一緒に帰るどころか、僕と耳郎は八百万の自宅に招待された。なんでも、入学初日に仲良くなれたのが嬉しいから、とのことだ。
「──でっか」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
鉄柵の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水を囲むように石畳の道が緩やかな曲線を描いている。
「......ねえ、司。ウチたち、入るところ間違えてない?」
隣の耳郎が、僕の制服の袖をちょんちょんと引っ張った。耳たぶのプラグまで、借りてきた猫の尻尾みたいに小さく縮こまっている。
「多分あってる」
「その『たぶん』が怖いんだけど」
「お二人とも、どうかなさいました?」
少し先を歩いていた八百万が、不思議そうに振り返る。
僕たちにとっては非日常そのものの光景も、八百万にとっては毎日帰ってくる家なのだろう。
「いや、想像してたよりずっと立派な家だったから驚いてるんだ。八百万って、本物のお嬢様だったんだね」
「そんな、大げさですわ。少し広いだけの、普通の家ですのよ?」
「普通の家には噴水も石像もないと思うよ、八百万さん......」
耳郎が力なく突っ込むと、八百万はきょとんと目を瞬かせた。
それから僕と耳郎の顔を見比べ、ようやく何かを察したらしい。頬をほんのり赤くして、申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんなさい。わたくし、お二人に緊張していただくつもりはありませんでしたの。ただ......今日、初めてできたクラスのお友達と、もう少しお話がしたくて」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
それを聞いて、耳郎が袖を引く手の力を緩める。
「......そっか。なら、変に遠慮してる方が失礼かな」
「そうだね。せっかく招いてもらったんだし、思いきり楽しませてもらおうか」
「はい!どうぞ、こちらへ!」
八百万の表情が、ぱっと明るくなった。
玄関では年配の執事らしき男性と数人の使用人が出迎えてくれた。磨き上げられた大理石の床、頭上から垂れるシャンデリア、壁に飾られた風景画。どこを見ても高そうだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ご友人をお連れになると伺い、お茶の支度を整えております」
「ありがとうございます。今日は堅苦しいおもてなしは必要ありませんわ。皆さんには、いつも通りに接していただければ」
「かしこまりました」
八百万は慣れた様子で挨拶を返す。僕と耳郎は鞄を預け、八百万の後ろについて屋敷の奥へ進んだ。
案内されたのは庭に面したサンルームだった。
大きな窓から午後の光が注ぎ、白いレースのカーテンが風にわずかに揺れている。
丸いテーブルには淡い青色の花模様が入ったティーカップが3つ。銀色のポットの横には、焼きたてらしいスコーンや小さなサンドイッチ、果物を飾ったタルトが綺麗に並んでいた。
「うわ......すご。お店みたい」
耳郎が目を丸くする。
「気に入っていただけました?皆さんがお好きなものを選べるように、種類を増やしてもらいましたの」
お茶を注ぎ終えると、使用人は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まった途端、耳郎の肩が目に見えて下がった。
「はぁぁ......緊張したぁ......」
「まだお茶を一口も飲んでないよ、耳郎」
「司が平然としすぎなんだよ。カップ割ったらどうしようとか、変な持ち方して笑われたらどうしようとか、考えちゃうじゃん!」
「笑ったりなんていたしませんわ!」
八百万が慌てて身を乗り出した。
「お二人には、ゆっくりくつろいでいただきたいんです。どうか作法など気になさらないでください。わたくしも今日は、堅苦しいお茶会ではなく......その、普通のお友達同士のティーパーティーにしたくて」
「......じゃあ、普通にしていい?」
「もちろんですわ!」
「よかった。じゃ、いただきます!」
耳郎はぱっと笑顔になり、手近なスコーンを取った。その切り替えの速さに、八百万がくすくす笑う。
僕もカップを持ち上げて一口飲んだ。渋みは控えめで、後から蜜のような甘い香りが残る。
紅茶に詳しいわけじゃないけど、普段ティーバッグで淹れているものとは、確かに少し違った。
「そういえば、八百万は推薦入試だったんだよね。そっちはどんな試験だったの?」
「実技もありましたけど、個性を活かした判断力を問われる場面が多かったですわ。わたくし、事前に用意していた案が通じない状況になって、少し焦ってしまいましたの」
「八百万でも焦るんだ?」
耳郎が目を丸くする。
「もちろんですわ!今日だって、最下位の方を除籍すると聞いた時は胸がどきどきしましたもの」
「えっ?でも、最後には『ウソに決まってますわ』って言ってたじゃん」
「そ、それは......結果が出て、ようやくそう思えただけです。途中までは、わたくしも少し不安でしたわ」
「でも、東雲さんのボール投げは本当に驚きました。高度を利用する発想もさることながら、落下を始めてから迷わず戻れるなんて。わたくしなら、怖くなってしまいそうです」
「慣れだよ。小さい頃から、失敗しない距離と場所を確かめながら練習してきたから」
「そういえば司って、昔テレポートの練習で木に登ったまま降りられなくなったことあったよね」
「......僕の記憶にはないから、もう忘れてほしいんだけど」
「もっと聞きたいですわ!」
八百万が身を乗り出し、耳郎は悪戯っぽく目を細めた。普段の仕返しかな?
「じゃあ、次は司が小学生の時、ウチの誕生日に手作りの──」
「耳郎。その話は当事者の許可が必要じゃないかな」
「いつもウチのことからかってる仕返しだし!」
「まあ!手作りの何をくださったんですの?」
「......下手な音符の形をしたキーホルダーだよ」
観念して答えると、八百万が目を丸くした。
「あら、素敵!音楽がお好きな耳郎さんにぴったりですわね」
「そうなんだよね。形はちょっと歪んでたけど、ちゃんとウチの好きな色で塗ってくれてさ」
耳郎はカップを見つめ、少し照れたように笑った。
「一応.....今も、部屋にあるし」
「へえ。捨てずに取っておいてくれたんだ」
「そりゃそうでしょ。もらったものを簡単に捨てたりしないって」
耳郎のプラグがぴんと伸びる。あまり追及するとまたいじけそうなので、僕は素直に笑っておいた。
「ありがとう。嬉しいよ」
「......っ。そういう急に真面目になるの、ずるい」
「ふふっ......」
八百万が口元を押さえていた。笑いを堪えているというより、眩しいものでも見るような表情だ。
「本当に、長い時間を一緒に過ごしてこられたんですのね。わたくし、少し羨ましいですわ」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
「八百万には幼馴染はいないの?」
「ええ。もちろん、小さい頃からお付き合いのある方はおりますけど......お互いの家同士の交流が中心で、気軽に遊びに誘えるようなお友達は、あまり」
八百万はティーカップの取っ手を指でそっと撫でた。
「お稽古や勉強は楽しかったんです。家の皆も優しくしてくれますし、不自由だと思ったことはありません。ただ......放課後に寄り道をしたり、たわいないことで笑い合ったりするお話を聞くと、いいなあって」
笑顔は変わらない。でも、その奥に少しだけ寂しさが見えた気がした。
「それなら、これからすればいいじゃん」
耳郎があっさりと言った。
「え......?」
「寄り道とか、放課後に遊んだりとかさ」
「......耳郎さん」
「それに、今日もう友達になったんでしょ?だったら、次はウチたちが誘えばいいだけじゃん」
言い終えてから、耳郎は自分の言葉が少し照れくさくなったのか、紅茶を一口飲んだ。
八百万は一瞬ぽかんとしたあと、ふわりと笑った。
「はい......!ぜひ、ご一緒させてくださいまし」
その笑顔を見て、僕も肩の力が抜けた。
耳郎は自分の容姿に自信がないし、八百万を見て焦ってもいる。
だけど、そういう感情とは別に、目の前の相手をちゃんと大切にできる。そこが耳郎の良いところだ。
「じゃあ、今度は駅前のカフェかな。八百万、メロンソーダって飲んだことある?」
「ええと......名前は存じておりますけれど、実際にいただいたことはありませんわ」
「マジで!?」
耳郎が勢いよく身を乗り出す。
「じゃあ絶対飲んでみて!司は甘いの好きだからよく頼むんだけど、ウチはクリームソーダの方がおすすめ!」
「それ、ほとんど同じじゃない?」
「アイスが乗ってるかどうかは重要なんだってば!」
「ふふふっ!承知しました。では、今度ご一緒する時は、クリームソーダをいただいてみますわ」
いつの間にか、3人で出かける次の約束まで決まっていた。
それから、好きなお菓子や休日の過ごし方の話が続いた。気づけば耳郎も、八百万に話しかける時にいちいち身構えなくなっていた。
「そういえば、耳郎さんは音楽がお好きなんでしたわね」
八百万が興味深そうに尋ねた。
「うん!ロックが好き。家族もみんな音楽やってるから、物心ついた頃から楽器に囲まれてたんだ」
「素敵ですわ!わたくしも幼い頃からピアノを習っておりますので、音楽の楽しさはよく存じてますわ」
「えっ、ピアノ弾けるの?じゃあ、今度一緒に演奏しようよ」
八百万が目を見開いた。
「本当によろしいんですの?」
「もちろん!あ、司も一緒にね」
「僕?見学係でいいかな」
「駄目。司、歌えるんだから。なんだったら、楽器を弾いてもいいよ」
「まあ!東雲さんは歌もお上手なんですの?」
「いや、耳郎ほどじゃないよ。耳郎の歌は本当にすごいから」
「ちょっ、急にハードル上げないでよ!」
耳郎が抗議するけど、そこは譲れない。
「本当のことだし。八百万も聴けば分かるよ。僕はどんな歌より、耳郎の歌声が好きなんだ」
「......だから、そういうの......」
耳郎の声が小さくなる。さっきまで元気だったプラグも、照れくさそうにくるりと丸まった。
八百万は僕たちを交互に見て、穏やかに微笑んだあと、少しためらうように口を開いた。
「あの......もしよろしければ、隣のお部屋にピアノがありますの。少しだけ、弾いてみませんこと?」
「いいの!?」
耳郎のプラグが勢いよく跳ねた。
「はい!でも、わたくし、クラシックの曲ばかりで......」
「ジャンルなんて関係ないよ。ヤオ......っと」
耳郎が言いかけて口を閉じる。
今日、何度目だろう。八百万の名前を呼ぶたび、途中で少しつかえている。
「どうかなさいました、耳郎さん?」
「いや、その......八百万さんって、ちょっと呼びにくいなって。嫌じゃなければ、あだ名で呼んでもいい?」
八百万は驚いたように瞬きした。
「まあ......!わたくしに、あだ名を?」
「うん。『ヤオモモ』ってどう?八百万の『ヤオ』と、百の『モモ』で」
耳郎が照れくさそうに笑う。
「もちろん、嫌だったら今まで通りにするけど」
「嫌だなんて、とんでもありませんわ!」
八百万は胸の前で両手を重ねた。
「ヤオモモ......ふふっ。なんだか、とても可愛らしい響きですわね。ぜひ、そう呼んでくださいまし!」
「ほんと?よかった。じゃあ、よろしくね、ヤオモモ!」
「はい、耳郎さん!」
2人が顔を見合わせて笑う。
さっきまで八百万の名前を口にするだけでも緊張していた耳郎が、今は自然に愛称を呼んでいる。これはなかなか感慨深い。
隣の部屋には、黒く艶やかなグランドピアノが置かれていた。
壁際には楽譜の詰まった棚もある。八百万が椅子に腰かけ、鍵盤に指を置くと、さっきまでのはしゃいだ様子がすっと消えた。
流れ始めたのは、柔らかく落ち着いた旋律だった。
正確で、澄んだ音。指の運びには無駄がなく、丁寧に練習してきたことが伝わってくる。
耳郎は最初こそ静かに聴いていたけれど、やがて自然に指先でリズムを取り始めた。曲の終盤には、八百万の演奏に合わせて小さく鼻歌まで重ねている。
最後の音が消えると、耳郎が真っ先に拍手した。
「すごい!めちゃくちゃ綺麗だった!ヤオモモ、音がすっごく丁寧じゃん!」
「ありがとうございます......!途中、少しだけ緊張してしまいましたけれど」
「全然分かんなかったよ。ね、司?」
「うん。八百万らしい演奏だと思った。落ち着いてて、1音ずつ大切にしてる感じがしたよ」
「......まあ」
八百万は鍵盤から手を離し、頬をほんのり赤くした。
「そんなふうに聴いていただけるなんて、嬉しいですわ」
「今度はロックも一緒にやろうよ。ヤオモモのピアノに、ウチがギター合わせるの!」
「ぜひ!わたくし、挑戦してみたいです!」
「じゃあ決まり!司はボーカルね」
「いつの間に決まったの、それ」
「ウチが決めたの。異議は受け付けませーん」
耳郎は得意げに笑った。
その様子を見て、八百万も楽しそうに笑う。
音楽の好みも育った環境も違う2人だけど、こうして並ぶと、思っていた以上に相性が良いのかもしれない。
再びサンルームへ戻ると、紅茶は新しく淹れ直されていた。窓の外では、庭木の葉が夕方の光を受けて透けている。
「......ああ、本当に楽しかったですわ」
八百万がしみじみと呟くと、耳郎も頷いた。
「ウチも!最初は美人すぎて近寄りがたいと思ってたけど、ヤオモモって案外お茶目だし、話しやすいね」
「ま、まあ!耳郎さんったら......!」
「褒めてるんだってば!」
八百万が困ったように笑い、耳郎もつられて笑う。
そんな2人の様子を眺めながら、僕は紅茶を一口飲んだ。
朝の教室では、あれほど八百万を意識して落ち着かなかった耳郎が、今ではすっかり打ち解けている。
「ふふっ......なんだか、不思議な気分ですわ」
ひとしきり笑ったあと、八百万がティーカップをソーサーに戻し、しみじみと呟いた。
「不思議?」
耳郎が首を傾げる。
「ええ。今朝までは、お二人のお名前も存じ上げませんでしたのに、こうして一緒にお茶を飲んで、笑い合って......。まるで、ずっと前からお友達だったような気がしてしまって」
八百万は少し照れくさそうに微笑み、膝の上でそっと両手を重ねた。
「わたくし、雄英に入学するまでは、皆さんと上手くお付き合いできるか少し不安でしたの。でも、今日お二人に出会えて、本当によかったと思っていますわ」
「......そんなこと言われると、こっちまで照れるじゃん」
耳郎が頬を緩めながら、照れ隠しのように自分のプラグを指先でいじる。
「でも、ウチも同じだよ。ヤオモモと友達になれてよかった」
「耳郎さん......!」
嬉しそうに目を細める八百万。
それから、ふと思い出したように僕の方へ顔を向け、少しだけ声を改めた。
「それに、東雲さんにも、今日はとてもお世話になりましたわ」
「ん?僕?」
「はい。個性把握テストでわたくしが疲れていた時も、すぐに気づいてくださいましたでしょう?」
「ああ、あの時のことか。八百万の個性は体力を使うみたいだったからね。顔色も少し悪かったし」
「ええ。おかげさまで、随分と楽になりました。それに、わたくしが勉強していることや個性の仕組みについてお話しした時も、とても熱心に耳を傾けてくださって......」
八百万はそこで一度言葉を切り、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「わたくし、興味のあることになると、つい夢中でお話ししてしまいますの。東雲さんが面白そうに聞いてくださったのが、なんだかとても嬉しかったんですの」
なるほど。八百万は自分の個性や知識について、かなり真剣に向き合っているからね。
まあ、そうしないと八百万の個性は使いこなすことができないだろうし。
「こちらこそ。八百万の話は聞いていて面白いよ。今日の個性把握テスト1位も納得だったし、これから同じクラスで勉強できるのが楽しみだよ」
「......はい!」
八百万がぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
わずかに頬が赤くなっているのは、褒められることに慣れていないからだろうか。
さっきの演奏の時もそうだったけど、八百万は自分の努力を認められると、年相応に照れるところがあるらしい。
ふと隣を見ると、耳郎がこちらをじっと見ていた。
「......なに、耳郎?」
「別に。司って誰にでもそういうこと自然に言うんだなーって」
「思ったことを言ってるだけだよ」
「それが問題なんだってば......」
耳郎は呆れたように溜息をつき、紅茶を一口飲んだ。
その耳たぶから伸びるプラグが、テーブルの下で僕の膝をちょん、と突いてくる。
まったく、分かりやすいなぁ。
八百万が不思議そうに僕たちを見比べていたけれど、ここで余計なことを言えば耳郎がまた拗ねそうなので、黙って微笑むだけにしておいた。
そうして他愛もない会話を楽しんでいるうちに、窓の外では庭木の影が少しずつ長く伸び始めていた。
楽しい時間というのは、どうしてこうも早く過ぎるんだろうね。
壁掛け時計に目をやれば、そろそろ帰り支度を始めた方がよさそうな時刻になっている。
「さて、名残惜しいけど、そろそろお暇しようか。明日も学校があるしね」
「あ、もうこんな時間なんだ」
耳郎も時計を見上げ、少し驚いたように呟いた。
「まあ......本当ですわね」
八百万は名残惜しそうにティーカップへ目を落としたものの、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「お二人とも、今日は本当にありがとうございました。またぜひ、遊びにいらしてくださいまし」
「もちろん!今度はウチたちからも誘うからね、ヤオモモ!」
「ふふっ、楽しみにしておりますわ!」
そうして僕たちは席を立ち、八百万に案内されて玄関へと向かった。
その途中、八百万が小さく声を上げ、何かを思い出したように立ち止まった。
「もしよろしれば、記念に写真を撮りませんか?」
「写真?」
「はい。今日が、皆さんと初めて過ごした放課後ですから。せっかくなら、形に残しておきたくて......」
「いいじゃん!撮ろ撮ろ!」
耳郎がすぐに頷いた。まあ、悪くないんじゃないかな。
サンルームへ戻るほどでもないので、僕たちは玄関ホールの大きな窓を背景に並ぶことにした。
八百万が使用人にスマートフォンを渡すと、耳郎は迷わず八百万の腕を取った。
「ヤオモモ、もっとこっち!」
「は、はい!」
「司も。端っこに逃げない!」
「逃げてないよ。3人とも入れるようにしてるんだって」
「じゃあ、もうちょい寄って!」
耳郎に制服の袖を引かれ、僕は八百万のすぐ隣に立つ形になった。肩が触れそうな距離になった瞬間、八百万が少しだけ背筋を伸ばした。
使用人がスマートフォンを構える。
「それでは、撮影いたします。3、2、1──」
カシャッ、と軽い音が鳴った。
画面を確認すると、真ん中の八百万は少し驚いたような顔をしていて、耳郎は満面の笑み。
僕はというと、耳郎に袖を引かれたせいで、少しだけ身体が傾いていた。
「僕だけ姿勢おかしくない?」
「いいじゃん、自然体って感じで!」
「まあ、とても素敵ですわ!」
八百万は写真を見つめ、目を細めた。
「......夢みたいです。こんな風に友人ができるなんて」
小さな声だったけれど、はっきり聞こえた。
「大げさだなあ、ヤオモモ」
耳郎が笑う。
「これから何枚でも撮れるって。明日も明後日も、同じクラスなんだから」
「......ええ。そうですわね」
八百万は一度だけ瞬きをしてから、嬉しそうに頷いた。
「今日はありがとう、八百万。お茶もお菓子も美味しかったし、楽しかったよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。東雲さん、耳郎さん」
「また明日ね、ヤオモモ!」
「はい!また明日、耳郎さん!」
僕たちが帰り道を歩き始めても、洋館が庭木の向こうに隠れるまで、八百万の姿は見えていた。
八百万邸を後にして、僕と耳郎は並んで夕暮れの中を歩いていた。しばらく歩いたところで、隣の耳郎がふうっと長い息を吐く。
「はぁ......なんか、すごい1日だったね」
「そうだね。入学初日にテストして、お嬢様の家でお茶会なんて、なかなかないよ」
「ヤオモモ、いい子だったなあ」
耳郎は少しだけ歩調を緩め、夕陽に染まった街並みを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「朝はさ、正直ちょっと怖かったんだよね。あんなに綺麗で、何でもできて、司とも楽しそうに話すから......」
「うん」
「でも、話してみたら全然偉そうじゃないし。むしろ、ウチらと友達になれたのを本気で喜んでくれてた。なんかさ、ヤキモチ焼いてた自分がちょっと恥ずかしい」
「やっぱりヤキモチ焼いてたんだ」
「っ......!」
耳郎のイヤホンジャックがぴくりと跳ねる。
いつもなら、ここで顔を真っ赤にして反論してくるところだろう。
だけど、今回はそのプラグが照れ隠しに僕の脇腹を突き刺してくる前に、僕は少しだけ声の調子を落として言葉を続けた。
「まあ、耳郎の気持ちは分かるよ。僕が今後、ほかの誰かに惹かれることがあったら、きっとその気持ちを隠さずにアプローチするだろうからね」
「......うん」
耳郎の返事は小さかった。
さっきまで軽やかに揺れていたイヤホンジャックが、しゅんと力なく垂れ下がる。
僕は、自分の個性を強くするためだけに誰かを好きになるつもりはない。
【
でも、心から魅力的だと思える相手に出会ったなら、その気持ちをなかったことにするつもりもない。
耳郎も、そのことは分かっているんだろう。
何しろ、僕たちは物心ついた頃からの付き合いだ。僕がどんな人間なのか、耳郎はよく知っている。
だからこそ、今の言葉が耳郎を不安にさせることも、僕はちゃんと理解している。
「でもさ、耳郎」
「......なに?」
「耳郎が本当に嫌だと思う相手なら、僕はアプローチしないよ」
その言葉に、耳郎が驚いたように顔を上げた。
「......え?」
「僕が誰かを好きになることで、耳郎が本気で傷つくなら、それは僕にとっても嫌なことだからね。新しい恋を始めるために、今まで大切にしてきたものを壊すつもりはないよ」
僕が好きになった相手を、耳郎も必ず好きになれるとは限らない。
むしろ、嫉妬したり、悩んだり、時にはどうしても受け入れられないと思うことだってあるだろう。
それは当然のことだ。
誰かを好きになる気持ちを僕が自由に選べないように、耳郎だって自分の感情を思い通りにできるわけじゃない。
「耳郎に何でも我慢してほしいわけじゃない。嫌なことは嫌って言ってほしいし、不安ならちゃんと聞かせてほしい。僕も、自分の気持ちを隠したりしないから」
あんまりこういうのは柄じゃないけどさ。
「司......」
「僕にとって耳郎は、ほかの誰とも比べられない大切な存在なんだ」
幼い頃からずっと一緒だった。
楽しい時も、落ち込んだ時も、何かを頑張ろうとする時も、気づけばいつだって隣に耳郎がいた。
今の僕が使える『ヒーリング・タッチ』だって、そんな耳郎との想いが通じ合ったからこそ生まれた力だ。
僕が耳郎を大切に思う理由は、個性のためなんかじゃない。
「だから、これからも僕の隣にいてほしい」
僕は足を止めた。
数歩先へ進んだ耳郎も、僕が立ち止まったことに気づいて振り返る。
その頬を、夕陽が柔らかな茜色に染めていた。
「......司?」
僕は耳郎の前に立つと、そっと右手を差し出した。
いつものようにからかうためじゃない。
照れた顔を見て楽しむためでもない。
ずっと伝えようと思えば伝えられたのに、今まで言葉にしてこなかった気持ちを、きちんと届けるためだ。
「耳郎。僕は君が好きだよ」
「っ......!」
耳郎の瞳が、大きく見開かれた。
「幼馴染としてだけじゃない。1人の女の子として、ずっと大好きだった」
僕は少しだけ微笑み、まっすぐに耳郎を見つめる。
「これから先、どんな出会いがあったとしても、僕が耳郎を好きになったことも、一緒に過ごしてきた時間も、絶対になかったことにはしない」
そして、最後の言葉をゆっくりと口にした。
「......だから、もう幼馴染ってだけの関係は卒業しよう。耳郎響香さん。僕の恋人になってくれませんか?」
「──っ!」
耳郎の身体が、びくりと震えた。
耳たぶから伸びたイヤホンジャックが、驚いたようにぴんと伸び、それから行き場をなくしたようにくるくると丸まっていく。
「な、なに......それ......」
か細い声が漏れる。
「司、いっつもウチのことからかってばっかりで......好きだとか、可愛いとか、そういうことは平気で言うくせに......」
耳郎はぎゅっと制服の裾を握りしめ、俯いた。
「......肝心なことは、全然言ってくれなかったじゃん」
「......そうだね。ごめん」
「ウチだって、ずっと......ずっと待ってたんだから......」
その声が、かすかに震えていた。
耳郎はしばらく俯いたままだったけれど、やがて意を決したように顔を上げた。
夕陽のせいだけではないだろう。
耳まで真っ赤に染まった顔に、潤んだ瞳。
そして、恥ずかしさを堪えるように、少しだけ尖らせた唇。
「......バカ」
耳郎が、小さく呟いた。
「そんなの......答えなんて、ずっと前から決まってるじゃん」
そう言って、耳郎は僕の差し出した手を取った。
細い指が、僕の指の間にゆっくりと滑り込んでくる。
「......ウチも、司が好き」
その言葉と同時に、イヤホンジャックが僕の手首にくるりと巻きついた。
「気づいた時には、司のことが大好きだった。意地悪で、すぐからかってくるし、たまに何考えてるか分かんないけど......」
耳郎は少しだけ鼻をすすり、照れくさそうに笑った。
「それでも、ウチが一番落ち着くのは、やっぱり司の隣なんだよね」
「......うん」
「これから先、ヤキモチだって焼くと思う。司がほかの女の子を好きになったら、きっと今みたいに平気な顔なんてできないし......」
そこで耳郎は、僕の手をきゅっと握り直した。
「でも、だからって司のことを諦めたくないし、司の隣にいることまで我慢したくない──司の足枷になりたくない」
その瞳には、もう迷いはなかった。
「......だから、よろしくね。司」
ほんの少しだけ背伸びをして、耳郎は僕の顔をまっすぐに見上げた。
「今日からウチの彼氏なんだから──ちゃんと、大切にしてよね?」
僕は思わず笑みを零した。
「もちろん。よろしくね、響香」
「っ......!」
名前を呼んだ途端、耳郎の顔がさらに赤くなる。
「も、もう......!そういうところだってば......!」
口では文句を言いながらも、繋いだ手を離そうとはしない。
僕はその手を握り返し、耳郎の顔を覗き込んだ。
「ねえ、響香」
「......なに?」
「もう1回、好きって言ってくれない?」
「はあっ!?い、今言ったばっかりじゃん!」
「だって、正式に恋人になってからはまだ聞いてないし」
「......っ!司のバカ!ほんっと、そういうところ変わんないんだから!」
真っ赤になって抗議する耳郎。
だけど、少しの沈黙のあと、耳郎は僕の手をぎゅっと握りしめたまま、小さく顔を寄せてきた。
そして、周囲には聞こえないくらいの声で囁く。
「......大好きだよ、司」
その声は、普段のどんな歌声よりも、僕の胸に深く響いた。
「......うん。僕も大好きだよ、響香」
僕たちはもう一度顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
春の夕暮れ。
雄英高校に入学した、その最初の日。
僕たちは幼馴染という長い長い関係に、新しい名前をつけた。
八百万さん
耳郎さん