ユメミは、何も言えなかった。
家族。
その言葉が、胸の真ん中に、すとんと落ちてきた。
天才だね、と言われた。すごい発明だね、とも言われた。次は何を作るの。成果はいつ出るの。みんな、ユメミの作ったものの話をした。ユメミの話をした人は、いなかった。
学会を追い出された日の帰り道は、誰もいない道だった。
ユメミは、そこで一人で、少しだけ泣いた。泣かなくていい世界があったらいいのに、と思った。
誰も、それを見ていなかった。
それから、ずっと一人だった。研究所の床に配線と論文が積もって、栄養ゼリーの空き袋が積もって、それを片付けろと言う人も、いなかった。
ひまりちゃんが来た。
だめ、と言って、袖をまくって、ゼリーの袋を捨ててくれた。配線の底から炊飯器を掘り出して、塩だけのおにぎりを作ってくれた。
陽向家の食卓では、お皿が、ユメミの前にもちゃんとあった。
ユメちゃん、と呼んでくれた。すごい、と言ってくれた。ユメミの作ったものではなくて、ユメミに。
眠ってしまったユメミの肩に、タオルケットをかけてくれた。
おうち、と呼んでくれた。
目の奥が、熱くなった。
ユメミは、ひまりちゃんに包まれていた袖を、そっと引き抜いた。その袖で、目元を押さえた。
こぼれは、しなかった。
ユメミが作ろうとしたのは、泣かなくていい世界だった。
欲しかったのは、そこに一緒にいてくれる誰かだった。
ずっと、そうだった。
ユメミは、袖を下ろした。
ひまりちゃんは、まだ、そこにいた。同じ高さの目で、ユメミを待っていた。
膝の上で、言いかけて、言い直した夜があった。
今夜は、言い直さなかった。
「……ひまちゃん」
ひまりちゃんは、笑った。
朝の光みたいな顔だった。
「なあに、ユメちゃん」
ひまちゃん、と、ユメミはもう一度、心の中で呼んだ。
それだけで、胸の奥が、ぽかぽかした。
「澪さんも、家族です」
ユメミは、ソファのほうを見た。
澪さんは、膝のタオルケットに手をのせたまま、ひまちゃんの背中を見ていた。ゴーグルのレンズの中で、光がきらきらと揺れていた。
「……でも、ユメミの一番は、ひまちゃんなので」
ユメミは、白衣の裾をぎゅっと握った。
「澪さんは、ペットです」
言ってから、ユメミは少しだけ早口になった。
「ペットだって、家族なんですよ。小春ちゃんのコタロウくんも、家族でした。小春ちゃん、あんなに泣いてたじゃないですか。家族だったからです」
ひまちゃんは、ぱちぱちとまばたきをした。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「いい考え!」
くるっと一回転して、ソファのほうを振り返る。
「澪ちゃん、ペットだって! ボクたちの家族!」
澪さんは、ひまちゃんを見上げて、笑った。
ひまちゃんの声のするほうへ、いつも、顔が向いていた。
ユメミは、白衣の袖をまくった。
余った袖が、ずり落ちてくる。もう一度まくる。また落ちる。三回目で、ようやく肘のところで止まった。
作業台に向かう。拡大鏡を下ろす。
「ユメちゃん、ボク、助手する!」
ひまちゃんが、ユメミの左隣に立った。
作業台の下の箱を、ユメミは足で引っぱり出した。中には、ありあわせの部品が、ごちゃごちゃに入っていた。ベルトのちぎれたゴーグルのフレーム。墜ちたドローンから外したままの小さな基板。何に使うつもりだったのか、もう覚えていないレンズ。
ユメミは、その中から、使えそうなものをつまみ上げていった。
「ねじ、ください」
「はい!」
「もう一本」
「はい!」
ひまちゃんの手のひらから、ねじが一本ずつ、ユメミの指に移ってくる。
「ひまちゃん。このバイザーは、お守りがあっても、ちゃんと効きます」
ユメミは、手を止めずに言った。
「ゴーグルと塔は、電波で、夢の世界へ送るんです。お守りの中の板は、その電波を通さないの。でも、バイザーは、夢へは送りません。目元から、じかに、考え方の重さを入れ替えるだけなんです。ひまちゃんのと、同じ仕組みです。だから、お守りは、あのままで大丈夫」
「そうなんだ!」
ひまちゃんは、ほっとしたように笑った。
「よかったぁ。あのお守りね、澪ちゃん、ずっとつけててくれたの!」
ユメミは、基板を指でつまんで、フレームの内側にはめこんだ。
同じ仕組みだった。
意識を残したまま、重さだけを入れ替える。ひまちゃんのバイザーと、同じだった。
入れ替えるところだけが、違った。
この家の真ん中にいるのは、ひまちゃんだった。
ユメミにとって、そうだった。だから、澪さんにとっても、そうなるようにした。
ひまちゃんは、親友ではなくて、飼い主。ユメミは、家族。
ユメミは、そう書きこんだ。
ねじを、締めていく。
くるり、くるり。
何も、唱えなかった。
レンズは、夜明け前の空の色ではなかった。何の色とも言えない、少しだけ曇った色だった。名前は、つけなかった。
最後のひと回しでも、レンズの奥は、光らなかった。
壁の時計を見ると、二十分しかたっていなかった。
ひまちゃんのバイザーは、三晩かかった。三晩とも、一睡もしなかった。
「できました」
ユメミは、それを作業台の上に置いた。撫では、しなかった。
「ユメちゃん、すごい! もうできたの!」
「はい! ユメミ、天才ですから!」
ユメミは、むふーっと胸を張った。それから、バイザーを、ひまちゃんの手にのせた。
「ひまちゃんが、かけてあげてください」
ひまちゃんは、ソファの前に立った。
少しだけ身をかがめて、澪さんの顔をのぞきこむ。ユメミは、ひまちゃんの右肩の後ろから、それを見ていた。
ひまちゃんは、両手で、澪さんのゴーグルを外した。
耳の後ろのベルトを、そっとゆるめる。髪が、少しだけひっかかった。ひまちゃんは、それをていねいにほどいた。
ゴーグルの下から、澪さんの目が出てきた。
目の下に、うっすらと影があった。少し前まで、ひまちゃんの目の下にあったのと、同じ影だった。
澪さんは、ひまちゃんを見上げて、笑っていた。
ひまちゃんは、外したゴーグルをユメミに渡した。ユメミはそれを、作業台の端に置いた。充電器には、つながなかった。
「澪ちゃん、これからも、ずっと一緒だよ」
澪さんは、ひまちゃんを見上げたまま、目を細めた。
「うん。ずっと一緒だね、ひまり」
ひまちゃんの手が、澪さんの目元に、バイザーを添えた。
眼鏡をかけてあげるみたいに、そっと。耳の後ろでベルトの長さを確かめて、少しだけ締める。
襟元の、オレンジ色の紐には、誰も触らなかった。
曇った色のレンズの奥で、光が、ぽっと灯った。
ほんの一瞬だった。
ひまちゃんのときは、ひと晩かかった。夜明けまで、ユメミはドームの外で待った。
澪さんのは、一瞬だった。
光が消えると、澪さんは、膝のタオルケットをそっと横に置いた。
それから、ソファを下りた。
ひまちゃんの足元の床に、ぺたんと座った。
ひまちゃんの靴のすぐそばだった。そこから、ひまちゃんを見上げた。
誰も、そうして、とは言わなかった。
ひまちゃんは、澪さんを見下ろして、えへへ、と笑った。
「澪ちゃん、そこがいいんだ!」
ひまちゃんはソファの上のクッションを一つ取って、澪さんのそばの床に置いた。
「じゃあ、ここ、澪ちゃんの場所!」
澪さんは、クッションの上に座り直した。それから、また、ひまちゃんを見上げた。
それから、首をめぐらせて、ユメミを見た。
笑っていた。
扉のところで見たのと、同じ笑い方だった。
ユメミは、ひまちゃんの隣に、しゃがみこんだ。
澪さんと、目線が同じ高さになった。ひまちゃんがいつもそうするのを、ユメミはずっと見てきた。自分でするのは、はじめてだった。
ひまちゃんの隣に立とうとする人は、もう、この家にはいなかった。
澪さんは、ひまちゃんの足元を、自分で選んだ。
それなら、安心だった。
それなら、一緒にいられる。
「澪さん」
ユメミは、そっと手を伸ばした。
澪さんの髪を、撫でた。撃ち落とされたドローンちゃんたちを、一機ずつ撫でたときと、同じ手つきだった。
「これから、一緒に、ひまちゃんと過ごしましょうね」
澪さんは、ユメミの手の下で、目を細めた。
ひまちゃんが、ユメミと澪さんの両方を、一度に見下ろして、くるっと回った。
「澪ちゃんも、ユメちゃんも、ボクも! 家族!」
窓の向こうで、電波塔の赤い灯りが、点いては消えていた。
その夜、ひまちゃんはソファで、ユメミの膝に頭をのせて眠った。
バイザーは、かけたままだった。耳もとのイヤリングが、白衣の膝に小さく当たっていた。
ソファの足元の床で、澪さんは、クッションの上に丸くなって眠っていた。ひまちゃんの足の、すぐそばだった。肩に、ひまちゃんがかけたタオルケットがかかっていた。
ユメミは、膝の上の寝息を聞きながら、ノートを片手で開いた。
『同志の観測 二十四日目』
少し考えて、書きはじめた。
『同志が、澪さんを連れて帰ってきた』
『澪さんのゴーグル、効いていなかった。お守り、半径二メートル』
データは、嘘をつかない。だから、ここにだけは、書いておいた。
『澪さんのバイザー、二十分。お守りは、そのまま』
『澪さん、ひまちゃんの足元を選んだ』
それから、ペンが止まった。
『ひまちゃん、と呼んだ』
『なあに、と言ってくれた』
少し考えて、もう一行、書き足した。
『家族が、できた』
ユメミは、ノートを閉じた。
二十分たって、足がしびれはじめた。
一時間たって、まぶたが重くなった。
ユメミは、手の甲をつねらなかった。
扉のほうを、もう、見なくてよかった。
「おはよっ!」
その声で、ユメミは目を覚ました。
窓の外が、白く明るかった。いつのまにか、ソファの背もたれにもたれて眠っていた。膝は、軽くなっていた。
ひまちゃんは、ソファの前に立っていた。寝癖が、右耳の上で跳ねていた。朝の光みたいな顔だった。
「ユメちゃん、おはよっ! 澪ちゃんも、おはよっ!」
床のクッションの上で、澪さんが顔を上げた。
ひまちゃんを見上げて、笑った。
「今日はね、パフェの日!」
ひまちゃんは、くるっと一回転した。
「澪ちゃんと約束したの! 苺のやつ! ユメちゃんも一緒に行こ!」
駅前の喫茶店は、開いていた。
いつもの時刻に、いつものように開ける。それが、このお店の日課だった。
窓際の席に、ユメミとひまちゃんは向かい合って座った。ひまちゃんの椅子の横、通路側の床に、澪さんが座った。
店員さんは、カウンターの奥で、同じ場所を同じ手つきで拭いていた。ユメミたちのほうは、見なかった。
「すみませーん!」
ひまちゃんが手を挙げても、店員さんは顔を上げなかった。
「お客さまにパフェを出すのは、ここの日課に入ってないみたいですね」
ユメミは、白衣のポケットに手を入れた。
「ちょっとだけ、足してもらいましょう!」
ポケットから、まどろみドローンちゃんが一機、ぶうんと飛び出した。カウンターの上まで飛んでいって、店員さんの目元に、淡い光を落とす。
ユメミは、ポケットの中の小さなつまみを、指先でくるりと回した。
店員さんの手が、止まった。
ぼんやりした目のまま、店員さんは冷蔵庫を開けた。グラスを三つ並べる。苺を、一つずつ、同じ間隔で入れていく。クリームを絞る手つきは、少しも迷わなかった。
ひまちゃんの目が、まんまるになった。
「ユメちゃん、すごい!」
「むふーっ。ユメミ、天才ですから!」
店員さんが、銀色のお盆を持ってきた。苺のパフェが、三つ。テーブルに二つを置いて、三つめを持ったまま、そこで止まった。
「あっ、それ、澪ちゃんの!」
ひまちゃんは、三つめのグラスを受け取った。
それから、椅子の横にしゃがんで、床の上に、そっと置いた。
「はい、澪ちゃん! 苺のやつ!」
澪さんは、グラスを見て、それから、ひまちゃんを見上げた。
店員さんは、空のお盆を持って、カウンターの奥へ戻っていった。また、同じ場所を拭きはじめた。
窓の外を、大人たちが同じ速さで歩いていった。誰も、しゃべっていなかった。店の中で聞こえるのは、店員さんの布巾の音と、時計の音だけだった。
「いただきまーす!」
ひまちゃんの声が、その中で、ぱっと弾んだ。
「おいしい! ユメちゃん、これ、苺がいちばん多いパフェなんだよ!」
「本当です! 苺が、ぎっしりです!」
ユメミは、長いスプーンで、てっぺんの苺をすくった。
誰かと喫茶店でパフェを食べるのは、はじめてだった。
「ユメちゃん、ほっぺにクリームついてる!」
「えっ、どこですか!」
「そこそこ! あはは、反対!」
ひまちゃんが笑う。ユメミも笑う。二人の声が、静かな店の中に、ころころと転がっていく。
どのテーブルにも、誰もいなかった。カウンターの奥の店員さんも、窓の外の人たちも、こちらを見なかった。
ユメミとひまちゃんの声だけが、そこに浮いていた。
「ひまちゃん、苺、一個あげます!」
「やったー! じゃあボクも、ユメちゃんに一個!」
テーブルの下で、澪さんは、床のグラスの前に座っていた。グラスに挿さった長いスプーンには、手を伸ばさなかった。グラスのふちに顔を寄せて、てっぺんの苺を、口でそっとくわえた。鼻の先に、クリームが少しだけついた。
それから、また、ひまちゃんを見上げた。
二人の話には、入ってこなかった。
ひまちゃんは、ときどき、テーブルの下をのぞきこんだ。
「澪ちゃん、おいしいね!」
澪さんは、ひまちゃんを見上げて、笑った。
ひまちゃんは、満足そうに頷いて、テーブルの上に戻ってきた。
「ユメちゃん、次は、ユメちゃんの好きなお菓子のお店も行こうね!」
「行きます! ユメミ、いちごチョコが売ってるお店、知ってます!」
帰りぎわ、ひまちゃんはがま口の財布を開けて、レジの横の小さなトレーに、硬貨を三人分、きちんと並べて置いた。
店員さんは、それを見なかった。
研究所の、作業台の脇の扉を開けると、小さな台所があった。
観測所の職員さんたちが使っていたらしい、細長い給湯室だった。流しと、二口のガスコンロと、小さな冷蔵庫。ユメミは、お客さま用の紅茶のお湯を沸かすときにしか、ここを使ったことがなかった。
ひまちゃんが来てから、ここは、ちゃんとした台所になった。配線の底から掘り出した炊飯器も、今はここの棚の上にある。
コンロの前に、ひまちゃんが立った。その左隣に、ユメミが立った。
フライパンの中で、油がぱちぱちと鳴っていた。
鶏肉は、喫茶店の帰りに、ひまちゃんが商店街で買ってきたものだった。肉屋のおばさんは、ひまちゃんの差し出した硬貨をトレーで受け取って、日課のとおりに、包んでくれたらしい。
「今日はね、ユメちゃんが揚げる番!」
「任せてください! 揚げ物の原理は、完璧に理解しています!」
ユメミは菜箸を構えて、粉をまぶした鶏肉を、そっと油に落とした。
じゅわっ、と大きな音がした。
「わっ!」
「大丈夫大丈夫! そのまま、そのまま!」
給湯室の入り口の床に、ソファのクッションが置いてあった。
澪さんは、その上に座って、二人を見上げていた。
油から離れた、二人の足元の少し後ろ。ひまちゃんがそこにクッションを置くと、澪さんは自分で、その上に座った。
ユメミは、ふと、公園のことを思い出した。
公園の入り口で、制服のこの子が、ユメミたちの前に立った。ひまり。あの子たちは、だめ。商店街でも、叫んでいた。ひまり、だめ。
ゆうべ、ソファの前でも、一度だけ聞いた。ずっと一緒だね、ひまり。
あの声は、もう、この家のどこからも聞こえなかった。
ひまり、とその名前を呼ぶ人は、もう、いなかった。
ユメミは、フライパンに目を戻した。
衣が、きつね色になりはじめていた。
ユメミは、一つを菜箸でつまみ上げた。
「ひまちゃん、味見してください!」
ひまちゃんは、ふうふうと吹いてから、ぱくりとかじった。
それから、目をまるくした。
「ユメちゃん、それまだ生だよ!」
「えええっ!? 原理は完璧だったのに!」
「中のほうが、ぜんぜん! あはは!」
ひまちゃんは、お腹を抱えて笑った。ユメミは頬をふくらませて、それから、つられて笑った。
「もう一回! 今度こそ、データどおりにやります!」
「揚げ物は、データじゃなくて、音を聞くの! ほら、ぱちぱちが小さくなったら!」
二人で、フライパンをのぞきこむ。油の音が、少しずつ、高く軽くなっていく。
ひまちゃんが、ふと、足元を振り返った。
「澪ちゃん」
澪さんが、顔を上げた。
曇った色のレンズの向こうで、ひまちゃんを見上げていた。襟元から、オレンジ色の紐が、少しだけのぞいていた。
ひまちゃんは、菜箸を持ったまま、澪さんを見下ろして、にっこり笑った。
朝の光みたいな顔だった。
「澪ちゃんも、もう泣いてないね」
澪さんは、ひまちゃんを見上げて、笑った。
「わんっ!」
ひまちゃんが笑った。
ユメミも笑った。心の底から、よかったと思った。