泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

4 / 5
第2話 澪ちゃんが決めたなら(後編)

土手の階段を下りて、背の高い草のあいだの細い道を抜けると、そのベンチはある。

 

川に向かって置かれた、古い木のベンチ。背もたれのペンキはほとんど剥げていて、片方の脚の下には、いつ誰が挟んだのか分からない平たい石が噛ませてある。土手の上からは草に隠れて見えないから、ここに座っている人を、澪はひまり以外に見たことがない。

 

小学四年生の夏に、ひまりが見つけた場所だった。

 

「とうちゃーく!」

 

ひまりはベンチの真ん中にどすんと座って、それから半分空けるように端へずれた。

 

澪はその隣に腰を下ろす。ベンチが小さく軋んだ。

 

川面は、夕方の光を細かく砕いたみたいにきらきらしていた。昨日までの雨で水かさが増えていて、流れる音がいつもより少し大きい。

 

「ねえ澪ちゃん、おじさん元気?」

 

ひまりは足をぶらぶらさせながら、川のほうを見たまま言った。

 

「うん。昨日、電話したよ。向こうも雨ばっかりだって」

 

「そっかー。……もう、一年ちょっと経つんだね」

 

「うん」

 

ひまりはそれ以上、何も聞かなかった。

 

澪も、何も言わなかった。

 

このベンチに座ると、いつもあの日のことを思い出す。

 

中学一年生の春だった。

 

お父さんの転勤が決まったのは、入学式の一週間前だった。遠い町の支社で、しばらくは帰ってこられない。

 

一緒に来るか、お母さんとこの町に残るか、澪が決めていい。お父さんはそう言った。お母さんも、どっちでもいいのよ、と笑った。

 

どっちでもいい、と言われるのが、一番困った。

 

ついていけば、ひまりと離れ離れになる。残れば、お父さんと毎日顔を合わせられなくなる。どちらを選んでも、何かを置いていくことになる。

 

返事をする約束の前の日、澪はこのベンチに座っていた。

 

学校帰りに「なんか元気ないよ?」と腕を引っぱられて、ここまで連れてこられたのだ。

 

ひまりは、澪の前にしゃがみこんだ。

 

目線を合わせて、いつもの声で聞いた。

 

「どうしたの?」

 

澪は、転勤のことを話した。話しているうちに声が震えてきて、途中で何度も言葉が止まった。ひまりはそのたびに、うん、うん、と頷いて待っていた。

 

全部話し終えると、ひまりは少しだけ黙った。

 

それから、まっすぐ澪の目を見た。

 

「澪ちゃんはどうしたいのかな?」

 

答えられなかった。

 

それが分からないから困っているのだ、と言おうとして、それも言えなかった。

 

ひまりは、急かさなかった。

 

澪の隣に座り直して、川を見ていた。風が吹いて、どこからか桜の花びらが一枚、ひまりの膝に落ちた。ひまりはそれを払いもせずに、じっと座っていた。

 

じっと座っていることが何より苦手なはずのひまりが、その日は、日が暮れるまで一度も立ち上がらなかった。

 

どれくらい経っただろう。

 

「……残りたい」

 

自分の口から出た声に、澪は自分で驚いた。

 

「この町に、いたい。お母さんと、……ひまりと」

 

言ってしまってから、急に怖くなった。お父さんを置いていく、と言ったのと同じだと思った。

 

ひまりのほうを見ると、ひまりは笑っていた。

 

「澪ちゃんが決めたなら」

 

それだけだった。

 

やったー、とも、よかった、とも言わなかった。いつもなら両手を挙げて跳び上がりそうなところなのに、ひまりは膝の上で両手をぎゅっと握ったまま、笑っていた。

 

あの手が嬉しかったのか、寂しかったのか、澪には今も分からない。

 

ただ、その一言で、澪は自分の選んだ道を、自分のものとして家に持って帰ることができた。

 

お父さんが発ったのは、四月の最初の日曜日だった。

 

駅のホームで、澪は笑って手を振った。お父さんも笑っていた。お母さんは少しだけ目元を押さえていたけれど、澪は泣かなかった。泣かないと、前の晩から決めていた。

 

電車が見えなくなるまで手を振って、家に帰って、晩ごはんを食べて、お風呂に入った。

 

いつも通りにできた、と思った。

 

布団に入っても眠れなくて、机のスタンドをつけて本を開いた。ページをめくる音のあいまに、隣の部屋が静かすぎることに気がついた。

 

いつも聞こえていた、お父さんのいびきが聞こえない。

 

それだけのことだった。

 

それだけのことで、涙が止まらなくなった。

 

声が漏れないように、膝を抱えて顔を押しつけて泣いた。自分で選んだのに、と何度も思った。自分で決めたのに、どうして泣いているんだろう。

 

スタンドの明かりは、とうとう朝まで消せなかった。

 

あの夜のことは、誰にも話していない。お母さんにも、電話の向こうのお父さんにも、ひまりにも。

 

次の朝、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、ひまりが立っていた。

 

「おはよっ! 迎えに来た!」

 

早起きが何より苦手なひまりが、いつもより三十分も早く。寝癖を跳ねさせて、目の下にうっすら影を作って、朝の光みたいな顔で笑っていた。

 

どうしたの、こんなに早く、と聞くと、ひまりは「えへへ」と頭をかいただけだった。

 

たまたま早く目が覚めたんだろう、と澪は思った。

 

「澪ちゃん、聞いてる?」

 

顔の前で手をひらひらされて、澪は我に返った。

 

「ごめん、なに?」

 

「今年の誕生日、何がいいかなって!」

 

「まだ一か月あるよ」

 

「一か月なんてあっという間だよ! 去年なんて、けっこうギリギリだったんだから」

 

ひまりは指を折って、何かを数えはじめた。

 

澪は鞄から数学のノートを取り出した。表紙をめくると、最初のページとのあいだに、あの栞が挟まっている。

 

ひまわりの押し花を、透明なフィルムで閉じ込めたもの。

 

去年の七月七日、このベンチで渡された。

 

「はい、澪ちゃん! お誕生日おめでとう!」

 

差し出された栞は、フィルムの端が少し浮いていて、縁が曲がっていた。

 

小さなひまわりが、一輪咲いていた。本物の花をそのまま押したのではなく、花びらを一枚ずつはがして、輪になるように並べ直してある。真ん中の丸は、茶色のペンで塗られていた。花びらは、一枚だけ向きが逆だった。フィルムの隅には、ひまりの指の跡が一つ、一緒に閉じ込められていた。

 

「学校の花壇でね、いちばん最初に咲いたやつ、用務員さんにお願いしてもらったの! そのままだと大きすぎて挟めないから、花びらで作り直したんだよ。押し花って、すっごく時間かかるんだね。三回も失敗しちゃった!」

 

「なんで、ひまわりなの?」

 

澪が聞くと、ひまりは胸を張った。

 

「ボクの花だから! 澪ちゃんのノートに、いつでもボクがいるの。宿題のときも、テストのときも!」

 

「……宿題を写すときも?」

 

「それはそれ、これはこれ!」

 

あのとき澪は笑って、それから、口元を手で隠した。

 

お父さんが町を出て、三か月が経ったころだった。

 

ひまりはどうして、「いつでも」なんて言ったのだろう。

 

「決めた!」

 

隣で、ひまりが両手で頬をぱちんと叩いた。

 

「今年は、去年よりもっとすごいの作る! 澪ちゃんが、毎日持ち歩けるやつ!」

 

「何それ」

 

「ひみつ!」

 

「ノートに挟めるもの?」

 

「ひみつだってばー!」

 

ひまりは足をばたばたさせて笑った。どうせ当日まで隠しきれずに、三日前くらいに半分しゃべってしまうのだ。澪には、それも分かっている。

 

川の向こうで、空が藍色に変わりはじめていた。

 

「そろそろ帰ろっか」

 

澪がノートを鞄にしまうと、ひまりが先に立ち上がって、右手を差し出した。

 

澪はその手を、左手で握った。

 

体温の高い手だった。ぐい、と引っぱられて立ち上がると、ベンチがまた小さく軋んだ。

 

土手の上の道に戻ると、街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。

 

ひまりは、走らなかった。

 

水たまりを一つ飛び越えるたびに振り返って、澪が追いつくのを待って、また隣に並ぶ。それを、家の前の角まで繰り返した。

 

あの夜の涙を、ひまりは知らない。

 

知らないままでいい、と澪は思った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。