泣かない世界の陽だまりで   作:搗き米屋文蔵

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第4話 おはよう、ユメミさん!(後編)

小春ちゃん、今も泣いてるかな。

 

分からない、とひまりは思った。

 

三日前から、小春ちゃんの声を一度も聞いていない。二階の窓は、カーテンが閉まっていた。お母さんは「夜になると、ね……」と言っただけだった。

 

分からない。

 

分からないのに、耳の奥で、泣き声がした。

 

雨の公園で聞いた声だった。お母さんの腕の中でも止まらなかった声。小春ちゃんの家の門が閉まるまで、ずっと聞こえていた声。

 

その声が、少しずつ大きくなる。

 

夜明け前の色の中で、ほかの音が遠のいていく。自分の息の音も、研究所の機械の唸りも。泣き声だけが、すぐそばにある。

 

……本当に、これで良かったのかな。

 

あの雨の帰り道で、誰も答えなかった問いが、もう一度聞こえた。

 

「ひまりちゃん」

 

ユメミの声は、やわらかかった。

 

「あの日、小春ちゃんに何をあげたんですか?」

 

ひまりは、少しだけ考えた。

 

ゴーグルを止めた。しゃがんで、目線を合わせて、聞いた。小春ちゃんはどうしたいのかな、と。

 

「……選ぶ、自由」

 

「小春ちゃんは、選べましたか?」

 

口が、小さく開いていた。

 

ゴーグルを見て、赤いリードを見て、ひまりを見た。何かを言おうとしていた。

 

それなのに、言葉は一つも出てこなかった。かわりに、しゃくり上げる音がした。一つ、もう一つ。答えのかわりに、ずっと泣き声だけがあった。

 

選べなかった。

 

ひまりは、ゆっくりとそれを認めた。

 

自由をあげたつもりだった。でも、小春ちゃんの手は、あのときリードを握るだけでいっぱいだった。差し出された自由を、受け取る手が空いていなかった。

 

泣いている子は、選べない。

 

誰に言われたのでもなかった。思い出せば、そうとしか言えなかった。

 

「でも」

 

ひまりは、首を振ろうとした。毛布みたいな膜の中で、うまく振れなかった。

 

「誰かに決められたら、後悔するんだよ。自分で選ばなきゃ、だめなんだよ」

 

それは、ずっと信じてきたことだった。傘の男の子にも、廊下の一年生にも、そうやって聞いてきた。

 

ユメミの声が、少しだけ首をかしげたように聞こえた。

 

「自分で選んだら、泣かないんですか?」

 

ひまりは、答えようとした。

 

泣かないよ、と言いかけて、その言葉が喉で止まった。

 

四月の夜が、浮かんできたからだった。

 

澪ちゃんは、自分で選んだ。

 

お父さんについていくか、この町に残るか。迷って、迷って、河川敷のベンチで日が暮れるまで考えて、自分の口で「残りたい」と言った。誰にも決められなかった。ひまりも、何も言わなかった。言わないようにした。

 

あれは、澪ちゃんが選んだ道だった。

 

それなのに、その夜、澪ちゃんは泣いていた。

 

ひまりは知っている。

 

駅でお父さんを見送った日の夜、ひまりは家にいられなかった。澪ちゃんは笑って手を振ったと聞いた。泣かなかったと聞いた。だから余計に、気になってしかたがなかった。

 

夜更けに家を抜け出して、澪ちゃんの家の前まで行った。

 

二階の窓に、スタンドの明かりがついていた。

 

見上げていると、声が聞こえた。

 

押し殺した声だった。枕か、膝か、何かに顔を押しつけて、それでも漏れてしまう声。ほんの小さな、でも止まらない声。

 

澪ちゃんが泣いていた。

 

自分で選んだのに。自分で決めたのに。

 

選ぶことは、涙を止めてくれなかった。

 

ひまりの信じてきたことは、間違ってはいなかったのかもしれない。誰かに決められたら、きっともっと泣いた。でも、自分で選んでも、人は泣くのだ。

 

選ぶことと、泣かないことは、別のことだった。

 

ずっと、同じものだと思っていた。

 

「そのとき」

 

ユメミの声が、すぐ近くで言った。

 

「ひまりちゃんは、何をしてたんですか?」

 

待っていた。

 

ひまりは、窓の下に立っていた。

 

チャイムは鳴らさなかった。声もかけなかった。スタンドの明かりが消えるのを、ただ待っていた。

 

澪ちゃんは自分で選んだのだから、泣くのも澪ちゃんのものだ。入っていって慰めたら、澪ちゃんの選んだ道を、泣くほどの間違いにしてしまう気がした。だから、待つことにした。

 

あのときは、それが正しいと思った。

 

夜が、長かった。

 

四月の夜はまだ冷たくて、指先がだんだん痺れていった。どこかの家の犬が、一度だけ吠えた。新聞配達のバイクの音が遠くを通っていった。

 

明かりは、消えなかった。

 

泣き声も、止まらなかった。

 

ひまりが待っているあいだ、ずっと。

 

空が白くなっても、明かりは窓の中でぼんやり光っていた。ひまりは一度家に帰って、顔を洗って、三十分早く澪ちゃんを迎えに行った。それしか、できなかった。

 

湿った砂の冷たさが、膝によみがえる。

 

公園でも、同じだった。

 

小春ちゃんの前にしゃがんで、待った。背中に手を添えて、待った。膝がじんと痺れて、ブランコの鎖がきいと鳴って、車が一台通り過ぎて、雨が降り出した。

 

それでも、泣き声は止まらなかった。

 

ひまりがどれだけ待っても。

 

……いいよ。今は、言えなくていいからね。

 

あのとき、ひまりはそう言った。優しく言ったつもりだった。

 

でも、本当は。

 

何を言えばいいのか、分からなかっただけだった。

 

河川敷のベンチでも、そうだった。日が暮れるまで、ひまりは一度も立ち上がらなかった。膝の上で、両手をぎゅっと握っていた。そうしていないと、立ち上がってしまいそうだったから。澪ちゃんの手を引いて、「残ってよ」と言ってしまいそうだったから。

 

じっと座っていることが、何よりも苦手だった。

 

待つことは、ひまりにとって、いちばん我慢のいることだった。それでも待った。待つのが優しさだと思ったから。

 

窓の下の夜が、ゆっくりと引き延ばされていく。

 

明かりは消えない。泣き声は止まらない。ひまりは動かない。

 

一時間。二時間。朝まで。

 

その間に、ひまりが澪ちゃんにしたことは、何だっただろう。

 

何も、なかった。

 

チャイムを鳴らさなかった。声をかけなかった。窓の下で、ただ立っていた。泣き声は、ひまりがそこにいてもいなくても、同じように続いていた。

 

待ってたんじゃない。

 

ボクは、何もしなかっただけなんだ。

 

息が、少しだけ楽になった。

 

おかしいな、とひまりは思った。悲しいことに気づいたはずなのに、胸の奥で、何かがほどけていく。

 

泣き止んでから、選べばいいんだ。

 

選ぶことを、捨てるんじゃない。泣いている人は選べない。だったら、先に涙を止めればいい。選ぶのは、そのあとでいい。

 

順番が、逆だっただけだ。

 

やっと、何かしてあげられる。

 

窓の下で、膝の上で、砂の上で、ずっと握りしめていた手を、やっと開いていい。

 

ユメミの言葉が、浮かんできた。

 

夢の中ではね、なんでも選べるんです。コタロウくんとお散歩する道も、走るか、ゆっくり歩くかも。何回でも、何回でも。

 

公園で聞いたときは、ひどいことを言う子だと思った。この世界に興味がなくなる、と笑ったから。

 

でも、こっちの世界で、小春ちゃんは選べなかった。泣いている間は、どれだけ待っても選べない。

 

夢の中なら、泣かずに選べる。何回でも、選び直せる。

 

ゴーグルは、選ぶ自由を奪うものじゃない。泣いている人を、選べるところまで連れていってあげるものなんだ。

 

泣き止んでから選べばいい。

 

だったら、泣かない場所で、選べばいい。

 

町の人たちの顔が、順番に浮かんでくる。

 

小春ちゃん。商店街のおじさん。パン屋のおばさん。水色に黄色い星の傘の男の子。「ひかりのたて!」と両腕を突き出していた、二つ結びの女の子。

 

一人ずつ、順番に目を合わせていくところを思い浮かべる。

 

最後に、澪ちゃんの顔が浮かんだ。

 

ひまりは、その名前を口には出さなかった。

 

澪ちゃんは、大丈夫だ。

 

カサオバケのとき、足止めを一人で任せて、ひまりは振り返らずに走った。澪ちゃんなら平気だと、疑いもしなかった。澪ちゃんはいつだって、ひまりが戻るまで、ちゃんとそこにいてくれた。

 

澪ちゃんは、待っていられる子だ。

 

だから、一番最後でいい。

 

「ひまりちゃん」

 

ユメミの声が、少しだけ震えていた。

 

「ユメミのお話、最後まで聞いてくれて、ありがとうございました」

 

この人は、ボクと同じことを考えてたんだ。

 

最後まで、聞いてあげなきゃ。

 

夜明け前の色が、少しずつ薄くなっていった。

 

ひまりの中で、言葉が一つ、形になる。

 

誰に教わったのでもなかった。自分の記憶と、自分の言葉だけで、ひまりはそこにたどり着いた。

 

みんなに、笑顔を届ける。

 

ボクが、みんなの笑顔を作るんだ。

 

レンズの向こうが、透きとおっていく。

 

研究所の天井が見えた。配線の束と、紙の山と、片付いたテーブルの上のティーカップが見えた。

 

そして、すぐ目の前に、ユメミの顔があった。

 

息を止めて、こちらを覗きこんでいる。目のふちが赤い。ずいぶん眠っていない顔だった。

 

肩のまわりの膜が、ぱちん、と小さく弾けて消えた。

 

腕が動く。ひまりは、自分の目元に触れた。

 

細いバイザーが、そこにあった。ひんやりしていて、軽い。指でなぞると、留め具の小さなねじに触れた。

 

胸もとのサンブルームが、ふわりと光った。

 

スカートの白いフリルが、袖が、グローブが、端から順に、やわらかいラベンダー色に染まっていく。オレンジのリボンも、山吹色の段も、そのままだった。

 

ユメミが、ごくりと息をのんだ。

 

「……ひまりちゃん?」

 

ひまりは、にっと笑った。

 

「一緒に、町のみんなを笑顔にしよう!」

 

それだけで、ユメミの顔がくしゃくしゃに崩れた。

 

「同志!」

 

ユメミは両腕を広げて、ひまりに飛びついた。ソファがぼすんと沈む。白衣の袖が背中に回って、ぎゅうぎゅうと締めつけてくる。

 

「同志、同志、同志です! ユメミ、ずーっと、ずーっと、こういう人を探してたんです! データは嘘をつかなかった……!」

 

足をばたばたさせて、子供みたいにはしゃいでいる。ブロンドの髪が、ひまりの頬をくすぐった。

 

ひまりは、その背中にそっと腕を回した。

 

それから、バイザーのつるを指でつまんで、少しだけ持ち上げてみた。夜明け前の空の色をした、きれいなレンズだった。

 

「これ、すっごくかわいいね」

 

「でしょう!? ひまりちゃんのためだけに作ったんです!」

 

「えへへ。大事にするね」

 

ひまりはバイザーをかけ直して、くるっと一回転した。ラベンダー色のスカートの裾が、ふわりと広がる。

 

窓の外が、明るくなりはじめていた。

 

坂の下の町の屋根が、一枚ずつ朝の光をはじいていく。あの屋根の下で、まだ誰かが泣いている。

 

ひまりは、両手で自分の頬をぱちんと叩いた。

 

それから、ユメミに向き直って、朝の光みたいな顔で笑った。

 

「おはよう、ユメミさん!」

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