その朝も、空に雲は一つもなかった。
塔が灯った夜から、空はずっとこうだった。どこまでも青くて、どこにも、ひっかかるものがなかった。
背中で、「いってらっしゃい」が聞こえた。
毎朝、同じ時刻に、同じ声で。
教室に入ると、澪の机の端は空いていた。
担任の先生が、出席簿を開いた。
「陽向」
返事は、なかった。先生は顔を上げずに、出席簿に小さく何か書きこんで、次の名前を呼んだ。
ひまりは、その日も学校に来なかった。
放課後、澪は見回りの道を歩いた。
ひまりと二人で、毎日歩いた道だった。ひまりが角で別れて走っていくようになってからも、澪は一人で歩き続けた。
守る人は、もう一人もいなかった。
それでも足は、勝手にその順番をたどった。土手、住宅街、公園。最後に、商店街。
この町で、澪に残った日課は、それだけだった。
アーケードの入り口に、笹が立っていた。
事務所の前の、掲示板の隣だった。いつから飾ってあったのか、澪は覚えていなかった。緑の葉のあいだに、色とりどりの短冊が、動かずにぶら下がっていた。
子供の字が、並んでいた。
『サッカーがうまくなりますように』
『かぞくみんな げんきでいられますように』
その中に、見覚えのある鉛筆の字があった。
『ほんもののリリィに あえますように』
掲示板の絵の下の、『リリィ アイリス ありがとう』と同じ字だった。傘の男の子の字だった。
願いは、叶った。
男の子が空に向かって呼んだら、リリィは来た。よんだら、きてくれた、と男の子は笑った。それから、何も聞かれずに、自分から目をつぶった。
澪は、短冊から目をそらして、掲示板を見た。
それから、息を止めた。
傘の男の子の絵。その隅のテープは、きのう見たとき、少しだけ浮いていた。
今は、まっすぐに押さえ直されていた。
顔を近づけると、テープの上に、小さな指の跡が一つ、うっすらと残っていた。
栞のフィルムの隅に閉じ込められているのと、同じくらいの大きさの跡だった。
この絵の前で立ち止まる人は、もう、この町に澪しかいない。きのう、澪はそう思った。
違った。
もう一人、いた。
カサオバケの日、何も言わずに、右手でそっとテープを押さえ直した人が。
澪は、アーケードの奥を見た。
肉屋のおばさんも、パン屋のおばさんも、本屋のおじいちゃんも、いつもと同じ手つきで、いつもと同じことをしていた。
オレンジ色の髪は、どこにもなかった。
学校のない日が、二日続いた。
お休みの日のお母さんは、お休みの日の順番で動いた。朝ごはんのあとで洗濯機を回して、ベランダに干して、掃除機をかける。どれも、いつもと同じ順番だった。
いつもなら、掃除機の音に負けないくらいの声で、鼻歌を歌う人だった。
お昼は、そうめんだった。夜は、焼き魚だった。
唐揚げ、今度のお休みの日にしようかしら。ひまりちゃんに言っといてね。
その、お休みの日だった。
唐揚げは、出てこなかった。ひまりも、来なかった。言っといてね、と頼まれたことを、澪は結局、誰にも言えなかった。
午後になると、澪はまた見回りの道を歩いた。
商店街の肉屋の前で、油のはねる音がしていた。揚げたての時間だった。
おばさんが、網の上に唐揚げを並べていく。一つ、また一つ。同じ間隔で、同じ列に。
その列の真ん中が、一つだけ空いていた。
ガラスケースの上の、小銭を置く小さなトレーに、硬貨が何枚かのっていた。
一個だけね、と笑ったのは、カサオバケの日の澪だった。
揚げたての唐揚げは、ひまりの何よりの好物だった。
この町で、揚げたてを一つだけ買っていく人は、一人しかいなかった。
澪は、空いたところを、しばらく見ていた。
ほんの少し前まで、ひまりがここに立っていた。どこから来て、どこへ行ったのかは、分からなかった。
学校のある朝が、また来た。
ひまりの席は、空いていた。
放課後、澪は公園の入り口で足を止めた。
まだ、子供たちの来る時間ではなかった。車止めの横にも、フェンス沿いのベンチにも、誰もいなかった。
きい、と音がした。
広場の西のブランコが、一つだけ揺れていた。
誰も乗っていなかった。前へ、後ろへ。少しずつ、小さくなりながら。
風は、吹いていなかった。
この町の人は、決まった時刻にしか、ここへ来ない。子供たちがブランコに並ぶのは、もう少しあとの、夕方の決まった時刻だった。
決まった時刻の外を歩く人を、澪は、自分のほかに一人しか知らなかった。
澪は、ブランコが止まるまで、そこに立っていた。
掲示板のテープ。網の上の、一つだけの隙間。誰もいないブランコ。
ひまりは、澪の歩く道のどこかを、いつも少しだけ先に歩いていた。
捜そうとは、思わなかった。
捜して見つけても、ひまりはきっと、笑って言う。澪ちゃんは一番最後、と。
町のあちこちに、ひまりは立ち寄っていた。
澪のところへは、来なかった。
その夜も、空はよく晴れていた。
カーテンを開けると、坂の上で赤い灯りが点いては消えていた。その上の、東の空の高いところで、織姫星が光っていた。
一年に一度、七夕の夜にだけ、天の川を渡って会える二人。
その夜は、明日だった。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
洗面所の鏡に、自分の顔が映っていた。
目の下に、うっすらと影ができていた。
ひまりの目の下にあったのと、同じ場所だった。
この何日か、ごはんは半分も喉を通らなかった。頬が、少しだけ細くなった気がした。
台所から、フライパンの音がしていた。
食卓に、目玉焼きとお味噌汁とごはんが並んだ。お茶碗は、二つ。お母さんは向かいに座って、同じ速さで箸を動かしはじめた。
今日は、澪の誕生日だった。
去年の朝を、澪は覚えていた。
階段を下りる足音だけで、お母さんは台所から顔を出した。
「澪、お誕生日おめでとう。十三歳ね」
エプロンで手を拭きながら、少しだけ照れくさそうに笑っていた。
目玉焼きのお皿の横に、小さなガラスの器が置いてあった。苺が、四つ。
誕生日の朝だけは、朝から苺。澪が小さいころから、ずっとそうだった。季節外れで高いのに、とお父さんが笑うと、だって澪の日だもの、とお母さんは言った。
去年は、ごはんの途中で、遠くの町からお父さんの電話がかかってきた。お母さんがスピーカーにして、二人で「おめでとう」を聞いた。お父さんの声は少しだけ遠くて、お母さんは、苺を一つ澪の器に足した。
それから学校へ行って、放課後、あのベンチで、ひまりに栞をもらった。
一日じゅう、おめでとうを言われた日だった。
澪は、目玉焼きのお皿の横を見た。
ガラスの器は、なかった。
苺は、お母さんが毎年、澪のためだけに選んでいたものだった。毎朝の決まりごとでは、なかった。
だから、もう、なかった。
お母さんは、微笑んでいた。湯気の向こうで、同じ速さで、箸を動かしていた。
澪の箸が、お皿のふちに当たって、小さな音を立てた。
目の奥が、熱くなった。
こらえようとは、もう、思わなかった。
涙が、お味噌汁のお椀の横に落ちた。一つ、二つ。止まらなかった。
「……お母さん。私、今日、誕生日なんだよ」
お母さんは、微笑んでいた。
泣いている澪を、まっすぐ見ていた。
おめでとう、と言ってくれた人たちの顔が、次々に浮かんだ。お母さん。電話の向こうのお父さん。あのベンチで、栞を差し出したひまり。
今年は、誰の声も、聞こえなかった。
壁の時計の針が、いつも澪が家を出る時間を指した。
お母さんは、箸を置いた。
「いってらっしゃい」
いつもと同じ、優しい声だった。
教室は、今日も静かだった。
担任の先生が「陽向」と呼んで、返事がなくて、出席簿に何か書きこんで、次へ進んだ。「蒼井」と呼ばれて、澪は「……はい」と答えた。先生は顔を上げなかった。
おめでとう、と言う人は、教室に一人もいなかった。
スマホは、朝から一度も見ていなかった。鞄の底に入れたまま、出そうとも思わなかった。
澪は、数学のノートを開かなかった。
開けば、栞があった。去年の今日、あのベンチで渡された栞が。
放課後、澪の足は、見回りの道とは違うほうへ向いた。
どこへ行こうと、決めたわけではなかった。
気がつくと、土手の上に立っていた。
川が、夕方の光を細かく砕いて、きらきらしていた。空には、今日も雲が一つもなかった。日は、まだ高いところにあった。
誕生日に、あのベンチへ行ったって、ひまりはきっと、来ない。
一週間前、澪はそう思った。
それでも、ほかに行く場所が、思いつかなかった。
去年の今日、栞をもらった場所だった。お父さんについていかないと、自分の口で決めた場所だった。
澪は、土手の階段を下りた。
背の高い草のあいだの細い道を、一歩ずつ進む。草の葉が、制服の袖にこすれて、かさかさと鳴った。
草が途切れたところで、澪は足を止めた。
ベンチに、誰かが座っていた。
真ん中に、一人で。
オレンジ色の髪だった。右耳の上で、寝癖が一房跳ねていた。制服の袖を、まくっていた。
両手をベンチのふちについて、足をぶらぶらさせていた。
川のほうを見ていた。誰かを待っているようには、見えなかった。ただ、そこに座って、川を見ていた。
澪は、まず手を見た。
ベンチのふちについた、左の手。
人差し指と中指の先に、絆創膏は、もうなかった。
ひまりが、振り返った。
目の下の影が、薄くなっていた。
塔が灯った日の朝、教室で見たときより、ずっと。頬には、ほんのりと赤みが差していた。よく眠って、よく食べている人の顔だった。
もう、夜を走らなくてよくなった人の顔だった。
ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。
朝の光みたいな顔だった。
「お誕生日おめでとう、澪ちゃん!」