土手の階段を下りて、背の高い草のあいだの細い道を抜けると、そのベンチはある。
川に向かって置かれた、古い木のベンチ。背もたれのペンキはほとんど剥げていて、片方の脚の下には、いつ誰が挟んだのか分からない平たい石が噛ませてある。土手の上からは草に隠れて見えないから、ここに座っている人を、澪はひまり以外に見たことがない。
小学四年生の夏に、ひまりが見つけた場所だった。
「とうちゃーく!」
ひまりはベンチの真ん中にどすんと座って、それから半分空けるように端へずれた。
澪はその隣に腰を下ろす。ベンチが小さく軋んだ。
川面は、夕方の光を細かく砕いたみたいにきらきらしていた。昨日までの雨で水かさが増えていて、流れる音がいつもより少し大きい。
「ねえ澪ちゃん、おじさん元気?」
ひまりは足をぶらぶらさせながら、川のほうを見たまま言った。
「うん。昨日、電話したよ。向こうも雨ばっかりだって」
「そっかー。……もう、一年ちょっと経つんだね」
「うん」
ひまりはそれ以上、何も聞かなかった。
澪も、何も言わなかった。
このベンチに座ると、いつもあの日のことを思い出す。
中学一年生の春だった。
お父さんの転勤が決まったのは、入学式の一週間前だった。遠い町の支社で、しばらくは帰ってこられない。
一緒に来るか、お母さんとこの町に残るか、澪が決めていい。お父さんはそう言った。お母さんも、どっちでもいいのよ、と笑った。
どっちでもいい、と言われるのが、一番困った。
ついていけば、ひまりと離れ離れになる。残れば、お父さんと毎日顔を合わせられなくなる。どちらを選んでも、何かを置いていくことになる。
返事をする約束の前の日、澪はこのベンチに座っていた。
学校帰りに「なんか元気ないよ?」と腕を引っぱられて、ここまで連れてこられたのだ。
ひまりは、澪の前にしゃがみこんだ。
目線を合わせて、いつもの声で聞いた。
「どうしたの?」
澪は、転勤のことを話した。話しているうちに声が震えてきて、途中で何度も言葉が止まった。ひまりはそのたびに、うん、うん、と頷いて待っていた。
全部話し終えると、ひまりは少しだけ黙った。
それから、まっすぐ澪の目を見た。
「澪ちゃんはどうしたいのかな?」
答えられなかった。
それが分からないから困っているのだ、と言おうとして、それも言えなかった。
ひまりは、急かさなかった。
澪の隣に座り直して、川を見ていた。風が吹いて、どこからか桜の花びらが一枚、ひまりの膝に落ちた。ひまりはそれを払いもせずに、じっと座っていた。
じっと座っていることが何より苦手なはずのひまりが、その日は、日が暮れるまで一度も立ち上がらなかった。
どれくらい経っただろう。
「……残りたい」
自分の口から出た声に、澪は自分で驚いた。
「この町に、いたい。お母さんと、……ひまりと」
言ってしまってから、急に怖くなった。お父さんを置いていく、と言ったのと同じだと思った。
ひまりのほうを見ると、ひまりは笑っていた。
「澪ちゃんが決めたなら」
それだけだった。
やったー、とも、よかった、とも言わなかった。いつもなら両手を挙げて跳び上がりそうなところなのに、ひまりは膝の上で両手をぎゅっと握ったまま、笑っていた。
あの手が嬉しかったのか、寂しかったのか、澪には今も分からない。
ただ、その一言で、澪は自分の選んだ道を、自分のものとして家に持って帰ることができた。
お父さんが発ったのは、四月の最初の日曜日だった。
駅のホームで、澪は笑って手を振った。お父さんも笑っていた。お母さんは少しだけ目元を押さえていたけれど、澪は泣かなかった。泣かないと、前の晩から決めていた。
電車が見えなくなるまで手を振って、家に帰って、晩ごはんを食べて、お風呂に入った。
いつも通りにできた、と思った。
布団に入っても眠れなくて、机のスタンドをつけて本を開いた。ページをめくる音のあいまに、隣の部屋が静かすぎることに気がついた。
いつも聞こえていた、お父さんのいびきが聞こえない。
それだけのことだった。
それだけのことで、涙が止まらなくなった。
声が漏れないように、膝を抱えて顔を押しつけて泣いた。自分で選んだのに、と何度も思った。自分で決めたのに、どうして泣いているんだろう。
スタンドの明かりは、とうとう朝まで消せなかった。
あの夜のことは、誰にも話していない。お母さんにも、電話の向こうのお父さんにも、ひまりにも。
次の朝、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、ひまりが立っていた。
「おはよっ! 迎えに来た!」
早起きが何より苦手なひまりが、いつもより三十分も早く。寝癖を跳ねさせて、目の下にうっすら影を作って、朝の光みたいな顔で笑っていた。
どうしたの、こんなに早く、と聞くと、ひまりは「えへへ」と頭をかいただけだった。
たまたま早く目が覚めたんだろう、と澪は思った。
「澪ちゃん、聞いてる?」
顔の前で手をひらひらされて、澪は我に返った。
「ごめん、なに?」
「今年の誕生日、何がいいかなって!」
「まだ一か月あるよ」
「一か月なんてあっという間だよ! 去年なんて、けっこうギリギリだったんだから」
ひまりは指を折って、何かを数えはじめた。
澪は鞄から数学のノートを取り出した。表紙をめくると、最初のページとのあいだに、あの栞が挟まっている。
ひまわりの押し花を、透明なフィルムで閉じ込めたもの。
去年の七月七日、このベンチで渡された。
「はい、澪ちゃん! お誕生日おめでとう!」
差し出された栞は、フィルムの端が少し浮いていて、縁が曲がっていた。
小さなひまわりが、一輪咲いていた。本物の花をそのまま押したのではなく、花びらを一枚ずつはがして、輪になるように並べ直してある。真ん中の丸は、茶色のペンで塗られていた。花びらは、一枚だけ向きが逆だった。フィルムの隅には、ひまりの指の跡が一つ、一緒に閉じ込められていた。
「学校の花壇でね、いちばん最初に咲いたやつ、用務員さんにお願いしてもらったの! そのままだと大きすぎて挟めないから、花びらで作り直したんだよ。押し花って、すっごく時間かかるんだね。三回も失敗しちゃった!」
「なんで、ひまわりなの?」
澪が聞くと、ひまりは胸を張った。
「ボクの花だから! 澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。宿題のときも、テストのときも!」
「……宿題を写すときも?」
「それはそれ、これはこれ!」
あのとき澪は笑って、それから、口元を手で隠した。
お父さんが町を出て、三か月が経ったころだった。
ひまりはどうして、「いつでも」なんて言ったのだろう。
「決めた!」
隣で、ひまりが両手で頬をぱちんと叩いた。
「今年は、去年よりもっとすごいの作る! 澪ちゃんが、毎日持ち歩けるやつ!」
「何それ」
「ひみつ!」
「ノートに挟めるもの?」
「ひみつだってばー!」
ひまりは足をばたばたさせて笑った。どうせ当日まで隠しきれずに、三日前くらいに半分しゃべってしまうのだ。澪には、それも分かっている。
川の向こうで、空が藍色に変わりはじめていた。
「そろそろ帰ろっか」
澪がノートを鞄にしまうと、ひまりが先に立ち上がって、右手を差し出した。
澪はその手を、左手で握った。
体温の高い手だった。ぐい、と引っぱられて立ち上がると、ベンチがまた小さく軋んだ。
土手の上の道に戻ると、街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
ひまりは、走らなかった。
水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待って、また隣に並ぶ。それを、家の前の角まで繰り返した。
あの夜の涙を、ひまりは知らない。
知らないままでいい、と澪は思った。