も目を閉じなかった。
膝の上の寝息を聞きながら、ノートを片手で開いた。
『同志の観測 十九日目』
『塔、大成功』
『おそろいのイヤリング。同志、大喜び』
『同志、学校お休み。看病してもらった』
少し考えて、もう一行、書き足した。
『膝枕、ひと晩。ユメミは、ねむらなかった』