泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第13話 澪ちゃんも、ユメちゃんも、ボクも! 家族!(前編)

目を覚ますと、肩にタオルケットがかかっていた。

 

ユメミは、作業台に突っ伏していた。頬の下から、ねじが一本、ころりと転がり落ちた。

 

窓の外が、オレンジ色に染まっていた。

 

「……同志?」

 

返事は、なかった。

 

ソファは、空っぽだった。お茶のテーブルの上、ティーカップの隣に、夜明け前の空の色をしたバイザーが、きちんと置いてあった。

 

いってきます、は、聞こえなかった。

 

ユメミは、肩のタオルケットを両手でつかんだ。いつもは、ユメミがひまりちゃんにかけてあげているものだった。

 

塔が灯った夜から、ユメミは、ほとんど眠っていなかった。

 

朝になると、おでこが熱っぽいふりをした。お昼になると、大発見をした。夜になると、ソファの上で膝をぽんぽんと叩いた。ひまりちゃんはそのたびに、ユメちゃんは仕方ないなぁ、と笑って付き合ってくれた。

 

それでもひまりちゃんは、ときどき、ふらりと出かけていった。

 

帰ってくると、何でも話してくれた。

 

商店街の掲示板の絵、テープが浮いてたから押さえ直してきた! 揚げたての唐揚げ、一個だけ買っちゃった! 公園のブランコ、誰もいなかったから、ちょっとだけこいできた!

 

どこへ行っても、ひまりちゃんはちゃんと帰ってきた。ティーカップの隣のバイザーをかけ直して、ただいま、と言った。

 

そのたびに、ユメミは、そっと息を吐いた。

 

塔が灯ってから、六日目だった。

 

ゆうべも、ユメミは自分の手の甲をつねって、膝の上の寝息を朝まで聞いていた。それなのに、お昼を過ぎたころ、作業台の前で、ほんの少しだけ目を閉じてしまった。

 

ほんの少しの、つもりだった。

 

さあ、次は澪ちゃんの番だね。

 

夜明けの研究所で、ひまりちゃんはそう言った。

 

ユメミは、タオルケットを肩から外して、胸に抱えた。それから、ソファに座った。

 

ソファからは、扉が見えた。

 

窓の外のオレンジ色が、だんだん薄紫に変わっていった。それも、やがて暗くなった。坂の上のほうで、電波塔の赤い灯りが点きはじめた。今夜も、町じゅうに届けている。

 

壁の時計の音が、やけに大きく聞こえた。

 

ユメミは膝を抱えて、タオルケットに顎をうずめた。

 

誰かを待つのは、はじめてではなかった。眠っているひまりちゃんが目を覚ますのを、ユメミは何度も待った。帰ってくるのも、何度も待った。

 

こんなふうに、扉が開くのが怖いと思いながら待つのは、はじめてだった。

 

外で、草を踏む音がした。

 

足音が、二つだった。

 

ユメミは、タオルケットを抱えたまま、動けなくなった。

 

「ここがね、ボクとユメちゃんのおうち!」

 

扉の向こうから、ひまりちゃんの声がした。

 

おうち。

 

ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。

 

研究所、と呼ばれたことはあった。観測所の跡、とも。勝手に住みついている変な建物、と呼ばれたこともあった。

 

おうち、と呼ばれたのは、はじめてだった。

 

胸の奥が、ぽかぽかした。

 

「今日から、澪ちゃんのおうちでもあるんだよ!」

 

ぽかぽかが、そこで止まった。

 

扉が、開いた。

 

「ユメちゃーん! ただいま! 澪ちゃん、来たよ!」

 

夜の空気が、すうっと流れこんできた。研究所の明かりが、扉の外へこぼれて、戸口に立つ二人を照らした。その後ろで、伸び放題の草が黒く揺れていた。空には、雲が一つもなかった。

 

ユメミは、ソファから立ち上がっていた。

 

タオルケットが、床に落ちた。

 

足が、勝手に動いた。ひまりちゃんが帰ってくると、ユメミはいつもそうした。手をぶんぶん振って、扉まで駆けていく。

 

その手が、途中で止まった。足も、止まった。

 

扉まで、あと二メートルほどのところだった。

 

ひまりちゃんは、扉を入ったところに立っていた。ユメミから見て、右側だった。

 

左側に、もう一人いた。

 

澪(みお)さんだった。

 

二人のあいだで、手がつながっていた。ひまりちゃんの右手と、澪さんの左手。ちょうど、ユメミの正面だった。

 

澪さんの目元に、ゴーグルがかかっていた。

 

シャボン玉みたいなレンズが、研究所の明かりを受けて、淡く光っていた。レンズの中で、小さな光が、きらきらと揺れていた。

 

澪さんは、笑っていた。

 

ユメミを見て、笑っていた。

 

商店街では、リボンをぎゅっと握って、ずっとこっちをにらんでいた子だった。公園では、ユメミのほうを一度も見なかった子だった。

 

アイリスさんが、ユメミに笑いかけたのは、はじめてだった。

 

頬が、商店街で見たときより、少しだけ細くなっていた。

 

それから、ユメミは、澪さんの襟元を見た。

 

ブラウスの襟から、オレンジ色の紐が、少しだけのぞいていた。つないだ手のすぐ上の、首の左側だった。

 

その紐の先に何がぶら下がっているのかを、ユメミは知っていた。

 

水色の袋。ひまりちゃんが、指先に絆創膏を巻いて縫ったもの。

 

その中の、硬くて平たい板。

 

首にかけていても、かけ忘れても、同じ部屋にさえあれば、届かないように。ユメミが何度も作り直して、届かない範囲を広げた。半径、二メートル。

 

その真ん中で、ゴーグルが光っていた。

 

あのゴーグルは、澪さんを、どこへも連れていかない。

 

今夜眠っても。明日の夜眠っても。レンズの中の光は、ずっと、きらきら揺れているだけだ。

 

ユメミの作った板が、それを遮っていた。

 

ひまりちゃんは、何も言わなかった。いつもの、朝の光みたいな顔で笑っていた。

 

「あのね、ユメちゃん! 今日ね、澪ちゃんのお誕生日なの!」

 

「お、お誕生日、ですか」

 

ユメミの口が、勝手に動いた。

 

「……おめでとう、ございます」

 

澪さんの口が、ゆっくりと動いた。

 

「……ありがとうございます」

 

やわらかい声だった。

 

その子がユメミに向けて何かを言うのを聞いたのも、これがはじめてだった。

 

ひまりちゃんは、澪さんの手を離した。

 

お茶のテーブルへ駆けていって、ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。

 

「ただいま!」

 

バイザーに言ったのだと、ユメミには分かった。

 

澪さんは、扉を入ったところに立ったままだった。

 

床の配線にも、作業台にも、窓の向こうの赤い灯りにも、目を向けなかった。レンズの向こうで、ひまりちゃんの背中だけを見ていた。

 

ひまりちゃんが戻ってきて、また右手で、澪さんの左手を取った。

 

「澪ちゃん、ここ座って!」

 

手を引かれて、澪さんはソファに座った。

 

ユメミの、膝枕の場所だった。

 

ひまりちゃんは、床に落ちていたタオルケットを拾い上げた。ぱんぱんと払って、澪さんの膝にふわりとかける。

 

「夜は、ちょっと冷えるもんね!」

 

澪さんは、膝の上のタオルケットに、そっと手をのせた。

 

「……あったかい」

 

「でしょ! 明日はね、パフェだからね! 苺のやつ!」

 

「……うん。苺のやつ」

 

澪さんは、ひまりちゃんを見上げて、笑った。

 

ユメミは、自分の白衣の袖を握っていた。

 

いつのまにか、指先まで、袖の中に隠れていた。

 

ひまりちゃんが、くるりと振り向いた。

 

ユメミの前まで来て、両手をぱちんと合わせる。

 

「ユメちゃん、お願い! 澪ちゃんにも、ボクみたいなバイザー作ってあげて!」

 

ユメミの胸の奥が、ひやりとした。

 

「そしたら澪ちゃんも、ずっとここで一緒だもん!」

 

ずっと、ここで、一緒。

 

ユメミは、思い浮かべてしまった。

 

夜明け前の空の色をしたバイザーが、もう一つ。お茶のテーブルの上、ティーカップの隣に、二つ並んでいる。

 

ひまりちゃんと澪さんが、二人でそれを外して、いってきます、と言う。二人で坂を駆け下りていく。二人で帰ってきて、二人で、ただいま、と言う。

 

ソファで眠るのは、どちらの膝だろう。

 

そのとき、ユメミは、どこに立っているのだろう。

 

ゴーグルで、いい。

 

ユメミは、そう思った。

 

ゴーグルが効いていないことは、知っていた。

 

澪さんが眠ったら、そっと、あの紐を外せばいい。それだけで、ゴーグルは、ちゃんと働く。

 

そうしたら、澪さんは夢の中へ行く。明日の朝からは、町のほかの人たちと同じように、自分の日課をくり返す。坂を下りて、自分のおうちへ帰っていく。

 

ひまりちゃんの隣には、立たない。

 

本人に聞かないで決めるのは、学会の人たちが、いちばん怒ったところだった。

 

ユメミは、それを考えないことにした。考えないのは、ユメミの得意なことだった。

 

「澪さんには、ゴーグルで、じゅうぶんです!」

 

明るい声が出た。自分でも、びっくりするくらい明るい声だった。

 

「ゴーグルだって、とーっても幸せな夢が見られるんですから! ユメミが、三日三晩かけて名前を考えた、自信作なんですから!」

 

ひまりちゃんは、すぐには何も言わなかった。

 

バイザーの奥から、じっと、ユメミを見ていた。

 

いつもなら、と、ユメミは思った。

 

いつもなら、ひまりちゃんにお願いされたら、ユメミは白衣の袖をまくる。余った袖が、ずり落ちてくる。もう一度まくる。三回目で肘のところで止めて、作業台へ向かう。任せてください、と言いながら。

 

今日は、袖をまくっていなかった。

 

袖の中で、ぎゅっと、指を握りしめていた。

 

作業台は、ユメミの後ろにあった。一度も、振り返らなかった。

 

ひまりちゃんが、一歩近づいた。

 

ユメミとひまりちゃんは、背の高さが、ほとんど同じだった。ひまりちゃんは、しゃがまなかった。しゃがむ必要が、なかった。

 

目線は、はじめから同じ高さだった。

 

「ユメちゃん、作りたくないんだね」

 

怒っている声ではなかった。ゼリーの空き袋を見つけたときの、だめ、とも違った。

 

ただ、知っている声だった。

 

「そ、そんなこと、ないです!」

 

ユメミは、ぶんぶんと首を振った。

 

「ユメミは、ただ、ゴーグルのほうが早いと思っただけです! バイザーは、三晩もかかりますし! ユメミ、ここのところ、ぜーんぜん寝てないですし!」

 

本当のことも、混ざっていた。本当のことだけでは、なかった。

 

ひまりちゃんの両手が、伸びてきた。

 

袖の中に隠れていたユメミの指を、袖ごと、そっと包んだ。

 

体温の高い手だった。

 

ユメミは、目をそらせなくなった。

 

その肩の向こうで、澪さんは、膝のタオルケットに手をのせたまま、ひまりちゃんの背中を見ていた。

 

ひまりちゃんは、笑っていなかった。

 

困っている人の前で、しゃがんで目線を合わせるときの顔だった。小春ちゃんの部屋で、陽太くんの前で、ユメミが何度も見てきた顔だった。

 

その顔が、今、ユメミに向いていた。

 

「ユメちゃんが本当に欲しいのは、ユメちゃんをユメちゃんとして見てくれる家族でしょ」

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