宇宙世紀0079年9月28日 1015
「んっ〜……!」
俺はベッドの中で大きく伸びをした。
窓から差し込む朝の光が、部屋の壁を淡く照らしている。
外からは基地で働く人たちの声や、車両が走る音がかすかに聞こえてきた。
「……ひさしぶりによく寝たなぁ〜!!!」
掛け布団を押しのけ、ベッドの上で両腕を伸ばす。
背中や肩のあたりが少しばかり重いものの、頭はいつもよりずっとすっきりしていた。
軍人になってからというもの、朝が早い日がとても多かった。
それに、ここ最近は気を張り詰めている時間が長かった。
慣れない土地。
慣れない環境。
そして、いつ命を落としてもおかしくない戦場。
そんな日々を送っていれば、身体のほうが先に悲鳴を上げても不思議ではない。
だから、こうして何も気にせず眠れたのは、本当に久しぶりのことだった。
「ふぁ……」
あくびをひとつ。
俺はベッドから足を下ろし、床に置いてあったサンダルを履いた。
軍人は寮内では基本的にサンダルで過ごすらしい。
これは昨日、日用品を買いに出てくれたハナとノエルが持ってきてくれたものだ。
今日は何時から動けばいいんだっけ。
そんなことを考えながら、ぼんやりと自分の手を見下ろす。
「…………」
指先が小刻みに震えていた。
「……あれ」
手を握る。
開く。
もう一度、握る。
それでも、震えはすぐには収まらなかった。
はぁ……。
俺は小さく息を吐いた。
稀にこういうことがある。
朝起きたとき。
ひとりでいるとき。
何かの拍子に、ふと気が抜けたとき。
手が震える。
理由は察している。
これまでに自分がどれだけの人間を殺してきたのか。
その事実が、頭ではなく身体のほうに残っているのだ。
もちろん、軍人になった以上、覚悟はしている。
任務の最中も覚悟をもって戦っている。
自分や仲間を守るためなら、敵を撃つ。
必要ならば、命を奪う。
そうしなければ、こちらが殺される。
戦場とはそういう場所なのだと、何度も自分に言い聞かせている。
俺は軍人だ。
そうやって、頭では納得している。
納得しているはずなのに。
「…………」
震える手を、もう片方の手で包み込んだ。
温かい。
ちゃんと、自分の手だ。
それなのに、どこか自分のものではないような気がした。
今まで、戦場は何度か経験してきた。
銃声が響き、爆発が起こり、人が倒れる。
そんな光景も、もう一度や二度ではない。
不思議なことに、出撃前は緊張していても、敵と対峙している最中は、異様だと思うほど気持ちが落ち着いている。
引き金を引くべきときには迷わず引ける。
敵の動きが見える。
次に何をするべきなのか、頭が勝手に判断して行動している。
危険な状況であればあるほど、余計なことを考えなくなる。
まるで、脳が目の前で起きていることを遊びのように処理しているみたいだ。
そうでもしなければ、まともな精神状態を保てないのだろう。
敵を敵として認識し、倒すべき対象として割り切る。
ゲームのように、目の前の状況だけに集中する。
そうすれば、恐怖も罪悪感も、ひとまず脇に置いておける。
「……はぁ」
もう一度、息を吐く。
考えたところで、答えなんて出ない。
少なくとも、今の俺には。
俺は両手を膝の上に置き、しばらくじっとしていた。
やがて、指先の震えが少しずつ弱まっていく。
完全に止まったわけではない。
それでも、日常生活に支障が出るほどではなかった。
だから今日はきっと大丈夫だ。
そう思うことにした。
俺は立ち上がり、洗面台へ向かった。
冷たい水で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらない。
少し寝癖がついていて、目元にわずかな疲れが残っているくらいだ。
誰が見ても、ただ寝起きの青年にしか見えないだろう。
そのことに、少しだけ安心した。
顔を拭き、髪を整える。
そして部屋着のまま、ベッドの端に腰掛けた。
時計を見る。
午前十時十七分。
「……うわ、もうこんな時間か」
普段なら、もう何かしらの任務をしている時間だ。
けれど今日は、予定が詰まっているわけではなかった。
次の作戦に向けてグラマンの改修は進んでいる。
俺自身も、作戦に備えてミヤザキ大尉から休養を与えられていた。
今日は、ゆっくりしていていい日ということらしい。
コンコン。
「シンヤ、起きてる?」
聞き慣れた声だった。
「ん? 起きてるよー」
俺が返事をすると、扉の向こうから控えめな声が返ってきた。
「入ってもいい?」
「いいよー」
扉が開き、ひょこっと顔を覗かせたのはハナだった。
いつもと変わらない、柔らかな表情。
彼女は俺の顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「おはよう、シンヤ」
「あ、ハナ。おはよう」
「ぐっすり寝れたみたいだね、休めた?」
「うーん……まだかなぁ。できればあと十二時間は寝たいかな」
「十二時間!?」
ハナは目を丸くした。
「そんなに寝るの!?」
「だって、気持ちよかったんだもん。ベッドから出たくないくらい」
「そっか。なら、もう一回寝たら?」
「え、それは悪いよ」
「いつも頑張ってるし、もっと休んで当然だよ」
そう言って、ハナは小さく頷いた。
その言い方があまりにも自然だったので、俺は少しばかり面食らってしまった。
「……そうかな」
「そうだよ」
即答だった。
迷いのない声だった。
ハナは、俺が何か言い返す前に、少しだけ首を傾げる。
「それに、ちゃんと眠れるときに眠っておかないとね。次の作戦が始まったら、いつ休めるか分からないんだから」
「それは、まあ……そうなんだけど」
「でしょ?」
ハナは満足そうに笑った。
その笑顔を見ていると、なんだかこちらまで気が緩んでしまう。
彼女は、こういうところがある。
誰かが無理をしていれば、さりげなく声をかける。
本人が大丈夫だと言えば、それ以上しつこく問い詰めることはしない。
でも、本当に大丈夫なのか、いつも気にかけてくれている。
そういう優しさが、ハナにはあった。
だからこそ、俺もつい余計なことまで話してしまうのだろう。
「でもなぁ……」
「ん?」
俺はベッドの端に座ったまま、部屋の隅へ視線を向けた。
「リルも、ひっきりなしに働いてるし……ノエルも、ずっとパソコンの仕事とか勉強とかしてるしさ」
「うん……」
「二人とも、俺よりずっと忙しそうなんだよなぁ。そういうのを見てると、自分なんか……ってなっちゃうんだよね」
口にしてから、少しだけ後悔した。
別に、ハナにこんな話をするつもりはなかったのに。
ただ、頭に浮かんだことを、そのまま口に出してしまった。
俺は苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「いや、まあ、俺も俺なりにやってるつもりではあるんだけどね。なんか、二人を見てるとさ。もっと頑張らないといけないのかなって」
「それは……」
ハナの声が、そこで途切れた。
俺は彼女のほうを向いた。
「ハナ?」
彼女は、困ったような顔をしていた。
いつもの柔らかな笑顔が、ほんの少しだけ曇っている。
何か言おうとして、言葉を探しているようだった。
「……私も、そうだよ」
「え?」
「ううん、なんでもない!」
ハナは、ぱっと顔を上げた。
そしていつもの笑顔を作る。
「それより、ご飯食べよ!!」
「えっ?」
「シンヤが起きるまで待ってたの!」
「え!? ありがとう……」
思わず声が大きくなってしまった。
「もしかして、ずっと待っててくれたの?」
「うん。せっかくだから、一緒に食べようと思って」
「いやいや、気遣わせちゃったね……」
「違うよ」
ハナは少しだけ頬を膨らませた。
「私がしたかっただけだから……ね?」
その表情がなんだか妙に印象に残った。
押しつけがましくもなく遠慮しているわけでもない。
ただ本当にそうしたかったのだと伝えてくる。
だから俺もこれ以上謝るのはやめることにした。
「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん!」
ハナは嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、俺も自然と笑みを浮かべる。
少なくとも、今この瞬間だけは。
さっきまで頭の中を占めていた嫌な考えを、少しだけ忘れられた。
「そういえば、朝ご飯って何があるの?」
椅子に座って尋ねると、ハナは少し考えるように視線を上へ向けた。
「えっとね、パンとスープと、あと卵料理があるよ。果物も少し。昨日買ってきたんだ」
「おお、豪華じゃん」
「そうかな?」
「起きたらご飯が用意されてるってだけで十分豪華。ハナ、ありがとうね」
「ふふっ。じゃあ、これからは毎日作りに来ようか?」
「えっ、それは……」
俺は思わず言葉に詰まった。
毎朝、ハナが起こしに来る。
寝ぼけた頭でそんな光景を想像してみたが、なんだか妙に照れくさい。
「……もうちょっと寝かせてくれるなら、ぜひ」
「……そこは普通にお願いするところでしょ」
「あはは、ごめんごめん」
ハナが頬を膨らませる。
けれどすぐに笑ってくれた。
こうして何気ない話をしていると本当に普通の生活を送っているような気分になる。
少し前までは、朝起きて、食事をして、誰かと話す。
そんな当たり前のことを、こんなにもありがたいと思う日が来るなんて考えもしなかった。
もちろん、ここは戦場から遠く離れた安全な場所というわけではない。
次の作戦は控えているし、俺たちが何をするべきなのかも決まっている。
それでも、今はこうして穏やかに過ごせている。
それだけで十分なのかもしれない。
さっきまでの沈んだ気持ちは、まだ完全になくなったわけではない。
手の震えも、心の奥に引っかかっているものも、きっとこの程度で消えてくれるようなものではないだろう。
それでも、ハナと笑っている間くらいは、少しだけ楽になれた。
「はい!」
ハナはそう言って、テーブルに料理を並べてくれた。
パンにスープ、卵料理。それから小皿に盛られた果物。
久しぶりのハナの手料理だ。
戦争が始まってからは、戦時における外出規制が発令され、外に出ることもなかなかできなくなった。
それ以前は、こうしてハナがご飯やお弁当を作ってくれたものだ。
なんだか懐かしい。
窓からは基地の一部が見える。
駐機場では整備員たちが作業を続けており、その向こうには格納庫の大きな扉が見えた。
俺が軍人になったばかりの頃は、見るものすべてが新鮮だった。
日々を過ごしているうちに、そうした感情も少しずつ薄れてきた。
人間というのは、案外どんな環境にもすぐに慣れてしまうものなのかもしれない。
「いただきます」
ハナが手を合わせる。
「いただきます」
俺はスープに口をつけた。
「……うん、おいしい」
「よかった」
ハナは嬉しそうに笑いながら、自分もスープを口に運んだ。
「……そういえばさ」
俺はパンをちぎりながら、ハナに尋ねた。
「ハナは、ちゃんと休めてる?」
「え?」
「いや、俺だけじゃなくてさ。ハナも結構いろいろやってくれてるでしょ?」
「私は……うん。ちゃんと休んでるよ……」
「ほんとに?」
「ほんとだよ?」
ハナは少しだけ首を傾げた。
その表情はいつもどおりだったが、俺はさっきのやり取りを思い出していた。
俺がリルやノエルのことを話したとき。
ハナは一瞬だけ何かを言いかけた。
そして自分も同じだと口にした。
何が同じなのか。
その先を聞く前に、彼女は話題を変えてしまった。
気にならないと言えば嘘になる。
「そっか。ならいいんだけど」
「シンヤこそ無理しないでね?」
「うん、分かってるよ」
「本当かなぁ……」
「本当だって!」
俺は笑ってみせた。
するとハナも安心したように微笑んだ。
朝食を食べ終える頃には、時計の針は十時半を少し回っていた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。ハナ、わざわざ待っててくれてありがとう」
「ううん。私も一緒に食べたかったから」
ハナはそう言って軽く首を振った。
「そろそろリルちゃんが来るね、私は食器を洗ってくるから! いつもの頑張ってね!」
そう言ってハナは部屋を出ていく。
サンプルの回収と定期的な心理チェック。
俺たちがここへ来てから、何度も繰り返してきた作業だ。
最初の頃はいろいろと戸惑うこともあったが、回数を重ねた今となっては、すっかり慣れたものになっている。
決められた手順に従って髪の毛を採られ、いくつかの質問に答える。
慣れた作業だ。
俺は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
静かな部屋、空調の音、窓から差し込む光。
「……平和だなぁ」
思わずそんな言葉が口から漏れた。
ここにいる限り少なくとも今すぐ銃を撃つ必要はない。
誰かを守るために敵を倒す必要もない。
自分の判断ひとつで誰かの命が左右されることもない。
だからこそ、今の時間を無駄にしたくなかった。
ただ何もせず、のんびり過ごす。
そんなことをしていてもいいのだと、自分に許してやりたかった。
コンコン
「シンヤ、入るわよ」
「あ、リル。どうぞー」
返事をすると扉が開いた。
リルはいつもどおり、必要な書類と検査器具を手にしていた。
きちんと整えられた資料と持ち運び用のケース、そして肌身離さずいつも持っている端末。
「おはよう、シンヤ。よく眠れた?」
「おはよう。うん、久しぶりにぐっすり」
「そう、それはよかったわ」
リルは短く頷き、机の上に荷物を置いた。
「じゃあ、さっそく始めましょうか。いつものサンプル回収と心理チェック。体調に何か変化があったら、その都度教えてちょうだい」
「了解でーす」
「……本当に分かってる?」
「分かってるって。もう何回目だと思ってるのさ」
「何回目でも、確認は必要よ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
リルは小さくため息をついた。
けれど、その表情にはどこか呆れたような、いつもどおりの親しみがあった。
こういうやり取りも、すっかりお決まりになっている。
俺は椅子から立ち上がり、彼女の指示に従って準備を進めた。
検査は、いつもと同じ手順で進んだ。
リルが端末を操作し、必要な項目を確認する。
俺は指示されたとおりにサンプルを提出し、体調に関する質問に答えていく。
作業そのものに、特別な難しさはない。
初めの頃こそ、何をされるのか分からず身構えていたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。
「採取したサンプルの状態は、前回と大きな違いはなさそうね」
「そっか」
「それじゃ、次。最近、精神的な疲労を感じることはある?」
「精神的な疲労?」
「ええ。気分が落ち込むとか、集中できないとか。何か気になることがあれば、些細なことでも構わないわ」
「うーん……」
俺は少しだけ考えた。
精神的な疲労。
そんなものは、あるに決まっている。
戦場に出て、敵を撃って、仲間を守って。
そんな生活を続けていれば、何も感じないほうがおかしいだろう。
けれどどう答えるべきなのかは少し迷った。
どこまで話せばいいのか。
自分が感じていることをどこまで正確に言葉にできるのか。
俺は膝の上に手を置いた。
「……まあ、疲れることはあるよ。普通に」
「そうね。誰だって疲れるわ」
「うん。だから、特別どうこうってわけじゃないと思う」
「そう」
リルは端末を見たまま頷いた。
手が震える事や戦闘中は妙に落ち着いている事。
戦闘が終わると、ふとした時に自分が何をしたのかを思い出してしまうこと。
そんな話を今ここでするべきなのだろう。
リルならきっと真剣に聞いてくれる。
必要なら専門的な見地から何かしらの助言もしてくれるだろう。
それは分かっていた、分かっているのに口が動かなかった。
「……シンヤ?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してただけ」
「そう」
リルは端末から顔を上げた。
俺を見つめる。
その視線はいつもと変わらない、少なくとも俺にはそう見えた。
「じゃあ、続けるわね。最近、以前と比べて気分が変わったと感じることはある?」
「気分?」
「ええ。以前より苛立ちやすくなったとか、逆に何も感じなくなったとか。あるいは、今まで気にしていなかったことが気になるようになったとか」
「……うーん」
今度は少しだけ考えてから答えた。
「特にない……と思う」
「思う?」
「ああ、紛らわしかったね。特にないよ」
「分かったわ。じゃあそれで記録するわ」
リルは端末に入力を続けていたが、指が一瞬だけ止まった。
入力欄を見つめたままリルは動かない。
それに気づいた俺は疑問に思い尋ねる。
「どうしたの?」
「……何でもないわ。じゃあ、次の項目に進みましょう」
「うん」
リルの声は、いつもどおりだった。
何かを問い詰めることも、必要以上に心配することもない。
そのまま、検査は続いた。
「リルはこれで午前の予定は終わり?」
「私のほうはね。あなたは?」
「うーん……一日休養って言われてるから特にないかな。次の作戦の資料でも読み直そうかと思ってたけど」
「そう。なら、少し休んでおくといいわ。ただし、何か異常を感じたらすぐに連絡すること。これはいつも通りね」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
リルは満足そうに頷いた。
そして、ケースを持ち上げる。
「それじゃ、私はこれで失礼するわ。午後は記録の整理があるから」
リルは扉へ向かった。
ドアノブに手をかけたところで、一度だけこちらを振り返る。
「シンヤ」
「ん?」
「今日は、ちゃんと休んでおきなさい」
「……? 分かったよ」
彼女の念押しの言葉に少し困惑しつつ、俺がそう答えると、リルは小さく微笑んだ。
「じゃあね」
扉が閉まる。
部屋の中に、再び静けさが戻ってきた。
俺はしばらく、その場に立ったまま扉を眺めていた。
……ハナとリルに休めと言われた。
そんなに疲れているように見えるのだろうか。
自分では、そこまでのつもりはないのだが。
「……まあ、いっか。まだ……寝るかぁ」
誰に言い訳するでもなく呟いて、俺はベッドに横になった。
目を閉じる。
さすがに、もう眠れないだろう。
そう思っていたのに、思いのほか身体は正直だった。
静かな部屋。
柔らかな寝具。
そして、今すぐ何かをしなければならないという焦りもない。
いつの間にか、俺の意識はゆっくりと遠のいていた。
どれくらい経っただろうか。
コンコン、という音で目が覚めた。
「……ん?」
俺は薄く目を開けた。
窓から差し込む光の位置が、さっきより少し変わっている。
時計を見る。
午前十一時半を少し過ぎたところだった。
……三十分どころか、結構寝てしまった。
「はいはーい……」
寝ぼけた声で返事をすると、扉の向こうから声が返ってきた。
「シンヤ君、起きていますか?」
「起きてるよー」
「入るね」
扉が開く。
入ってきたのは、ノエルだった。
彼女は片手に端末を持ち、もう片方の手には数枚の書類をまとめたファイルを抱えていた。
いつもどおり、きちんとした身なり。
けれど、少しだけ疲れた様子も見える。
「……あれ、ノエル? どうしたの?」
「昨日渡した作戦概要書が更新されたので、お届けにきました!」
ノエルはそう言って、机の上にファイルを置いた。
「ああ、もうできたんだ」
「はい! これに書かれている内容は細かい修正が入ると思いますけど、大まかには変わりません。特にシンヤ君のところに変更は入らないと思いますので」
「そっか。ありがとう」
俺はベッドから起き上がり、机の前へ移動した。
椅子を引き、ノエルが差し出した書類を受け取る。
表紙には、作戦名と日付、それから関係者の情報が記載されていた。
ページをめくる。
目的。
作戦の概要。
参加部隊。
行動予定。
各段階で想定される状況と、それに対する対応方針。
俺は書類から目を離した。
どれだけ綿密に計画を立てたところで、実際の戦場では予想外のことが起きる。
予定どおりに進むことのほうが少ないかもしれない。
だからこそ、事前の準備が必要なのだろう。
何が起きても対応できるように。
何が起きても、仲間を守れるように。
「……持ってきてくれてありがとう、ノエル」
「はい! 気になるところがあれば、あとで教えてくださいね! 確認してくるので!」
「了解」
俺はもう一度、書類へ視線を落とした。
ノエルはその様子を見て、満足そうに頷く。
それから、ふと思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ!」
「ん?」
「今夜、みんなで集まりませんか!?」
「……え?」
俺は顔を上げた。
ノエルは、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。
「作戦前に、ちょっとしたパーティーをしたいなと思って!」
「パーティー?」
「はい! 今回のは極東における前代未聞の大規模作戦ですから! 気合いを入れるためにも!」
「いいね、それ」
俺は思わず身を乗り出した。
「やろうやろう! 絶対楽しいじゃん!」
「ふふっ、そうでしょう! まあ軍隊では、作戦前に決起会ということで、そういった場を設けるのは珍しくないんですけどね」
「そうなんだ。じゃあ、これから作戦前は時間が合えばやっていこう」
「お、乗り気ですね! ぜひぜひ!」
ノエルは嬉しそうに笑った。
その表情を見ていると、こちらまで気持ちが明るくなってくる。
作戦前のパーティー。
そう聞くと、なんだか大げさなものを想像してしまうが、きっとそんなことはないのだろう。
お菓子でも用意して、飲み物を並べて。
みんなで話をする。
それだけで十分だ。
「……何か、食べたいものとかありますか?」
ノエルが尋ねた。
「えっ、食べたいもの?」
「せっかくですし、みんなの希望も聞いておこうと思って」
「うーん……」
俺は少し考えた。
ケーキ。
クッキー。
チョコレート。
ポテトチップス。
考え始めると、意外といろいろ浮かんでくる。
「……お菓子なら、何でもいいかなぁ」
「ずいぶん大雑把ですね! 分かりました〜。では、そのように!」
ノエルは端末に何かを入力すると、満足そうに頷いた。
そのまま、軽く手を振って部屋を出ていく。
俺は机の上に置かれた作戦概要書を見下ろした。
数日後には、また戦場に出る。
けれど、今夜くらいはそんなことを忘れてもいいだろう。
同日 1900
「それでは! 極東大作戦での無事を願いまして!」
「「「「乾杯!」」」」
皆がそれぞれ好みのジュースを手に取り、グラスを軽く合わせた。
カチン、と小気味よい音が部屋に響く。
ノエルが用意したのは、いくつかの種類のお菓子とジュースだった。
特別に豪華なものではない。
チョコレートにクッキー、ビスケット、それから小さなケーキ。
飲み物も、オレンジジュースやリンゴジュースなど、基地で手に入るものが中心だった。
けれど、テーブルの上に並べられたそれらを見ていると、なんだか特別なものに思えてくる。
普段の食事とは違う。
誰かに急かされることもなく、時間を気にする必要もない。
ただ、仲間たちと一緒に過ごすための時間。
それだけで、十分だった。
「シンヤ、そっちの紙皿取ってくれる?」
「はーい」
俺は箱から紙皿を取り出し、ハナに渡した。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
俺たちはそれぞれ好きなお菓子に手を伸ばした。
しばらくは、他愛もない話をしながら食べたり飲んだりしていたのだが、やがてリルがこちらを見て、少し呆れたように口を開いた。
「本当、こうして見るとシンヤはいいご身分ね」
「え?」
「なんだかんだ、女の子三人に囲まれてますからね、この人」
ノエルがすかさず口を挟む。
「……」
俺は三人を見回した。
ハナ、リル、ノエル。
確かに、言われてみればそうなのだが。
「傍から見たら、そういう大学生みたいね」
「分かります! 通信学校でも、一人だけ男で、ほか三、四人の女子に囲まれてる人がいましたよ」
「え、これって僕責められてる?」
「あなたに関しては褒めてるわよ」
「なら良かった……」
「単純すぎない?」
リルが小さく笑う。
なんだか、いつもの調子だ。
俺は苦笑しながらジュースを口に運んだ。
「ねえ、シンヤって昔はどうだったの?」
ハナが、ふと思い出したように尋ねた。
「あ、それ私も気になります!」
ノエルも身を乗り出す。
「えー、そんな面白いことないよ」
「そうかな?」
ハナは少し考えるように視線を上へ向けた。
「昔から、よく人に慕われる感じだったよ。10歳の頃なんて、シンヤがサッカーやろうって言えば、二チーム分集まって試合してたし」
「相場ワンチームじゃないのそれ」
「コミュ力お化けですね」
リルとノエルが口々に反応する。
「まあ、昔のシンヤは今より人に積極的だったかな。自分から話しかけたり、いろんな子と遊んだりしてたよ」
「へえ、意外ですね」
ノエルが俺を見る。
「今だって、そんなに変わってないと思うけど」
「うーん……でも、まあ……」
ハナは少しだけ言葉を濁した。
「この歳になってくると、自分の世界に入ってほしくないみたいな感じになってくるでしょ?」
「ああ……」
「だからまあ……周りと疎遠になったよね」
「ハナ、普通に心抉られていくそれ」
俺は苦笑いを浮かべた。
「うわ、世知辛い世の中ね。地域差かしら? 北米じゃあ、もう少し上手くやれそうだけど」
リルが肩をすくめる。
「そんなに友達と交流してたってことは結構お喋りだったんですか?」
ノエルが尋ねる。
「うん。二十四時間ずっと喋ってた」
「ハナ、それは言い過ぎ……」
「だって寝言でも誰かと会話してたよ、シンヤ」
「えっ」
「怖! それはもう執着とかそういう域じゃない? 誰かに怨念飛ばしてそうね」
「いやいや、寝言くらい誰だって言うでしょ!」
「あはは。可愛いじゃないですか! ハナさんはどうでした?」
ノエルが今度はハナへ視線を向けた。
「私? 私は普通かな?」
「いや、ハナはこの中でいっっちばん普通じゃない」
「そうなの?」
「そんなことないよ!!」
ハナは少し慌てたように否定した。
けれど、俺には昔の彼女の姿がはっきりと思い浮かぶ。
「ハナはなぁ、昔は本当にやんちゃで……」
「え?」
「しょっちゅうあちこち歩き回っては、虫を捕まえてきてさ」
「えっ、虫とか怖がりそうなのに。意外ですね」
ノエルが驚いたように目を丸くする。
「私、生き物とか自然とか好きだから……ね、普通だよ」
「いや、普通じゃない」
「そんなことないってば!」
「シャツ引っ張られて、背中にカマキリ入れられたときは、本当に殺してやろうかと思った」
「うわ、なにあんた。そんなことしてたの?」
リルが呆れたようにハナを見る。
「ええ……もう、いじめでは?」
ノエルも少し引いている。
「ほ、ほら! 小さい頃の話だから!」
ハナは慌てて弁解する。
「それに、ハナの隣に大きな影が見えてさ。友達かなと思って近づいたら、猿だったこともあるし」
「なにあんた、ターザン?」
「猿って保護生物に認定されてません? それ、グレーどころかブラックですよ」
「いや、当時は普通に野生の猿がいたんだよ!」
「どういう環境で育ったのよ……」
リルが呆れたように首を振る。
「あとは、益虫だからって、クソでかい蜘蛛を数匹部屋に放ったり、触手みたいなのを出してる蛾を放ったり……」
「虫攻め怖すぎませんか! 容赦ないですよ!」
「も、もう終わり!」
ハナが両手を広げて話を遮った。
「次! ノエルちゃん!」
「えっ、私ですか?」
突然話を振られたノエルは、少し驚いたあと、すぐに胸を張った。
「私は優等生でしたので、面白い話はありませんよー。もうクラスのど真ん中にいるタイプです!!」
「健全すぎる……」
俺は思わず呟いた。
「……え、ハナよりもノエルと暮らしたか……」
「シンヤ?」
「ごめん」
ハナの声が妙に低くなった。
「怖いです、ハナさん」
ノエルが少しだけハナから距離を取る。
「重いわねぇ、重い」
リルも呆れたように笑った。
「重い……?」
ハナは不思議そうに首を傾げる。
「リルちゃん、重いってなに?」
「……なんでしょうね」
リルはそう言って、ジュースに口をつけた。
そのまま、話題は自然と彼女へ移っていく。
「そういえば、リルちゃんは昔どうだったの?」
ハナが尋ねた。
「そういや、お嬢様学校出身だもんな」
俺も思い出したように口を挟む。
「え、そうなんですか!?」
ノエルが驚いた。
「そうそう。シスターみたいな服装してて、可愛い感じ!」
ハナが嬉しそうに説明する。
「もう一回見せてよ、リル」
「小っ恥ずかしいわね……」
リルは少し困ったように眉を寄せた。
それでも、しばらく考えたあと、端末を取り出す。
「……はい」
画面に表示されたのは、以前エスファハーンの飲食店で見せてもらった写真だった。
そこには、今とは少し雰囲気の違うリルが写っていた。
清楚な服装に、きちんと整えられた髪。
まるで本当に、どこかのお嬢様学校に通う生徒のようだった。
「やっぱりかわいい!」
ハナが声を上げる。
「本当ですね! 今と雰囲気が全然違います!」
ノエルも画面を覗き込む。
「……もう、そんなに騒ぐことじゃないでしょう」
リルは恥ずかしそうにする。
俺ももう一度写真をよく見てみる。
エスファハーンの飲食店以来、二回目になるこの写真。
よく見ると、少し気になることがあった。
皆が笑い合っている中、リルだけは真正面を見ている。
目元も、心なしか曇っているように見えた。
……なにかあったのだろうか。
その場では、特に何も聞かなかった。
「はい、終わり!」
リルは端末をしまおうとする。
「えー、他はないの!?」
ハナが残念そうに声を上げた。
「こんな恥ずかしいの、安売りするわけないでしょ!」
「じゃあ僕、金出す!」
俺が冗談交じりに手を挙げる。
「私も出します!」
ノエルも便乗した。
「な、なら私も!」
ハナまで手を挙げる。
「ちょっと……!」
リルは思わず目を丸くした。
「アイドルの写真集じゃないのよ……そんな価値ないでしょうに」
「いやいや、需要はあると思うよ?」
「シンヤ、あなたは黙ってなさい」
「はい」
皆が笑う。
それからも、話題は尽きなかった。
昔のこと。
学校でのこと。
誰かが話し始めれば、別の誰かがそれに乗っかり、また別の話へと繋がっていく。
普段は忙しく、なかなか全員でゆっくり話す時間もない。
だからこそ、こうした何気ない時間が楽しかった。
気づけば、テーブルの上にあったお菓子も、ジュースも、すっかり少なくなっていた。
窓の外はいつの間にか暗くなり、部屋の照明だけが皆の顔を柔らかく照らしている。
笑い声が絶えない。
誰かが冗談を言えば、誰かが笑い、誰かがそれに突っ込む。
そんな時間が、ゆっくりと流れていった。
そして、気づけば日付が変わっていた。
次の作戦は、もうすぐそこまで迫っている。
それでも、この夜だけは誰もその話を深く持ち出さなかった。
今はただ、仲間たちと一緒に過ごす時間を楽しみたかったのだろう。
こうして、俺たちの作戦前夜の小さな決起会は、翌日の午前一時まで続いた。
素人分ながら読んでいただきありがとうございます。
是非ともご感想お待ちしております!
次話への励みになりますのでどうか!(内容はなんでも大丈夫です!)
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