小春ちゃん、今も泣いてるかな。
分からない、とひまりは思った。
三日前から、小春ちゃんの声を一度も聞いていない。二階の窓は、カーテンが閉まっていた。お母さんは「夜になると、ね……」と言っただけだった。
分からない。
分からないのに、耳の奥で、泣き声がした。
雨の公園で聞いた声だった。お母さんの腕の中でも止まらなかった声。小春ちゃんの家の門が閉まるまで、ずっと聞こえていた声。
その声が、少しずつ大きくなる。
夜明け前の色の中で、ほかの音が遠のいていく。自分の息の音も、研究所の機械の唸りも。泣き声だけが、すぐそばにある。
……本当に、これで良かったのかな。
あの雨の帰り道で、誰も答えなかった問いが、もう一度聞こえた。
「ひまりちゃん」
ユメミの声は、やわらかかった。
「あの日、小春ちゃんに何をあげたんですか?」
ひまりは、少しだけ考えた。
ゴーグルを止めた。しゃがんで、目線を合わせて、聞いた。小春ちゃんはどうしたいのかな、と。
「……選ぶ、自由」
「小春ちゃんは、選べましたか?」
口が、小さく開いていた。
ゴーグルを見て、赤いリードを見て、ひまりを見た。何かを言おうとしていた。
それなのに、言葉は一つも出てこなかった。かわりに、しゃくり上げる音がした。一つ、もう一つ。答えのかわりに、ずっと泣き声だけがあった。
選べなかった。
ひまりは、ゆっくりとそれを認めた。
自由をあげたつもりだった。でも、小春ちゃんの手は、あのときリードを握るだけでいっぱいだった。差し出された自由を、受け取る手が空いていなかった。
泣いている子は、選べない。
誰に言われたのでもなかった。思い出せば、そうとしか言えなかった。
「でも」
ひまりは、首を振ろうとした。毛布みたいな膜の中で、うまく振れなかった。
「誰かに決められたら、後悔するんだよ。自分で選ばなきゃ、だめなんだよ」
それは、ずっと信じてきたことだった。傘の男の子にも、廊下の一年生にも、そうやって聞いてきた。
ユメミの声が、少しだけ首をかしげたように聞こえた。
「自分で選んだら、泣かないんですか?」
ひまりは、答えようとした。
泣かないよ、と言いかけて、その言葉が喉で止まった。
四月の夜が、浮かんできたからだった。
澪ちゃんは、自分で選んだ。
お父さんについていくか、この町に残るか。迷って、迷って、河川敷のベンチで日が暮れるまで考えて、自分の口で「残りたい」と言った。誰にも決められなかった。ひまりも、何も言わなかった。言わないようにした。
あれは、澪ちゃんが選んだ道だった。
それなのに、その夜、澪ちゃんは泣いていた。
ひまりは知っている。
駅でお父さんを見送った日の夜、ひまりは家にいられなかった。澪ちゃんは笑って手を振ったと聞いた。泣かなかったと聞いた。だから余計に、気になってしかたがなかった。
夜更けに家を抜け出して、澪ちゃんの家の前まで行った。
二階の窓に、スタンドの明かりがついていた。
見上げていると、声が聞こえた。
押し殺した声だった。枕か、膝か、何かに顔を押しつけて、それでも漏れてしまう声。ほんの小さな、でも止まらない声。
澪ちゃんが泣いていた。
自分で選んだのに。自分で決めたのに。
選ぶことは、涙を止めてくれなかった。
ひまりの信じてきたことは、間違ってはいなかったのかもしれない。誰かに決められたら、きっともっと泣いた。でも、自分で選んでも、人は泣くのだ。
選ぶことと、泣かないことは、別のことだった。
ずっと、同じものだと思っていた。
「そのとき」
ユメミの声が、すぐ近くで言った。
「ひまりちゃんは、何をしてたんですか?」
待っていた。
ひまりは、窓の下に立っていた。
チャイムは鳴らさなかった。声もかけなかった。スタンドの明かりが消えるのを、ただ待っていた。
澪ちゃんは自分で選んだのだから、泣くのも澪ちゃんのものだ。入っていって慰めたら、澪ちゃんの選んだ道を、泣くほどの間違いにしてしまう気がした。だから、待つことにした。
あのときは、それが正しいと思った。
夜が、長かった。
四月の夜はまだ冷たくて、指先がだんだん痺れていった。どこかの家の犬が、一度だけ吠えた。新聞配達のバイクの音が遠くを通っていった。
明かりは、消えなかった。
泣き声も、止まらなかった。
ひまりが待っているあいだ、ずっと。
空が白くなっても、明かりは窓の中でぼんやり光っていた。ひまりは一度家に帰って、顔を洗って、三十分早く澪ちゃんを迎えに行った。それしか、できなかった。
湿った砂の冷たさが、膝によみがえる。
公園でも、同じだった。
小春ちゃんの前にしゃがんで、待った。背中に手を添えて、待った。膝がじんと痺れて、ブランコの鎖がきいと鳴って、車が一台通り過ぎて、雨が降り出した。
それでも、泣き声は止まらなかった。
ひまりがどれだけ待っても。
……いいよ。今は、言えなくていいからね。
あのとき、ひまりはそう言った。優しく言ったつもりだった。
でも、本当は。
何を言えばいいのか、分からなかっただけだった。
河川敷のベンチでも、そうだった。日が暮れるまで、ひまりは一度も立ち上がらなかった。膝の上で、両手をぎゅっと握っていた。そうしていないと、立ち上がってしまいそうだったから。澪ちゃんの手を引いて、「残ってよ」と言ってしまいそうだったから。
じっと座っていることが、何よりも苦手だった。
待つことは、ひまりにとって、いちばん我慢のいることだった。それでも待った。待つのが優しさだと思ったから。
窓の下の夜が、ゆっくりと引き延ばされていく。
明かりは消えない。泣き声は止まらない。ひまりは動かない。
一時間。二時間。朝まで。
その間に、ひまりが澪ちゃんにしたことは、何だっただろう。
何も、なかった。
チャイムを鳴らさなかった。声をかけなかった。窓の下で、ただ立っていた。泣き声は、ひまりがそこにいてもいなくても、同じように続いていた。
待ってたんじゃない。
ボクは、何もしなかっただけなんだ。
息が、少しだけ楽になった。
おかしいな、とひまりは思った。悲しいことに気づいたはずなのに、胸の奥で、何かがほどけていく。
泣き止んでから、選べばいいんだ。
選ぶことを、捨てるんじゃない。泣いている人は選べない。だったら、先に涙を止めればいい。選ぶのは、そのあとでいい。
順番が、逆だっただけだ。
やっと、何かしてあげられる。
窓の下で、膝の上で、砂の上で、ずっと握りしめていた手を、やっと開いていい。
ユメミの言葉が、浮かんできた。
夢の中ではね、なんでも選べるんです。コタロウくんとお散歩する道も、走るか、ゆっくり歩くかも。何回でも、何回でも。
公園で聞いたときは、ひどいことを言う子だと思った。この世界に興味がなくなる、と笑ったから。
でも、こっちの世界で、小春ちゃんは選べなかった。泣いている間は、どれだけ待っても選べない。
夢の中なら、泣かずに選べる。何回でも、選び直せる。
ゴーグルは、選ぶ自由を奪うものじゃない。泣いている人を、選べるところまで連れていってあげるものなんだ。
泣き止んでから選べばいい。
だったら、泣かない場所で、選べばいい。
町の人たちの顔が、順番に浮かんでくる。
小春ちゃん。商店街のおじさん。パン屋のおばさん。水色に黄色い星の傘の男の子。「ひかりのたて!」と両腕を突き出していた、二つ結びの女の子。
一人ずつ、順番に目を合わせていくところを思い浮かべる。
最後に、澪ちゃんの顔が浮かんだ。
ひまりは、その名前を口には出さなかった。
澪ちゃんは、大丈夫だ。
カサオバケのとき、足止めを一人で任せて、ひまりは振り返らずに走った。澪ちゃんなら平気だと、疑いもしなかった。澪ちゃんはいつだって、ひまりが戻るまで、ちゃんとそこにいてくれた。
澪ちゃんは、待っていられる子だ。
だから、一番最後でいい。
「ひまりちゃん」
ユメミの声が、少しだけ震えていた。
「ユメミのお話、最後まで聞いてくれて、ありがとうございました」
この人は、ボクと同じことを考えてたんだ。
最後まで、聞いてあげなきゃ。
夜明け前の色が、少しずつ薄くなっていった。
ひまりの中で、言葉が一つ、形になる。
誰に教わったのでもなかった。自分の記憶と、自分の言葉だけで、ひまりはそこにたどり着いた。
みんなに、笑顔を届ける。
ボクが、みんなの笑顔を作るんだ。
レンズの向こうが、透きとおっていく。
研究所の天井が見えた。配線の束と、紙の山と、片付いたテーブルの上のティーカップが見えた。
そして、すぐ目の前に、ユメミの顔があった。
息を止めて、こちらを覗きこんでいる。目のふちが赤い。ずいぶん眠っていない顔だった。
肩のまわりの膜が、ぱちん、と小さく弾けて消えた。
腕が動く。ひまりは、自分の目元に触れた。
細いバイザーが、そこにあった。ひんやりしていて、軽い。指でなぞると、留め具の小さなねじに触れた。
胸もとのサンブルームが、ふわりと光った。
スカートの白いフリルが、袖が、グローブが、端から順に、やわらかいラベンダー色に染まっていく。オレンジのリボンも、山吹色の段も、そのままだった。
ユメミが、ごくりと息をのんだ。
「……ひまりちゃん?」
ひまりは、にっと笑った。
「一緒に、町のみんなを笑顔にしよう!」
それだけで、ユメミの顔がくしゃくしゃに崩れた。
「同志!」
ユメミは両腕を広げて、ひまりに飛びついた。ソファがぼすんと沈む。白衣の袖が背中に回って、ぎゅうぎゅうと締めつけてくる。
「同志、同志、同志です! ユメミ、ずーっと、ずーっと、こういう人を探してたんです! データは嘘をつかなかった……!」
足をばたばたさせて、子供みたいにはしゃいでいる。ブロンドの髪が、ひまりの頬をくすぐった。
ひまりは、その背中にそっと腕を回した。
それから、バイザーのつるを指でつまんで、少しだけ持ち上げてみた。夜明け前の空の色をした、きれいなレンズだった。
「これ、すっごくかわいいね」
「でしょう!? ひまりちゃんのためだけに作ったんです!」
「えへへ。大事にするね」
ひまりはバイザーをかけ直して、くるっと一回転した。ラベンダー色のスカートの裾が、ふわりと広がる。
窓の外が、明るくなりはじめていた。
坂の下の町の屋根が、一枚ずつ朝の光をはじいていく。あの屋根の下で、まだ誰かが泣いている。
ひまりは、両手で自分の頬をぱちんと叩いた。
それから、ユメミに向き直って、朝の光みたいな顔で笑った。
「おはよう、ユメミさん!」