しかしそのとき、ザク少年の胸のなかで、電話が鳴った。
正しくは胸部装甲の内側、そこに収めた端末が震えたのだった。ザク少年は、セイアが先生と話すのを聞きながら、振動を無視した。それから後も、七神リンが話し出した説明を聞きながら、その振動を二度は無視した。
三度目には、隣の軍刀がこちらを見た。
「出ろよ」
「いま?」
「いま出ねえと、あとが長えぞ」
経験に基づく忠告だった。
ザク少年は右の手甲を外し、胸の装甲を少しだけ開いた。熱のこもった空気が、その隙間から漏れ出す。
隣で、先生が見ていた。
初対面の大人の前で胸を開いて電話を取り出すという、なかなか経験のないことをしている。ザク少年は会釈した。先生も会釈した。
画面には、アツコ、とあった。
ザク少年は通話を取った。
「どうした」
『いま、どこ?』
「連邦生徒会」
『うん。それは知ってる』
静かな声だった。
『まだ、そこ?』
「まだ。長くなりそう」
『そっか』
沈黙した。
ザク少年も黙った。
軍刀は、もうこちらを見ていなかった。窓の外を眺めていた。そういう態度を取れば巻き込まれずに済むと、信じている男の顔だった。
『お昼は?』
「食った」
『何を?』
「菓子」
『それ、お昼じゃないよ』
もっともだった。
ザク少年は机の上に置いた紙袋を見た。軍刀に奪われた分だけ、確実に軽くなっている。
『帰ってきたら、こっちに来て』
「今日、学校の方にも報告が」
『終わってからでいいよ』
「遅くなるぞ」
『待ってるから』
軍刀が、窓へと顔を近づけた。
ザク少年はその背中を睨んだ。
『それと』
「まだある?」
『怪我、しないでね』
ザク少年は、自分の胸部装甲を見た。
「今日は話し合いだぞ」
『うん』
アツコは頷いたようだった。
『でも、あなたが帰ってくるまでは、まだ分からないから』
通話が切れた。
ザク少年はしばらく画面を見て、それから端末をしまった。
顔を上げる。
ユウカが見ていた。
ノアも見ていた。
ミカは、たいへん面白そうな顔をしていた。
「……何」
「何でもありませんよ」
ノアが答えた。
「ただ、お帰りを待っている方がいらっしゃるんですね」
「隣の学校の」
「へえ~。毎日、電話するの?」
ミカが身を乗り出した。
ザク少年は、どう答えるべきか分からなかった。毎日かと聞かれると、毎日ではない。一日に一度で済まない日がある。
「そちらも」
七神リンの声がした。
「今回の陳情に関係する方ですか?」
軍刀が、ようやく窓から離れた。
「あります」
鞄から封筒を出す。
「うちの隣に、いまアリウスの連中がいる。そっちの件も、今日は持ってきてるんで」
部屋の空気が、わずかに変わった。
ハスミが、静かに目を上げた。
チナツは机の上で手を組み直した。
先生だけが、まだ、その名を知らなかった。
セイアがそれに気づいた。
「少し、説明が必要なようだね」
白い帽子は、彼女の膝の上にあった。
その指がつばをなぞり、そこで止まった。
「彼らの学校は、プルガトリウム中学・高等学校という。ゲヘナとトリニティ、その両学園に挟まれたところにあるんだよ」
先生が、ザク少年たちを見た。
軍刀が頷いた。
「男子校です」
「それから、通り道でもある」
セイアが続けた。
「ゲヘナから、そこを経てトリニティへ移る者もいる。トリニティで居場所を失って、彼らの庇護を求める者もね」
「聞こえはいいですけどね」
軍刀は、封筒を机へ置いた。
「どっちからも、お前のところで面倒を見ろと言われる。面倒を見たら見たで、どうしてそいつを置いてるんだと言われる」
ザク少年が頷いた。
「転がり込んできたやつを、門の外に寝かせとくわけにいかないだろ」
「もちろん、無条件に何でも認められるわけではありません」
ナギサが口を開いた。
声は柔らかかった。けれど、その視線は軍刀の置いた封筒にあった。
「身元の確認、在籍の扱い、学園間の調整。必要な手続きを踏むことで、守れる立場もあります」
「その手続きの間、寝る場所と飯が要るんです」
軍刀が言った。
ナギサは、彼を見た。
それから、頷いた。
「ええ。ですから、私のほうからものちのち、その分の支援についてもお話しするつもりです」
軍刀は少しだけ顎を引いた。
ザク少年には、あいつが頭を下げたのだと分かった。
先生は、机の封筒へと視線を落とした。
その表に、学園の名があった。
プルガトリウム。
「煉獄、ですか」
先生が言った。
「ご存じなんですね」
ノアが微笑んだ。
軍刀は、わずかに肩をすくめた。
「天国と地獄の間で、板挟みになってる学校です」
「君たちは、そう言いたがるけれど」
セイアが、その言葉を受けた。
「そこを通って、別の場所へ行ける。それは、悪い役割ではないと思うよ」
ザク少年は、セイアを見た。
彼女は椅子の上で足を揃えていた。さっきまで屋台の前で、どれを買うかと指を動かしていた、その手が、いまは帽子を押さえている。
少し前の彼女ならば、そもそも屋台まで来なかった。
来たいとも、言わなかった。
見えるものを、見える場所から語っていた。
それを、軍刀は『だったら自分の足で確かめろ』と言った。ザク少年は、もっと直接的に、外出用の靴を持っていった。
ナギサに怒られた。
ミカは、ついてきた。
それから何度か、いろいろあった。いろいろという言葉で済ませなければ、今日の話し合いが終わらなくなるほどには。
セイアが顔を上げた。
「何かな?」
「いや」
「私の顔に、何かついているかい?」
「食いかす」
「……どこだい?」
ザク少年は自分の頬を指した。
セイアは同じ場所に指を当て、何もないと分かると、目を細めた。
「君は、実に」
「元気そうで何より」
軍刀が横から言った。
セイアは彼を見た。
そのあと、笑った。
声を立てて。
先生は、そのやり取りを見ていた。
「その、アリウスというのは?」
笑いが収まるのを待ってから、先生が尋ねた。
セイアは帽子を膝へ戻した。
「長いあいだ、私たちから隔てられていた分校だよ。いま、そこの生徒たちが、彼らの学校の隣に新しい居場所を作っている」
先生が頷いた。
「さっきの電話の子も?」
「アツコだな」
ザク少年が答えた。
ミカが頬杖をついた。
「ずいぶん懐かれちゃったよね」
「懐いてるっていうか」
「違うの?」
「……よく分からん」
分からないのは、本当だった。
ザク少年は、あの日も、帰れと言われたら帰るつもりだったのだ。
けれどアツコは、帰れとは言わなかった。
あの暗い場所で、彼女は自分が残ればいいと言った。
それを聞いて、ヒルドルブのエンジンが唸った。
床が震えた。
ザク少年は、その振動をまだ覚えている。
隔壁の向こうで、ベアトリーチェが何かを喋っていた。ひどく大事なことを説明しているつもりらしかった。こちらが知らないことを、こちらには分からない言葉で。
ヒルドルブ少年は聞いていなかった。
ザク少年も、途中から聞くのをやめた。
アツコを連れて出る。
そこで話は終わっていた。
「ベアトリーチェという人物がいました」
ナギサが、先生へと言った。
「アリウスの生徒たちを支配していた人物です。彼らは、その支配を終わらせるために動きました」
「二人で?」
先生が尋ねた。
ザク少年は首を振った。
「中で動いてくれた連中がいた。俺らは、そいつらが開けたところに突っ込んだだけです」
「その『だけ』で、建物をどれだけ壊したのかしら」
ユウカが言った。
ザク少年は黙った。
軍刀も黙った。
ノアが、封筒をそっと裏返した。
補修関係の書類が、下になった。
「それで、アツコさんが」
先生が言いかけた。
ザク少年の胸が、もう一度震えた。
全員が、胸部装甲を見た。
ザク少年は端末を出した。
『まだ終わらない?』
文字があった。
軍刀が覗き込んだ。
「お前、今日は帰れねえかもな」
そのとき、窓の向こうが白く光った。
遅れて、爆音が来た。