泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

25 / 28
第12話 信じて待っててくれて、ありがとう(前編)

その朝も、空に雲は一つもなかった。

 

塔が灯った夜から、空はずっとこうだった。どこまでも青くて、どこにも、ひっかかるものがなかった。

 

蒼井澪(あおいみお)は、玄関を出て、その空を見上げた。

 

背中で、「いってらっしゃい」が聞こえた。

 

毎朝、同じ時刻に、同じ声で。

 

教室に入ると、澪の机の端は空いていた。

 

陽向(ひなた)ひまりの席も、空いていた。

 

担任の先生が、出席簿を開いた。

 

「陽向」

 

返事は、なかった。先生は顔を上げずに、出席簿に小さく何か書きこんで、次の名前を呼んだ。

 

ひまりは、その日も学校に来なかった。

 

放課後、澪は見回りの道を歩いた。

 

ひまりと二人で、毎日歩いた道だった。ひまりが角で別れて走っていくようになってからも、澪は一人で歩き続けた。

 

守る人は、もう一人もいなかった。

 

それでも足は、勝手にその順番をたどった。土手、住宅街、公園。最後に、商店街。

 

この町で、澪に残った日課は、それだけだった。

 

アーケードの入り口に、笹が立っていた。

 

事務所の前の、掲示板の隣だった。いつから飾ってあったのか、澪は覚えていなかった。緑の葉のあいだに、色とりどりの短冊が、動かずにぶら下がっていた。

 

子供の字が、並んでいた。

 

『サッカーがうまくなりますように』

 

『かぞくみんな げんきでいられますように』

 

その中に、見覚えのある鉛筆の字があった。

 

『ほんもののリリィに あえますように』

 

掲示板の絵の下の、『リリィ アイリス ありがとう』と同じ字だった。傘の男の子の字だった。

 

願いは、叶った。

 

男の子が空に向かって呼んだら、リリィは来た。よんだら、きてくれた、と男の子は笑った。それから、何も聞かれずに、自分から目をつぶった。

 

澪は、短冊から目をそらして、掲示板を見た。

 

それから、息を止めた。

 

傘の男の子の絵。その隅のテープは、きのう見たとき、少しだけ浮いていた。

 

今は、まっすぐに押さえ直されていた。

 

顔を近づけると、テープの上に、小さな指の跡が一つ、うっすらと残っていた。

 

栞のフィルムの隅に閉じ込められているのと、同じくらいの大きさの跡だった。

 

この絵の前で立ち止まる人は、もう、この町に澪しかいない。きのう、澪はそう思った。

 

違った。

 

もう一人、いた。

 

カサオバケの日、何も言わずに、右手でそっとテープを押さえ直した人が。

 

澪は、アーケードの奥を見た。

 

肉屋のおばさんも、パン屋のおばさんも、本屋のおじいちゃんも、いつもと同じ手つきで、いつもと同じことをしていた。

 

オレンジ色の髪は、どこにもなかった。

 

学校のない日が、二日続いた。

 

お休みの日のお母さんは、お休みの日の順番で動いた。朝ごはんのあとで洗濯機を回して、ベランダに干して、掃除機をかける。どれも、いつもと同じ順番だった。

 

いつもなら、掃除機の音に負けないくらいの声で、鼻歌を歌う人だった。

 

お昼は、そうめんだった。夜は、焼き魚だった。

 

唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ひまりちゃんに言っといてね。

 

その、お休みの日だった。

 

唐揚げは、出てこなかった。ひまりも、来なかった。言っといてね、と頼まれたことを、澪は結局、誰にも言えなかった。

 

午後になると、澪はまた見回りの道を歩いた。

 

商店街の肉屋の前で、油のはねる音がしていた。揚げたての時間だった。

 

おばさんが、網の上に唐揚げを並べていく。一つ、また一つ。同じ間隔で、同じ列に。

 

その列の真ん中が、一つだけ空いていた。

 

ガラスケースの上の、小銭を置く小さなトレーに、硬貨が何枚かのっていた。

 

一個だけね、と笑ったのは、カサオバケの日の澪だった。

 

揚げたての唐揚げは、ひまりの何よりの好物だった。

 

この町で、揚げたてを一つだけ買っていく人は、一人しかいなかった。

 

澪は、空いたところを、しばらく見ていた。

 

ほんの少し前まで、ひまりがここに立っていた。どこから来て、どこへ行ったのかは、分からなかった。

 

学校のある朝が、また来た。

 

ひまりの席は、空いていた。

 

放課後、澪は公園の入り口で足を止めた。

 

まだ、子供たちの来る時間ではなかった。車止めの横にも、フェンス沿いのベンチにも、誰もいなかった。

 

きい、と音がした。

 

広場の西のブランコが、一つだけ揺れていた。

 

誰も乗っていなかった。前へ、後ろへ。少しずつ、小さくなりながら。

 

風は、吹いていなかった。

 

この町の人は、決まった時刻にしか、ここへ来ない。子供たちがブランコに並ぶのは、もう少しあとの、夕方の決まった時刻だった。

 

決まった時刻の外を歩く人を、澪は、自分のほかに一人しか知らなかった。

 

澪は、ブランコが止まるまで、そこに立っていた。

 

掲示板のテープ。網の上の、一つだけの隙間。誰もいないブランコ。

 

ひまりは、澪の歩く道のどこかを、いつも少しだけ先に歩いていた。

 

捜そうとは、思わなかった。

 

捜して見つけても、ひまりはきっと、笑って言う。澪ちゃんは一番最後、と。

 

町のあちこちに、ひまりは立ち寄っていた。

 

澪のところへは、来なかった。

 

その夜も、空はよく晴れていた。

 

カーテンを開けると、坂の上で赤い灯りが点いては消えていた。その上の、東の空の高いところで、織姫星が光っていた。

 

一年に一度、七夕の夜にだけ、天の川を渡って会える二人。

 

その夜は、明日だった。

 

目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

 

洗面所の鏡に、自分の顔が映っていた。

 

目の下に、うっすらと影ができていた。

 

ひまりの目の下にあったのと、同じ場所だった。

 

この何日か、ごはんは半分も喉を通らなかった。頬が、少しだけ細くなった気がした。

 

台所から、フライパンの音がしていた。

 

食卓に、目玉焼きとお味噌汁とごはんが並んだ。お茶碗は、二つ。お母さんは向かいに座って、同じ速さで箸を動かしはじめた。

 

今日は、澪の誕生日だった。

 

去年の朝を、澪は覚えていた。

 

階段を下りる足音だけで、お母さんは台所から顔を出した。

 

「澪、お誕生日おめでとう。十三歳ね」

 

エプロンで手を拭きながら、少しだけ照れくさそうに笑っていた。

 

目玉焼きのお皿の横に、小さなガラスの器が置いてあった。苺が、四つ。

 

誕生日の朝だけは、朝から苺。澪が小さいころから、ずっとそうだった。季節外れで高いのに、とお父さんが笑うと、だって澪の日だもの、とお母さんは言った。

 

去年は、ごはんの途中で、遠くの町からお父さんの電話がかかってきた。お母さんがスピーカーにして、二人で「おめでとう」を聞いた。お父さんの声は少しだけ遠くて、お母さんは、苺を一つ澪の器に足した。

 

それから学校へ行って、放課後、あのベンチで、ひまりに栞をもらった。

 

一日じゅう、おめでとうを言われた日だった。

 

澪は、目玉焼きのお皿の横を見た。

 

ガラスの器は、なかった。

 

苺は、お母さんが毎年、澪のためだけに選んでいたものだった。毎朝の決まりごとでは、なかった。

 

だから、もう、なかった。

 

お母さんは、微笑んでいた。湯気の向こうで、同じ速さで、箸を動かしていた。

 

澪の箸が、お皿のふちに当たって、小さな音を立てた。

 

目の奥が、熱くなった。

 

こらえようとは、もう、思わなかった。

 

涙が、お味噌汁のお椀の横に落ちた。一つ、二つ。止まらなかった。

 

「……お母さん。私、今日、誕生日なんだよ」

 

お母さんは、微笑んでいた。

 

泣いている澪を、まっすぐ見ていた。

 

おめでとう、と言ってくれた人たちの顔が、次々に浮かんだ。お母さん。電話の向こうのお父さん。あのベンチで、栞を差し出したひまり。

 

今年は、誰の声も、聞こえなかった。

 

壁の時計の針が、いつも澪が家を出る時間を指した。

 

お母さんは、箸を置いた。

 

「いってらっしゃい」

 

いつもと同じ、優しい声だった。

 

教室は、今日も静かだった。

 

担任の先生が「陽向」と呼んで、返事がなくて、出席簿に何か書きこんで、次へ進んだ。「蒼井」と呼ばれて、澪は「……はい」と答えた。先生は顔を上げなかった。

 

おめでとう、と言う人は、教室に一人もいなかった。

 

スマホは、朝から一度も見ていなかった。鞄の底に入れたまま、出そうとも思わなかった。

 

澪は、数学のノートを開かなかった。

 

開けば、栞があった。去年の今日、あのベンチで渡された栞が。

 

放課後、澪の足は、見回りの道とは違うほうへ向いた。

 

どこへ行こうと、決めたわけではなかった。

 

気がつくと、土手の上に立っていた。

 

川が、夕方の光を細かく砕いて、きらきらしていた。空には、今日も雲が一つもなかった。日は、まだ高いところにあった。

 

誕生日に、あのベンチへ行ったって、ひまりはきっと、来ない。

 

一週間前、澪はそう思った。

 

それでも、ほかに行く場所が、思いつかなかった。

 

去年の今日、栞をもらった場所だった。お父さんについていかないと、自分の口で決めた場所だった。

 

澪は、土手の階段を下りた。

 

背の高い草のあいだの細い道を、一歩ずつ進む。草の葉が、制服の袖にこすれて、かさかさと鳴った。

 

草が途切れたところで、澪は足を止めた。

 

ベンチに、誰かが座っていた。

 

真ん中に、一人で。

 

オレンジ色の髪だった。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。制服の袖を、まくっていた。

 

両手をベンチのふちについて、足をぶらぶらさせていた。

 

川のほうを見ていた。誰かを待っているようには、見えなかった。ただ、そこに座って、川を見ていた。

 

澪は、まず手を見た。

 

ベンチのふちについた、左の手。

 

人差し指と中指の先に、絆創膏は、もうなかった。

 

ひまりが、振り返った。

 

目の下の影が、薄くなっていた。

 

塔が灯った日の朝、教室で見たときより、ずっと。頬には、ほんのりと赤みが差していた。よく眠って、よく食べている人の顔だった。

 

もう、夜を走らなくてよくなった人の顔だった。

 

ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。

 

朝の光みたいな顔だった。

 

「お誕生日おめでとう、澪ちゃん!」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。