梅雨入りを目前にしたこの町では、雨の降らない放課後があると、少しだけ得をした気分になる。
駅前の喫茶店の窓際の席で、
苺が、山のように乗っていた。
赤い実が縁からこぼれそうなくらいに並んで、その下で生クリームと苺のアイスとピンク色のソースが層になっている。てっぺんには、ミントの葉が一枚。
「どう? どう? これ、このお店でいちばん苺が多いやつ!」
向かいの席で、
澪の目は、まずその手に行った。テーブルの端で、がま口の財布をぎゅっと握っている手。さっきお店に入る前に、小銭を一枚ずつ手のひらに並べて数えていた手だ。
「……べ、別に、こんなに大きいのじゃなくても、良かったのに……」
「でも澪ちゃん、さっきからずっと口元隠してるよ?」
言われて、澪は慌てて手を下ろした。
「隠してないよ」
「隠してた!」
ひまりはにっと笑って、自分のオレンジジュースをストローで吸った。注文したのは、それだけだった。
澪は長いスプーンを手に取って、少しだけ考える。
この子はたぶん、あと十秒もしないうちにパフェをじっと見つめはじめる。それから、こう言うのだ。
「ボクは見てるだけでいいの!」
……ほら。
澪はため息をついて、グラスをテーブルの真ん中に押し出した。
「一口だけね」
「いいの!?」
「おごってもらったんだから、一口くらいいいよ」
「澪ちゃん神!」
それ、昇降口でも聞いた。
ひまりが店員さんに持ってきてもらったスプーンでパフェを大きくすくうのを見ながら、澪も一口食べた。冷たくて、甘酸っぱくて、思わずまた口元に手がいきそうになる。
「あ、そうだ澪ちゃん! 最後の一本、持ち主見つかったよ!」
「傘?」
「うん! 本屋さんのおじいちゃんの。籠に入れたまま、ずーっと忘れてたんだって」
カサオバケの騒ぎから、もう三日が経っている。あの夜「最後の一本はあした」と送ってきたひまりは、本当に次の日も、その次の日も、商店街を聞いて回っていたらしい。
「おじいちゃんね、『また忘れちゃうかもしれんなあ』って笑ってた」
「忘れちゃっても、また探してあげるんでしょ」
「えへへ、バレた?」
バレるも何も、と澪は思う。ひまりのことなら、だいたい分かる。
喫茶店を出て、商店街への近道になる公園を通りかかったとき、ひまりがぴたりと足を止めた。
「澪ちゃん、見て」
砂場の横の広場で、子供たちが五、六人、輪になって言い合っていた。
「わたしがリリィ!」
「ずるい、きのうもリリィだったじゃん!」
「ぼくだってリリィやりたい!」
澪とひまりは、そっと顔を見合わせた。
輪の真ん中で両手を腰に当てているのは、二つ結びの髪を揺らした女の子だった。小学一年生くらいだろうか。
「だって、わたしがいちばんリリィのまね、じょうずだもん。見てて!」
女の子は両腕をまっすぐ前に突き出して、指をぱっと開いた。
「ひかりのたて!」
ひまわりの花弁みたいに、精いっぱい指を広げている。
隣で、ひまりの肩がぷるぷると震えはじめた。
澪はひまりの袖を引いた。引きながら、自分の口元もゆるんでしまう。指の開き方まで、ひまりにそっくりだったのだ。
「じゃあアイリスは?」
「アイリスはわたし! リボン持ってるもん」
おかっぱの女の子が、縄跳びの縄をぐるぐる振り回す。
「アイリスはねえ、いっつもリリィにおこってるの。『もう、リリィ!』って」
今度は澪の肩が跳ねた。
ひまりが澪の顔を見て噴き出しかけ、慌てて両手で口を押さえる。
「……似てる」
「似てない」
「似てるよ、澪ちゃ……アイリスそっくり」
「似てないってば」
小声で言い合っていると、輪の端から、聞き覚えのある声がした。
「ぼくもリリィやる!」
水色に黄色い星の模様の傘を、両手でぎゅっと抱えた男の子だった。
あの日、八百屋の前で泣いていた子だ。
「えー、傘持ってる子はカサオバケでしょ」
「やだ! ぼく、ほんもののリリィに傘とりかえしてもらったんだもん!」
男の子は胸を張った。
「ゆびきりもしたんだよ。かなしくなったら、よんでねって」
子供たちが「いいなー!」「ほんと!?」と男の子を取り囲む。
澪はひまりの手を見た。体の横に下ろした右手の小指が、ほんの少しだけ曲がっていた。
結局、子供たちはじゃんけんで役を決めた。リリィは二つ結びの女の子、アイリスは縄跳びの女の子、男の子は泣いている子の役。カサオバケは誰もやりたがらなかったので、「いないけど、いることにする」になった。
男の子がしゃがみこんで、えーんえーんと泣き真似をする。そこへ二つ結びの女の子が駆け寄って、同じようにしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
澪は息を止めた。
女の子は男の子と目線を合わせて、少しだけ考えるみたいに首をかしげる。
「キミはどうしたいのかな?」
「かさ、かえしてほしい!」
「よーし、まかせて!」
隣を見ると、ひまりはもう笑いをこらえていなかった。頬を赤くして頭をかき、「えへへ」と小さく笑っている。
照れているときの顔だ。
澪は何も言わずに、その横顔を見ていた。胸の奥が少しくすぐったいのは、たぶん、パフェのせいではなかった。
遊びがひと段落したところで、男の子がこちらに気づいた。傘を抱えたまま、とことこ走ってくる。
「おねえちゃんたち、リリィとアイリスすき?」
ひまりは一瞬固まって、それからしゃがみこんだ。
「……うん。だいすき!」
「ぼくね、リリィの絵かいたの! しょうてんがいに、はってあるんだよ」
「そうなんだ! 見に行ってもいい?」
「いいよ!」
男の子はうれしそうに頷いて、輪のほうへ駆け戻っていった。傘の黄色い星が、夕方の光の中でちかちかと揺れていた。
商店街の事務所の前、忘れ傘の籠の横には、掲示板がある。
そこにいつからか、大きなポスターが貼られるようになった。『ありがとう! シャインリリィ&シャインアイリス』。町のヒロインを応援しています、と商店街の名前で添えてある。
その横に、画用紙が何枚も並んでいた。
クレヨンで描かれた、オレンジ色の女の子と、青い女の子。
オレンジの子はたいてい拳を振り上げていて、背中のリボンが体よりも大きい。青い子は長いステッキを持っていて、そこから黄色や水色の線が、ぐるぐると伸びている。
「澪ちゃん、これ……」
ひまりが指さしたのは、端の一枚だった。
画面いっぱいに、オレンジの女の子が描かれている。片手に水色の傘。傘には黄色い星が、はみ出すくらいたくさん。その後ろで、青い女の子が長いリボンを伸ばして、灰色のもじゃもじゃした何かを縛っていた。
下のほうに、鉛筆で大きく書いてある。
『リリィ アイリス ありがとう』
ひまりは何も言わなかった。
右手を伸ばして、画用紙の隅の、剥がれかけたテープをそっと押さえ直した。それから、ぱっとこちらを振り向いた。
「アイリスもいる!」
「……うん。いるね」
「リボン、ちゃんと描いてくれてる! アイリス、愛されてるじゃん!」
「ひ、ひまりだって、さっきからずっとにやにやしてるでしょ」
早口になっているのが、自分でも分かった。
澪は絵から目をそらして、ひまりを見た。ひまりは頭の後ろで手を組んで、子供たちの絵を一枚ずつ順番に眺めている。
その横顔は、絵の中のオレンジの女の子と同じ顔で笑っていた。
商店街を抜けると、家までは住宅街の細い道が続く。
角を曲がったところで、ひまりが「あっ」と声を上げた。
「小春ちゃーん!」
道の先に、小さな女の子と、そのお母さんがいた。女の子の手には赤いリード。その先で、茶色い柴犬が、ゆっくり、ゆっくりと歩いている。
「ひまりちゃん! 澪ちゃん!」
「こんにちは。二人とも、学校の帰り?」
小春ちゃんのお母さんが、笑って会釈する。澪とひまりが小さいころから、この道で何度も顔を合わせてきた人だ。
「こんにちは」
「コタロウもこんにちは!」
ひまりは駆け寄って、すぐにしゃがみこんだ。
コタロウは足を止めて、ひまりを見上げた。鼻の周りの毛が、前に見たときより白くなっている気がした。
ひまりが右手を差し出すと、コタロウはそのにおいをくんくんと嗅いで、ゆっくりと尻尾を振った。
「よしよし、元気だった?」
ひまりの手が、コタロウの頭から背中へ、毛並みに沿って何度も往復する。急がない手つきだった。
「コタロウね」
小春ちゃんが、リードを握り直しながら言った。
「最近、あんまり走らないんだ」
声が、少しだけ小さかった。
「前はね、公園まで行くと、わたしより先に走っていっちゃったの。でも今は、すぐ座っちゃう」
その言葉が分かっているみたいに、コタロウはひまりの手の下で、ぺたりとお尻をついた。
澪は小春ちゃんのお母さんを見た。お母さんは何も言わずに、ほんの少しだけ目を細めていた。
「もう、おじいちゃんだもんね」
お母さんが、小春ちゃんの頭を撫でる。小春ちゃんは「うん」と頷いたけれど、リードを握る手は、ぎゅっと固いままだった。
ひまりは、コタロウを撫でる手を止めなかった。
「そっか。コタロウは今、ゆっくり歩きたい気分なんだね」
小春ちゃんが、ひまりを見る。
「だったら、小春ちゃんがコタロウに合わせて、ゆっくり歩いてあげたらいいんだよ。そしたら、いっぱいお散歩できるじゃん!」
「……ゆっくりでも、いいの?」
「いいのいいの! ボクね、一人だとつい走っちゃうんだけど、澪ちゃんと帰るときはゆっくりになるの。そしたら、水たまりに映った空とか、アーケードの上の虹とか、いっぱい見つかるんだよ」
「虹っぽいの、でしょ」
澪が言うと、ひまりは「虹っぽいのも虹だもん!」と口をとがらせた。
確かに、一人のときのひまりは、いつもどこかへ走っていく。澪と帰る道だけが、寄り道だらけののんびりした道になる理由を、澪は今まで考えたこともなかった。
小春ちゃんが、足元のコタロウを見下ろした。
「……コタロウとゆっくり歩いたら、なにか見つかるかな」
「見つかるよ! コタロウはきっと、もういっぱい知ってるもん」
小春ちゃんは少し考えて、くすっと笑った。
コタロウが、ひまりの手のひらをぺろりと舐めた。
「わっ、くすぐったい!」
ひまりの笑い声につられるように、コタロウはまた、ゆっくりと立ち上がった。
「またね、コタロウ! 小春ちゃんも!」
手を振るひまりに見送られて、親子と一匹は角の向こうへ歩いていった。小春ちゃんの歩幅は、さっきより少しだけ小さくなっていた。
その背中が見えなくなるまで、ひまりは道の真ん中に立っていた。
それから、くるっとこちらを振り向く。
澪には、次の言葉が分かっていた。
「ねえ澪ちゃん。ちょっとだけ、寄り道の続きしない?」
ほら、やっぱり。
河川敷のほうから、湿った風が吹いてきた。