あのパトカーには、ひどい目に遭わされた。
なにしろ、ようやく話せた女の子が正義実現委員会だったのだ。連絡先を聞くより先に、こちらの住所と氏名と所属校を聞かれた。名前を教え合うという目的だけは、あまりにも速やかに達成された。
少年がそこまで思い出したところで、目の前を別のパトカーが通り過ぎた。こちらはヴァルキューレの車両だった。サイレンを鳴らし、交差点へと鼻先をねじ込んで、車列の向こうに消えていく。
「……それで、現在の損失額が」
少女の声がした。
ブルーブラックのモノアイが、すっと動いた。
「ちょっと。聞いてる?」
「聞いてる」
「そう。では、いくら?」
「結構な額」
「聞いてないじゃない!」
早瀬ユウカが振り返った。片手には端末、もう片方には書類の入った鞄。彼女は足を止めることなく、ザクのモノアイを睨み上げた。
「物流の遅延、設備の破損、その補修費。治安が悪くなれば、研究に回せるはずのお金まで警備に消えるのよ。これが続いたら、来期の予算を組み直さないといけないんだから」
連邦生徒会長が失踪した。
その一件が、遠いところの偉い人の話ではなくなってから、街では毎日のようにサイレンが鳴っていた。
ユウカは、その話をしに行くのだという。連邦生徒会へ。抗議に。彼女が『状況の確認と対応の要請』と言い直したので、少年たちもそういうことにした。
「そっちは? 書類、持ってきたでしょうね」
「持ってきた」
隣を歩く男子生徒が、封筒を掲げた。
腰には軍刀がある。歩くたびに、その鞘が制服の裾を押した。ひどく物騒なものを、ひどく馴染んだ様子で提げている。
「ちゃんと内容を見せて」
「学校の印もある」
「印があっても見るわよ。前にあなたたちが持ってきた見積書、燃料費の項目に焼肉代が入っていたでしょう」
「燃料だろ」
ザクが言った。
ユウカの視線が、こちらへ来た。
「人間の」
補足してみた。
「経費にはなりません」
即答だった。
「でも、今回の書類は大丈夫ですよ。ユウカちゃん」
生塩ノアが、ユウカの肩越しに封筒を覗いた。
「昨夜、送っていただいたものと同じなら」
「ノアが確認してくれたの?」
「はい。最後の一文だけ、少し直していただきました」
「何と書いてあったの」
「『誠意ある回答を期待する』と」
「普通じゃない」
「括弧書きで、刀の写真が」
「普通じゃない!」
軍刀の男は封筒を鞄に戻した。
「削った」
「写真を?」
「括弧ごと」
「当然です!」
ノアが笑った。
少年は、なんとなくその横顔を見た。すると彼女はこちらを向いた。
「どうしました?」
「いや。楽しそうだなって」
「ふふ。そう見えますか?」
楽しそうだった。ユウカは今にも電卓で人を殴りそうな顔をしているのに、隣の彼女はずっと楽しそうなのだ。
「……あとで議事録に書くんじゃないだろうな」
「どの部分でしょう?」
ザクは前を向いた。
軍刀の男も、前を向いた。
この二人の少女と歩いているときには、言わない方がいいことが、かなりある。
そうして口を閉じた途端、別の声が、その隙間へと入り込んできた。
「やあ。ずいぶんと賑やかな一行だね」
ザクの左腕に、小さな手が乗った。
金のうるやかな髪が、帽子の下で輝いた。金色の目が覗き、彼を見上げていた。
「私も混ぜてくれたまえ」
少年は止まった。
軍刀の男も止まった。
ユウカが二歩ほど先で振り返り、ノアは立ち止まる前に、もうその少女を見ていた。
百合園セイアが、帽子のつばを持ち上げた。
「……何してんの」
「散歩だよ」
「どこから来た」
「そこの角から」
「そういう意味じゃねえよ」
軍刀の男が辺りを見回した。
セイアは、その反応を楽しむように目を細めた。
「君たちこそ、何をそう警戒しているんだい?」
「付き添いは」
「今日はお忍びでね」
「質問に答えろ」
「君は少々、答えを急ぎすぎる」
セイアはザクの腕から手を離し、ユウカへと向き直った。
「やあ、セミナーのお二人。君たちも連邦生徒会へ?」
「ええ……。あの、セイアさん。お忍びというのは」
「多少、街の様子を見たくなったのさ。部屋に届く報告だけでは、分からないこともあるだろう?」
そこまで言ってから、セイアは通りの先を見た。
少年もつられて見た。
屋台があった。
焼いた菓子の匂いがしていた。
「例えば、あれだね」
「絶対それが本命だろ」
「興味の優先順位について、君と争うつもりはないよ」
セイアはもう歩き出していた。
軍刀の男が追った。
ザクも追った。
「ちょっと! 私たちは寄り道をしに来たんじゃ――」
「ユウカちゃん。信号、変わりますよ」
ノアの声に、ユウカは顔を上げた。
歩行者信号が点滅していた。
「もう!」
彼女も走った。
「……買っていますね」
通りの向かい側で、桐藤ナギサが言った。
軒先の陰に立っている。それだけならば、待ち合わせをしている少女にも見えただろう。しかし、隣にいる聖園ミカが、三度目になる顔の出し入れをやっていた。
「何買ったの?」
「焼き菓子のようですが」
「セイアちゃん、自分で並んでる?」
「はい」
「そっか」
ミカはもう一度覗いた。
白い帽子が、屋台の前で揺れている。あれがいい、いやそちらも、とでも話しているのだろうか。セイアは棚を指さし、隣の男子生徒を振り返った。
彼が財布を出した。
ナギサの眉が動いた。
「……お財布は、持たせたはずなのですが」
「奢ってもらってるんじゃない?」
「いけません。そういうことは」
「えー? 知り合いなんだし、いいんじゃないかな。今度セイアちゃんが返せば」
ミカは笑ってから、屋台の横のザクを見た。
「あはっ。あの格好でお菓子持ってる」
「ミカさん。声を」
「だって、食べられないよね?」
青黒いザクは、確かに袋を持たされていた。
その前で、セイアが何かを差し出している。
モノアイの下に。
ナギサは、そっと目を閉じた。
「……セイアさん」
「私も行ってこようかな」
「いけません」
「どうして?」
「セイアさんが、一人で出かけたいと仰ったからです。私たちは、あくまで」
「うん。だから、あの二人にも言わないと。セイアちゃんは一人でお出かけ中なんだよ、って」
ナギサはミカを見た。
ミカは、たいへん良いことを思いついた顔をしていた。
「それを言いに私たちが出ていって、どうするのですか」
「じゃあ、偶然会ったことにしようよ」
「ミカさん」
「大丈夫だって。私、ナギちゃんの分も買ってくるから」
腕を掴むのが、わずかに遅かった。
ミカは通りへ出ていった。
ナギサも出るしかなかった。
その二人を、屋台の前からセイアが見ていた。
手元には、まだ開いていない紙袋が二つあった。
「ナギちゃん。こっちこっち」
ミカが手を振った。
ナギサは、手を振り返さなかった。
その代わりに、セイアを見た。セイアはにこやかに、小さな紙袋を差し出した。
「冷める前に来てくれて、何よりだよ」
「……お気づきだったのですね」
「君たちは、物陰から私を見守るという行為に、あまり向いていないらしい」
ミカが自分の袋を開けた。
「ん、おいしそう☆」
「ミカさん」
軍刀の男が、少年に顔を寄せた。
「おい」
「何」
「増えた」
「見りゃ分かる」
「誰の財布で買ったと思ってる」
「お前」
「そうだよ」
セイアが振り返った。
「あとでお茶に招待しよう。それでどうかな?」
「領収書も頼む」
「君たちは、セミナーとの交流で学びを得たようだね」
「何の学びですか」
ユウカが戻ってきた。
屋台の店主と、何か話していたのだ。彼女は端末を鞄に戻し、セイアたちへと視線を巡らせた。
一人増えたはずが、三人になっている。
しかも、ティーパーティーが揃っている。
ユウカは一度、深く息を吐いた。
「……皆さんも、連邦生徒会へ?」
「そうだね」
セイアが頷いた。
ナギサはその横顔を見た。
「セイアさん。そのお話は、初めて伺いましたが」
「いま決めたからね」
「でしたら、先に相談を」
「ナギちゃんも行くでしょ?」
ミカが、焼き菓子を片手に尋ねた。
「街の様子も、もう見られたし。セイアちゃんも行きたいみたいだしさ」
「……行くのであれば、こちらから連絡を入れます。先方にも都合があるのですから」
ナギサは端末を取り出した。
ユウカは、その動作を見て、わずかに肩の力を抜いた。
話の通じる人がいた。
その安堵を、少年は確かに見た。
「ところでユウカちゃん。お店の方とは、何のお話を?」
ノアが尋ねた。
「通りの向こうで、朝から騒ぎがあったそうなの。納品も遅れているって。こういう実際の影響は、まとめて伝えた方がいいでしょう」
「なるほど。では、それも記録しておきますね」
「お願い」
セイアは、二人を見ていた。
それから通りを見た。さっきパトカーが曲がっていった交差点。半分だけシャッターを下ろした店。その前で、電話をかけている店員。
彼女は残りの菓子を食べた。
「では、歩みを進めようか」
声の調子は、先ほどと変わらなかった。
けれど、今度は屋台の方へ曲がらなかった。
少年は紙袋を持ち直し、その隣へ並んだ。
「食べないのかい?」
「どこで」
「頭を外せばいいだろう」
「いま?」
「私たちしかいないよ」
「街のど真ん中なんですが」
ミカが後ろから覗き込んだ。
「えっ、外すの? 見たい見たい」
「外さない」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ顔を出す機能はない」
「作ればいいのに」
「どこを開ける気だよ」
軍刀の男が、ザクの後頭部を指した。
「ここ」
「そこ俺の頭だろ」
ノアが笑った。
ユウカまで、少し笑った。
少年はその音を聞いてから、軍刀の男の足を踏んだ。
装甲のつま先で。
連邦生徒会へ着くころには、軍刀の男の機嫌は直っていた。
少年から菓子を一つ、奪ったからだった。
ザクの中では食べられない。それを承知でやっている。
少年は、あとで覚えておこうと思った。すでに覚えておくことが多すぎたので、何件目かは分からなかった。
案内された部屋の扉が開いた。
中にいた少女が、こちらを見た。
黒い翼。
赤い瞳。
長い、黒髪。
「……あなたは」
羽川ハスミが言った。
少年の足が止まった。
その横を、セイアが通った。
「やあ、ハスミ。君も来ていたんだね」
「セイア様……?」
ハスミが立ち上がる。彼女の視線が、その後ろへ移った。
ナギサ。
ミカ。
「皆様、お揃いで……?」
「ごきげんよう、ハスミさん。急に伺うことになってしまい、すみません」
ナギサが微笑んだ。
ついさっきまでの苦労など、まるでなかったような顔だった。
その間に、少年は入室した。
できるだけ静かに。
しかしザクの足は重かった。
がしゃり、と鳴った。
ハスミが、こちらを向いた。
「お久しぶりですね」
「……どうも」
軍刀の男が、彼を見た。
その顔が、急に明るくなった。
「知り合いか?」
「お前は黙ってろ」
「ご迷惑をおかけしておりましたら、申し訳ありません」
頭を下げた。
軍刀の男が、ハスミに。
ザクは、その背中を見た。
彼らの男子校、その校内では一度も見たことがないほど、綺麗なお辞儀だった。
「いえ。アビドスで人命救助に当たられた際、お話を伺ったのです」
ハスミが答えた。
少年は、少しだけ胸を張った。
「ただ、その後の確認で、いくつか」ハスミがため息をつく。
「その節はお世話になりました」
今度はザクが、勢いよく頭を下げた。
軍刀の男が、ますます楽しそうな顔をした。
ユウカがこちらを見た。
ノアも見た。
セイアは椅子を選んでいた。ミカがその隣を取った。ナギサは二人に何か言いながら、鞄を置いた。
部屋の奥には、スズミがいた。それから、ゲヘナの制服を着た、眼鏡の少女。
彼女がこちらを見て、小さく会釈した。
「風紀委員会の火宮チナツです」
「あ、どうも。こちらは」
軍刀の男が、ザクを指した。
「顔は怖いですが、人を助けることもあります」
「紹介の仕方!」
「いま助けてるだろ」
「皆さん。お待たせいたしました」
その声に、部屋の会話が止まった。
七神リンが、扉の向こうに立っていた。
彼女は室内を見渡した。人数を数えるように視線を動かし、ナギサに軽く会釈してから、少年たちにも目を向けた。
軍刀の男が、鞄から封筒を取り出した。
ユウカも、書類を手に取った。
セイアが、帽子を膝に置いた。
「まず、現在の状況について、ご説明いたします。その前に――」
リンが半歩、横へ退いた。
一人の大人が、そこにいた。
少年は、少し驚いた。
先生。
その呼び名が告げられたときには、もう、隣で軍刀の男も顔を上げていた。
「連邦生徒会長が招聘された、連邦捜査部『シャーレ』の顧問です」
先生は、居並ぶ生徒たちを見た。
ユウカを。
ノアを。
トリニティの少女たちを。
ゲヘナのチナツを。
それから、軍刀を提げた男子生徒を。
最後に、ブルーブラックのザクⅡを。
視線が止まった。
少年は待った。
先生も、少し待った。
「……そちらも、生徒さん?」
少年は頷いた。
「はい」
隣で、軍刀の男が口を開いた。
「見た目で判断されることを、本人も大変気にしております」
「してねえよ」
「普段は、もっと明るいやつなんです」
「お前、初対面の大人に何吹き込んでんだ」
ミカが吹き出した。
ユウカが額を押さえた。
ノアは、先生の顔を見てから、こちらを見た。何か面白いものを見つけたような目だった。
そのとき、セイアが椅子から立った。
少年は、彼女を見た。
さっきまでのように、誰かの袖を引くのかと思った。けれど彼女は、まっすぐ先生を見ていた。
金色の目が、ほんの少しだけ見開かれていた。
「……君が」
小さな声だった。
ナギサがセイアを見た。
ミカも、笑うのをやめた。
先生が、彼女へと向き直る。
セイアは一度、息を吸った。それから、いつもの調子で微笑んだ。
「いや。挨拶が先だったね」
白い帽子を、胸の前で持ち直した。
「私は百合園セイア。君と話したいことが、いくつもある」
軍刀の男が、少年の脇腹をつついた。
「おい」
「何」
「これ、長くなるぞ」
少年は答えなかった。
膝の上に置いた紙袋から、まだ少しだけ、甘い匂いがしていた。