ひまりは、ベンチの真ん中から、半分空けるように端へずれた。
去年も、その前も、ひまりはいつもそうした。
澪は、空いたところに腰を下ろした。ベンチが、小さく軋んだ。
ひまりの右の横顔が、すぐ隣にあった。
寝癖が、右耳の上で跳ねていた。
その下の耳たぶに、小さな丸い石が一粒、光っていた。
ラベンダー色だった。
商店街の路地で、ひまりの白い部分を染めた色だった。塔の下で、ライトの光の中に広がっていたスカートの色だった。
ひまりがイヤリングをしているのを、澪は初めて見た。いつ、誰にもらったのかは、知らなかった。
聞かなかった。
「去年はね、ここで栞あげたよね!」
ひまりは、足をぶらぶらさせながら言った。
「押し花、三回も失敗しちゃったやつ!」
覚えていた。ひまりは、何でも覚えていた。
澪は、答えられなかった。右手が、勝手に胸の真ん中へ行っていた。服の上から、硬いものを押さえる。手首の奥が、じんと疼いた。
「あっ!」
ひまりの声が、跳ねた。
ひまりの目が、澪の襟元に留まっていた。首の左側、ブラウスの襟から、オレンジ色の紐が少しだけのぞいていた。
「よかった、ちゃんとつけててくれたんだ」
ひまりは、ほっとしたように笑った。それから、少しだけ声を小さくした。
「……信じて待っててくれて、ありがとう」
朝の光みたいな顔だった。
待っていたのでは、なかった。
部屋でじっと座っていられなくて、坂へ行った。止める言葉は、もう一つも残っていなかった。これを首にかけたのは、捨てられなかったからだった。それだけだった。
ひまりは、ありがとう、と言った。
何も疑わない声で。
目の奥が、熱くなった。
涙が、制服のスカートに落ちた。一つ、二つ。今朝、お母さんの前で流したのと同じ涙が、まだいくらでも残っていた。
ひまりが、体ごとこちらを向いた。
少しだけ身をかがめて、澪の顔をのぞきこむ。目線が、ちょうど同じ高さになった。
「どうしたの?」
あの日と、同じ声だった。
澪の頭の中で、次の言葉が先に鳴った。
澪ちゃんはどうしたいのかな。
このベンチで、ひまりはそう聞いた。答えられない澪の隣で、日が暮れるまで待っていてくれた。
ひまりは、首をかしげなかった。
澪の答えを、待っていた。その次の問いは、どこにもなかった。
聞かれなくても、答えは、もう分かっていた。
「……ひまり。私、もう限界だよ……」
声が、震えた。
自分の気持ちを先に口にしたのは、初めてだった。いつも、ひまりの様子を先に確かめてきた。信じてる、とひまりが言うから、強くいようとしてきた。
もう、できなかった。
「私も夢の世界に連れて行って……」
川の音が、聞こえた。
ひまりは、笑った。
「うん。澪ちゃんが決めたなら」
それだけだった。
やったー、とも、よかった、とも言わなかった。跳び上がりもしなかった。
あの日と、同じ言葉だった。
澪は、ひまりの手を見た。
あの日、ひまりは膝の上で、両手をぎゅっと握っていた。あの手が嬉しかったのか、寂しかったのか、澪には今も分からない。
今日は、膝の上に手はなかった。
ひまりの右手は、もう、スカートのポケットの中にあった。
ポケットから出てきたのは、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルだった。
ひまりは、両手でそれを持った。ベルトの長さを、指先で確かめる。
それから、澪のほうへ体を寄せた。
「澪ちゃん……これからも、ずっと一緒だよ」
レンズが、目の前に来た。
眼鏡をかけてあげるみたいに、そっと。ひまりの指が、澪の耳の後ろでベルトを留めた。少しだけ、髪がひっかかった。ひまりは、それをていねいにほどいた。
目の前が、淡く光った。
レンズの中で、小さな光が、きらきらと揺れていた。
川が、光っていた。夕方の光が何倍にもなって、水の上で弾けていた。草の葉の一本一本のふちに、虹色の線が走っていた。
隣に、ひまりがいた。
レンズの向こうで、オレンジ色の髪が、陽だまりみたいに光っていた。
胸の真ん中で、お守りの硬いものが当たっていた。澪は、それを外さなかった。ひまりも、外して、とは言わなかった。
澪は、息を吐いた。
胸の奥で、何かが、ぽきりと折れた。
痛くはなかった。
ずっと張りつめていたものが、やっと終わった音だった。
ここは、夢の中だ、と澪は思った。
だって、ひまりが隣にいる。笑っている。どこにも、走っていかない。
涙は、いつのまにか止まっていた。
「えへへ。澪ちゃん、きらきらしてる!」
ひまりが、レンズをのぞきこんで笑った。
日が、川の向こうへ傾いていった。
二人は、ベンチに並んで座っていた。ひまりは、一度も立ち上がらなかった。足をぶらぶらさせて、川を見て、ときどき澪を見て、笑った。
空が、オレンジ色から薄紫に変わるまで。
あの日と同じように、日が暮れるまで。
「そろそろ帰ろっか」
ひまりが先に立ち上がって、右手を差し出した。
澪は、その手を、左手で握った。
体温の高い手だった。ぐい、と引っぱられて立ち上がると、ベンチがまた小さく軋んだ。
ひまりは、手を離さなかった。
背の高い草のあいだの細い道を、ひまりが半歩前を歩いた。レンズの向こうで、足元がやわらかくにじむ。そのたびに、ひまりは振り返った。
「澪ちゃん、そこ、段になってる!」
「ゆっくりでいいよ!」
土手の階段を、一段ずつ上った。ひまりは一段上るごとに振り返って、澪が追いつくのを待った。
水たまりは、どこにもなかった。それでも、ひまりは振り返った。
土手の上に出ると、空に、最初の星が出ていた。
東の空の、高いところ。
レンズの中で、星は小さなシャボン玉みたいに、虹色ににじんで光っていた。
織姫星だった。
いつもの角を、二人で曲がった。
住宅街の窓に、明かりが灯りはじめていた。どの家からも、話し声は聞こえなかった。夕ごはんの匂いだけが、どの家からも同じように漂っていた。
静かで、きれいな夜だった。
坂の下まで来たとき、ひまりが「あっ!」と声を上げた。
「パフェ!」
ひまりは、ぴたりと足を止めて振り返った。
「当日おごるって言ったのに、行けなかった! ごめんね!」
両手を合わせようとして、右手が澪の手を握ったままなのに気がついて、ひまりは左手だけを顔の前に立てた。
「明日、行こ! 苺のやつ!」
苺のやつ。
あの昇降口で、澪が言わなかった言葉だった。言わなくなってから、ずっと、喉の奥にしまってあった言葉だった。
澪は、笑っていた。
自分が笑っているのが、分かった。口元へ行きかけた右手を、澪は止めなかった。
「……うん。苺のやつがいいな」
ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。
「やったー!」
明日がある。明日、ひまりとパフェを食べに行く。
夢の中の明日は、ちゃんと来るのだ。
坂の途中で、澪は空いている右手を鞄に入れた。
底のほうから、スマホを引っぱり出す。画面が、レンズの中でまぶしくにじんだ。
通知が一つ、来ていた。朝の時刻だった。
『澪、誕生日おめでとう。十四歳だね。体に気をつけて、楽しい一日を』
お父さんだった。
今朝から、ずっとここにあったのだ。気がつかなかった。
澪は、片手で返事を打った。
『ありがとう。私、最高に幸せ』
送信して、画面を消して、鞄に戻した。
ひまりが、坂の少し上で、澪の手を握ったまま待っていた。
坂は、思っていたより急だった。
道が大きく曲がるところに、ガードレールがあった。あの夜、澪が一人で立ち止まった場所だった。
今夜は、止まらなかった。
ひまりに手を引かれて、そのまま上った。
塔の足元が、近づいてくる。細い鉄骨の下に、箱のようなものがあった。その上で、小さなランプが緑色に灯っていた。
てっぺんで、赤い灯りが点いては消えていた。
レンズの中で、赤い灯りは、やわらかい花びらみたいに咲いては散っていた。
その上に、夜空があった。
織姫星のずっと下、白い川のような光をはさんで、もう一つの星が光っていた。
彦星だった。
今夜は、二人が会える夜だった。
坂を上りきると、白い建物があった。
屋根の上に、錆びた風見鶏がいた。敷地の草は伸び放題で、入り口の看板は、「気象」の二文字しか読めなかった。
窓に、明かりがついていた。
レンズの向こうで、その明かりは、ろうそくの火みたいにあたたかく揺れていた。錆びた風見鶏は、星の光を受けて、金色に光って見えた。伸び放題の草のあいだを、小さな光の粒が、蛍みたいに飛んでいた。
ここが、ひまりの暮らしている場所だった。
ずっと、知らなかった場所だった。
明日の朝、ひまりはここで、おはよっ、と言う。寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で。澪は、それを一番近くで聞く。毎朝、毎朝。
それから、二人でパフェを食べに行く。苺のやつ。
扉の前で、ひまりが振り返った。
「ここがね、ボクとユメちゃんのおうち!」
レンズの向こうで、ひまりの耳もとの石が、ラベンダー色に光った。
「今日から、澪ちゃんのおうちでもあるんだよ!」
ひまりは、澪の手を握ったまま、左手で扉を押した。
「ユメちゃーん! ただいま! 澪ちゃん、来たよ!」
扉の向こうから、光があふれた。
澪は、ひまりの右手を握っていた。
この子が隣にいる限り、自分はたぶん大丈夫だ。
カサオバケの次の朝、昇降口で、澪はそう思った。
ひまりは、隣にいた。
もう大丈夫だ、と澪は思った。
もう、泣かなくていいんだ。