ひまりが目を覚ましたのは、窓の外が夕焼けに変わりはじめたころだった。
「ふわあ……よく寝たー!」
ソファの上で大きく伸びをして、ぴょんと跳ね起きる。目の下の影は、朝より少しだけ濃くなっていた。でも、本人はぜーんぜん気にしていない顔だった。
ひまりはバイザーを外して、お茶のテーブルにそっと置いた。
「いってきます!」
バイザーに言ったのだと、ユメミにはもう分かった。
坂を下りる道を、二人で歩いた。
今日は変身していない。ひまりは制服で、ユメミは白衣。ひまりの歩くのが速くて、ユメミは袖の余った腕を振りながら、小走りでついていった。
住宅街の角を、いくつも曲がる。夕ごはんの匂いが、どこかの窓から流れてくる。
「ここ!」
ひまりが足を止めたのは、二階建ての家の前だった。玄関の横に、小さな自転車が一台。門柱に、表札がかかっている。
『
「ひなた……」
ユメミは、表札の文字を指でなぞるように読んだ。
「ひまりちゃんの、名字ですか?」
「うん! 陽向ひまり!」
陽だまりの、陽。ユメミは、ぴったりだと思った。こんなにぴったりの名前があるだろうか。
ひまりは門を開けて、玄関のドアに手をかけた。
「ただいま!」
ドアを開けると、玄関に大きな背中があった。
上着を着て、車の鍵を握った男の人。今まさに、靴を履こうとしていたところだった。
男の人が、振り返った。
「……ひまり」
声が、かすれていた。
奥の台所から、ぱたぱたとスリッパの音が駆けてくる。エプロン姿の女の人。その後ろから、小さな男の子が、赤いヒーローのソフビ人形を抱えて顔を出した。
「お姉ちゃん!」
「ただいま、お父さん、お母さん!
ひまりは、いつもの朝の光みたいな顔で笑った。
「今日から、ユメミさんの研究所で暮らすことにしたの!」
ユメミは、慌てて白衣の裾をぱりっと整えた。ぺこりとお辞儀をする。
「ドリームドクターユメミです! ひまりちゃんを、お預かりします!」
玄関が、しんと静まり返った。
最初に動いたのは、お父さんだった。
「何を……言ってるんだ」
低い声だった。握った車の鍵が、かちゃりと鳴った。
「ゆうべから、どれだけ探したと思ってるんだ! これから、警察に行くところだったんだぞ!」
お父さんの目が、ユメミのほうを向いた。
「あなたは、誰なんですか。娘を、どこに連れていってたんですか」
ユメミは、口を開けたまま固まった。
学会の人たちの顔を思い出した。あの人たちも、こんな目でユメミを見た。
お母さんが、ひまりの両肩をつかんだ。
「ひまり。何があったの? それに、ユメミさんって……いったいどうなっているのよ」
肩をつかむ手が、震えていた。
ひまりは、その手をよけなかった。まっすぐお母さんの目を見て、すぐに答えた。
「ユメミさんと一緒に、みんなが、もう泣かなくていい世界にするって決めたんだ!」
一秒も、迷わない声だった。
お母さんの顔が、くしゃりと崩れた。
ひまりの肩をつかんだまま、お母さんは泣きだした。声を殺そうとして、殺しきれない泣き方だった。
それを見て、陽太くんの顔も崩れた。ソフビを抱えたまま、廊下にぺたんと座りこむ。わあっと、大きな声が玄関に響いた。
「お母さん、泣かないで」
ひまりは、制服のポケットからゴーグルを取り出した。
シャボン玉みたいなレンズが、玄関の明かりの下で、淡く光った。
お父さんの顔色が変わった。
大きな手が、ひまりの腕のほうへ伸びてくる。娘を、自分の後ろへ引き戻そうとする手だった。
ユメミは、とっさに白衣のポケットに手を突っこんだ。
「ドローンちゃんたち、お願いします!」
ぶうん、と小さな羽音が、玄関の天井に広がった。
やわらかい光が降ってくる。夕方の教室の、窓から差しこむ日差しみたいな光。
お父さんの手が、ゆっくりになった。
ひまりの腕に届く少し手前で、宙に止まる。それから、すとんと下りた。お父さんは、玄関の上がり框に腰を落とした。お母さんも、ひまりの肩をつかんだまま、その場にゆっくり膝をついた。
「ユメミさん、ありがと!」
ひまりが振り返って、にっと笑った。
ユメミは、ポケットの上から胸を押さえた。
同志と、一緒にやった。はじめての、共同作業だった。
ひまりはお父さんの前にしゃがんだ。
右手で、そっとゴーグルを目元に添える。耳の後ろでベルトの長さを確かめる。大人の頭に合わせて、少しだけゆるめた。
お父さんの手が、ひまりの手首にかかった。
指は、もうほとんど動かなかった。ひまりは手首にお父さんの指をのせたまま、ベルトを留め終えた。
「お父さん、お仕事いつもおつかれさま」
それから、お母さん。
肩をつかんでいた手が、レンズの光の中で、ゆっくりとほどけていく。ひまりはその手を一度だけ握って、膝の上にそっと戻した。
「もう、泣かなくていいからね」
最後に、陽太くんだった。
陽太くんは、ドローンの光の届かない廊下の隅で、ソフビを抱きしめて泣きじゃくっていた。
ひまりは、その前にしゃがんだ。目線が、ちょうど同じ高さになる。
「陽太。ヒーローごっこ、しよっか」
陽太くんが、しゃくり上げながら顔を上げた。
「今日はお姉ちゃんが、リリィ役ね」
「……お姉ちゃん、いつも、かいじんじゃん」
「今日は特別!」
ひまりは両腕をまっすぐ前に突き出して、指をぱっと開いた。
「ひかりのたて!」
ひまわりの花弁みたいに、精いっぱい指を広げている。
陽太くんの泣き声が、少しだけ止まった。
ひまりは腕を下ろして、陽太くんの顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
「……お姉ちゃんが、帰って、こなくて……っ」
言いながら、陽太くんの目に、また涙がたまっていく。
ひまりは、うん、と頷いた。
「大丈夫だよっ、もう泣かなくていいからね!」
小さなゴーグルが、陽太くんの目元に、そっと添えられた。
それから一時間、ひまりは玄関に座っていた。
家族の寝息みたいに静かな息の音を、ひとつずつ聞いていた。ユメミは靴を脱ぐタイミングが分からなくて、ずっと玄関のたたきに立っていた。
やがて、お母さんが、ゆっくりと顔を上げた。
ひまりはゴーグルを外してあげて、もう一度言った。
「ただいま!」
お母さんは、穏やかに微笑んだ。
「おかえりなさい、ひまり」
さっきまで震えていた声が、もう震えていなかった。
「お母さん、心配かけてごめんね。ボク、大事な用事があるんだ。だから、しばらくユメミさんのところから学校に行くね」
「そう。ひまりは、大事な用事があるのね」
お母さんは、同じ微笑みのまま、ひまりの言葉をそのまま繰り返した。
ひまりは、ぱっと顔を輝かせた。
「うん!」
それから、くんくんと鼻を鳴らす。
「あれっ。この匂い……」
台所へ駆けていって、コンロの上の鍋のふたを持ち上げた。
「カレーだ!」
ゆうべのうちに作って、そのままになっていた鍋だった。ひまりのぶんも、陽太くんのぶんも、ちゃんと入っていた。
陽向家の食卓には、カレーの匂いが満ちていた。
ひまりのお母さんは、さっきから同じ手つきで鍋をかき混ぜている。お父さんは新聞の同じ面を開いたまま、ときどき思い出したようにページの端を撫でる。陽太くんはヒーローのソフビを握って、椅子の上で静かに座っていた。台所の隅では、外したばかりの小さなゴーグルが三つ、充電器につながれて並んでいる。
「お母さんのカレーね、世界一おいしいんだよ! ユメミさんに絶対食べてほしかったの!」
「わあ、楽しみです!」
お母さんが、ことりとお皿を置いた。ひまりとユメミの前に。それから、自分たちの分を三つ。
「いただきまーす!」
ユメミは一口食べて、目を丸くした。
「すっごく、おいしいです……!」
「でしょー!」
ひまりは得意げに胸を張り、お母さんのほうを振り返った。
「お母さん、ユメミさんがおいしいって!」
「そう、よかったわね」
お母さんは穏やかに微笑んだ。ゴーグルをかけたあと、ひまりがもう一度「ただいま」と言ったときと、同じ微笑みだった。
「お父さん、今度の非番の日、また陽太とキャッチボールしてあげてね」
「ああ、そうだな」
「陽太、宿題ちゃんとやるんだよ。お姉ちゃんみたいになっちゃだめだからね!」
陽太くんはソフビを握ったまま、こくりと頷いた。ひまりは「えらい!」と弟の頭をくしゃくしゃに撫でた。
ユメミはスプーンを止めて、その光景を眺めた。
誰かの家の食卓に、こうして座っている。お皿が、ユメミの前にもちゃんとある。
誰も泣いていない。一時間前まで、この家には怒鳴り声と泣き声があった。お母さんはひまりの肩をつかんで離さなかったし、陽太くんは床に座り込んで泣きじゃくっていた。
今は、カレーの湯気だけが静かに立ちのぼっている。
「ユメミさん、おかわりする?」
「します!」
「お母さん、おかわり!」
「はいはい」
お母さんが立ち上がり、鍋の前に戻る。同じ手つきで、またかき混ぜ始める。
ひまりはそれを見て、本当に嬉しそうに笑った。
「よかった。みんな、もう泣いてない」
ユメミも笑った。心の底から、よかったと思った。