地球、それは希望。   作:ふじら

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第9話 戦略的撤退

 

 宇宙世紀0079年9月24日 0830

 地球連邦軍 中東・インド亜大陸方面軍司令部

 

「これより中東・インド亜大陸方面軍はパキスタンへ転進する」

 ジャミトフ・ハイマン大佐の宣言が会議室に落ちた。

 その一瞬、誰も言葉を発しなかったがやがてざわめきが広がった。

 

「……とうとうですか」

 驚きよりも諦めに近い声で呟いた高官がいた。

 

 彼は昨日の時点ですでにこの結論を予想していたのだろう。

 

 エスファハーンを維持することがもはや困難になりつつあることを、部隊の損害報告から察していたのである。

 

 しかし予想していたことと実際に命令を下されることは違う。

 

 イラン地域からの撤退。

 

 それは単に一つの都市を放棄するという話ではない。

 連邦軍が中東方面に築いてきた作戦基盤を縮小し、戦争の進め方そのものを変更するという決断だった。

 

「北西・北東の両方面隊が従来の戦線を維持できない以上、我々がここに留まる戦略的意義は失われた」

 

 ジャミトフは動揺する幕僚たちを見渡した。

 

「諸君。地図を見たまえ」

 

 若い幕僚が操作卓に立ち、スクリーンにイラン北部の地図を投影する。

 

 テヘラン、タブリーズ、マシュハド。

 

 そして連邦軍が現在保持するエスファハーンと重要な後方基地であるケルマーン。

 

 地図上の各都市を結ぶ線が次々と表示されていく。

 

「北西・北東両方面隊はテヘラン及びタブリーズを放棄しました。現地判断によって両方面隊は統合され、現在は北部方面隊として再編されています。司令部はマシュハドから南へ約二百キロのカエンに設置されています」

 説明に合わせ、カエンの位置が強調された。

 

「カエンはここエスファハーンから直線距離でも900キロ以上離れています。一方、我々が後方支援の要としているケルマーンまでは、約450キロです。道路事情や地形、敵の進撃速度を考慮すれば、北部方面隊の敗走によって生じた脅威は、早ければ一週間程度でケルマーンに及ぶ可能性があります」

 

「何だと……そこまで接近しているのか」

 

「本当なのか? 我々は制空権を確保しているのだぞ、戦略爆撃で進撃を食い止められないのか」

 

「苦しいが北部には焦土作戦を実施してもらうしかあるまい」

 

「北部の連中がそれを受け入れるとは思えんがな」

 

 高官たちが口々に意見を述べる。

 

 その傍らでは、彼らに付き従う幕僚たちが上官の発言に同意するように頷いていた。

 

 ジャミトフはしばらく彼らの言葉を聞いていた。

 

「戦略爆撃で敵の進撃を遅らせることはできるかもしれん。だが爆撃によって敵の機動部隊を完全に無力化できる保証はない。そもそも敵がどこにどれだけの戦力を集中させているのか、我々は十分な情報を得られていない」

 彼は地図上の道路網を指でなぞった。

 

「敵の主力が分散しているならば爆撃は有効だろう。しかし、敵が複数の経路を利用し、機動部隊を分散・集中させながら進撃しているならばどうなる? 我々は爆撃によって道路を破壊し補給を妨害できたとしても、敵の進路を完全に封鎖することはできん」

 

「ですが、敵の進撃を遅らせることができればその間に部隊を再編できるのでは?」

 

「そのためにどれだけの時間が必要なのかね」

 

 ジャミトフは問い返した。

 

「北部方面隊が再編を終えるまでか。あるいは新たなモビルスーツが到着するまでか。仮に一週間の猶予を得られたとして、その一週間で我々の航空戦力と地上戦力が、敵の機動部隊を撃破できる状態になるという根拠はどこにある?」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 制空権を持つことと地上の敵部隊を自由に撃破できることは同義ではない。

 

 広大な戦域で敵を発見。

 

 正確な位置を把握。

 

 適切な兵力を投入。

 

 撃破を確認。

 

 その一連の過程には時間がかかる。

 更に敵のモビルスーツが高い機動力を持つならば、航空部隊が攻撃目標を発見した時点で、すでに状況が変化している可能性もある。

 

 かの地球大戦、正式名称は第二次世界大戦。

 その時の北アフリカ戦線でも機甲部隊の戦闘力だけでなく燃料や弾薬の補給、長大な輸送路の維持が作戦の成否を左右した。

 前線で勝利を重ねたとしても、その勝利を支える補給能力が追いつかなければ攻勢は継続できない。

 

 今の連邦軍にはまさにその問題があった。

 

 敵のモビルスーツ部隊に対抗するための地上戦力が不足している。

 航空戦力にも損害が出ている。

 

 北部方面隊の敗走によって後方の安全も揺らいでいる。

 

 エスファハーンに留まることは単に都市を守り続けることではない。

 

 北から敵を迎え撃ちながら、南方の後方基地を維持し、長大な補給線を守り、さらに崩壊した北部方面隊を支援することを意味する。

 

 それだけの任務を遂行する戦力が今の方面軍にはない。

 

「では焦土作戦についてはどうお考えですか」

 

 別の高官が尋ね、そのまま続ける。

 

「北部の主要道路、鉄道、補給施設を破壊し、敵に利用させない。敵の補給を妨害するという点では、理にかなっているでしょう」

 

 

「軍事的な効果だけを考えれば、な」

 ジャミトフは、わずかに眉をひそめた。

 

「だがそこには民間人が暮らしている。都市を破壊し、生活基盤を奪い、住民に飢餓を強いるような作戦を実施すれば、我々が再びこの地域を奪還した際、何が起きる?」

 

「……反地球連邦感情の増大、ですか」

 

「それだけではない。破壊された地域で生活する為に、住民が敵軍へ協力する可能性もある。敵にとって都合のよい情報提供者となる者も出るだろう。武器を手に取りゲリラとして活動する者もいるかもしれん」

 

 彼はそこで一度言葉を切った。

 

「我々地球連邦軍が敵に占領される地域を破壊すれば、将来その土地を取り戻したとき、我々自身が復興と治安維持に必要な費用を負担することになる。軍事的に合理的な破壊が政治的には長期的な損失を生むこともあるのだ」

 

 戦争とは敵の軍隊を倒すだけでは終わらない。

 

 占領地を維持し、住民の生活を立て直し、行政を機能させる。

 

 実際に地球大戦におけるニホンもチャイナとの戦争では勝利を重ねていたが治安戦で痛い目を見たという事例がある。

 

 そうした事を考慮せずに作戦を立てれば、戦場での勝利が、戦争全体の敗北につながることさえある。

 

 ジャミトフは目の前の高官たちを見た。

 

「焦土作戦を実施すれば、敵の補給を妨害できるかもしれん。しかしそのために地域社会を敵に回し、将来の治安維持に新たな戦力を必要とするのならば、我々は何のために戦っているのかね」

 

「残党勢力……ですか。しかし連邦の市民がそこまで我々に敵対するとは」

 

「市民は生まれながらに連邦を憎んでいるわけではない。だが、家族を失い、住居を焼かれ、食料を奪われれば、誰であっても我々を恨む理由を持つ。国民の忠誠心を制服や国旗だけで維持できると考えるべきではない」

 

 反論はなかった。

 

 ただし全員が納得した訳でもない。

 

「一理あることは認めます。しかし打てる手を打たずに撤退するというのは……」

 

「撤退する事と何もせずに逃げることを混同してもらっては困る」

 

 ジャミトフの声が僅かに鋭くなった。

 

「我々は戦争を継続するために戦力を保存するのだ。敵に占領地を一つ与えたとしても、我々の軍隊が残っていれば再び奪還する機会はある。だが、ここで方面軍全体が包囲され、兵員と装備を失えば、失ったものを取り戻すための軍隊そのものがなくなる」

 

 歴史上、撤退は必ずしも敗北の確定を意味しない。

 

 地球大戦のダンケルク撤退。

 

 英仏軍は大陸で大きな損害を受け、装備の多くを失いながらも、相当数の兵員を英国へ退避させた。しかしそれはその後の戦争を支える人的基盤を残したという点で、撤退には戦略的な意味があることの証明になっている。

 

 もちろん今回の状況はダンケルクとは異なる。

 連邦軍は海を渡って包囲されたわけではなく、まだ南方への陸上経路を保持している。

 

 だからこそジャミトフは今の段階で撤退を決断した。

 

 退路が存在し部隊が行動できるうちに下がる。

 

 敵の突破が後方へ波及し、補給路を断たれ、組織的な撤退さえ不可能になるといった事態に陥るまで待つ理由はない。

 

 彼にとって重要なのはエスファハーンという都市の名前ではない。

 

 方面軍の戦力をどれだけ残し、次の戦線でどれだけ戦えるかという問題だった。

 

「それに北部方面隊を見捨てるわけでもない。彼らはザーヘダーン方面へ転進し、休息と再編を行ったのち、トゥルバットで我々と合流する。南西・南東方面隊、南部パキスタン方面隊、西インド方面隊との連携も含め、次の防衛線を構築する」

 

「しかし北部方面隊が再編できる状態にあると?」

 

「だからこそ合流させるのだ。二つの方面隊は甚大な損害を受けたが、完全に消滅したわけではない。指揮系統を立て直し残存部隊をまとめ、再び戦える状態にする。それが今、我々にできる最善の支援だ、こちらから部隊を出すのは応急処置でしかない」

 

 ジャミトフは、そう言い切った。

 

 彼の判断は単に地図上の線を引き直すだけのものではなかった。

 

 エスファハーンを保持するために戦力を消耗し続ければ、北部方面隊の残存兵力を救う余裕もなくなる。

 反対に、今のうちに南方へ下がれば北部の残存部隊と合流し、戦力を再編できる可能性がある。

 

 その判断には失うものを受け入れる覚悟が必要だった。

 

 領土を守るという軍隊の任務と軍隊そのものを守るという責任。

 

 その二つが衝突したときジャミトフは後者を選んだのである。

 

 だが会議室の空気はまだ収まらなかった。

 

「……それならば別の手段があります」

 高官の一人が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「ハイマン司令のモビルスーツ兵は使えないのですか?」

 

「何?」

 

「昨日の戦果報告を拝見しました。改修された陸戦型ジムでジオンのモビルスーツを十機も撃破したとか。あの戦力を北部に回せば敵の進撃を食い止められるのではありませんか」

 

 彼の発言な高官達は次々と口を開いた。

 

「パイロットは連邦軍人です。民間人出身であろうと今は軍服を着ている。その責務を果たしてもらうべきでしょう」

 

「ジャブローに連絡し、新型モビルスーツを追加搬入するよう要請すべきですな」

 

「北米に例の新型が降下したという話もあります。それをこちらへ優先的に回すよう進言できないものか」

 

「航空戦力が不足している今、必要なのは新たな機体が届くまでの時間です。モビルスーツを投入すれば少なくともその間は敵を食い止められるかもしれません」

 

 いつの間にか議題は、撤退の是非からモビルスーツの配備へと移っていた。

 

 高官たちの表情には僅かな希望が戻っている。

 

 新型兵器があれば戦況を覆せる。

 

 優秀なパイロットがいれば敵を倒せる。

 

 追加の援軍さえ届けばまだ戦える。

 

 そう考えたくなる気持ちは理解できなくもなかった。

 

 しかしジャミトフにはそれが問題のすり替えに見えた。

 

 彼らは方面軍がなぜ撤退しなければならないのかという問題を、目の前の一機のモビルスーツそしてパイロットに押しつけようとしている。

 

 昨日の戦果が優秀だったことは認めよう。

 

 だが、一機の戦果と方面軍全体の戦略的状況は別問題だ。

 

 優秀なパイロットが一機の敵を撃破することと、九百キロ以上にわたる戦域を維持することは、同じ尺度では測れない。

 

 

「諸君」

 ジャミトフは静かに口を開いた。

 

「仮にそのパイロットが今後も十機の敵を撃破できたとしよう。それで北部方面隊の戦線は回復するのかね。敵の補給線は断てるのか。ケルマーンへの進撃は止まるのか。失われた航空戦力は戻るのか」

 

 先程まで騒ぎ立てていた者達は誰も答えなかった。

 

「兵器の性能や個人の能力を過小評価するつもりはない。だが、戦略上の問題を一機の戦果で解決できると考えるのはあまりにも危険だ」

 

 彼はスクリーンの地図を見上げた。

 

「新型モビルスーツの配備は必要だろう。優秀なパイロットを活用することも必要だ。しかしそれらは戦略を支える手段であって、戦略そのものではない」

 

 ジャミトフはようやく確信した。

 

 この場にいる高官たちは撤退を否定するための材料を探している。

 

 戦況を正面から見つめるよりも、都合のよい可能性に期待し、決断を先延ばしにしようとしているのだ。

 

 先日、北部方面隊との連絡で受け取ったあの横柄な応答が脳裏をよぎる。

 

 援軍を求める側は中央が何もしていないと非難する。

 

 中央は現地が戦線を維持できないことを問題視する。

 

 そして互いに相手の責任を追及しながら時間だけが失われていく。

 

 軍隊は命令系統と規律によって動く組織だ。

 

 だが組織の形式が整っていることと組織が機能していることは別である。

 

 制服を着て、階級章をつけ、会議室に集まっている。

 

 その外見だけを見れば、連邦軍は巨大で整然とした軍隊に見えるだろう。

 

 しかしその内側では責任の押しつけ合いと、失敗を認めたくないという感情が意思決定を鈍らせていた。

 

 政財界で組織の腐敗を見てきたジャミトフにとってそれは見慣れた光景でもあった。

 

 業績が落ち込む中小企業が、事業の根本的な問題を見直す代わりに、新しい設備や一人の有能な社員にすべてを期待する。

 

 問題を指摘した者よりも耳当たりのよいことを言う者が重用される。

 

 そして決断を遅らせた責任は現場に押しつけられる。

 

 今の連邦軍は戦争という極限状況にありながらそれとよく似た振る舞いをしていた。

 

 ただし企業ならば倒産で済む話も、軍隊では何千、何万という兵士の命に直結する。

 

 ジャミトフは心の中で呟いた。

 

 

 

 これを、私がまとめねばならんのか。

 

 

 

 

 連邦軍の組織形態そのものに対する疑念が、また一つ深まった。

 

 だが今は疑問を抱いている場合ではない。

 

 

 

「転進の決定は変わらない。各部隊の残存兵力、燃料、弾薬、車両の稼働状況を再確認、負傷者の後送計画も見直せ。搬送できない装備は敵に利用されないよう処置を行う」

 

 彼は幕僚たちを見渡した。

 

「我々は南へ下がる。軍隊を残し次の戦争を続けるためにな」

 

 

 沈黙が訪れる。

 

 

 

 ジャミトフはそれを肯定と受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 同日 0900

 北部方面隊司令部(旧北西方面隊・旧北東方面隊)

 

「総司令は何をしているんだ!!」

 野戦司令部の天幕に怒号が響いた。

 

 机の上には書き込みだらけの地図と破損した通信機の部品、泥に汚れた報告書が積み上げられている。

 

 集まった高官、幕僚、部隊責任者達の顔には疲労が色濃く浮かんでいた。

 

 頭や腕に包帯を巻いた者がおり包帯の端には乾ききらない血が滲んでいる。

 

 松葉杖に体重を預けて立つ者もいれば、片腕を失ったまま残った手で書類を握りしめている者もいた。

 

 

 

「このままではイラン地域が全て奪われるぞ!」

 怒鳴った旧北西方面隊の隊長に誰も答えなかった。

 

 答えられなかったのではない。

 

 誰もが同じ結論に辿り着いていたからだ。

 

 今のままではイラン地域を守りきれない。

 

 北西方面隊はタブリーズからアルダビールに至る戦線で後退を繰り返しながらも、部隊を立て直し、ジオン軍の南下を食い止めようとしてきた。

 

 

 

 チャールース迎撃戦。

 

 

 

 テヘラン防衛戦。

 

 

 

 バーボル防衛戦。

 

 

 

 ゴルガーン防衛戦。

 

 

 

 ゴレスターン迎撃戦。

 

 

 

 そしてマシュハド攻防戦。

 

 一つの戦いに敗れる度に、彼らは部隊を後退させ、残存兵力を集め、次の防衛線を構築した。

 

 戦線を少しずつ下げながら敵の進撃を遅らせる。

 

 その間に後方の部隊を再編、弾薬を補充し次の陣地を整える。

 

 正面から敵を撃破できない状況で時間を稼ぐための遅滞戦術だった。

 

 北西方面隊の指揮官達は決して無策で後退していた訳ではない。

 

 寧ろ限られた戦力で戦争を続けるためには合理的な判断だった。

 

 敵の攻勢を一度に受け止めようとすれば前線部隊は壊滅しかねない。

 

 ならば地形や道路網を利用し、敵の進撃に時間をかけさせる。

 

 橋梁や交通の要衝を防御し、敵が集中する場所には砲兵と機甲部隊を集める。

 

 危険が大きくなれば、包囲される前に撤退する。

 

 現実の軍事史でも戦力で劣る側が遅滞戦術を用いて敵の攻勢を遅らせることは珍しくない。

 

 地球大戦の東部戦線では、ソ連軍が後退を強いられながらも時間を稼ぎ、予備兵力を集め、次の防衛線を構築することがあった。

 

 勿論、当時の戦場と今回の戦場では兵器も条件も異なる。

 

 しかし、敵の進撃を遅らせ後方の戦力を整えるという考え方自体は時代を超えて変わらない。

 

 北西方面隊はその原則に従って戦っていた。

 

 だがジオン軍は彼らが想定していた以上の速さで戦線を突破してきた。

 

 一方、北東方面隊はバイコヌール宇宙基地方面から南下するジオン軍の部隊を抑える任務を担っており、敵の南下を阻止するために兵力を拘束されていた。

 

 

 これは救援作戦を行えばもう一方の戦線が崩れることを意味する。

 

 北東方面隊が北西方面隊の支援に向かえば北から南下する敵に側面を突かれる危険があり、反対に北西方面隊が独力で戦線を維持しようとすれば兵力を消耗しきってしまう。

 

 そのため両方面隊は最終的に連絡を取り合い共同でマシュハドを防衛する決断を下した。

 

 二つの方面隊を統合し指揮系統をまとめる。

 

 兵力を分散させず限られた機甲戦力を集中する。

 

 敵のモビルスーツに対しては、戦車や装甲車を単独で突入させず、歩兵、砲兵、機甲部隊を連携させる。

 

 彼らは敵の新兵器に対抗するためにできる限りの準備を行っていた。

 

 しかし結果は敗北だった。

 

 その最大の要因として彼らの記憶に刻み込まれた名前がある。

 

 黒い三連星。

 

 戦場の均衡を崩した者達の名前だ。

 

 勿論、北部方面隊の敗北を敵方の三人のパイロットだけに帰すことはできない。

 

 ジオン軍は黒い三連星の機動力を突破口として利用し、後続のモビルスーツ部隊を前進させていた。

 更にマゼラトップをはじめとする支援戦力が、突破口を埋めようとする連邦軍の反撃を妨害した。

 

 黒い三連星が突破し後続部隊がその穴を広げる。

 

 連邦軍が防御線を再構築しようとすれば別の敵部隊が側面へ回り込む。

 

 局地的な突破が戦線全体の崩壊へと繋がっていったのである。

 

 戦場で起きていたのは単に強いモビルスーツが戦車を倒すという現象ではなかった。

 

 敵は突破した後の行動まで計算していた。

 

 歩兵の防御線を破り、機甲部隊の側面や後方へ回り込み、砲兵陣地を脅かす。

 砲兵が沈黙すれば連邦軍は敵の進撃を食い止めるための火力を失う。

 そこへ後続の部隊が進出し崩れた戦線をさらに押し広げる。

 

 地球大戦でドイツ軍が実施した電撃戦も単に戦車が速く走る戦術ではなかった。

 

 戦車、機械化歩兵、砲兵、航空戦力などを連携させ、敵の防御線の一点に戦力を集中する。

 

 突破後は後方へ進出し、通信、補給、指揮系統を混乱させる。

 

 敵が新たな防衛線を構築する前に次の行動へ移る。

 

 その本質は、敵の部隊を正面から一つずつ撃破することよりも敵が組織的に戦うための仕組みを崩すことにあった。

 

 マシュハドで起きたこともこれに近い。

 

 ただしジオン軍には従来の機甲部隊では実現できない機動力と戦闘能力を持つモビルスーツが存在した。

 

 歩兵の戦線を突破。

 

 機甲部隊の防御陣地へ突入。

 

 砲兵陣地を襲撃。

 

 連邦軍が反撃のために部隊を集める前に次の地点へと移動。

 

 通常の戦車部隊であれば、地形や道路の制約、歩兵との連携、燃料や整備の問題によって、突破後の行動にも限界がある。

 

 だがモビルスーツは従来の車両では通過しにくい地形でも行動できる場合があり、戦場の起伏や遮蔽物を利用して、予想外の方向から攻撃を仕掛けられる。

 

 勿論、モビルスーツにも燃料、弾薬、整備、操縦者の疲労という制約はある。

 

 しかし、少なくともマシュハドの戦場ではその制約が連邦軍の防御線を支える時間よりも、敵の突破速度のほうが勝っていた。

 

 連邦軍は機甲戦力を集中し、対モビルスーツ戦闘を想定した陣地を構築していた。

 

 だが、陣地が機能するためには敵がその正面に現れ、想定した方向から進撃してくることが前提となる。

 

 敵が突破口を選び、側面を突き、砲兵を襲い、更に後続部隊を投入してくるならば、個々の陣地が堅固であっても、戦線全体を維持することは難しい。

 

 彼らはモビルスーツに対抗するための戦術を考えていたが敵はその戦術が機能する前に、戦場そのものの形を変えてしまったのである。

 

「……クソッ!」

 

 北西方面隊長が机を叩いた。

 

「こちらだって、何も考えずに戦っていたわけじゃない!」

 

「機甲戦力は集中した。砲兵の配置も見直した。前線の歩兵だけでモビルスーツを止められないことくらい、我々も理解していた。だから、敵を一つの防御線で受け止めるのではなく、複数の陣地で足止めし、機甲部隊を反撃に投入する計画だった」

 

 彼は地図を指差した。

 

「だが突破された。しかもこちらが反撃に移る前に砲兵を叩かれた。あの速度で動かれたら、命令を伝達している間に状況が変わる。部隊を移動させようとすれば別の場所が危なくなる」

 

「それでも、撤退の判断自体は間違っていなかった」

 北東方面隊長が、静かに口を開いた。

 

「前線を維持できないと判断した時点で後退したから、我々は今ここにいる。もしマシュハドで最後まで踏みとどまっていたら、二つの方面隊は分断され、残存部隊をまとめることすらできなかったかもしれん」

 

 その言葉には苦い現実が込められていた。

 

 戦術的な撤退は必ずしも敗北を防ぐものではない。

 

 だが敗北の規模を抑えることはできる。

 

 包囲される前に退く。

 

 部隊同士が連絡を保てるうちに合流する。

 

 戦闘能力を失った部隊を切り離し残存兵力を再編する。

 

 それらは戦場で部隊を指揮する者にとって極めて重要な判断だった。

 

 二人の方面隊長は現地の状況に応じてその判断を重ねてきた。

 

 彼らが戦術的に無能だったから敗北したのではない。

 

 彼らが合理的に行動してもなお、敵の戦闘力と進撃速度が、その対応能力を上回ったのである。

 

 そして戦力を温存するために選んだ後退も、繰り返すうちに限界へ近づいていた。

 

 後退するたびに補給拠点は遠ざかる。

 

 負傷兵は増え、車両は故障し、弾薬は減る。

 

 兵士達は、次の陣地へ移動するたびに、また同じ敵が現れるのではないかという恐怖を抱くようになった。

 

 どれだけ合理的な作戦であっても、それを実行する兵士の士気が崩れれば、計画通りに動かすことは難しい。

 

 遅滞戦術は敵を撃破することだけを目的としていない。

 

 後退しながらも部隊の統制を維持し、次の戦闘に備える必要がある。

 

 しかし、敗走を繰り返した兵士たちにとって、後退は次第に「次の防衛線へ向かう行動」ではなく「また逃げること」へと変わりつつあった。

 

 指揮官達もそのことを理解していた。

 

 だからこそ二人は悩んでいた。

 

 今の北部方面隊に必要なのは、更に後退するための命令ではない。

 

 兵士たちにもう一度戦えると思わせる何かだった。

 

 そして彼らが思い浮かべたのが一機のモビルスーツだった。

 

 陸戦型ジム。

 

 中東・インド亜大陸方面軍に一機だけ配備されている地球連邦軍の正規生産モビルスーツ。

 

 その機体と操縦者であるシンヤ・スガイ。

 

 北部方面隊の指揮官たちは彼の戦果報告を読んでいた。

 

 報告書に記された数字だけを見れば異例の戦果だった。

 

 しかし彼らも求めているのは単純に敵を十機撃破できるパイロットではない。

 

 敵のモビルスーツに対抗できる戦力が実際に存在するという事実だった。

 

 敵の新型機が無敵ではないことを示す。

 

 兵士達に戦えば勝てる可能性があると思わせる。

 

 そして敵が突破口を開いた際、そこへ投入して局地的な反撃を実施する。

 

 もし陸戦型ジムがその役割を果たせるのならば、北部方面隊はただ後退するだけの戦いから抜け出せるかもしれない。

 

 彼らにとって陸戦型ジムは単なる兵器ではなかった。

 

 崩れかけた戦線を立て直す為の、数少ない手段の一つだったのである。

 

 最も二人の指揮官は陸戦型ジム一機で戦況全体を覆せると本気で考えていたわけではない。

 

 一機のモビルスーツで広大な戦線すべてを守ることはできない。

 敵の進撃を完全に阻止する事も補給線の問題を解決することもできない。

 

 それでも適切な地点に投入できれば敵の先鋒を撃退し、反撃のための時間を作ることは可能かもしれない。

 

 軍事作戦では戦力の総量だけでなく、どこに、いつ、どのように投入するかが重要になる。

 

 限られた戦力を決定的な地点へ集中させることは古くから用いられてきた原則だ。

 

 だからこそ彼らは一機の陸戦型ジムを求めた。

 

 問題はその機体が今中央司令部の管理下に置かれていることだった。

 

 地球連邦軍には鹵獲したザクⅡやそれらを研究・改修したザニーなども存在していた。

 

 だがこれらの機体はジャブローの指示や管理方針に強く拘束されている。

 配備や運用についても中央の判断を仰がなければならない。

 

 一方、陸戦型ジムは連邦陸軍が独自に生産し部隊への配備を進めている正規のモビルスーツだった。

 

 運用に関する権限が方面軍や隷下部隊へ委ねられれば、現地の指揮官は自らの判断で戦力を投入できる。

 

 その違いは大きい。

 

 敵の機動部隊が迫っているとき、ジャブローへ使用許可を求め、返答を待ち、それから部隊を移動させるのでは遅い。

 

 現地の指揮官が状況を把握し、必要と判断したときに動かせること。

 

 それ自体が兵器の性能と同じくらい重要なのである。

 

 しかし陸戦型ジムの生産と配備は始まったばかりだった。

 

 極東や欧州など、優先度の高い戦域へ回される予定だった機体のうち何とか一機を中東・インド亜大陸方面軍へ搬入させた。

 

 その実現にジャミトフの働きが大きく関わっていたことは北部方面隊の指揮官たちも認めている。

 

 だが、彼らからすれば貴重な戦力である以上中央司令部だけで抱え込むのではなく、方面軍全体の状況に応じて運用すべきであると言わざるを得ない。

 

「……あの機体さえ、こちらにあれば」

 北西方面隊長が低い声で呟いた。

 

 

「それと……パイロットだ」

 

 北東方面隊長が続けた。

 

「報告書を見る限りスガイというパイロットは単に射撃が上手いだけではない。地形を利用し、味方の火力を引き出し、敵を誘い込んでいる。戦車隊との連携も成立させている。少なくとも陸戦型ジムを単独で暴れさせるような使い方はしていない」

 

 彼は報告書の一節を指で叩いた。

 

「我々が欲しいのは英雄の名前ではない。現地の部隊と連携し敵の進撃を止めるために使える戦力だ」

 

 スガイの戦果が誇張されて伝わっている可能性は二人とも承知していた。

 

 実戦の報告は戦闘の混乱や目撃情報の食い違いによって不正確になることがある。

 

 撃破と行動不能の区別。

 

 味方の誤射。

 

 敵の自力撤退などを確認しなければ正確な戦果とは言い切れない。

 

 それでも報告書に記された戦術と実際に生き残った部隊の証言には無視できない価値があった。

 

 彼らはスガイが一人で戦局を変えることを期待しているのではない。

 

 彼の技量と陸戦型ジムを北部方面隊の残存戦力と組み合わせることで局地的な優位を作り出そうとしていたのである。

 

 だがその機体も、パイロットも、今はここにいない。

 

 中央司令部が保有している。

 

 そして北部方面隊にはもう時間が残されていない。

 

「どうする。このままではジオン軍がここへ到達するのも時間の問題だぞ」

 北西方面隊長が言った。

 

「分かっている……」

 北東方面隊長は地図から目を離さなかった。

 

 天幕の中に重い沈黙が広がった。

 

 周囲の幕僚達も虚ろな目で立ち尽くしていた。

 

 

 その時だった。

 

 

「失礼します!」

 伝令兵が息を切らして天幕へ飛び込んできた。

 

「中央司令部から緊急連絡です!」

 

 二人の方面隊長は顔を見合わせた。

 

 以前なら援軍の知らせかもしれないと期待しただろう。

 

 新型モビルスーツの追加配備か。

 航空戦力の増援か。

 それとも北部方面隊を立て直すための具体的な支援策か。

 

 だが、今の彼らには期待することそのものに疲れていた。

 

「……何だ」

 

 片方の指揮官がゆっくりと伝令兵へ向き直った。

 

 伝令兵は手元の命令書を読み上げた。

 

「中東・インド亜大陸方面軍はイラン地域を放棄することを決定! 北部方面隊はザーヘダーン方面へ転進! 休息と再編を行った後にトゥルバットにて中央司令部、南西方面隊、南東方面隊、南部パキスタン方面隊、西インド方面隊と合流せよ、との命令です!」

 

 

 沈黙。

 

 

 二人の方面隊長は、互いの顔を見つめた。

 

 片方は口を半開きにし、もう片方は、まるで聞き間違いを疑うように目を細めた。

 

 数秒後。

 

「「はぁあああああ!?」」

 

 二人の絶叫が野戦司令部の天幕を揺らした。

 

 






めっっっっちゃ疲れました!手汗びしょびしょです!
かなり凝って書きましたので頭が痛くなるかもしれませんがぜひとも最後まで読んでくださいね!

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