泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第12話 信じて待っててくれて、ありがとう(後編)

ひまりは、ベンチの真ん中から、半分空けるように端へずれた。

 

去年も、その前も、ひまりはいつもそうした。

 

澪は、空いたところに腰を下ろした。ベンチが、小さく軋んだ。

 

ひまりの右の横顔が、すぐ隣にあった。

 

寝癖が、右耳の上で跳ねていた。

 

その下の耳たぶに、小さな丸い石が一粒、光っていた。

 

ラベンダー色だった。

 

商店街の路地で、ひまりの白い部分を染めた色だった。塔の下で、ライトの光の中に広がっていたスカートの色だった。

 

ひまりがイヤリングをしているのを、澪は初めて見た。いつ、誰にもらったのかは、知らなかった。

 

聞かなかった。

 

「去年はね、ここで栞あげたよね!」

 

ひまりは、足をぶらぶらさせながら言った。

 

「押し花、三回も失敗しちゃったやつ!」

 

覚えていた。ひまりは、何でも覚えていた。

 

澪は、答えられなかった。右手が、勝手に胸の真ん中へ行っていた。服の上から、硬いものを押さえる。手首の奥が、じんと疼いた。

 

「あっ!」

 

ひまりの声が、跳ねた。

 

ひまりの目が、澪の襟元に留まっていた。首の左側、ブラウスの襟から、オレンジ色の紐が少しだけのぞいていた。

 

「よかった、ちゃんとつけててくれたんだ」

 

ひまりは、ほっとしたように笑った。それから、少しだけ声を小さくした。

 

「……信じて待っててくれて、ありがとう」

 

朝の光みたいな顔だった。

 

待っていたのでは、なかった。

 

部屋でじっと座っていられなくて、坂へ行った。止める言葉は、もう一つも残っていなかった。これを首にかけたのは、捨てられなかったからだった。それだけだった。

 

ひまりは、ありがとう、と言った。

 

何も疑わない声で。

 

目の奥が、熱くなった。

 

涙が、制服のスカートに落ちた。一つ、二つ。今朝、お母さんの前で流したのと同じ涙が、まだいくらでも残っていた。

 

ひまりが、体ごとこちらを向いた。

 

少しだけ身をかがめて、澪の顔をのぞきこむ。目線が、ちょうど同じ高さになった。

 

「どうしたの?」

 

あの日と、同じ声だった。

 

澪の頭の中で、次の言葉が先に鳴った。

 

澪ちゃんはどうしたいのかな。

 

このベンチで、ひまりはそう聞いた。答えられない澪の隣で、日が暮れるまで待っていてくれた。

 

ひまりは、首をかしげなかった。

 

澪の答えを、待っていた。その次の問いは、どこにもなかった。

 

聞かれなくても、答えは、もう分かっていた。

 

「……ひまり。私、もう限界だよ……」

 

声が、震えた。

 

自分の気持ちを先に口にしたのは、初めてだった。いつも、ひまりの様子を先に確かめてきた。信じてる、とひまりが言うから、強くいようとしてきた。

 

もう、できなかった。

 

「私も夢の世界に連れて行って……」

 

川の音が、聞こえた。

 

ひまりは、笑った。

 

「うん。澪ちゃんが決めたなら」

 

それだけだった。

 

やったー、とも、よかった、とも言わなかった。跳び上がりもしなかった。

 

あの日と、同じ言葉だった。

 

澪は、ひまりの手を見た。

 

あの日、ひまりは膝の上で、両手をぎゅっと握っていた。あの手が嬉しかったのか、寂しかったのか、澪には今も分からない。

 

今日は、膝の上に手はなかった。

 

ひまりの右手は、もう、スカートのポケットの中にあった。

 

ポケットから出てきたのは、シャボン玉みたいなレンズのゴーグルだった。

 

ひまりは、両手でそれを持った。ベルトの長さを、指先で確かめる。

 

それから、澪のほうへ体を寄せた。

 

「澪ちゃん……これからも、ずっと一緒だよ」

 

レンズが、目の前に来た。

 

眼鏡をかけてあげるみたいに、そっと。ひまりの指が、澪の耳の後ろでベルトを留めた。少しだけ、髪がひっかかった。ひまりは、それをていねいにほどいた。

 

目の前が、淡く光った。

 

レンズの中で、小さな光が、きらきらと揺れていた。

 

川が、光っていた。夕方の光が何倍にもなって、水の上で弾けていた。草の葉の一本一本のふちに、虹色の線が走っていた。

 

隣に、ひまりがいた。

 

レンズの向こうで、オレンジ色の髪が、陽だまりみたいに光っていた。

 

胸の真ん中で、お守りの硬いものが当たっていた。澪は、それを外さなかった。ひまりも、外して、とは言わなかった。

 

澪は、息を吐いた。

 

胸の奥で、何かが、ぽきりと折れた。

 

痛くはなかった。

 

ずっと張りつめていたものが、やっと終わった音だった。

 

ここは、夢の中だ、と澪は思った。

 

だって、ひまりが隣にいる。笑っている。どこにも、走っていかない。

 

涙は、いつのまにか止まっていた。

 

「えへへ。澪ちゃん、きらきらしてる!」

 

ひまりが、レンズをのぞきこんで笑った。

 

日が、川の向こうへ傾いていった。

 

二人は、ベンチに並んで座っていた。ひまりは、一度も立ち上がらなかった。足をぶらぶらさせて、川を見て、ときどき澪を見て、笑った。

 

空が、オレンジ色から薄紫に変わるまで。

 

あの日と同じように、日が暮れるまで。

 

「そろそろ帰ろっか」

 

ひまりが先に立ち上がって、右手を差し出した。

 

澪は、その手を、左手で握った。

 

体温の高い手だった。ぐい、と引っぱられて立ち上がると、ベンチがまた小さく軋んだ。

 

ひまりは、手を離さなかった。

 

背の高い草のあいだの細い道を、ひまりが半歩前を歩いた。レンズの向こうで、足元がやわらかくにじむ。そのたびに、ひまりは振り返った。

 

「澪ちゃん、そこ、段になってる!」

 

「ゆっくりでいいよ!」

 

土手の階段を、一段ずつ上った。ひまりは一段上るごとに振り返って、澪が追いつくのを待った。

 

水たまりは、どこにもなかった。それでも、ひまりは振り返った。

 

土手の上に出ると、空に、最初の星が出ていた。

 

東の空の、高いところ。

 

レンズの中で、星は小さなシャボン玉みたいに、虹色ににじんで光っていた。

 

織姫星だった。

 

いつもの角を、二人で曲がった。

 

住宅街の窓に、明かりが灯りはじめていた。どの家からも、話し声は聞こえなかった。夕ごはんの匂いだけが、どの家からも同じように漂っていた。

 

静かで、きれいな夜だった。

 

坂の下まで来たとき、ひまりが「あっ!」と声を上げた。

 

「パフェ!」

 

ひまりは、ぴたりと足を止めて振り返った。

 

「当日おごるって言ったのに、行けなかった! ごめんね!」

 

両手を合わせようとして、右手が澪の手を握ったままなのに気がついて、ひまりは左手だけを顔の前に立てた。

 

「明日、行こ! 苺のやつ!」

 

苺のやつ。

 

あの昇降口で、澪が言わなかった言葉だった。言わなくなってから、ずっと、喉の奥にしまってあった言葉だった。

 

澪は、笑っていた。

 

自分が笑っているのが、分かった。口元へ行きかけた右手を、澪は止めなかった。

 

「……うん。苺のやつがいいな」

 

ひまりの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「やったー!」

 

明日がある。明日、ひまりとパフェを食べに行く。

 

夢の中の明日は、ちゃんと来るのだ。

 

坂の途中で、澪は空いている右手を鞄に入れた。

 

底のほうから、スマホを引っぱり出す。画面が、レンズの中でまぶしくにじんだ。

 

通知が一つ、来ていた。朝の時刻だった。

 

『澪、誕生日おめでとう。十四歳だね。体に気をつけて、楽しい一日を』

 

お父さんだった。

 

今朝から、ずっとここにあったのだ。気がつかなかった。

 

澪は、片手で返事を打った。

 

『ありがとう。私、最高に幸せ』

 

送信して、画面を消して、鞄に戻した。

 

ひまりが、坂の少し上で、澪の手を握ったまま待っていた。

 

坂は、思っていたより急だった。

 

道が大きく曲がるところに、ガードレールがあった。あの夜、澪が一人で立ち止まった場所だった。

 

今夜は、止まらなかった。

 

ひまりに手を引かれて、そのまま上った。

 

塔の足元が、近づいてくる。細い鉄骨の下に、箱のようなものがあった。その上で、小さなランプが緑色に灯っていた。

 

てっぺんで、赤い灯りが点いては消えていた。

 

レンズの中で、赤い灯りは、やわらかい花びらみたいに咲いては散っていた。

 

その上に、夜空があった。

 

織姫星のずっと下、白い川のような光をはさんで、もう一つの星が光っていた。

 

彦星だった。

 

今夜は、二人が会える夜だった。

 

坂を上りきると、白い建物があった。

 

屋根の上に、錆びた風見鶏がいた。敷地の草は伸び放題で、入り口の看板は、「気象」の二文字しか読めなかった。

 

窓に、明かりがついていた。

 

レンズの向こうで、その明かりは、ろうそくの火みたいにあたたかく揺れていた。錆びた風見鶏は、星の光を受けて、金色に光って見えた。伸び放題の草のあいだを、小さな光の粒が、蛍みたいに飛んでいた。

 

ここが、ひまりの暮らしている場所だった。

 

ずっと、知らなかった場所だった。

 

明日の朝、ひまりはここで、おはよっ、と言う。寝癖を跳ねさせて、朝の光みたいな顔で。澪は、それを一番近くで聞く。毎朝、毎朝。

 

それから、二人でパフェを食べに行く。苺のやつ。

 

扉の前で、ひまりが振り返った。

 

「ここがね、ボクとユメちゃんのおうち!」

 

レンズの向こうで、ひまりの耳もとの石が、ラベンダー色に光った。

 

「今日から、澪ちゃんのおうちでもあるんだよ!」

 

ひまりは、澪の手を握ったまま、左手で扉を押した。

 

「ユメちゃーん! ただいま! 澪ちゃん、来たよ!」

 

扉の向こうから、光があふれた。

 

澪は、ひまりの右手を握っていた。

 

この子が隣にいる限り、自分はたぶん大丈夫だ。

 

カサオバケの次の朝、昇降口で、澪はそう思った。

 

ひまりは、隣にいた。

 

もう大丈夫だ、と澪は思った。

 

もう、泣かなくていいんだ。

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