「それで、日本人の給料を上げる話は、いつしていいんだ?」
黒瀬誠一が尋ねると、会場の後ろから拍手が起こった。前の方では、椅子を蹴る音がした。
一九七〇年八月、川崎の集会所で開かれた討論会だった。
榊原周蔵は、入口に近い席から黒瀬を見ていた。演壇には立っていない。他の参加者と同じように座っていたのだが、発言するたびに腰を浮かせるので、今では椅子がずいぶん後ろへ下がっていた。
「その、日本人という括りが問題なんです!」
華青闘側の参加者、梁俊平が答えた。
「同じ職場で働いていても、同じ権利を持っていない人間がいる。あなたたちが日本の労働者と言う時、そこに誰が入っていますか!」
黒瀬は、すぐには怒鳴らなかった。
「働いている奴だ」
「では、なぜわざわざ日本人と言うんです!」
後ろの拍手が止んだ。榊原は、黒瀬が言葉を選び直そうとしているのを見た。選び直すのが得意な男ではなかった。
その一か月前、七月七日の集会で、華僑青年闘争委員会、略して華青闘は、日本の新左翼諸派を激しく告発していた。外国への侵略を批判する運動が、国内に住む中国人や朝鮮人の問題を、どれだけ自分たちの問題として扱ってきたのか。入管法をめぐる運動を、党派の都合で後回しにしてこなかったか。共闘と称しながら、当事者の発言する場所を奪っていなかったか。
告発は、遠い外国の出来事を批判するだけでは済まない問いを突きつけた。
黒服隊にも、思い当たることはあった。
一九六〇年に始めた定例相談は、工場と港の周辺へ広がっていた。相談者には日本国籍を持たない者もいた。未払い賃金なら帳簿を調べられたが、在留や身分に関する相談となると、窓口を教えたところで終わることが多かった。担当者の記録には、専門家に照会、とだけ書かれ、その後の経緯がない頁も残っていた。
梁は、その空白を指摘していた。
黒瀬が怒っていたのは、別の方向へ伸び始めた議論だった。
日本の労働者も抑圧する側に属する。日本という国家への帰属そのものを問い直さなければ、連帯は始まらない。告発を受けた運動の中では、そのような主張が、異なる意味で、異なる強さで語られるようになっていた。
黒瀬の耳には、働く人間へ、まず自分の所属を恥じろと言っているように聞こえた。
「差別していたことがあるなら、何をしたか言え。俺たちの所であったことなら、名前も日付も出せ。直さなければならん」
黒瀬は机へ手を置いた。
「だが、この国で暮らしている奴に、国を良くしようと思う前に国を捨てろとは言うな」
「捨てれば済むという話ではないでしょう!」
梁は言った。
「私たちは、ここで暮らしているから言っているんです。あなたたちが祖国と言える場所で、こちらは何度、よそ者だと言われればいいんですか!」
討論会の記録には、そこで短い空白がある。
黒瀬は、米軍への従属を批判し、欧米の帝国主義を罵ってきた。日本が過去に他国へしたことも、批判の外へ置いたつもりはなかった。ただ、その日本に住む人間が、今の日本を自分の国として持ち直そうとすることまで、反動と呼ばれるのは我慢できなかった。
梁も、黒瀬の我慢がどこで尽きるかを確かめるために来たのではなかった。
二人は、何を変えるかという話の途中で、誰が何を認めるべきかという話へ戻り続けた。会場からは両方に野次が飛んだ。別の団体の若い活動家が、日本人労働者の加害性を自覚しない限り議論は進まないと言った時、黒瀬はついに椅子から離れた。
「お前の言う労働者は、ずいぶん便利だな。革命をする時には主役で、話が合わなくなったら丸ごと被告か!」
声が重なった。
「人間を生まれで仕分けして、それで階級の話をしたつもりか!そんな帳面なら役所で間に合っとる!」
榊原が立ち上がった。
その夜、共同声明は出なかった。出たのは、各団体による相手への批判だった。黒服隊の文章は特に長く、特に口が悪かった。華青闘への反論と、自己批判を競う日本人活動家への罵倒とが、同じ紙に載っていた。
それを読んで入隊を申し込む者が現れた。
◇
秋には、事務所へ来る顔ぶれが変わっていた。
大学を出たばかりの者。職場の組合から距離を置いた者。自分の属する党派で、日本の産業を発展させるという言い方を批判された者。黒服隊の綱領を最後まで読んで来た人間もいれば、黒瀬が誰かを罵ったことだけを知って来た人間もいた。
後者を、黒瀬は気前よく迎えた。
榊原は、歓迎する前に何をしに来たのかを訊くことにした。
ある青年は、外国人に日本の悪口を言わせないためだと答えた。
「それなら、ここへ来る前にやることがある」
榊原は、相談所の当番表を出した。
「来週、この人の賃金の件で会社へ行く。日本国籍はない。払うべき金を払わない会社の方が間違っている。一緒に行けるか?」
青年は、少し考えたいと言って帰った。
戻ってはこなかった。
こうした選別が、いつもうまくいったわけではない。黒瀬自身、別の集会で、外国人に日本の行先を指図される筋合いはないと怒鳴っていた。後年の党史に載った演説では、その前後だけが残っている。
榊原は、その晩に抗議した。
「日本で働いて、家賃を払って、子供を育てている人間にも言うのか」
「俺が言ったのは、よその国の看板を持ってくる連中のことだ」
「そう聞こえるようには言ったつもりはない」
黒瀬は不機嫌になった。
翌号の機関紙には、外国政府への従属に反対することと、日本に住む外国人の権利を守ることは両立すると書かれた。黒瀬の署名はあったが、文章を書いたのは榊原だった。訂正が必要だと本人が認めるまでには、二晩かかった。
梁からは、紙の書き方より窓口での扱いを変えてくれ、という返事が来た。
榊原は、止まっていた相談の経過を調べ直した。何件かは別の団体へ移っており、一件は、本人と連絡が取れなくなっていた。
政治上の反論が当たっていることは、日々の仕事を済ませた証拠にはならなかった。
それでも黒服隊は大きくなった。
米国へ従うのも嫌だが、ソ連や中国の顔色をうかがうのも嫌だ。天皇を憎むかどうかで、工場の仲間を分けたくない。高度成長の利益は欲しいが、会社の言いなりにはなりたくない。既存の団体では同時に口にしにくいことが、ここではかなり雑に同居していた。
その雑さが、新しい人間の入る余地になった。
後の国社党は、一九七〇年を、他の左翼が祖国を捨て、自分たちだけが残った年として描く。しかし、当時の文書を並べれば、各勢力の主張も、告発への応答も一様ではない。愛国を語る者が黒服隊にしかいなかったわけでもなかった。
黒服隊が得たのは、その全てに納得した人間ではなく、今いる場所を出たい人間だった。
彼らが持ち込んだものには、印刷機、支援者の住所録、地方の会場との付き合いがあった。持ち込んだくないものも、付いてきた。昔の対立相手への憎しみや、暴力を使えば会議を終わらせられるという習慣である。
街頭での衝突は増えた。凹んだヘルメットが事務所へ戻り、顔に包帯を巻いた男が、勝ったと言って報告に来た。別の晩には、逮捕された隊員の家族が相談所へ来た。
その家族に対しては、勝敗を説明するだけでは済まなかった。
八代フミは、事務所の入口に置かれたバールを拾い、工具箱へ戻した。
「物を直す時には誰も見つけられないのに、喧嘩には持っていくんだね」
誰も取り返しに来なかった。
黒瀬は、今の勢いを全国へ広げると言った。榊原は、全国へ広げた後、何を決める組織になるのかを訊いた。
相談所では動かせない問題が増えていた。工場主と話をつけても、融資の制度は変わらない。自治体に陳情しても、国の補助制度が違うと言われる。労働者の側に立つ議員へ頼んでも、次の会議まで待つようにと言われた。
黒瀬は、待つことに向いていなかった。
自分たちの議員を出すという話が、初めて具体的な人数と費用を伴って議題になった。
◇
一九七一年、黒服隊は政党になることを決めた。
名前を決める会議は、綱領の会議より短く済むはずだった。
「日本国家社会党」
黒瀬が言うと、榊原は紙から目を上げた。
「それはやめよう」
「国家を社会主義に作り替えるんだろう。何が悪い?」
「その説明を始める前に、名前で別の党だと思われる」
欧州の国家社会主義との混同を指摘されると、黒瀬は、黒服という名前でも同じことを言われたと反論した。
「その説明を、今もしている」
榊原は答えた。
結局、「日本国民社会党」となった。略称は国社党。名前を替えたことで全ての誤解がなくなったと主張した者はいなかった。少なくとも、選挙のたびに党名の弁明から始める回数を減らそうとしたのである。
結党に向けて、主張も文章にし直された。
国の基幹をなす産業と交通、金融を公共の責任で運営する。働く者の生活を保障する。外国政府の指導を受けない。天皇を政治に関与させず、皇室への態度で国民を分けない。
小さな工場や商店の扱いでは、長く揉めた。全てを社会化すると書けば、今まで相談に来ていた親父たちの店も対象になる。対象から外せば、どこからが大資本かを決めなければならない。
榊原は、企業の大きさだけでなく、何を担っているかを調べるべきだと言った。黒瀬は、細かい条件を付けすぎれば誰も読まないと言った。どちらも、相手の言い分を完全には否定できなかった。
後世の国民共同体開発主義が、この時点で完成していたわけではない。新党は、相談所でしていたことと、革命後にしたいことを、まだうまくつなげられずにいた。
それでも、選挙への参加を歓迎する相手は現れた。
社会党だった。
地方組織の選挙実務を担っていた大庭正雄は、黒瀬たちを会議室へ招き、お茶を出した。黒瀬は、最初から座る場所が用意されていたことを少し警戒した。
「街頭へ出る仲間が、議会にも出てくる。結構なことです」
大庭は言った。
社会党には、大きな労組の支持と地方議員の網があった。一方、労組の外側にいる自営業者や下請工場の職人へは、主張が届きにくい場所があった。国社党は、その隙間へ入れるかもしれないと考えられた。
共産党と極めて仲が悪いことも、大庭にとっては扱いやすい材料だった。
黒瀬は、事務所へ戻ると、話の分かる男だと評した。
榊原は、まだ候補者の話しかしていない、と答えた。
次の衆議院選挙に向けて、候補の調整が始まった。小さな新党が全国へ候補を並べても、供託金と運動費が先に尽きる。相談所、組合の支部、地方議員との連絡がある地域へ絞る必要があった。
大庭は地図を広げ、競合を避けられる所を示した。社会党の現職が嫌がる地域もあった。支援できると言った地方組織が、翌週には条件を増やすこともあった。
黒瀬は、革命の前にこんな面倒があるとは聞いていないとぼやいた。
「選挙ですから」
大庭は、穏やかに答えた。
その言い方が、黒瀬には少し気に入らなかった。
◇
一九七二年の選挙で、国社党は、街頭に集まる人数と投票する人数が違うことを学んだ。
演説を聞いて拍手した男が、自分の票は勤め先の付き合いで決まっていると言った。日本の独立を訴えていると、買物袋を下げた女が、独立したら保育所は増えるのかと尋ねた。
黒瀬は、当然増やすと答えた。
「どこに」
女が重ねた。
黒瀬は、その町で空いている土地を知らなかった。
帰ってきた彼は、地方の担当者に地図を出させた。翌日も同じ場所で演説し、今度は保育所について話した。途中から独立の話へ戻り、予定時間を超えた。
榊原は、政策を短くする作業に追われた。相談所で一時間かけて説明していたことを、立ち止まった人へ数分で伝える必要がある。外国の圧力を批判する文章は短くできたが、家賃と通勤費と賃金を同時に扱う文章は、なかなか短くならなかった。
そこで力を貸したのが、相沢忠夫だった。
国鉄で働き、地域の組合活動に長く関わってきた男である。仕事の合間に選挙事務所へ来て、手伝う者の時間を割り振り、会場の手配をした。演説会の客が少ないと、誰が行けるはずだったかを確かめに行った。
相沢は国社党員ではなかった。社会党を支持していたが、黒瀬が工場の労働者のために交渉へ出てくることを知っていた。
「同じ組合の中だけで数えていたら、いつまでたっても増えません」
相沢はそう言って、自分の知る店主や職人にも声をかけた。
黒瀬は、彼を信用した。
榊原も信用した。ただし、借りた車と器材は、誰の厚意で来たものでも記録した。相沢はそれを嫌がらず、鍵を返す相手の名前まで書いてくれた。
須藤仙吉からも、何人か紹介しようかという話が来た。
黒瀬は礼を言い、榊原は、何を頼むのかを先に決めるよう求めた。本人たちは昔の付き合いだと思っていたが、候補者の事務所へ来る人間を、周囲が同じように見るとは限らなかった。
借りを全て断てるほど、彼らの組織は大きくなかった。何を借りたかを残す程度には、大きくなっていた。
十二月十日の投票を経て、国社党は四議席を得た。
京浜で二、大阪湾岸と北九州で一ずつ。黒瀬と榊原も、その四人に入っていた。四議席は、全国に薄く散った人気が生んだ数字ではない。長年の相談活動があり、協力する地方組織があり、既成政党との候補調整が成り立った選挙区で、ようやく届いた数字だった。
開票所から電話が入るたびに、事務所で声が上がった。フミは湯を沸かし直した。選挙期間中にひびの入った湯飲みを、客から見えない方へ回した。
黒瀬は、相沢の手を強く握った。
「これで、国政の中へ入れる」
相沢は頷いた。
選挙で得た最初の議席は、まだ誰のものか、誰も詳しく確かめていなかった。
大庭は祝電を送り、電話でも祝った。
「これからは一緒にやっていただくことが増えます」
その言葉に、黒瀬は疑問を持たなかった。
◇
国会へ入ると、黒瀬は演説の順番を自分で決められないことに腹を立てた。
議席は四つあった。
だが、発言の機会も四倍になるわけではなかった。委員会での配分、他会派との調整、議事の日程。法案を提出しようとすれば、賛同する議員も集めなければならない。
社会党の側は、その作業をよく知っていた。
資料を分け、役所へ照会する先を教え、国社党の主張を共同の要求へ入れてくれることもあった。四人だけで何もかもを調べるには、人も金も足りなかった。榊原は助けられた分を、素直に認めた。
一方、社会党の会議へ呼ばれる回数も増えた。相談だと言われて出向くと、既に決まった方針を説明されることがあった。
「ご意見は承ります。しかし、まず足並みを揃えていただきたい」
黒瀬は、その「まず」がいつ終わるのかを訊いた。
答えは、次の議題へ持ち越された。
大庭は黒瀬をなだめた。議会では相手と組まなければ通らない。少数の主張を毎回通せるわけではない。黒瀬にも、そこまでは理解できた。
「なら、うちの支持者には、誰が説明するんだ」
「そこは、あなた方のお力で」
この部分だけは、いつも独立した政党として扱われた。
一九七三年、石油危機が来た。
選挙中に配った政策の紙は、刷り直すにも金がかかるようになった。工場では原料と燃料の値段が上がり、家庭では買物のたびに不満が増えた。榊原の事務所へ来る相談は、もうけた金の使い道から、払う金の作り方へ戻っていった。
国社党は、買占めや不透明な値上げを批判した。その一方、同じ値上げに見えても、仕入値が上がった店と、在庫を抱え込んだ業者では事情が違うことを説明しなければならなかった。
黒瀬は、大企業の横暴を訴える集会から帰り、小さな工場主に、来月から製品の値を上げてもいいのかと訊かれた。
榊原は、必要な費用を書き出すよう求めた。
国会議員になっても、帳簿を読む仕事は減らなかった。
その頃、相沢の側でも不満が高まっていた。
物価が上がる。働き方をめぐる対立は続く。公共企業体の労働者には、民間の労働者と同じ形で争議を行う権利が認められていない。賃金を決める仕組みはあっても、その実施には財源と国会の議決が関わる。職場の相手と話がついても、それだけで終わらない。
国鉄の仕事をしているのに、交渉の相手は駅や本社の向こうへ広がっていた。
黒瀬は、権利を取り戻す要求に賛成した。
相沢は、それを聞いて安心した。
二人が同じ意味で頷いていないことが分かるまでに、まだ時間があった。
◇
一九七五年秋、国鉄を含む公労協のスト権回復闘争が、大規模な実力行使へ向かっていた。
ストライキをする権利を求めて、ストライキをする。
その言い方だけを聞けば奇妙だったが、参加者にとっては、話合いを続けても届かない要求を、どこへ届かせるかという問題だった。政府側にも条件付きの権利付与をめぐる動きがあり、組合側は、それを現実のものにする機会と考えていた。
国社党には、輸送が長く止まった場合の相談が入り始めた。
工場へ届くはずの材料。港と内陸を結ぶ貨物。通勤する工員。荷を扱う日だけ賃金が出る者たち。代わりのトラックを頼める会社と、そうでない会社があった。
黒瀬は初め、事前に知らせれば備えられるだろうと言った。
榊原は、備える金のない者が来ている、と答えた。
相沢を交えた話合いは、十一月の初めに行われた。
「止めれば困る。それは分かっている」
相沢は、机に広げられた相談記録を見た。
「困らない止め方で、政府が何か変えると思うか?」
黒瀬は、腕を組んでいた。
「全部を止める必要があるのか」
「必要な所だけ動かせと言う。その必要な所を誰が決めるんだ?政府か。荷主か。結局、全部必要だと言われる」
相沢は静かに話していた。そのために、黒瀬も声を上げられなかった。
榊原は、公共輸送を最低限維持する条件を、労働者の権利と一緒に法律で定める案を示した。範囲を政府がその都度広げられないようにし、労使が決められない部分は独立した仲裁へ回す。賃金などの裁定を出した後も、予算の話で実施が止まる仕組みを改める必要があった。
「仲裁なら、今もある」
相沢は言った。
「あるものが信用できないから、こうなったんだ」
「だから、政府の側も縛ればいい」
「それを、いつ作れる?」
榊原は、今月中とは答えられなかった。
四議席で変えられる制度ではない。社会党の協力があっても、それだけでは足りない。案を示すことと、相沢たちが従える条件を実際に用意することの間には、大きな隔たりがあった。
相沢は、それを確かめてから席を立った。
「先生になったら、待てと言う方へ回るんだな」
黒瀬は呼び止めたが、言葉が続かなかった。
十一月二十六日、ストが始まった。
国鉄の列車は、一部を除いて広く止まった。私鉄やバスが動いている所では、別の経路へ人が集まった。仕事場の近くに泊まる者、自転車で来る者、来られない者がいた。貨物の代替輸送を求める電話は、相談所にもかかった。
榊原が連絡した運送屋は、車より運転手が足りないと答えた。須藤の名を出せば手が早いと言う者もいたが、榊原は先に、どの会社が何を運べるかを確かめさせた。
電話を何本かけても、空いている車が増えるわけではなかった。
黒瀬は、ある小工場へ出向いた。材料待ちで機械が止まり、工員たちは手入れをしていた。社長は、ストが続けば、翌週は何人か休ませるしかないと話した。
「給料は?」
「全部は無理だな」
隣にいた工員が、黒瀬へ顔を向けた。
「国鉄の人たちの権利だっていうのは分かるよ。俺たちの方は、誰に止められたことになるんだ」
黒瀬は、その質問を国会へ持っていくと答えた。
工員は、いつまでに返事が来るのかを訊いた。
国社党が出した声明は、スト権回復の要求を支持しながら、全面停止の継続には反対するものだった。政府には権利問題の先送りをやめるよう求め、組合には輸送を維持する道を協議するよう求めた。
両方に要求したため、両方から歓迎されなかった。
社会党の側からは、闘争の最中に隊列を割るのかと抗議が来た。国社党内部でも、労働運動を裏切ったという声が上がった。反対派の一人は、自分たちの支持者が困る時だけ公共性を持ち出すのかと黒瀬へ迫った。
黒瀬は、支持者でなくても困る人間は困ると答えた。
「なら、国鉄の労働者は困っていないのか」
その問いを、黒瀬は無視できなかった。
声明は撤回しなかった。
◇
ストは八日間続き、十二月三日で打ち切られた。求めていた権利回復は実現しなかった。
列車が再び動き始めても、政治上の対立は戻らなかった。
大庭は、黒瀬と榊原を呼んだ。以前と同じ会議室で、お茶も出た。
「あなた方を支えた人たちへ、これで顔向けができますか?」
黒瀬は、湯飲みに触れなかった。
「その人たちだけを代表するなら、最初からそう書いて選挙をした」
「選挙を手伝ってもらう時には、言わなかったじゃないですか」
大庭の言葉は、黒瀬が予想したより痛かった。
借りた車、集まった人々、満員になった会場。自分たちの四議席が、黒服隊の力だけで出来ていないことは分かっていた。相沢が汗をかいていたことも、忘れてはいなかった。
「支援には礼を言う。だが、賛否まで預けた覚えはない」
黒瀬は言った。
「議席は、あなた方が配る子分の席じゃない」
大庭は、少しの間黙っていた。
「では、次からはご自分でお立ちください」
それが、実際の別れの言葉になった。
国社党は社会党幹部を批判し、社会党側も国社党の姿勢を厳しく非難した。黒瀬の演説は再び長くなり、紙面には、裏切り者という言葉が双方から載った。
協力していた地方組織が離れた。次の選挙で使えるはずだった会場が、使えなくなった。関係の近かった組合からの支援も細った。
一方、工場主や自営業者から、新たな支援の申し出が来た。中には、労働者にストなどさせるなと言って寄付を持ってきた者もいた。
榊原は、その相手に声明の前半を読ませた。
金を持ち帰った者もいた。
支持者を増やせば、その全員と意見が合うようになるわけではない。国社党は、初めての国会議員を出してから三年を経て、ようやくその費用を払い始めていた。
年末、相沢が黒瀬の事務所へ来た。
選挙の時から預かっていた、器材置場の鍵を持っていた。
「これを返しておく」
黒瀬は受け取った。
相沢は、もう一枚、折った紙を出した。
「それから、うちの若いのの相談だ。今回のことで、家の方にも話が行っている。処分がどうなるか、家族が心配している」
黒瀬は紙を開いた。名前と連絡先が書かれていた。
「ここへ連れてきてくれ」
「お前たちに賛成したわけじゃないぞ」
「分かっている」
相沢は頷いたが、座らなかった。以前なら茶を飲みながら、次に手伝える日を話していった。今日は、帰りの時刻を確かめて出ていった。
榊原は、机に置かれた鍵を小さな封筒へ入れた。黒瀬は、相談の紙を、翌週の当番の帳面に挟んだ。
棚には、社会党の支援を前提に作った次の選挙の準備表があった。榊原はそれを下ろし、人と金の足りない箇所へ印を付け始めた。
黒瀬は上着を取った。
「どこへ行く」
「会場を探してくる」
扉が閉まった後、榊原は、まだ誰も書き込んでいない地図を机へ広げた。
スト権ストとかいう名前だけじゃ意味が分からないスト。