泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第4話 おはよう、ユメミさん!(前編)

研究所の夜は、機械の音でできている。

 

町外れの、もう誰も使っていない気象観測所。ユメミが勝手に改装したこの建物では、真夜中でも、どこかで何かがぶうんと唸っている。

 

明るいのは、作業台の上だけだった。

 

床には配線の束と、栄養ゼリーの空き袋と、読みかけの論文が、地層みたいに積もっている。片付けは、明日やる。明日の明日かもしれない。

 

部屋の隅のテーブルだけは別だった。ティーカップが二つ、きちんと並んでいる。花柄のお皿には、とっておきのクッキー。そこだけは昨日、三時間かけて片付けた。

 

お客さま用、なのだ。

 

「……よし」

 

ユメミは拡大鏡を下ろして、作業台の上のものを両手で持ち上げた。

 

細いバイザーだった。ゴーグルよりずっと薄くて、軽い。レンズは、夜明け前の空みたいな淡い色をしている。

 

ドリームバイザー。

 

ゴーグルの名前は三日三晩考えたのに、この子の名前は一秒で決まった。そのかわり、作るのに三晩かかった。三晩とも、一睡もしていない。

 

ぜーんぜん、眠くなかったのだ。

 

公園で、あの子に聞かれてから。

 

――キミは本当はどうしたいの?

 

思い出すだけで、白衣の胸のあたりがぽかぽかする。

 

天才だね、とは何度も言われた。すごい発明だね、とも。次は何を作るの、成果はいつ出るの、とも。

 

でも、ユメミがどうしたいのかを聞いてくれた人は、いなかった。

 

一人も。

 

ユメミは作業台の端のノートを開いた。表紙には、大きく『観測記録』と書いてある。

 

『滑り台の陰に入った女の子、二人。出てきたヒロイン、二人。身長、ぴったり同じ。オレンジの子の右耳の上の跳ねた髪、変身のあとも、ぴったり同じ』

 

その下に、ひときわ大きな字で。

 

『小春ちゃんが呼んでいた名前 ひまりちゃん』

 

ユメミは小さなドライバーを手に取って、バイザーの留め具の、最後のねじを締めはじめた。

 

くるり、くるり。

 

「ひまりちゃんが、ユメミのお話をちゃんと聞いてくれますように」

 

おまじないみたいに、ねじを一回まわすたびに、小さな声で唱える。

 

最後のひと回しで、レンズの奥に、ほんの一瞬だけ光が灯った。

 

棚の上で、ドローンが一機、眠そうにまたたいている。公園でユメミの手の中に落ちてきた、最後の一機だった。

 

「明日は、キミの出番ですよ」

 

ユメミはその丸い頭を、指でそっと撫でた。

 

窓の向こうでは、遠くの電波塔の赤い灯りが、ゆっくりと点滅していた。

 

あれから三日、ユメミは一度も現れなかった。

 

次の日の放課後、陽向(ひなた)ひまりは蒼井澪(あおいみお)と二人で、小春(こはる)ちゃんの家を訪ねた。

 

玄関に出てきたのは、お母さんだった。

 

「ごめんね、せっかく来てくれたのに。小春、まだ学校に行けてないの」

 

お母さんは、目の下に影を作って笑った。

 

「昼間は、だいぶ落ち着いてるのよ。でも、夜になると、ね……」

 

続きは、聞かなくても分かった。

 

帰りぎわ、ひまりは二階の窓を見上げた。カーテンは閉まっていて、小春ちゃんの声は、何も聞こえなかった。

 

それから毎日、放課後になると、二人で町を見回った。商店街、公園、川沿いの土手。

 

町のみなさんにも、順番に。ユメミの声が、耳の奥から離れなかった。

 

「ごめんね、ひまり。今日、図書委員の当番なの」

 

校門の前で、澪が申し訳なさそうに言った。

 

「終わったら、すぐ合流するから。一人で無理しないでね。何かあったら、すぐ連絡して」

 

「大丈夫大丈夫! 商店街ぐるっと回って、公園で待ってるね!」

 

「……ひまりの大丈夫は、半分くらいで聞いておくね」

 

澪は眉を下げて笑って、図書室のほうへ歩いていった。

 

一人になると、足は勝手に速くなった。

 

一人のときは、いつも走ってしまう。

 

それに今日は、止まりたくなかった。立ち止まると、耳の奥であの泣き声が、また聞こえてくる気がした。

 

商店街を抜けて、住宅街の細い道に入ったときだった。

 

ぶうん、と小さな羽音がした。

 

見上げると、塀と塀のあいだを、手のひらほどの丸い機械がふらふらと飛んでいた。

 

まどろみドローン。

 

一機だけだった。地面すれすれまで下がっては、また浮き上がる。疲れた鳥みたいな飛び方だった。

 

ドローンは、町外れのほうへゆっくり進んでいく。

 

あの子のところへ、帰るのかもしれない。

 

ひまりはスマホを取り出した。澪の当番が終わるまで、あと三十分。待っていたら、きっと見失う。

 

でも、一人で無理しないで、と言われたばかりだった。

 

ひまりは、右耳の上の跳ねた髪を指でつまんだ。

 

くるくると、指に巻きつける。

 

ほどいて、また巻きつけて。

 

ドローンが、角の向こうへ消えかけた。

 

ひまりは指をほどいて、急いでメッセージを打った。

 

『ドローン見つけた! 町外れのほうに行ったから、追いかけるね!』

 

送信を押すより早く、足が地面を蹴っていた。

 

路地の陰でサンブルームを掲げると、ひまわりの花びらが、ひまりを包んだ。

 

屋根から屋根へ跳んで、ドローンを追った。

 

家並みがまばらになって、道がゆるい坂になる。坂の上に、白い建物が見えた。

 

屋根の上で、錆びた風見鶏が、どこも向かずに止まっている。入り口の看板は文字がかすれて、「気象」の二文字だけがかろうじて読めた。

 

ドローンは、フェンスの破れ目をくぐって、敷地の中へ入っていった。

 

リリィはフェンスを跳び越えた。

 

伸び放題の草のまんなかで、ドローンが、ぴたりと止まった。

 

くるりとこちらを向いて、ぱちり、とまたたく。

 

次の瞬間、あちこちから羽音が湧き上がった。

 

軒下から。草の陰から。止まったままの風速計の向こうから。数えきれないほどのドローンが浮かび上がり、リリィの頭の上で輪になった。

 

淡い光が、降ってくる。

 

夕方の教室の、窓から差しこむ日差しみたいな光。

 

まぶたが、ふっと重くなった。

 

リリィは両手で、自分の頬をぱちんと叩いた。

 

霞が、半分だけ晴れる。

 

もう一度、ぱちん。

 

晴れない。

 

手首を見た。

 

公園では、ここにひんやりしたものが巻きついて、後ろへ引き戻してくれた。今日は、何もない。

 

右腕を突き出す。光の盾が、ぱっと開きかけて、ほろりとほどけた。

 

膝から、力が抜けていく。あったかい布団に潜りこんだときの、あの感じ。

 

澪ちゃん、もうすぐ当番、終わるかな。

 

草の匂いがして、それきり、何も分からなくなった。

 

紅茶の匂いがした。

 

それと、ほんの少しだけ、機械の油の匂い。

 

目を開けると、ひまりはふかふかのソファに沈んでいた。まだ、リリィの姿のままだった。

 

目の前に、虹色の膜があった。

 

上にも、横にも、後ろにも。大きな、大きなシャボン玉の中に、ソファごと閉じこめられていた。

 

「あっ、起きました!」

 

膜の向こうで、ブロンドの頭がぴょんと跳ねた。

 

ユメミだった。

 

「ぷかぷかドームちゃんです! かわいいでしょう?」

 

リリィは跳ね起きて、膜に拳を打ちつけた。

 

ぽよん。

 

膜は大きくへこんで、それから何事もなかったように元に戻った。

 

盾を押し当てても、ぽよん。体当たりしても、ぽよん。

 

「ぜーんぜん痛くないでしょう? 中からは割れないんです。でも、外からは、ほら」

 

ユメミはティーカップを、膜にそっと押し当てた。カップは、ゆっくり、ゆっくり、虹色の膜をくぐって、こちら側へ入ってきた。

 

思わず受け取ってしまう。あったかかった。

 

ドームの外を見回す。床じゅうに配線と紙の山。その中に、テーブルのまわりだけ、ぽっかりと片付いた場所がある。

 

「ひまりちゃん、お砂糖はいくつですか?」

 

カップを持つ手が、止まった。

 

「……どうして」

 

「データは嘘をつきません!」

 

ユメミは胸を張って、指を一本ずつ折りはじめた。

 

「小春ちゃんが、ひまりちゃんって呼んでました。滑り台の陰に入ったのは二人、出てきたのも二人。身長、ぴったり同じ。それから」

 

袖の余った指が、ひまりの右耳の上を指さす。

 

「その跳ねた髪も、変身の前と後で、ぴったり同じでした」

 

ひまりは思わず、自分の髪を押さえた。

 

「アイリスさんのほうは、お名前が分かりませんでした。残念です。教えてくれますか?」

 

「……言わない」

 

「むー」

 

ユメミは頬をふくらませたけれど、それ以上は聞かなかった。

 

かわりに、自分のカップを両手で包んで、膜のすぐ向こうに座りこんだ。

 

「公園で、聞いてくれましたよね。キミは本当はどうしたいのって」

 

ユメミの声が、少しだけ小さくなる。

 

「ユメミ、あれから、ずーっとお返事を考えてたんです。だから今日は、ユメミがお返事する番です。……聞いてくれますか?」

 

逃げられないから聞く、のではなかった。

 

ひまりは、聞きたいと思った。あの雨の中の、見たことのない笑顔のわけを。

 

ソファに座り直して、カップを膝の上に置く。

 

「……うん。聞く」

 

ユメミは、小さいころから天才と呼ばれていたこと。みんなが「次は何を作るの」としか聞かなかったこと。認めてほしくて、もっとすごいものを、もっと急いで作ったこと。

 

ひまりは、うん、うん、と頷きながら聞いた。

 

「それで、学会っていうところで研究してたんですけど」

 

「がっかい」

 

「被験者さんの同意書っていうのを、もらい忘れちゃって。追い出されちゃったんです。学会の人たちったら、ユメミの研究、ぜーんぜん分かってくれないんですよ? ひどいと思いません?」

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

ひまりは身を乗り出した。

 

「学会って……キミ、何年生?」

 

「ユメミは二十八歳です!」

 

カップの紅茶が、膝の上で大きく揺れた。

 

「にじゅう……はっさい……!?」

 

「どうして皆さん、そこで驚くんですか!」

 

ユメミは、ぷうっと頬をふくらませた。

 

「ご、ごめんなさい! えっと……ユメミ、さん」

 

言い直すと、ユメミはふくらませた頬のまま、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

それから、カップの縁を指でなぞった。

 

「追い出された日の帰り道、ユメミ、ちょっとだけ泣いたんです。誰も見てない道で」

 

ひまりは、何も言わずに聞いていた。

 

「そしたら、思ったんです。泣かなくていい世界があったら、いいのにって」

 

ユメミは顔を上げて、にこっと笑った。

 

「それと、公園では、説明がへたっぴでした。学会でも、よく言われたんです」

 

膜の向こうで、ユメミがポケットからゴーグルを取り出す。レンズが、シャボン玉みたいに淡く光った。

 

「夢の中ではね、なんでも選べるんです。コタロウくんとお散歩する道も、走るか、ゆっくり歩くかも。何回でも、何回でも」

 

ユメミの声は、本当に優しかった。

 

「こっちの世界に興味がなくなるのは、こっちには、悲しい選び方しか残ってないからです。……ひまりちゃんなら、分かってくれますよね?」

 

ひまりは、カップを見下ろした。

 

分かった。

 

ユメミが、意地悪で言っているのではないことは。あの日、誰もいない道で泣いて、それで決めたことなのだということは。

 

だからこそ、ひまりは首を横に振った。

 

「キミの言うこと、分かるよ。でも」

 

まっすぐに、ユメミの目を見る。

 

「それでも、選ぶのはその人だよ。誰かに強制された選択じゃあ、必ず後悔しちゃうもん」

 

ユメミは、ぱちぱちとまばたきをした。

 

「……公園でも、そう言ってましたね」

 

小さな声だった。

 

ユメミの肩が、すとんと落ちる。カップを持ったまま、しばらく黙って、自分の膝を見つめていた。

 

それから、ぱっと顔を上げた。

 

両手を背中に回して、何かをごそごそと取り出す。

 

「じゃーん! ひまりちゃんのためだけに作った、ドリームバイザーです!」

 

虹色の膜が、すうっと縮んだ。

 

ソファごと包んでいたドームが、ひまりの肩のあたりまで小さくなって、そっとまとわりつく。毛布にくるまれたみたいに、腕が持ち上がらなかった。苦しくはない。ただ、動けない。

 

「待って!」

 

ユメミは膜をくぐって、ひまりの前に立った。

 

公園で、手首をつかんで止めたのは、ひまりのほうだった。今は、伸ばす手がない。

 

「ちょっとだけ、ひんやりしますよ」

 

細い指が、ひまりの目元に、そっとバイザーを添えた。眼鏡をかけてあげるみたいに、丁寧に。耳の後ろでベルトの長さを確かめて、小さく「ぴったりです」とつぶやく。

 

視界が、夜明け前の空の色に染まった。

 

何も見えない。なのに、まぶしくもない。

 

すぐ耳もとで、ユメミの声がした。

 

「ねえ、ひまりちゃん」

 

やわらかい、内緒話みたいな声だった。

 

「小春ちゃん、今も泣いてるかな」

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