研究所の夜は、機械の音でできている。
町外れの、もう誰も使っていない気象観測所。ユメミが勝手に改装したこの建物では、真夜中でも、どこかで何かがぶうんと唸っている。
明るいのは、作業台の上だけだった。
床には配線の束と、栄養ゼリーの空き袋と、読みかけの論文が、地層みたいに積もっている。片付けは、明日やる。明日の明日かもしれない。
部屋の隅のテーブルだけは別だった。ティーカップが二つ、きちんと並んでいる。花柄のお皿には、とっておきのクッキー。そこだけは昨日、三時間かけて片付けた。
お客さま用、なのだ。
「……よし」
ユメミは拡大鏡を下ろして、作業台の上のものを両手で持ち上げた。
細いバイザーだった。ゴーグルよりずっと薄くて、軽い。レンズは、夜明け前の空みたいな淡い色をしている。
ドリームバイザー。
ゴーグルの名前は三日三晩考えたのに、この子の名前は一秒で決まった。そのかわり、作るのに三晩かかった。三晩とも、一睡もしていない。
ぜーんぜん、眠くなかったのだ。
公園で、あの子に聞かれてから。
――キミは本当はどうしたいの?
思い出すだけで、白衣の胸のあたりがぽかぽかする。
天才だね、とは何度も言われた。すごい発明だね、とも。次は何を作るの、成果はいつ出るの、とも。
でも、ユメミがどうしたいのかを聞いてくれた人は、いなかった。
一人も。
ユメミは作業台の端のノートを開いた。表紙には、大きく『観測記録』と書いてある。
『滑り台の陰に入った女の子、二人。出てきたヒロイン、二人。身長、ぴったり同じ。オレンジの子の右耳の上の跳ねた髪、変身のあとも、ぴったり同じ』
その下に、ひときわ大きな字で。
『小春ちゃんが呼んでいた名前 ひまりちゃん』
ユメミは小さなドライバーを手に取って、バイザーの留め具の、最後のねじを締めはじめた。
くるり、くるり。
「ひまりちゃんが、ユメミのお話をちゃんと聞いてくれますように」
おまじないみたいに、ねじを一回まわすたびに、小さな声で唱える。
最後のひと回しで、レンズの奥に、ほんの一瞬だけ光が灯った。
棚の上で、ドローンが一機、眠そうにまたたいている。公園でユメミの手の中に落ちてきた、最後の一機だった。
「明日は、キミの出番ですよ」
ユメミはその丸い頭を、指でそっと撫でた。
窓の向こうでは、遠くの電波塔の赤い灯りが、ゆっくりと点滅していた。
あれから三日、ユメミは一度も現れなかった。
次の日の放課後、
玄関に出てきたのは、お母さんだった。
「ごめんね、せっかく来てくれたのに。小春、まだ学校に行けてないの」
お母さんは、目の下に影を作って笑った。
「昼間は、だいぶ落ち着いてるのよ。でも、夜になると、ね……」
続きは、聞かなくても分かった。
帰りぎわ、ひまりは二階の窓を見上げた。カーテンは閉まっていて、小春ちゃんの声は、何も聞こえなかった。
それから毎日、放課後になると、二人で町を見回った。商店街、公園、川沿いの土手。
町のみなさんにも、順番に。ユメミの声が、耳の奥から離れなかった。
「ごめんね、ひまり。今日、図書委員の当番なの」
校門の前で、澪が申し訳なさそうに言った。
「終わったら、すぐ合流するから。一人で無理しないでね。何かあったら、すぐ連絡して」
「大丈夫大丈夫! 商店街ぐるっと回って、公園で待ってるね!」
「……ひまりの大丈夫は、半分くらいで聞いておくね」
澪は眉を下げて笑って、図書室のほうへ歩いていった。
一人になると、足は勝手に速くなった。
一人のときは、いつも走ってしまう。
それに今日は、止まりたくなかった。立ち止まると、耳の奥であの泣き声が、また聞こえてくる気がした。
商店街を抜けて、住宅街の細い道に入ったときだった。
ぶうん、と小さな羽音がした。
見上げると、塀と塀のあいだを、手のひらほどの丸い機械がふらふらと飛んでいた。
まどろみドローン。
一機だけだった。地面すれすれまで下がっては、また浮き上がる。疲れた鳥みたいな飛び方だった。
ドローンは、町外れのほうへゆっくり進んでいく。
あの子のところへ、帰るのかもしれない。
ひまりはスマホを取り出した。澪の当番が終わるまで、あと三十分。待っていたら、きっと見失う。
でも、一人で無理しないで、と言われたばかりだった。
ひまりは、右耳の上の跳ねた髪を指でつまんだ。
くるくると、指に巻きつける。
ほどいて、また巻きつけて。
ドローンが、角の向こうへ消えかけた。
ひまりは指をほどいて、急いでメッセージを打った。
『ドローン見つけた! 町外れのほうに行ったから、追いかけるね!』
送信を押すより早く、足が地面を蹴っていた。
路地の陰でサンブルームを掲げると、ひまわりの花びらが、ひまりを包んだ。
屋根から屋根へ跳んで、ドローンを追った。
家並みがまばらになって、道がゆるい坂になる。坂の上に、白い建物が見えた。
屋根の上で、錆びた風見鶏が、どこも向かずに止まっている。入り口の看板は文字がかすれて、「気象」の二文字だけがかろうじて読めた。
ドローンは、フェンスの破れ目をくぐって、敷地の中へ入っていった。
リリィはフェンスを跳び越えた。
伸び放題の草のまんなかで、ドローンが、ぴたりと止まった。
くるりとこちらを向いて、ぱちり、とまたたく。
次の瞬間、あちこちから羽音が湧き上がった。
軒下から。草の陰から。止まったままの風速計の向こうから。数えきれないほどのドローンが浮かび上がり、リリィの頭の上で輪になった。
淡い光が、降ってくる。
夕方の教室の、窓から差しこむ日差しみたいな光。
まぶたが、ふっと重くなった。
リリィは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。
霞が、半分だけ晴れる。
もう一度、ぱちん。
晴れない。
手首を見た。
公園では、ここにひんやりしたものが巻きついて、後ろへ引き戻してくれた。今日は、何もない。
右腕を突き出す。光の盾が、ぱっと開きかけて、ほろりとほどけた。
膝から、力が抜けていく。あったかい布団に潜りこんだときの、あの感じ。
澪ちゃん、もうすぐ当番、終わるかな。
草の匂いがして、それきり、何も分からなくなった。
紅茶の匂いがした。
それと、ほんの少しだけ、機械の油の匂い。
目を開けると、ひまりはふかふかのソファに沈んでいた。まだ、リリィの姿のままだった。
目の前に、虹色の膜があった。
上にも、横にも、後ろにも。大きな、大きなシャボン玉の中に、ソファごと閉じこめられていた。
「あっ、起きました!」
膜の向こうで、ブロンドの頭がぴょんと跳ねた。
ユメミだった。
「ぷかぷかドームちゃんです! かわいいでしょう?」
リリィは跳ね起きて、膜に拳を打ちつけた。
ぽよん。
膜は大きくへこんで、それから何事もなかったように元に戻った。
盾を押し当てても、ぽよん。体当たりしても、ぽよん。
「ぜーんぜん痛くないでしょう? 中からは割れないんです。でも、外からは、ほら」
ユメミはティーカップを、膜にそっと押し当てた。カップは、ゆっくり、ゆっくり、虹色の膜をくぐって、こちら側へ入ってきた。
思わず受け取ってしまう。あったかかった。
ドームの外を見回す。床じゅうに配線と紙の山。その中に、テーブルのまわりだけ、ぽっかりと片付いた場所がある。
「ひまりちゃん、お砂糖はいくつですか?」
カップを持つ手が、止まった。
「……どうして」
「データは嘘をつきません!」
ユメミは胸を張って、指を一本ずつ折りはじめた。
「小春ちゃんが、ひまりちゃんって呼んでました。滑り台の陰に入ったのは二人、出てきたのも二人。身長、ぴったり同じ。それから」
袖の余った指が、ひまりの右耳の上を指さす。
「その跳ねた髪も、変身の前と後で、ぴったり同じでした」
ひまりは思わず、自分の髪を押さえた。
「アイリスさんのほうは、お名前が分かりませんでした。残念です。教えてくれますか?」
「……言わない」
「むー」
ユメミは頬をふくらませたけれど、それ以上は聞かなかった。
かわりに、自分のカップを両手で包んで、膜のすぐ向こうに座りこんだ。
「公園で、聞いてくれましたよね。キミは本当はどうしたいのって」
ユメミの声が、少しだけ小さくなる。
「ユメミ、あれから、ずーっとお返事を考えてたんです。だから今日は、ユメミがお返事する番です。……聞いてくれますか?」
逃げられないから聞く、のではなかった。
ひまりは、聞きたいと思った。あの雨の中の、見たことのない笑顔のわけを。
ソファに座り直して、カップを膝の上に置く。
「……うん。聞く」
ユメミは、小さいころから天才と呼ばれていたこと。みんなが「次は何を作るの」としか聞かなかったこと。認めてほしくて、もっとすごいものを、もっと急いで作ったこと。
ひまりは、うん、うん、と頷きながら聞いた。
「それで、学会っていうところで研究してたんですけど」
「がっかい」
「被験者さんの同意書っていうのを、もらい忘れちゃって。追い出されちゃったんです。学会の人たちったら、ユメミの研究、ぜーんぜん分かってくれないんですよ? ひどいと思いません?」
「ちょ、ちょっと待って」
ひまりは身を乗り出した。
「学会って……キミ、何年生?」
「ユメミは二十八歳です!」
カップの紅茶が、膝の上で大きく揺れた。
「にじゅう……はっさい……!?」
「どうして皆さん、そこで驚くんですか!」
ユメミは、ぷうっと頬をふくらませた。
「ご、ごめんなさい! えっと……ユメミ、さん」
言い直すと、ユメミはふくらませた頬のまま、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。
それから、カップの縁を指でなぞった。
「追い出された日の帰り道、ユメミ、ちょっとだけ泣いたんです。誰も見てない道で」
ひまりは、何も言わずに聞いていた。
「そしたら、思ったんです。泣かなくていい世界があったら、いいのにって」
ユメミは顔を上げて、にこっと笑った。
「それと、公園では、説明がへたっぴでした。学会でも、よく言われたんです」
膜の向こうで、ユメミがポケットからゴーグルを取り出す。レンズが、シャボン玉みたいに淡く光った。
「夢の中ではね、なんでも選べるんです。コタロウくんとお散歩する道も、走るか、ゆっくり歩くかも。何回でも、何回でも」
ユメミの声は、本当に優しかった。
「こっちの世界に興味がなくなるのは、こっちには、悲しい選び方しか残ってないからです。……ひまりちゃんなら、分かってくれますよね?」
ひまりは、カップを見下ろした。
分かった。
ユメミが、意地悪で言っているのではないことは。あの日、誰もいない道で泣いて、それで決めたことなのだということは。
だからこそ、ひまりは首を横に振った。
「キミの言うこと、分かるよ。でも」
まっすぐに、ユメミの目を見る。
「それでも、選ぶのはその人だよ。誰かに強制された選択じゃあ、必ず後悔しちゃうもん」
ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。
「……公園でも、そう言ってましたね」
小さな声だった。
ユメミの肩が、すとんと落ちる。カップを持ったまま、しばらく黙って、自分の膝を見つめていた。
それから、ぱっと顔を上げた。
両手を背中に回して、何かをごそごそと取り出す。
「じゃーん! ひまりちゃんのためだけに作った、ドリームバイザーです!」
虹色の膜が、すうっと縮んだ。
ソファごと包んでいたドームが、ひまりの肩のあたりまで小さくなって、そっとまとわりつく。毛布にくるまれたみたいに、腕が持ち上がらなかった。苦しくはない。ただ、動けない。
「待って!」
ユメミは膜をくぐって、ひまりの前に立った。
公園で、手首をつかんで止めたのは、ひまりのほうだった。今は、伸ばす手がない。
「ちょっとだけ、ひんやりしますよ」
細い指が、ひまりの目元に、そっとバイザーを添えた。眼鏡をかけてあげるみたいに、丁寧に。耳の後ろでベルトの長さを確かめて、小さく「ぴったりです」とつぶやく。
視界が、夜明け前の空の色に染まった。
何も見えない。なのに、まぶしくもない。
すぐ耳もとで、ユメミの声がした。
「ねえ、ひまりちゃん」
やわらかい、内緒話みたいな声だった。
「小春ちゃん、今も泣いてるかな」