目を覚ますと、肩にタオルケットがかかっていた。
ユメミは、作業台に突っ伏していた。頬の下から、ねじが一本、ころりと転がり落ちた。
窓の外が、オレンジ色に染まっていた。
「……同志?」
返事は、なかった。
ソファは、空っぽだった。お茶のテーブルの上、ティーカップの隣に、夜明け前の空の色をしたバイザーが、きちんと置いてあった。
いってきます、は、聞こえなかった。
ユメミは、肩のタオルケットを両手でつかんだ。いつもは、ユメミがひまりちゃんにかけてあげているものだった。
塔が灯った夜から、ユメミは、ほとんど眠っていなかった。
朝になると、おでこが熱っぽいふりをした。お昼になると、大発見をした。夜になると、ソファの上で膝をぽんぽんと叩いた。ひまりちゃんはそのたびに、ユメちゃんは仕方ないなぁ、と笑って付き合ってくれた。
それでもひまりちゃんは、ときどき、ふらりと出かけていった。
帰ってくると、何でも話してくれた。
商店街の掲示板の絵、テープが浮いてたから押さえ直してきた! 揚げたての唐揚げ、一個だけ買っちゃった! 公園のブランコ、誰もいなかったから、ちょっとだけこいできた!
どこへ行っても、ひまりちゃんはちゃんと帰ってきた。ティーカップの隣のバイザーをかけ直して、ただいま、と言った。
そのたびに、ユメミは、そっと息を吐いた。
塔が灯ってから、六日目だった。
ゆうべも、ユメミは自分の手の甲をつねって、膝の上の寝息を朝まで聞いていた。それなのに、お昼を過ぎたころ、作業台の前で、ほんの少しだけ目を閉じてしまった。
ほんの少しの、つもりだった。
さあ、次は澪ちゃんの番だね。
夜明けの研究所で、ひまりちゃんはそう言った。
ユメミは、タオルケットを肩から外して、胸に抱えた。それから、ソファに座った。
ソファからは、扉が見えた。
窓の外のオレンジ色が、だんだん薄紫に変わっていった。それも、やがて暗くなった。坂の上のほうで、電波塔の赤い灯りが点きはじめた。今夜も、町じゅうに届けている。
壁の時計の音が、やけに大きく聞こえた。
ユメミは膝を抱えて、タオルケットに顎をうずめた。
誰かを待つのは、はじめてではなかった。眠っているひまりちゃんが目を覚ますのを、ユメミは何度も待った。帰ってくるのも、何度も待った。
こんなふうに、扉が開くのが怖いと思いながら待つのは、はじめてだった。
外で、草を踏む音がした。
足音が、二つだった。
ユメミは、タオルケットを抱えたまま、動けなくなった。
「ここがね、ボクとユメちゃんのおうち!」
扉の向こうから、ひまりちゃんの声がした。
おうち。
ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。
研究所、と呼ばれたことはあった。観測所の跡、とも。勝手に住みついている変な建物、と呼ばれたこともあった。
おうち、と呼ばれたのは、はじめてだった。
胸の奥が、ぽかぽかした。
「今日から、澪ちゃんのおうちでもあるんだよ!」
ぽかぽかが、そこで止まった。
扉が、開いた。
「ユメちゃーん! ただいま! 澪ちゃん、来たよ!」
夜の空気が、すうっと流れこんできた。研究所の明かりが、扉の外へこぼれて、戸口に立つ二人を照らした。その後ろで、伸び放題の草が黒く揺れていた。空には、雲が一つもなかった。
ユメミは、ソファから立ち上がっていた。
タオルケットが、床に落ちた。
足が、勝手に動いた。ひまりちゃんが帰ってくると、ユメミはいつもそうした。手をぶんぶん振って、扉まで駆けていく。
その手が、途中で止まった。足も、止まった。
扉まで、あと二メートルほどのところだった。
ひまりちゃんは、扉を入ったところに立っていた。ユメミから見て、右側だった。
左側に、もう一人いた。
二人のあいだで、手がつながっていた。ひまりちゃんの右手と、澪さんの左手。ちょうど、ユメミの正面だった。
澪さんの目元に、ゴーグルがかかっていた。
シャボン玉みたいなレンズが、研究所の明かりを受けて、淡く光っていた。レンズの中で、小さな光が、きらきらと揺れていた。
澪さんは、笑っていた。
ユメミを見て、笑っていた。
商店街では、リボンをぎゅっと握って、ずっとこっちをにらんでいた子だった。公園では、ユメミのほうを一度も見なかった子だった。
アイリスさんが、ユメミに笑いかけたのは、はじめてだった。
頬が、商店街で見たときより、少しだけ細くなっていた。
それから、ユメミは、澪さんの襟元を見た。
ブラウスの襟から、オレンジ色の紐が、少しだけのぞいていた。つないだ手のすぐ上の、首の左側だった。
その紐の先に何がぶら下がっているのかを、ユメミは知っていた。
水色の袋。ひまりちゃんが、指先に絆創膏を巻いて縫ったもの。
その中の、硬くて平たい板。
首にかけていても、かけ忘れても、同じ部屋にさえあれば、届かないように。ユメミが何度も作り直して、届かない範囲を広げた。半径、二メートル。
その真ん中で、ゴーグルが光っていた。
あのゴーグルは、澪さんを、どこへも連れていかない。
今夜眠っても。明日の夜眠っても。レンズの中の光は、ずっと、きらきら揺れているだけだ。
ユメミの作った板が、それを遮っていた。
ひまりちゃんは、何も言わなかった。いつもの、朝の光みたいな顔で笑っていた。
「あのね、ユメちゃん! 今日ね、澪ちゃんのお誕生日なの!」
「お、お誕生日、ですか」
ユメミの口が、勝手に動いた。
「……おめでとう、ございます」
澪さんの口が、ゆっくりと動いた。
「……ありがとうございます」
やわらかい声だった。
その子がユメミに向けて何かを言うのを聞いたのも、これがはじめてだった。
ひまりちゃんは、澪さんの手を離した。
お茶のテーブルへ駆けていって、ティーカップの隣のバイザーを、両手でかけ直す。
「ただいま!」
バイザーに言ったのだと、ユメミには分かった。
澪さんは、扉を入ったところに立ったままだった。
床の配線にも、作業台にも、窓の向こうの赤い灯りにも、目を向けなかった。レンズの向こうで、ひまりちゃんの背中だけを見ていた。
ひまりちゃんが戻ってきて、また右手で、澪さんの左手を取った。
「澪ちゃん、ここ座って!」
手を引かれて、澪さんはソファに座った。
ユメミの、膝枕の場所だった。
ひまりちゃんは、床に落ちていたタオルケットを拾い上げた。ぱんぱんと払って、澪さんの膝にふわりとかける。
「夜は、ちょっと冷えるもんね!」
澪さんは、膝の上のタオルケットに、そっと手をのせた。
「……あったかい」
「でしょ! 明日はね、パフェだからね! 苺のやつ!」
「……うん。苺のやつ」
澪さんは、ひまりちゃんを見上げて、笑った。
ユメミは、自分の白衣の袖を握っていた。
いつのまにか、指先まで、袖の中に隠れていた。
ひまりちゃんが、くるりと振り向いた。
ユメミの前まで来て、両手をぱちんと合わせる。
「ユメちゃん、お願い! 澪ちゃんにも、ボクみたいなバイザー作ってあげて!」
ユメミの胸の奥が、ひやりとした。
「そしたら澪ちゃんも、ずっとここで一緒だもん!」
ずっと、ここで、一緒。
ユメミは、思い浮かべてしまった。
夜明け前の空の色をしたバイザーが、もう一つ。お茶のテーブルの上、ティーカップの隣に、二つ並んでいる。
ひまりちゃんと澪さんが、二人でそれを外して、いってきます、と言う。二人で坂を駆け下りていく。二人で帰ってきて、二人で、ただいま、と言う。
ソファで眠るのは、どちらの膝だろう。
そのとき、ユメミは、どこに立っているのだろう。
ゴーグルで、いい。
ユメミは、そう思った。
ゴーグルが効いていないことは、知っていた。
澪さんが眠ったら、そっと、あの紐を外せばいい。それだけで、ゴーグルは、ちゃんと働く。
そうしたら、澪さんは夢の中へ行く。明日の朝からは、町のほかの人たちと同じように、自分の日課をくり返す。坂を下りて、自分のおうちへ帰っていく。
ひまりちゃんの隣には、立たない。
本人に聞かないで決めるのは、学会の人たちが、いちばん怒ったところだった。
ユメミは、それを考えないことにした。考えないのは、ユメミの得意なことだった。
「澪さんには、ゴーグルで、じゅうぶんです!」
明るい声が出た。自分でも、びっくりするくらい明るい声だった。
「ゴーグルだって、とーっても幸せな夢が見られるんですから! ユメミが、三日三晩かけて名前を考えた、自信作なんですから!」
ひまりちゃんは、すぐには何も言わなかった。
バイザーの奥から、じっと、ユメミを見ていた。
いつもなら、と、ユメミは思った。
いつもなら、ひまりちゃんにお願いされたら、ユメミは白衣の袖をまくる。余った袖が、ずり落ちてくる。もう一度まくる。三回目で肘のところで止めて、作業台へ向かう。任せてください、と言いながら。
今日は、袖をまくっていなかった。
袖の中で、ぎゅっと、指を握りしめていた。
作業台は、ユメミの後ろにあった。一度も、振り返らなかった。
ひまりちゃんが、一歩近づいた。
ユメミとひまりちゃんは、背の高さが、ほとんど同じだった。ひまりちゃんは、しゃがまなかった。しゃがむ必要が、なかった。
目線は、はじめから同じ高さだった。
「ユメちゃん、作りたくないんだね」
怒っている声ではなかった。ゼリーの空き袋を見つけたときの、だめ、とも違った。
ただ、知っている声だった。
「そ、そんなこと、ないです!」
ユメミは、ぶんぶんと首を振った。
「ユメミは、ただ、ゴーグルのほうが早いと思っただけです! バイザーは、三晩もかかりますし! ユメミ、ここのところ、ぜーんぜん寝てないですし!」
本当のことも、混ざっていた。本当のことだけでは、なかった。
ひまりちゃんの両手が、伸びてきた。
袖の中に隠れていたユメミの指を、袖ごと、そっと包んだ。
体温の高い手だった。
ユメミは、目をそらせなくなった。
その肩の向こうで、澪さんは、膝のタオルケットに手をのせたまま、ひまりちゃんの背中を見ていた。
ひまりちゃんは、笑っていなかった。
困っている人の前で、しゃがんで目線を合わせるときの顔だった。小春ちゃんの部屋で、陽太くんの前で、ユメミが何度も見てきた顔だった。
その顔が、今、ユメミに向いていた。
「ユメちゃんが本当に欲しいのは、ユメちゃんをユメちゃんとして見てくれる家族でしょ」