空は朝からずっと、灰色の毛布をかぶったような色をしていた。
降りそうで、降らない。
「澪ちゃん、今日は傘いらなかったね」
「まだ分からないよ。家に着くまでが帰り道なんだから」
隣で
ひまりは笑って、歩幅をもう少しだけ小さくした。
カサオバケの騒ぎから、ちょうど一週間。商店街の籠には、また新しい忘れ傘が二本増えていた。
住宅街の細い道に入ると、角が見えてくる。
「この角だよね。こないだ、コタロウに会ったの」
「うん」
「小春ちゃん、ゆっくり歩けてるかなあ」
右の手のひらが、ふっと思い出した。少しごわっとした、温かい毛並み。
角を曲がったところで、ひまりは足を止めた。
道の先から、誰かが小走りに来る。エプロンをつけたまま、スマホを握りしめて。
「ひまりちゃん、澪ちゃん……!」
いつもは目を細めて笑っている人の顔が、今日は白かった。
「小春、見なかった? どこかで」
「小春ちゃん? ううん、見てないです」
澪が答えると、お母さんは小さく息を吐いた。それから、少しだけ迷うように目を伏せた。
「コタロウがね、今朝……」
声が、そこで一度止まる。
「小春が起こしに行ったら、寝床で丸くなったまま、もう冷たくなってたの。苦しそうじゃなかった。眠ってるみたいな顔でね。もう、歳だったから」
ひまりの胸の奥が、すうっと冷たくなった。
「小春、今日は学校をお休みしたの。ずっとコタロウのそばにいて……それが、さっき、お散歩の時間になったら、リードを持って出ていっちゃって」
お母さんはスマホを握り直した。
「私、川のほうを見てくるわね。あの子、コタロウと土手を歩くのが好きだったから」
「ボクたち、公園を見てきます!」
ひまりは考えるより先に言っていた。
前はね、公園まで行くと、わたしより先に走っていっちゃったの。
小春ちゃんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「見つけたら、すぐ連絡します」
澪がお母さんの目を見てうなずく。お母さんは「ありがとう」と言って、川のほうへ駆けていった。
ひまりは走り出した。
公園は静まり返っていた。
ごっこ遊びの声も、砂場の笑い声もない。湿った砂の上に、小さな足跡がいくつも残っているだけだった。ブランコの鎖が、風もないのにかすかに揺れている。
入り口の車止めの横に、小春ちゃんがしゃがみこんでいた。
両手で、赤いリードを握っている。リードの先には、何もつながっていなかった。
ひまりは走るのをやめた。
一歩ずつ近づいて、小春ちゃんの前にしゃがみこむ。目線の高さが、ちょうど同じになった。
「小春ちゃん」
小春ちゃんが顔を上げた。目も鼻も真っ赤で、頬に涙の筋が何本も乾いて、その上をまた新しい涙が流れていた。
「……ひまりちゃん」
それだけ言って、小春ちゃんの顔がくしゃっと崩れた。
「コタロウ、ね。ここで、いつも、走って……」
しゃくり上げるたびに、言葉がちぎれる。
「ゆっくり、歩いてたのに。まだ、いっぱい、見つけてなかったのに」
ひまりは右手を伸ばして、小春ちゃんの背中にそっと添えた。
小さな背中が、手のひらの下で何度も跳ねる。熱かった。
何か言わなきゃ、と思った。
なのに、言葉が一つも見つからなかった。口を開いて、また閉じる。いつもならいくらでも出てくる声が、喉の奥で止まっている。
だから、ひまりは待つことにした。
背中に手を添えたまま、小春ちゃんが話せるようになるのを、じっと。
後ろで、澪が静かにしゃがむ気配がした。
「あのー! すみませーん!」
明るい声が、公園の静けさを破った。
振り向くと、白いものがぱたぱたと駆けてくる。
白衣だった。
理科室で先生が着ているのと同じ、真っ白な白衣。しわ一つなくて、そこだけ光って見える。袖が少し長すぎて、指先しか出ていない。ブロンドの長い髪を、後ろでざっくり一つに結んでいた。
背丈は、ひまりとほとんど変わらなかった。
同じくらいの子かな、とひまりは思った。理科部の子だろうか。
白衣の子は小春ちゃんの隣にしゃがみこむと、にこっと笑った。
「こんにちは! お名前、教えてもらえますか?」
小春ちゃんは、しゃくり上げながら、小さく答えた。
「……こはる」
「小春ちゃん! 素敵なお名前です。コタロウくんっていうのは、ワンちゃんですか?」
小春ちゃんが、こくりとうなずく。
「やっぱり! だったら、ちょうどいいものがあります!」
白衣の子は、大きなポケットから何かを取り出した。
小さなゴーグルだった。子供の顔にちょうど合うくらいの大きさで、レンズがシャボン玉のように淡く光っている。
「ドリームゴーグルです!」
白衣の子は、それを両手で掲げてみせた。
「これをかけると、とーっても幸せな夢が見られるんです。コタロウくんにも、また会えますよ。名前もね、三日三晩考えたんです。夢を見る、ゴーグル。ぴったりでしょう?」
小春ちゃんの目が、ゴーグルの光を映して揺れた。
「しかも、ずーっと夢の中にいられるんです! 今のこの世界には、もう興味もなくなっちゃいますけど……」
白衣の子は、天気の話でもするみたいに、にっこり笑った。
「悲しいだけの世界なんて、別にいらないですよね!」
ひまりの背中を、冷たいものがすっと撫でた。
後ろで、澪が息をのむ音がした。
白衣の子は、にこにこしたまま、ゴーグルを小春ちゃんの顔へ近づけていく。
小春ちゃんは、まだ何も言っていなかった。
ひまりの右手が、勝手に動いていた。
白衣の袖ごと、細い手首をつかむ。
「待って!」
白衣の子は、きょとんと目を丸くした。
「どうして止めるんですか? 小春ちゃん、こんなに泣いてるのに」
「小春ちゃん、まだ何も言ってないよ」
「でも、泣いてるってことは、悲しいってことですよね? 悲しいのなんて、ないほうがいいに決まってます!」
本当に不思議そうな顔だった。意地悪を言っている顔では、全然なかった。
白衣の子は、それから「あっ」と声を上げて、ぱっと立ち上がった。ひまりの手から、するりと手首が抜ける。
「ご挨拶がまだでした! 失礼しました!」
白衣の裾をぱりっと整えて、ぺこりとお辞儀をする。
「ドリームドクターユメミです!」
ドクター、とひまりは口の中で繰り返した。
この公園で、リリィとアイリスになりきっていた子供たちの顔が浮かぶ。それと同じようなものだろうか。
「今日は、ドリームヴェールの記念すべき初仕事なんです!」
「ドリームヴェール……?」
澪が眉を寄せる。
「ユメミが作った、世界を幸せにする組織です! 小春ちゃんが、一人目のお客さま。そのあとは、この町のみなさんにも順番に、ドリームゴーグルを届けていくんです!」
町のみなさん、とひまりは思った。
商店街のおじさんの顔が浮かんだ。パン屋のおばさんの顔も、「ひかりのたて!」と両腕を突き出していた、二つ結びの女の子の顔も。
澪の手が、ひまりの袖をぎゅっとつかんだ。
「あっ、そうだ、仲間も紹介しなきゃですね! 構成員は、ユメミと――」
ユメミと名乗った子は、くるりと背中を向けて、白衣のポケットをごそごそと探りはじめた。
「えーっと、あれっ、こっちのポケットだったかな……」
澪が、目だけで滑り台のほうを示した。
ひまりは小春ちゃんを振り返った。小春ちゃんはリードを抱きしめたまま、まだ泣いている。
「すぐ戻るよ」
澪が小声で言った。
ひまりはうなずいて、滑り台の陰へ駆け込んだ。
いつものように右手と左手をつなぎ、黄色と青の光に包まれた。
「――この子たちです! じゃーん!」
ユメミが振り返ると同時に、ポケットから手のひらほどの丸い機械がいくつも飛び出した。ぶうん、と小さな羽音を立てて、ユメミの頭の上に浮かぶ。
「まどろみドローンちゃんたち! かわいいでしょう?」
そこで、ユメミの目がまんまるになった。
小春ちゃんの前に、オレンジと青の二人が立っていたからだ。
「わあ……! 本物です! シャインリリィさんと、シャインアイリスさん!」
ユメミはその場でぴょんと跳ねた。
それから、ちらりと滑り台のほうを見た。もう一度、リリィとアイリスを見る。首をかしげる。
「……あれ?」
けれど、すぐにまた、にこっと笑った。
リリィは、小春ちゃんの前に立ったまま右腕を突き出した。ひまわりの花弁の形をした光の盾が、ぱっと広がる。
「キミ、そのゴーグルはしまって」
「どうしてですか? ユメミ、小春ちゃんにすっごく幸せな夢をあげたいだけなんです。リリィさんも、手伝ってくれませんか?」
「それをかけるかどうかは、キミが決めることじゃないよ」
ユメミは、ぷうっと頬をふくらませた。
「うーん、困りました。じゃあ、お二人には少しだけ眠っててもらいますね。大丈夫です、ぜーんぜん痛くないですから!」
ユメミが白衣の胸元をぽんと叩くと、裏地から細い光の線が、葉脈のように走った。
「白衣の裏に、すっごい回路が入ってるんです!」
ドローンたちの羽音が、一段高くなる。
リリィは盾を構えたまま、横目でアイリスを見た。
「アイリス、ちっちゃいの、お願いしていい?」
「任せて。リリィは、小春ちゃんから離れないでね」
アイリスがステッキをくるりと回す。
次の瞬間、ユメミの姿が、立っていた場所から消えた。
速い。
盾の縁のすぐ横で、白衣の裾がひるがえる。
頭の上で、ドローンたちがいっせいに、淡い光を降らせはじめた。夕方の教室で、窓から差しこむ日差しのような、やわらかい光だった。
ひまりのまぶたが、ふっと重くなった。