地球、それは希望。   作:ふじら

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第14話 海上生活と不穏

 

 宇宙世紀0079 9月26日 1300

 

 

 

 海の上は、潮の匂いに満ちていた。

 

 どこまでも続く青い海。

 

 船体にぶつかって砕ける白波。

 

 

 頭上には雲一つない空が広がり、水平線の彼方まで陸地らしいものは見当たらない。

 

 そして輸送艦の甲板には海風が絶え間なく吹きつけていた。

 

 

 

 

 俺は手すりに片手を置き、ゆっくりと流れていく景色を眺めている。

 

 

「……髪の毛、悪くなりそー」

 

 隣から気の抜けた声が聞こえた。

 

 リルだ。

 

 彼女は風に流される髪を片手で押さえながら、どこか不満げに海を睨んでいる。

 

「潮風って髪によくないのよね。べたつくし、まとまり悪くなるし……最悪」

 

「景色よりそっちが気になるのか?」

 

「当たり前でしょ。髪は大事なの、男の子には分からない話ね」

 

「へえ」

 

 彼女は手持ちの小さな鏡を取り出すと、風で乱れた髪を確認する。

 

「はあ……早く室内に戻らない?」

 

「えー、せっかく海の上にいるんだからもう少し楽しもうよ」

 

「シンヤはいいわよね、髪のことなんて気にしなくていいんだから」

 

「俺だって多少は気にする」

 

「……例えば?」

 

「……寝癖とか」

 

「そういう事じゃないわよ」

 

 彼女は不満そうに頬を膨らませると、再び海へ視線を戻した。

 

 そんなリルの様子を見た俺はふと思ったことを尋ねてみた。

 

「そういえばリルも船旅は初めてなのか?」

 

「船旅?」

 

「いや、こうして海の上を移動するのは初めてなのかと思って」

 

「客船なら乗ったことあるわよ」

 

「へえ」

 

「家族旅行でね、でも軍艦は初めて」

 

「客船って、どんなところだったんだ?」

 

「普通の客船よ。ニューヨークから地中海を一周したの」

 

「……え?」

 

 リルの返答に俺は思わず聞き返した。

 

 今の時代地中海旅行なんて富豪も富豪、縦社会の上澄みしかできない事だ。

 

 俺はあまりの驚きになんて反応すればいいのか分からなくなっていた。

 

 その時、後ろから声が割り込んできた。

 

「えっ!?  すごい! どこで乗ったの!?」

 

 ハナだった。

 

 彼女はリルの言葉を聞くなり、どこからともなくやって来ては目を輝かせた。

 

「ニューヨークから地中海一周ってすごくないですか!?」

 一方でハナについてきたノエルも興奮していた。

 

 どうやらこの2人は気が合うのか仲良くやれてるらしく、艦内を一緒に見て回っている。

 

「いや、そんな大げさなものじゃないわよ」

 

「大げさですよ! だって地中海ですよ!?」

 

「いや、だから……」

 

 リルは困ったように眉を寄せた。

 

 ノエルはそんなことなど気にせずさらに質問を重ねる。

 

「どこの国に行ったんですか? 何を食べたんですか? 船って大きかったんですか?」

 

「ちょ、ちょっと! 一度に聞かないでよ!」

 

 リルが慌てて制止する。

 

 普段は物事を冷静に分析する彼女だが、こういうときは意外と押しに弱いらしい。

 

 ノエルの純粋な好奇心に、完全に押されていた。

 

「いいなあ……私もそういう旅行してみたいです!」

 

「まあ、楽しかったわよ。家族と一緒だったし」

 

 そう答えるリルの表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

 

 

 

 俺は再度海の向こうに目を向けた。

 

 すると船の進行方向から少し離れた場所。

 

「ん……?」

 

 水平線の近くに、妙な影が見えた気がした。

 

「……あれ、護衛の潜水艦じゃないか?」

 

「えっ!?」

 

 ハナが勢いよく振り返った。

 

「どれどれ!?」

 

 その隣では、ノエルがすでに駆け寄ってきていた。

 

「どこですか!? 写真撮りたいです!」

 

 彼女はいつの間にか首からカメラを下げている。

 

 ……準備がいいな。

 

 いつから持っていたのだろう。

 

 ノエルは俺の隣に並ぶと、目を細めて海を見渡した。

 

「どこですかシンヤ君!」

 

「ほらあそこ。黒っぽい影が出てきてない?」

 

「あっ! あれですか!?」

 

「本当だ! 潜水艦かな!?」

 

 ハナも身を乗り出した。

 

 リルは、皆ほど興奮している様子ではなかった。

 

「……潜水艦ねえ」

 

 そう呟きながらも、彼女は横目で俺の指差す方向を眺めている。

 

 興味がないわけではないらしい。

 

 俺たちは手すりの近くに集まり、海面をじっと見つめた。

 

 最初は波間に黒い影が浮かんでいるだけだった。

 

 だがしばらくするとその影がゆっくりと大きくなっていく。

 

 

 

「……来るぞ」

 

 俺が呟いた、その瞬間。

 

「来た!!! あそこ!!」

 

 ハナが声を上げた。

 

 海面が盛り上がった。

 

 次の瞬間、巨大な黒い船体が海中から勢い良く姿を現す。

 

 水飛沫が高く舞い上がり、濡れた鋼鉄の船体が太陽の光を反射した。

 

 

 

「うわあ! すごい!」

 

 ハナが歓声を上げる。

 

「おおお……!」

 

 ノエルも興奮した様子でカメラを構えたシャッターを押す。

 

 連邦海軍の潜水艦。

 

 海面を割って現れたその姿には独特の威圧感があった。

 

 水上艦のように大きな艦橋や砲塔が並んでいるわけではない。

 

 海の中から突然姿を現した巨大な船体には、言葉にしがたい迫力があり、それはまるで海底に潜んでいた怪物がゆっくりと目を覚ましたかのようだった。

 

「……すごいな」

 

 その光景に魅了され自然と自分はそう呟いていた。

 

 

 

 潜水艦という兵器は普段は海の中に隠れている。

 

 敵から姿を見られることなく接近し、必要とあれば攻撃を仕掛ける。

 

 その存在を知られないこと自体が、潜水艦の大きな価値なのだ。

 

 だが、こうして浮上した姿を見るとその価値は隠密性だけではないと感じる。

 

 巨大な船体を海中で操り、長時間にわたって航行し、必要なときには再び海面へ姿を現す。

 

 今目の前にいるこの巨大兵器にはその為にどれほどの技術が必要なのだろう。

 

 

 そんなことを考えていると艦内放送の音が響いた。

 

 

 

 艦のスピーカーから男性の声が聞こえてくる。

 

『こちら、連邦海軍インド太平洋方面隊強襲揚陸艦ニューオリンズ!』

 

 少しのノイズを挟み声は続いた。

 

『此度の護衛任務に対する諸君らの協力に感謝する!』

 

 その声に合わせるように、浮上した潜水艦の甲板付近で人影が動いた。

 

 遠目にも、乗組員たちがこちらに向かって敬礼しているのが分かった。

 

 輸送艦の乗組員たちも、それに応じるように敬礼を返す。

 

 俺たちも自然と姿勢を正していた。

 

 潜水艦の乗組員たちは、海の上で一瞬だけ、その姿を見せてくれた。

 

 そして彼らはスガイ達輸送艦関係者に手を振り大声でエールを送る。

 

「頑張れよぉ〜!」

 

「モビルスーツに水底は似合わねえからよぉ!」

 

 自分達もそれに対して手を振り返す。

 

 

 彼らがどんな任務をこなし、どれほど長い時間を海中で過ごしてきたのか。

 

 僕たちには分からない。

 

 ただ、こうして任務を通して互いに敬礼を交わす光景。

 

 これこそが軍人同士の交流なのだろう。

 

 まだ軍属になって日が浅い自分だからこそ、この光景には胸が高鳴った。

 

 

 

 やがて潜水艦の乗組員たちは艦内へと姿を消していき、最後の人影がなくなると潜水艦はゆっくりと姿勢を変え始める。

 

 海面に浮かんでいた船体が少しずつ沈んでいく。

 

 黒い船体が海水に覆われ、艦橋が消え、最後には海面に残った白波だけがその存在を示していた。

 

 まるで最初から何もなかったかのように。

 

 

 

 

「わあー! かっこいいね!!」

 

 ハナは興奮冷めやらぬ様子で声を上げた。

 

「ですです! いいなあ、潜水艦! 一度、中を見てみたいです!」

 

 ノエルもカメラを抱えたまま、名残惜しそうに海を眺めている。

 

「……そんなに?」

 

 リルが呆れたように呟いた。

 

「えー、リルさんは興味ないんですか?」

 

「ないとは言ってないでしょ。ただそこまで騒ぐほどじゃないってだけ」

 

「でも実物を見るとすごいですよ!」

 

「……それは認めるけど」

 

 リルは海面を見つめた。

 

 先ほどまで潜水艦が浮かんでいた場所には、もう何もない。

 

 それでも僕達はしばらくその場所から目を離さなかった。

 

 

 

 先程の潜水艦は海の中にいる。

 

 

 目には見えない。

 

 だが確かにそこに存在している。

 

 

 

 そう考えると、妙な感覚があった。

 

 僕達が乗っている輸送艦も海の上を進んでいる。

 

 その下には、深い海が広がっている。

 

 更にその下には光の届かない世界がある。

 

 そこをあの巨大な潜水艦が進んでいるのだ。

 

 ……なんだか、不思議な話だ。

 

 

 

 

「撮れましたよ!」

 

 ノエルが嬉しそうにカメラを見せてきた。

 

「おお、すごいな」

 

「でしょう!? 浮上するところも撮れたんですよ!」

 

 画面には、海面から姿を現す潜水艦の姿が映っていた。

 

 水飛沫を上げる船体。

 

 濡れた鋼鉄の表面。

 

 そして、遠くからこちらへ敬礼する乗組員たち。

 

 写真越しでも、その迫力は十分に伝わってきた。

 

「いい写真!」

 

 ハナが隣から覗き込む。

 

「でしょでしょ! あとで現像して皆さんに見せますね!」

 

 ノエルは満足そうに頷いた。

 

 その姿を見て俺は笑った。

 

 こうしていると、戦場に向かっているということを忘れそうになる。

 

 海の上で潜水艦を見つけて、写真を撮って、騒いで。

 

 まるでただの旅行だ。

 

 

 

 

 だが僕たちは軍人であり、向かう極東にはこれから果たさなければならない任務が待っている。

 

 それでも。

 

 こうした何気ない時間があることはとても楽しいものだ。

 

 

 

 

 俺たちは、同じ景色を見て、同じものに驚き、同じように笑っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 

「ねえ、せっかくだから夜の海も見に行こうよ!」

 

 夕食後、ハナがそう切り出した。

 

「夜の海?」

 

「うん! 昼とまた違ってきっと綺麗だと思う!」

 

「確かに」

 

 俺は頷いた。

 

 昼間の海も良かったが、夜の海にはまた別の魅力があるだろう。

 

 ノエルもすぐに賛成した。

 

「いいですね! 星も見えそうですし、また写真撮りたいです!」

 

「……私は部屋で休んでてもいい?」

 

 リルは露骨に面倒そうな顔をした。

 

「えー! リルも行こうよ!」

 

「だって、寒そうだし。髪もまた潮風にやられるし……」

 

「夜の海だよ!?」

 

「夜の海だからって、髪が傷まなくなるわけじゃないでしょ」

 

「もーー! 今回だけでいいから〜!」

 

 

 ハナの圧に負けリルも渋々ながら同行することになり、四人は夜の海を眺めるために再び甲板へ出た。

 

 外へ出た瞬間、昼間とは違う冷たい風が頬を撫でた。

 

 潮の匂いが鼻をくすぐる。

 

「わあ……綺麗」

 

 ハナが小さく呟いた。

 

 その声には、昼間の潜水艦を見たときとは違う、静かな感動があった。

 

 ノエルもカメラを構え、星空と海を撮影しようとしている。

 

 俺は手すりに手を置き、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 

 冷たい空気が肺に入る。

 

 海の匂いがする。

 

 遠くには、水平線すら見えない。

 

 ただ、星と海と、船の灯りだけがあった。

 

 しばらく、俺たちは何も話さずに海を眺めていた。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

「……ん?」

 

 何かが聞こえた。

 

 最初は、風の音かと思った。

 

 しかし、違う。

 

 低く、長く、どこか遠くから響いてくるような音だった。

 

 まるで歌のようだった。

 

 それでいて、悲鳴にも似ている。

 

 人間の声ではない。

 

 音は海の向こうから響いてきている。

 

 波の音に混じりゆっくりと空気を震わせる。

 

「……なに、この声」

 

 リルが呟いた。

 

 その声には、明らかな不安が滲んでいた。

 

 俺は彼女の方を見た。

 

 リルは海を凝視していた。

 

 いつもの余裕のある表情は消え、顔色がわずかに青ざめている。

 

 足元も、ほんの少し震えているように見えた。

 

「……何かしら。この音」

 

 彼女は俺の袖をつまんだ。

 

 もう一度、声が響く。

 

 

 

 

 長く、低い音。

 

 まるで、海の底から何かが呼びかけているかのようだった。

 

 自分も思わず息を呑んだ。

 

 確かに不気味な音だ。

 

 夜の海という状況もあって、余計にそう感じるのかもしれない。

 

 だが、その音には、どこか神秘的な響きもあった。

 

 自然のものとは思えないほど、長く、深く、そして美しい。

 

 そう感じた、そのとき。

 

「あっ!」

 

 ハナが声を上げた。

 

「クジラじゃない!? クジラ!!」

 

「……え?」

 

 俺はハナを見た。

 

 彼女はすっかり興奮した様子で海を覗き込んでいる。

 

「ほら、クジラの声って遠くまで響くんだよ! たぶん、そうじゃないかな!?」

 

「本当に!?」

 

 ノエルが慌ててカメラを構えた。

 

「クジラですか!? どこにいるんですか!?」

 

「分からないけど、声が聞こえるなら、近くにいるのかも!」

 

 ハナは目を輝かせていた。

 

 彼女は昔から生物が好きだった。

 

 家族の影響もあって、動物や海の生き物について調べることが多かったらしい。

 

 だからだろう。

 

 正体の分からない声を聞いても、恐怖より先に好奇心が湧いてくるようだった。

 

「すごい……! 野生のクジラの声なんて、初めて聞きました! 公害とか落下の件ですっかり数を減らしたと聞きますし! これはレアですよ!」

 

 ノエルもすっかり撮影する気になっている。

 

 だがその隣ではリルが悲鳴に近い声を上げていた

 

「ちょ、ちょっと待って!! クジラ!? あれがクジラの声なの!?」

 

「たぶんそうだよ!」

 

「たぶんって何よ!?」

 

 リルは僕の腕をぎゅっと掴んだ。

 

「ちょっと恐いんだけど!!? ねえ!?」

 

「……痛い、リル」

 

「えっ? あっ、シンヤごめん!」

 

 謝りながらも彼女の手は離れなかった。

 

 むしろ音が響くたびにさらに強く握りしめてくる。

 

 ……いや、本当に痛い。

 

「大丈夫だって、クジラなら別に襲ってくるわけじゃないだろ」

 

「なんでそんなに冷静なのよ!?」

 

「いや、だって……」

 

「だってじゃないわよ! あんな声、普通に怖いでしょ!?」

 

 リルは首をぶんぶんと横に振った。

 

 普段の彼女からは想像できないほど、露骨に怯えている。

 

 研究所や軍事関連の話になると、あれほど冷静で鋭いのに。

 

 

 どうやら生物のことになると勝手が違うらしい。

 

 いや、生物というより正体の分からない海の生き物が苦手なのかもしれない。

 

 

 

「わー、リルちゃん涙目なんだー」

 ハナがリルを見て笑う。

 

「泣いてない!」

 彼女も即座に反論する。

 

「でも目が……」

 ノエルも彼女の顔色を伺う。

 

「泣いてないってば!」

 

「はいはい、そういうことにしておきますね」

 

「ノエル!!」

 

 リルの声が夜の海に響いた。

 

 リルをおちょくり終えたハナは手すりの向こうを覗き込む。

 

「どこにいるんだろう……声は聞こえるのに姿が見えないね」

 

「暗いですからねえ……」

 

 ノエルも残念そうに呟いた。

 

「せっかくカメラ持ってきたのに……」

 

 彼女はレンズを海へ向けた。

 

 だが艦の灯りが届く範囲にクジラらしき影は見当たらない。

 

 海面には船の側面に沿って流れる白波があるだけだった。

 

 ハナはもう少しだけ見てみようと手すりの近くに顔を寄せた。

 

 自分もその隣から海を覗き込む。

 

 黒い水面。

 

 その奥に広がる、底知れない暗闇。

 

 声はまだ聞こえていた。

 

 長く、ゆったりとした響き。

 

 海の底を漂うような音だ。

 

 

 

「……クジラかぁ」

 

 俺は呟いた。

 

「神秘的な声だよな」

 

「……は?」

 

 腕に捕まっていたリルが信じられないものを見るような目で俺を見た。

 

「神秘的!? どこがよ!!」

 

「いや、なんていうか……自然の大きさを感じるというか」

 

「殺しに来そうな声してるわ!!」

 

「そんなことないだろ……」

 

「あるわよ!!」

 

 リルは再び海を見てすぐに俺の腕へ顔を向けた。

 

「ねえ、あれ本当にクジラなの!? もっと別の何かじゃないの!?」

 

「別の何かって……」

 

「海の底にいる、もっと大きくて、もっと恐ろしい何かとか! クラーケンみたいなやつ!!」

 

「……映画の見すぎじゃないか?」

 

「仕方ないじゃない! 海の中なんて分からないことだらけでしょう!?」

 

 それはまあ。

 

 否定しづらい話ではある。

 

 海にはまだ人間が十分に調べきれていない領域がある。

 

 深海にどんな生物が生息しているのか、すべてが分かっているわけではない。

 

 とはいえ今聞こえている音が未知の怪物の声だと考える根拠はない、どう考えてもクジラだ。

 

 僕は彼女の主張をしれっと受け流すとまた海を覗き込む。

 

「……よくそんなに顔を出せるわね!?」

 

 リルが俺の腕を引いた。

 

 どうやら、俺たちが手すりから身を乗り出していること自体も恐ろしいらしい。

 

「落ちたらどうするのよ!?」

 

「いや落ちないように気をつけてるから」

 

「そういう問題じゃないでしょ! 持ってかれるかもしれない!」

 

 ぐいっ。

 

「痛い痛い痛い!」

 

 また腕を引っ張られた。

 

「ねえ! もう部屋に戻りましょうよ!」

 

「ちょっと待てって。もう少しだけ……」

 

「嫌よ!!」

 

 リルは首を横に振った。

 

「こんなところにいたら、海難事故待ったなしよ!!」

 

「いや、今のところ何も起きてないだろ!」

 

「何か起きてからじゃ遅いのよ!!」

 

 正論のようで正論ではない。

 

 しかし本人は至って真剣だった。

 

 ハナが振り返り苦笑する。

 

「リル、もう少しだけ見ていこうよ。せっかくクジラの声が聞こえてるんだし」

 

「ハナまで何言ってるの!?」

 

「だってこんな機会なかなかないよ?」

 

「だからって夜の海で身を乗り出す必要はないでしょう!?」

 

「えー、でも……」

 

「でもじゃない!」

 

 リルはついに俺の腕を両手で掴んだ。

 

「ほら! シンヤも! いつまで見てるのよ!」

 

「いや、僕は別に……」

 

「戻るわよ!!」

 

「ちょっ、ちょっと待て!」

 

 ずるずると引っ張られる。

 

 僕は慌てて手すりから離れた。

 

 その様子を見てノエルが吹き出した。

 

「あははは! リルさんそんなに怖いんですか?」

 

「怖くない!」

 

「じゃあ、どうしてシンヤ君を引っ張ってるんです?」

 

「シンヤが危ないからよ!!」

 

「危なくないですよ、ほら声が近づいて来ましたよ」

 

「ノエル!!」

 

 また怒鳴り声が上がった。

 

 ハナもとうとう笑いを堪えきれなくなったようだった。

 

「ふふっ……リル、そんなに怖いなら無理しなくていいよ?」

 

「最初からそう言ってるでしょうが!!」

 

 リルは俺の腕を引きながら甲板の出入口へと向かっていく。

 

「ちょっちょっと、リル! 引っ張らないでよ!」

 

「いいからこっち来なさい!! あんなとこ人の世界じゃないわ! 二人も早く来なさい!」

 

「はーい!」

 

 ノエルは笑いながらカメラを抱えて後を追う。

 

 ハナも名残惜しそうに海を一度振り返ってから、僕達の後ろについてくる。

 

 

 

 

 

 最後に、自分も海を見た。

 

 

 黒い水面。

 

 

 星明かり。

 

 

 遠くで響く、あの不思議な声。

 

 

 まるで海そのものが歌っているようだった。

 

 

 怖いと感じる気持ちも、分からなくはない。

 

 

 だがそれ以上に俺には美しい音に思えた。

 

 

 人間の都合とは関係なく、海の中では生き物たちが暮らしている。

 

 

 俺たちが知らない場所で、俺たちが知らない営みが続いている。

 

 それを思うとどこか不思議な気持ちになった。

 

 

「……シンヤ! 早く!」

 

 立ち止まるとリルの声が飛んでくる。

 

「ああ、今行く!」

 

 俺はそのまま彼女に腕を引っ張られて甲板を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう二度と夜の海なんか見に来ない」

 

 休憩室へ戻るなりリルはそう宣言した。

 

「えー、また行こうよ!」

 

「絶対に嫌!」

 

「今度は昼間にしようよクジラが見えるかもしれないし!」

 

「昼間でも嫌よ!! 声でも無理なのよ! 本体が見えたら私どうなると思う!? 失神する自信しかないわ!!」

 

 彼女は自虐を交えながらハナの提案を即座に却下した。

 

 恐らくプライドの高い彼女だからこそこういった所で自分の弱さを他人に見られるのが嫌だったのだろう。

 

 ノエルは椅子に腰掛け撮影した写真を確認しながら笑っている。

 

「さっきのリルさん面白かったですね」

 

 彼女は手持ちの小型現像機から、一枚一枚写真を取り出す事に笑っていた。

 

「……ノエル?」

 

「はい?」

 

「その写真、変なの撮ってないでしょうね?」

 

「えっ? 写真ですか?」

 

 ノエルはにこりと笑った。

 

「さあ、どうでしょう?」

 

「ちょっと、見せなさい!」

 

「いやーん!」

 

「待ちなさい!!」

 

 二人が部屋の中で追いかけっこを始める。

 

 ハナはそれを見て楽しそうに笑っていた。

 

 俺は椅子に腰を下ろしそんな光景を眺めた。

 

 ……まあ。

 

 

 こういう夜があるのは楽しいな

 

 

 今日寝れば、明日の朝にはまた軍人としての一日が始まる。

 

 

 任務があり、命令がある。

 

 

 

 

 

 海の歌に怯えたリル。

 

 それをからかうノエル。

 

 クジラに夢中になったハナ。

 

 

 そして、そんな三人に囲まれた自分。

 

 

 

 

 軍人としての生活に慣れていない僕にとっては、この年相応の何気ない時間がとても楽しく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2350。

 

 艦内が静まり返った頃、リルは自室の机に向かっていた。

 

 手元にあるのは、研究所から持ち込んだ通信機材。

 

 一般的な軍用通信機とは異なる構造を持つそれはオーガスタ研究所が独自に開発した秘匿通信システムだった。

 

「……はい。……はい」

 

 リルは受話器を耳に当て、短く相槌を打っていた。

 

 ミノフスキー粒子が散布されている環境では通常の電波通信は大きく制限される。

 

 まして広大な海の上で外部に情報を漏らさず通信を維持するのは容易ではない。

 

 だがこの通信機材は違った。

 

 オーガスタが独自に確立した技術によって、通常なら困難な状況下でも通信を成立させている。

 

 軍の一般部隊には知られていない、研究所ならではでありながらアビオニクス由来の技術でもあった。

 

 リルは周囲を一度見回し声を落とした。

 

「……それで、その輸送機はどこに?」

 

 受話器の向こうから、何かを説明する声が聞こえてくる。

 

「……はい。なるほど」

 

 手元のメモに短く書き留める。

 

 その途中で相手が新たな人物の名前を口にした。

 

「……ミヤザキ大尉、ですか?」

 

 リルの眉間に皺が寄った。

 

 聞き覚えのない名前だった。

 

 いや、名前そのものに覚えがないというより、今回の輸送に関わっている理由が分からない。

 

 彼女は少し考え込んだあと、再び受話器に意識を戻した。

 

「分かりました。停泊後は……はい。……はい、分かりました」

 

 それ以上、余計な質問はしなかった。

 

 しかしその後の相手の一言に、リルは顔を歪ませた。

 

「私に……一任ですか?」

 

 彼女は面倒事を押し付けられたと感じつつも了承する。

 

「はい、わかりました」

 

 通信を終える。

 

 するとリルは受話器を置き、背もたれに体を預けた。

 

「…………」

 

 しばらく天井を見つめる。

 

 やがて彼女は小さく息を吐いた。

 

「……誰よ、ミヤザキ大尉って」

 

 その呟きは、誰に聞かせるでもなく、静かな部屋に消えていった。

 

 

 

 輸送機。

 

 停泊後の移動。

 

 そして聞き慣れない軍人の名前。

 

 

 どうにも、きな臭い。

 

 オーガスタがわざわざ秘匿通信で伝えてきた以上、単なる輸送上の連絡ではないのだろう。

 

 

 リルは机上のメモを見下ろした。

 

 

 明日の予定が変わる。

 

 そしてその変更にはシンヤが関わっている。

 

 

 

 彼女はそう考えながら、もう一度だけ通信機材に目を向けた。

 

 今夜は、あまり気持ちよく眠れそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9月27日 0630

 

 朝食を終えた俺たちは、船内の一室に集められていた。

 

 リルから話があるという。

 

「次の行き先に変更はないわ。今からジャームナガル港に寄港する。その後はジャームナガル空軍基地へ向かうことになったわ」

 

 リルは手元の資料を見ながら淡々と説明した。

 

「空軍基地?」

 

 俺は首を傾げ、手元の地図を見る。

 

「ジャームナガル、ジャームナガル……ここか!」

 

 自分が場所を特定するとハナとノエルも確認しようと横から覗き込んできた。

 

 ジャームナガル港に寄港すること自体は分かる。

 

 補給や物資の積み下ろし、燃料の補給、あるいは輸送計画の調整が必要なのだろう。

 

 だがその後に空軍基地へ向かう理由が分からなかった。

 

 

 

「そうよ、なんでも極東から輸送機が送られてきたそうよ」

 

「極東から?」

 

 ハナが不思議そうに聞き返す。

 

「輸送機ってことは……え? グラマンを空で運ぶってこと??」

 

「私もその辺の詳しいことは聞いていないわ。ただ、私たちは港で下船したあと、基地へ移動することになっている」

 

「ふうん……」

 

 ノエルは首を傾げながら、俺とリルを交互に見た。

 

「でも、どうしてわざわざ極東から輸送機を? 私たちが乗っている船でそのまま向かえばいいんじゃないですか?」

 

「私もそう思うわ」

 

 リルは即答した。

 

 その声には、わずかな不満が滲んでいた。

 

「そもそも輸送計画が変更されたわけでもないのに、途中で航空機に乗り換える必要があるのかしら。よほど急ぎの用事でもあるみたいね」

 

 そう言いながら彼女は自分に視線を向けた。

 

 その目を見て、僕は嫌な予感を覚えた。

 

「……なんだよ?」

 

「別に」

 

「いや、絶対に何かあるだろ」

 

「さあ、どうかしらね」

 

 リルは資料を閉じた。

 

 そして何でもないことのように告げた。

 

「推測するに……シンヤを1日でも早く戦場に出すためね」

 

「…………は?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。

 

 ハナもノエルも言葉を失っている。

 

「ちょ、ちょっと待って! どういうこと!? そんな直ぐに戦うことになるの!? 普通ほら準備時間とか作戦計画とかあるんじゃないの!?」

 

「それはそうだけど、今のは言葉どおりよ。極東からわざわざ輸送機が送られてきたのは、あなたを早急に前線へ送り込むため。少なくとも私はそう思うわ」

 

 極東に到着したら、何らかの任務が待っていることくらいは覚悟していた。

 

 ハイマン司令からも救援要請による援軍派遣と聞いている。

 

 それは分かっている。

 

 だが、まさか到着してそのまま直ぐに前線へ送り込むための輸送計画が組まれているとは思わなかった。

 

「……僕はまだ現地の状況も聞いてないんだけど」

 

「私だって詳しいことは知らないわよ」

 

 リルは肩をすくめた。

 

「ただ、わざわざ極東から輸送機を回してくるくらいだもの。あなたを急いで送り込みたい理由があるんでしょうね」

 

「……シンヤ」

 

 ハナが心配そうに僕を見つめた。

 

「大丈夫?」

 

「……ああ。大丈夫だよ」

 

 そう答えたものの、自分でも少し声が硬くなっているのが分かった。

 

 ノエルも、いつもの明るい調子を少しだけ抑えて口を開く。

 

「でも、まだ何も決まっていないんですよね? 空軍基地に着いてから詳しい説明があるんじゃないですか?」

 

「そうね、少なくとも今の段階で分かっているのは移動先だけ。説明ぐらいあるといいんだけど……私も機体調整と報告と色々あるのについてそのまま戦場って……これが当たりだったらぶっ倒れそう」

 

 彼女は頭を悩ませる。

 

 

 

 ミヤザキ大尉。

 

 

 極東から突如として送られてくる輸送機。

 

 

 内容は大まかにこの二つだけ。

 

 堅苦しい言葉がならんで五分程の会話として成立しているだけで要点を話せば五秒で終わる内容。

 

 

 リルは内心イラついていた。

 

 

 もっと説明ぐらいしなさいよ。

 

 なーにが 君に一任する!  よ! 説明責任果たせっての!!

 

 

 

 

 

 

 

「……まあ、行けば分かることかぁ」

 

 スガイは自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 どのみち、命令が下るならそれに従うしかない。

 

 

 

 輸送艦は変わらず海を進み続けた。

 





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