泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第2話 澪ちゃんが決めたなら(前編)

梅雨入りを目前にしたこの町では、雨の降らない放課後があると、少しだけ得をした気分になる。

 

駅前の喫茶店の窓際の席で、蒼井澪(あおいみお)は、目の前のグラスから目を離せずにいた。

 

苺が、山のように乗っていた。

 

赤い実が縁からこぼれそうなくらいに並んで、その下で生クリームと苺のアイスとピンク色のソースが層になっている。てっぺんには、ミントの葉が一枚。

 

「どう? どう? これ、このお店でいちばん苺が多いやつ!」

 

向かいの席で、陽向(ひなた)ひまりが身を乗り出している。

 

澪の目は、まずその手に行った。テーブルの端で、がま口の財布をぎゅっと握っている手。さっきお店に入る前に、小銭を一枚ずつ手のひらに並べて数えていた手だ。

 

「……べ、別に、こんなに大きいのじゃなくても、良かったのに……」

 

「でも澪ちゃん、さっきからずっと口元隠してるよ?」

 

言われて、澪は慌てて手を下ろした。

 

「隠してないよ」

 

「隠してた!」

 

ひまりはにっと笑って、自分のオレンジジュースをストローで吸った。注文したのは、それだけだった。

 

澪は長いスプーンを手に取って、少しだけ考える。

 

この子はたぶん、あと十秒もしないうちにパフェをじっと見つめはじめる。それから、こう言うのだ。

 

「ボクは見てるだけでいいの!」

 

……ほら。

 

澪はため息をついて、グラスをテーブルの真ん中に押し出した。

 

「一口だけね」

 

「いいの!?」

 

「おごってもらったんだから、一口くらいいいよ」

 

「澪ちゃん神!」

 

それ、昇降口でも聞いた。

 

ひまりが店員さんに持ってきてもらったスプーンでパフェを大きくすくうのを見ながら、澪も一口食べた。冷たくて、甘酸っぱくて、思わずまた口元に手がいきそうになる。

 

「あ、そうだ澪ちゃん! 最後の一本、持ち主見つかったよ!」

 

「傘?」

 

「うん! 本屋さんのおじいちゃんの。籠に入れたまま、ずーっと忘れてたんだって」

 

カサオバケの騒ぎから、もう三日が経っている。あの夜「最後の一本はあした」と送ってきたひまりは、本当に次の日も、その次の日も、商店街を聞いて回っていたらしい。

 

「おじいちゃんね、『また忘れちゃうかもしれんなあ』って笑ってた」

 

「忘れちゃっても、また探してあげるんでしょ」

 

「えへへ、バレた?」

 

バレるも何も、と澪は思う。ひまりのことなら、だいたい分かる。

 

喫茶店を出て、商店街への近道になる公園を通りかかったとき、ひまりがぴたりと足を止めた。

 

「澪ちゃん、見て」

 

砂場の横の広場で、子供たちが五、六人、輪になって言い合っていた。

 

「わたしがリリィ!」

 

「ずるい、きのうもリリィだったじゃん!」

 

「ぼくだってリリィやりたい!」

 

澪とひまりは、そっと顔を見合わせた。

 

輪の真ん中で両手を腰に当てているのは、二つ結びの髪を揺らした女の子だった。小学一年生くらいだろうか。

 

「だって、わたしがいちばんリリィのまね、じょうずだもん。見てて!」

 

女の子は両腕をまっすぐ前に突き出して、指をぱっと開いた。

 

「ひかりのたて!」

 

ひまわりの花弁みたいに、精いっぱい指を広げている。

 

隣で、ひまりの肩がぷるぷると震えはじめた。

 

澪はひまりの袖を引いた。引きながら、自分の口元もゆるんでしまう。指の開き方まで、ひまりにそっくりだったのだ。

 

「じゃあアイリスは?」

 

「アイリスはわたし! リボン持ってるもん」

 

おかっぱの女の子が、縄跳びの縄をぐるぐる振り回す。

 

「アイリスはねえ、いっつもリリィにおこってるの。『もう、リリィ!』って」

 

今度は澪の肩が跳ねた。

 

ひまりが澪の顔を見て噴き出しかけ、慌てて両手で口を押さえる。

 

「……似てる」

 

「似てない」

 

「似てるよ、澪ちゃ……アイリスそっくり」

 

「似てないってば」

 

小声で言い合っていると、輪の端から、聞き覚えのある声がした。

 

「ぼくもリリィやる!」

 

水色に黄色い星の模様の傘を、両手でぎゅっと抱えた男の子だった。

 

あの日、八百屋の前で泣いていた子だ。

 

「えー、傘持ってる子はカサオバケでしょ」

 

「やだ! ぼく、ほんもののリリィに傘とりかえしてもらったんだもん!」

 

男の子は胸を張った。

 

「ゆびきりもしたんだよ。かなしくなったら、よんでねって」

 

子供たちが「いいなー!」「ほんと!?」と男の子を取り囲む。

 

澪はひまりの手を見た。体の横に下ろした右手の小指が、ほんの少しだけ曲がっていた。

 

結局、子供たちはじゃんけんで役を決めた。リリィは二つ結びの女の子、アイリスは縄跳びの女の子、男の子は泣いている子の役。カサオバケは誰もやりたがらなかったので、「いないけど、いることにする」になった。

 

男の子がしゃがみこんで、えーんえーんと泣き真似をする。そこへ二つ結びの女の子が駆け寄って、同じようにしゃがみこんだ。

 

「どうしたの?」

 

澪は息を止めた。

 

女の子は男の子と目線を合わせて、少しだけ考えるみたいに首をかしげる。

 

「キミはどうしたいのかな?」

 

「かさ、かえしてほしい!」

 

「よーし、まかせて!」

 

隣を見ると、ひまりはもう笑いをこらえていなかった。頬を赤くして頭をかき、「えへへ」と小さく笑っている。

 

照れているときの顔だ。

 

澪は何も言わずに、その横顔を見ていた。胸の奥が少しくすぐったいのは、たぶん、パフェのせいではなかった。

 

遊びがひと段落したところで、男の子がこちらに気づいた。傘を抱えたまま、とことこ走ってくる。

 

「おねえちゃんたち、リリィとアイリスすき?」

 

ひまりは一瞬固まって、それからしゃがみこんだ。

 

「……うん。だいすき!」

 

「ぼくね、リリィの絵かいたの! しょうてんがいに、はってあるんだよ」

 

「そうなんだ! 見に行ってもいい?」

 

「いいよ!」

 

男の子はうれしそうに頷いて、輪のほうへ駆け戻っていった。傘の黄色い星が、夕方の光の中でちかちかと揺れていた。

 

商店街の事務所の前、忘れ傘の籠の横には、掲示板がある。

 

そこにいつからか、大きなポスターが貼られるようになった。『ありがとう! シャインリリィ&シャインアイリス』。町のヒロインを応援しています、と商店街の名前で添えてある。

 

その横に、画用紙が何枚も並んでいた。

 

クレヨンで描かれた、オレンジ色の女の子と、青い女の子。

 

オレンジの子はたいてい拳を振り上げていて、背中のリボンが体よりも大きい。青い子は長いステッキを持っていて、そこから黄色や水色の線が、ぐるぐると伸びている。

 

「澪ちゃん、これ……」

 

ひまりが指さしたのは、端の一枚だった。

 

画面いっぱいに、オレンジの女の子が描かれている。片手に水色の傘。傘には黄色い星が、はみ出すくらいたくさん。その後ろで、青い女の子が長いリボンを伸ばして、灰色のもじゃもじゃした何かを縛っていた。

 

下のほうに、鉛筆で大きく書いてある。

 

『リリィ アイリス ありがとう』

 

ひまりは何も言わなかった。

 

右手を伸ばして、画用紙の隅の、剥がれかけたテープをそっと押さえ直した。それから、ぱっとこちらを振り向いた。

 

「アイリスもいる!」

 

「……うん。いるね」

 

「リボン、ちゃんと描いてくれてる! アイリス、愛されてるじゃん!」

 

「ひ、ひまりだって、さっきからずっとにやにやしてるでしょ」

 

早口になっているのが、自分でも分かった。

 

澪は絵から目をそらして、ひまりを見た。ひまりは頭の後ろで手を組んで、子供たちの絵を一枚ずつ順番に眺めている。

 

その横顔は、絵の中のオレンジの女の子と同じ顔で笑っていた。

 

商店街を抜けると、家までは住宅街の細い道が続く。

 

角を曲がったところで、ひまりが「あっ」と声を上げた。

 

「小春ちゃーん!」

 

道の先に、小さな女の子と、そのお母さんがいた。女の子の手には赤いリード。その先で、茶色い柴犬が、ゆっくり、ゆっくりと歩いている。

 

小春(こはる)ちゃんは振り向いて、ぱっと手を振った。

 

「ひまりちゃん! 澪ちゃん!」

 

「こんにちは。二人とも、学校の帰り?」

 

小春ちゃんのお母さんが、笑って会釈する。澪とひまりが小さいころから、この道で何度も顔を合わせてきた人だ。

 

「こんにちは」

 

「コタロウもこんにちは!」

 

ひまりは駆け寄って、すぐにしゃがみこんだ。

 

コタロウは足を止めて、ひまりを見上げた。鼻の周りの毛が、前に見たときより白くなっている気がした。

 

ひまりが右手を差し出すと、コタロウはそのにおいをくんくんと嗅いで、ゆっくりと尻尾を振った。

 

「よしよし、元気だった?」

 

ひまりの手が、コタロウの頭から背中へ、毛並みに沿って何度も往復する。急がない手つきだった。

 

「コタロウね」

 

小春ちゃんが、リードを握り直しながら言った。

 

「最近、あんまり走らないんだ」

 

声が、少しだけ小さかった。

 

「前はね、公園まで行くと、わたしより先に走っていっちゃったの。でも今は、すぐ座っちゃう」

 

その言葉が分かっているみたいに、コタロウはひまりの手の下で、ぺたりとお尻をついた。

 

澪は小春ちゃんのお母さんを見た。お母さんは何も言わずに、ほんの少しだけ目を細めていた。

 

「もう、おじいちゃんだもんね」

 

お母さんが、小春ちゃんの頭を撫でる。小春ちゃんは「うん」と頷いたけれど、リードを握る手は、ぎゅっと固いままだった。

 

ひまりは、コタロウを撫でる手を止めなかった。

 

「そっか。コタロウは今、ゆっくり歩きたい気分なんだね」

 

小春ちゃんが、ひまりを見る。

 

「だったら、小春ちゃんがコタロウに合わせて、ゆっくり歩いてあげたらいいんだよ。そしたら、いっぱいお散歩できるじゃん!」

 

「……ゆっくりでも、いいの?」

 

「いいのいいの! ボクね、一人だとつい走っちゃうんだけど、澪ちゃんと帰るときはゆっくりになるの。そしたら、水たまりに映った空とか、アーケードの上の虹とか、いっぱい見つかるんだよ」

 

「虹っぽいの、でしょ」

 

澪が言うと、ひまりは「虹っぽいのも虹だもん!」と口をとがらせた。

 

確かに、一人のときのひまりは、いつもどこかへ走っていく。澪と帰る道だけが、寄り道だらけののんびりした道になる理由を、澪は今まで考えたこともなかった。

 

小春ちゃんが、足元のコタロウを見下ろした。

 

「……コタロウとゆっくり歩いたら、なにか見つかるかな」

 

「見つかるよ! コタロウはきっと、もういっぱい知ってるもん」

 

小春ちゃんは少し考えて、くすっと笑った。

 

コタロウが、ひまりの手のひらをぺろりと舐めた。

 

「わっ、くすぐったい!」

 

ひまりの笑い声につられるように、コタロウはまた、ゆっくりと立ち上がった。

 

「またね、コタロウ! 小春ちゃんも!」

 

手を振るひまりに見送られて、親子と一匹は角の向こうへ歩いていった。小春ちゃんの歩幅は、さっきより少しだけ小さくなっていた。

 

その背中が見えなくなるまで、ひまりは道の真ん中に立っていた。

 

それから、くるっとこちらを振り向く。

 

澪には、次の言葉が分かっていた。

 

「ねえ澪ちゃん。ちょっとだけ、寄り道の続きしない?」

 

ほら、やっぱり。

 

河川敷のほうから、湿った風が吹いてきた。

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