泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第3話 キミは本当はどうしたいの?(前編)

空は朝からずっと、灰色の毛布をかぶったような色をしていた。

 

降りそうで、降らない。陽向(ひなた)ひまりは鞄を両手で背中に提げて、低い雲を見上げながら歩いていた。

 

「澪ちゃん、今日は傘いらなかったね」

 

「まだ分からないよ。家に着くまでが帰り道なんだから」

 

隣で蒼井澪(あおいみお)が、きちんと巻いた傘を軽く持ち上げてみせる。

 

ひまりは笑って、歩幅をもう少しだけ小さくした。

 

カサオバケの騒ぎから、ちょうど一週間。商店街の籠には、また新しい忘れ傘が二本増えていた。

 

住宅街の細い道に入ると、角が見えてくる。

 

「この角だよね。こないだ、コタロウに会ったの」

 

「うん」

 

「小春ちゃん、ゆっくり歩けてるかなあ」

 

右の手のひらが、ふっと思い出した。少しごわっとした、温かい毛並み。

 

角を曲がったところで、ひまりは足を止めた。

 

道の先から、誰かが小走りに来る。エプロンをつけたまま、スマホを握りしめて。

 

「ひまりちゃん、澪ちゃん……!」

 

小春(こはる)ちゃんのお母さんだった。

 

いつもは目を細めて笑っている人の顔が、今日は白かった。

 

「小春、見なかった? どこかで」

 

「小春ちゃん? ううん、見てないです」

 

澪が答えると、お母さんは小さく息を吐いた。それから、少しだけ迷うように目を伏せた。

 

「コタロウがね、今朝……」

 

声が、そこで一度止まる。

 

「小春が起こしに行ったら、寝床で丸くなったまま、もう冷たくなってたの。苦しそうじゃなかった。眠ってるみたいな顔でね。もう、歳だったから」

 

ひまりの胸の奥が、すうっと冷たくなった。

 

「小春、今日は学校をお休みしたの。ずっとコタロウのそばにいて……それが、さっき、お散歩の時間になったら、リードを持って出ていっちゃって」

 

お母さんはスマホを握り直した。

 

「私、川のほうを見てくるわね。あの子、コタロウと土手を歩くのが好きだったから」

 

「ボクたち、公園を見てきます!」

 

ひまりは考えるより先に言っていた。

 

前はね、公園まで行くと、わたしより先に走っていっちゃったの。

 

小春ちゃんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。

 

「見つけたら、すぐ連絡します」

 

澪がお母さんの目を見てうなずく。お母さんは「ありがとう」と言って、川のほうへ駆けていった。

 

ひまりは走り出した。

 

公園は静まり返っていた。

 

ごっこ遊びの声も、砂場の笑い声もない。湿った砂の上に、小さな足跡がいくつも残っているだけだった。ブランコの鎖が、風もないのにかすかに揺れている。

 

入り口の車止めの横に、小春ちゃんがしゃがみこんでいた。

 

両手で、赤いリードを握っている。リードの先には、何もつながっていなかった。

 

ひまりは走るのをやめた。

 

一歩ずつ近づいて、小春ちゃんの前にしゃがみこむ。目線の高さが、ちょうど同じになった。

 

「小春ちゃん」

 

小春ちゃんが顔を上げた。目も鼻も真っ赤で、頬に涙の筋が何本も乾いて、その上をまた新しい涙が流れていた。

 

「……ひまりちゃん」

 

それだけ言って、小春ちゃんの顔がくしゃっと崩れた。

 

「コタロウ、ね。ここで、いつも、走って……」

 

しゃくり上げるたびに、言葉がちぎれる。

 

「ゆっくり、歩いてたのに。まだ、いっぱい、見つけてなかったのに」

 

ひまりは右手を伸ばして、小春ちゃんの背中にそっと添えた。

 

小さな背中が、手のひらの下で何度も跳ねる。熱かった。

 

何か言わなきゃ、と思った。

 

なのに、言葉が一つも見つからなかった。口を開いて、また閉じる。いつもならいくらでも出てくる声が、喉の奥で止まっている。

 

だから、ひまりは待つことにした。

 

背中に手を添えたまま、小春ちゃんが話せるようになるのを、じっと。

 

後ろで、澪が静かにしゃがむ気配がした。

 

「あのー! すみませーん!」

 

明るい声が、公園の静けさを破った。

 

振り向くと、白いものがぱたぱたと駆けてくる。

 

白衣だった。

 

理科室で先生が着ているのと同じ、真っ白な白衣。しわ一つなくて、そこだけ光って見える。袖が少し長すぎて、指先しか出ていない。ブロンドの長い髪を、後ろでざっくり一つに結んでいた。

 

背丈は、ひまりとほとんど変わらなかった。

 

同じくらいの子かな、とひまりは思った。理科部の子だろうか。

 

白衣の子は小春ちゃんの隣にしゃがみこむと、にこっと笑った。

 

「こんにちは! お名前、教えてもらえますか?」

 

小春ちゃんは、しゃくり上げながら、小さく答えた。

 

「……こはる」

 

「小春ちゃん! 素敵なお名前です。コタロウくんっていうのは、ワンちゃんですか?」

 

小春ちゃんが、こくりとうなずく。

 

「やっぱり! だったら、ちょうどいいものがあります!」

 

白衣の子は、大きなポケットから何かを取り出した。

 

小さなゴーグルだった。子供の顔にちょうど合うくらいの大きさで、レンズがシャボン玉のように淡く光っている。

 

「ドリームゴーグルです!」

 

白衣の子は、それを両手で掲げてみせた。

 

「これをかけると、とーっても幸せな夢が見られるんです。コタロウくんにも、また会えますよ。名前もね、三日三晩考えたんです。夢を見る、ゴーグル。ぴったりでしょう?」

 

小春ちゃんの目が、ゴーグルの光を映して揺れた。

 

「しかも、ずーっと夢の中にいられるんです! 今のこの世界には、もう興味もなくなっちゃいますけど……」

 

白衣の子は、天気の話でもするみたいに、にっこり笑った。

 

「悲しいだけの世界なんて、別にいらないですよね!」

 

ひまりの背中を、冷たいものがすっと撫でた。

 

後ろで、澪が息をのむ音がした。

 

白衣の子は、にこにこしたまま、ゴーグルを小春ちゃんの顔へ近づけていく。

 

小春ちゃんは、まだ何も言っていなかった。

 

ひまりの右手が、勝手に動いていた。

 

白衣の袖ごと、細い手首をつかむ。

 

「待って!」

 

白衣の子は、きょとんと目を丸くした。

 

「どうして止めるんですか? 小春ちゃん、こんなに泣いてるのに」

 

「小春ちゃん、まだ何も言ってないよ」

 

「でも、泣いてるってことは、悲しいってことですよね? 悲しいのなんて、ないほうがいいに決まってます!」

 

本当に不思議そうな顔だった。意地悪を言っている顔では、全然なかった。

 

白衣の子は、それから「あっ」と声を上げて、ぱっと立ち上がった。ひまりの手から、するりと手首が抜ける。

 

「ご挨拶がまだでした! 失礼しました!」

 

白衣の裾をぱりっと整えて、ぺこりとお辞儀をする。

 

「ドリームドクターユメミです!」

 

ドクター、とひまりは口の中で繰り返した。

 

この公園で、リリィとアイリスになりきっていた子供たちの顔が浮かぶ。それと同じようなものだろうか。

 

「今日は、ドリームヴェールの記念すべき初仕事なんです!」

 

「ドリームヴェール……?」

 

澪が眉を寄せる。

 

「ユメミが作った、世界を幸せにする組織です! 小春ちゃんが、一人目のお客さま。そのあとは、この町のみなさんにも順番に、ドリームゴーグルを届けていくんです!」

 

町のみなさん、とひまりは思った。

 

商店街のおじさんの顔が浮かんだ。パン屋のおばさんの顔も、「ひかりのたて!」と両腕を突き出していた、二つ結びの女の子の顔も。

 

澪の手が、ひまりの袖をぎゅっとつかんだ。

 

「あっ、そうだ、仲間も紹介しなきゃですね! 構成員は、ユメミと――」

 

ユメミと名乗った子は、くるりと背中を向けて、白衣のポケットをごそごそと探りはじめた。

 

「えーっと、あれっ、こっちのポケットだったかな……」

 

澪が、目だけで滑り台のほうを示した。

 

ひまりは小春ちゃんを振り返った。小春ちゃんはリードを抱きしめたまま、まだ泣いている。

 

「すぐ戻るよ」

 

澪が小声で言った。

 

ひまりはうなずいて、滑り台の陰へ駆け込んだ。

 

いつものように右手と左手をつなぎ、黄色と青の光に包まれた。

 

「――この子たちです! じゃーん!」

 

ユメミが振り返ると同時に、ポケットから手のひらほどの丸い機械がいくつも飛び出した。ぶうん、と小さな羽音を立てて、ユメミの頭の上に浮かぶ。

 

「まどろみドローンちゃんたち! かわいいでしょう?」

 

そこで、ユメミの目がまんまるになった。

 

小春ちゃんの前に、オレンジと青の二人が立っていたからだ。

 

「わあ……! 本物です! シャインリリィさんと、シャインアイリスさん!」

 

ユメミはその場でぴょんと跳ねた。

 

それから、ちらりと滑り台のほうを見た。もう一度、リリィとアイリスを見る。首をかしげる。

 

「……あれ?」

 

けれど、すぐにまた、にこっと笑った。

 

リリィは、小春ちゃんの前に立ったまま右腕を突き出した。ひまわりの花弁の形をした光の盾が、ぱっと広がる。

 

「キミ、そのゴーグルはしまって」

 

「どうしてですか? ユメミ、小春ちゃんにすっごく幸せな夢をあげたいだけなんです。リリィさんも、手伝ってくれませんか?」

 

「それをかけるかどうかは、キミが決めることじゃないよ」

 

ユメミは、ぷうっと頬をふくらませた。

 

「うーん、困りました。じゃあ、お二人には少しだけ眠っててもらいますね。大丈夫です、ぜーんぜん痛くないですから!」

 

ユメミが白衣の胸元をぽんと叩くと、裏地から細い光の線が、葉脈のように走った。

 

「白衣の裏に、すっごい回路が入ってるんです!」

 

ドローンたちの羽音が、一段高くなる。

 

リリィは盾を構えたまま、横目でアイリスを見た。

 

「アイリス、ちっちゃいの、お願いしていい?」

 

「任せて。リリィは、小春ちゃんから離れないでね」

 

アイリスがステッキをくるりと回す。

 

次の瞬間、ユメミの姿が、立っていた場所から消えた。

 

速い。

 

盾の縁のすぐ横で、白衣の裾がひるがえる。

 

頭の上で、ドローンたちがいっせいに、淡い光を降らせはじめた。夕方の教室で、窓から差しこむ日差しのような、やわらかい光だった。

 

ひまりのまぶたが、ふっと重くなった。

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