まぶたが、鉛みたいに重い。
光の盾の向こうで、白衣がひらひら揺れている。右へ、左へ。目で追うたびに、頭の奥がぼうっと霞んでいく。
あったかい布団に潜りこんだときの、あの感じだった。
膝から、すうっと力が抜けかけた。
「リリィ!」
手首に、ひんやりしたものが巻きついた。
アイリスの光のリボンだった。ぐい、と後ろへ引かれて、ひまりは小春ちゃんの前で踏みとどまる。
「目、開けて! 上のは私が落とすから!」
背後で、花びらの光弾が弾ける音が続いた。ぱん、ぱん、と小さな機械が一つずつ、空から落ちていく。
ひまりは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。
じんとした痛みで、霞が晴れる。
「……よしっ!」
盾の縁に、白衣がぶつかってきた。
速い。重い。ひまりと変わらない背丈なのに、体ごと押しこまれるような力だった。けれど、拳は飛んでこない。ユメミは盾の脇から、何度も何度も、ゴーグルを持った手を伸ばしてくるだけだった。
「ちょっとだけ! ちょっとだけ、かけさせてください!」
「だーめ!」
ひまりは盾を押し返した。ユメミの体が、ふわりと後ろへ跳ぶ。
着地したユメミの頭の上で、最後の一機がふらふらと揺れた。
アイリスのステッキが、ぴたりとそちらを向く。
青い花びらが一枚、まっすぐに飛んだ。
「あーっ!」
落ちてくるドローンを、ユメミは両手で受け止めた。それから、地面に転がった仲間たちを一つずつ拾い集めて、白衣のポケットにそっとしまっていく。壊れていないか確かめるように、一機ずつ指で撫でながら。
「ドローンちゃんたち、がんばりましたね……」
それから、ユメミは顔を上げた。
怒ってはいなかった。ただ、どうしても分からない、という顔をしていた。
「リリィさん。どうして、そこまでして止めるんですか?」
袖の余った手が、リリィの後ろを指さす。
「小春ちゃん、ずっと泣いてるんですよ? 悲しいのなんて、なくなったほうがいいに決まってるのに」
ひまりは盾を下ろした。光の花弁が、ほろりとほどけて消える。
「悲しいのも、小春ちゃんの大事な気持ちだから」
ユメミが、ぱちぱちとまばたきをした。
ひまりは振り返って、小春ちゃんの前にしゃがんだ。
湿った砂が、膝にひやりと染みる。
小春ちゃんは、さっきと同じ場所で、さっきと同じようにリードを握っていた。目の前に町のヒロインがいても、驚いた顔もしなかった。
目線を合わせる。
「小春ちゃんはどうしたいのかな?」
小春ちゃんの目が、ひまりを見た。
それから、ユメミの手の中で淡く光るゴーグルを見た。
それから、握りしめた赤いリードを見た。
口が、小さく開いた。
ひまりは待った。
しゃくり上げる音が、一つ。
もう一つ。
小春ちゃんの口は、開いたまま、何の言葉も出てこない。かわりに、また新しい涙が、頬の上を転がり落ちていく。
ひまりは、待った。
右手を、小春ちゃんの背中に添えたまま。背中は、まだ何度も跳ねていた。
ブランコの鎖が、きい、と鳴った。
遠くで、車が一台通り過ぎていった。
ぽつり、と冷たいものが、ひまりの手の甲に落ちた。
雨だった。
ぽつり、ぽつりと、砂の上に小さな丸い染みが増えていく。小春ちゃんの髪にも、赤いリードにも。
小春ちゃんは、泣き続けていた。
ひまりがどれだけ待っても、泣き声は止まらなかった。答えのかわりに、ずっと、泣き声だけがそこにあった。
膝が、じんと痺れてきた。それでも、ひまりは立ち上がらなかった。
「……いいよ。今は、言えなくていいからね」
小春ちゃんの背中を、そっと撫でる。
返事は、やっぱりなかった。
背中のほうで、砂を踏む音がした。
振り向くと、ユメミがまだそこにいた。帰ってもよかったはずなのに、雨の中で、ゴーグルを胸に抱えたまま、ぽつんと立っている。
ひまりは、ゆっくり立ち上がった。
痺れた膝が、少しだけふらつく。
ユメミは、まっすぐこっちを見ていた。
小春ちゃんを幸せにしたい、と言った子。世界を幸せにする組織、と胸を張った子。
でも、悲しいだけの世界なんて別にいらない、と笑った子。ゴーグルをかけたら、今のこの世界には興味もなくなる、と言った子。
いい子なのか、悪い子なのか、ひまりには分からなかった。
分からないまま、言葉が先に出ていた。
「ねえ」
ひまりは、学校の廊下で友達に話しかけるみたいに言った。
「キミは本当はどうしたいの?」
ユメミの動きが、止まった。
きょとんと目を丸くして、口を半分開けたまま、ひまりの顔を見ている。雨粒が一つ、ブロンドの前髪から滑り落ちた。
「……ユメミ、ですか?」
小さな声だった。
ひまりがうなずくと、ユメミの顔が、ゆっくりと変わっていった。
頬が赤くなる。目のふちが、きらきらと光る。口元が、こらえきれないみたいにほどけていく。
それは、ひまりが今まで見たどんな笑顔とも違った。初めてプレゼントの箱を開けた子みたいな、ううん、もっと、ずっと――
ひまりには、うまく言葉にできなかった。
ユメミは、はっとしたように白衣の袖で顔をこすった。
それから、ぷうっと頬をふくらませる。
「むー、残念です。今日は、ここまでにしておきます」
くるりと背を向けて、
「でも、データは嘘をつきません!」
白衣の裏に、葉脈のような光が走った。ユメミの体が、ふわりと公園のフェンスを越える。
そのまま行ってしまうのかと思った。
ユメミは、フェンスの向こうで振り返った。
少し走って、また振り返った。
角を曲がる手前でも、もう一度。
雨の中で白衣が見えなくなるまで、ユメミは何度も、何度も振り返った。
滑り台の陰で変身を解いて戻ると、澪はすぐにスマホを取り出した。
十分もしないうちに、小春ちゃんのお母さんが駆けてきた。エプロンも髪も、雨で濡れていた。
「小春!」
小春ちゃんは、お母さんの胸に飛びこんだ。
それでも、泣き声は止まらなかった。お母さんの腕の中で、さっきよりも大きな声で、小春ちゃんは泣いた。
「ありがとう、二人とも。本当に、ありがとう」
お母さんは小春ちゃんを抱きしめたまま、何度も頭を下げた。
澪の傘に小春ちゃんとお母さんを入れて、四人で家まで歩いた。小春ちゃんの家の門が閉まるまで、泣き声はずっと聞こえていた。
それから、ひまりは澪と一つの傘に入って、いつもの角まで歩いた。
「ひまり、うちまで来る? 傘、貸すよ」
「ううん、すぐそこだもん! 澪ちゃん、今日はありがと」
「……うん。風邪ひかないでね」
澪はまだ何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局、小さく手を振って家のほうへ歩いていった。
ひまりは、一人で歩き出した。
雨は、さっきより少し強くなっていた。
一人のときは、いつも走ってしまう。なのに、今日は足が急がなかった。
耳の奥で、まだ泣き声が聞こえている。
答えのかわりに、ずっとそこにあった泣き声。
「……本当に、これで良かったのかな」
声に出してみても、誰も答えなかった。
ひまりは、右耳の上の髪を指でつまんだ。雨に濡れても、寝癖の一房だけは、ぴんと跳ねたままだった。
くるくると、指に巻きつける。
ほどいて、また巻きつける。
家の明かりが見えてくるまで、ひまりはずっと、そうしていた。