今、僕たちはUSJに向かうバスに乗っている。
隣には耳郎が、すぐ後ろの席には八百万が座っている。今日は災害救助の訓練施設、通称USJへ向かう校外授業だ。
「そうそう。耳郎は僕がメロンソーダ好きだと思ってるみたいだけど、どちらかというと、砂糖をたっぷり入れたコーヒーの方が好きなんだ」
「え、嘘?でも、毎回お店でメロンソーダ頼んでるじゃん」
耳郎が目を丸くする。
「子どもの頃、メロンソーダをいっぱい飲みたいからって、僕にも注文するよう駄々をこねた暴君がいたんだよね。またあの暴君が現れても、すぐに怒りを鎮められるよう備えてるだけだよ」
「うっ、そんな昔のこと引っ張り出さなくても......っていうか、今はそんなことしないから!」
「そう?この間、僕のグラスをじーっと見つめてたのは誰だったっけ」
「あれは氷が変な形だったから見てただけ!」
「なるほど。氷を観察していたら、偶然ストローに口がついちゃったんだね」
「司!」
耳郎のイヤホンジャックが勢いよく伸び、僕の脇腹を軽く突いた。僕が笑うと、耳郎は赤い顔を隠すように窓の外へ向き直った。
「ふふっ、おふたりは本当に仲がいいですね」
背後から八百万の上品な笑い声が聞こえた。
「まあ、長い付き合いだからね。ちなみに、耳郎は僕のポテトも自分のものだと思ってたよ」
「思ってない!司が食べていいって言ってたんでしょ!」
「言ったよ。断ると泣きそうな顔をするから」
「しないから!」
「まあまあ。子どもの頃から一緒にいらっしゃるなんて、少し羨ましいですわ」
八百万の声には、からかいだけではない柔らかな響きがあった。
「今からでも遅くないでしょ。八百万とも、こうやって思い出を増やしていけばいいんだから」
「ええ。そう言っていただけると嬉しいですわ」
「ちょっと、司。ヤオモモにまで変なこと吹き込まないでよ」
「変なことなんて言ってないけど?」
「今の流れで言うと、ヤオモモがウチみたいな食いしん坊だと思われるじゃん!」
「そこまで自覚があるなら安心したよ」
「もーっ!」
僕たちのやり取りに、八百万がまた笑う。そうこうしてると、遠くの席から、切実な声が聞こえた。
「な、なんであいつだけ......!羨ましすぎんだろっ!」
峰田が座席の背もたれから顔を出し、悔しそうに拳を握っていた。
「八百万なんて、おいらには冷たい視線なのに!」
醜い嫉妬は気にしない、気にしない。あと、それは普段の言動の差だと思う。僕が肩をすくめると、峰田の隣にいた上鳴が苦笑した。
「でもさ、東雲って妙に女子と仲いいよな。どうやってんの?」
「普通に話してるだけだよ」
「その普通が分かんねえんだって!」
「まず相手の話をちゃんと聞くところから始めたら?」
「うわ、正論!」
「峰田にも聞かせてやれよ、それ!」
「聞こえてるわ!」
たちまち車内に笑い声が広がった。前の席から芦戸も身を乗り出してくる。
「ねえねえ、それより東雲と耳郎って、付き合ってるの?」
「ぶっ!」
耳郎が咳き込んだ。
「ちょ、芦戸!いきなり何聞いてんの!?」
「だって気になるじゃん!入学当初から距離近いし!」
「別に隠すことでもないよ。付き合ってる」
「司ァ!?」
「えーっ!やっぱり!」
芦戸が弾んだ声を上げ、周囲が一斉にこちらを向いた。
耳郎は真っ赤になって俯いてしまったものの、これ以上余計なことを喋るなと無言で訴えてくる。
「僕たちの話はこれくらいにしようか。今日は救助訓練が本題だしね」
「上手いこと逃げたな、東雲!」
瀬呂に笑われる。帰りのバスでは大人しくしておこう。できるかどうかは別として。
賑やかな会話が一段落すると、今度はヒーローとしての適性が話題になった。
「でも実際、誰の個性が一番プロ向きなんだろうな」
切島が腕を組みながら言う。
「派手さだったら爆豪とか轟じゃね?」
「当然だろ」
爆豪が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「派手ならいいってものでもないと思うよ。強くても加減が出来ないなら使い道がないし」
僕がそう言うと、蛙吹が前の席からこちらを向いた。
「東雲ちゃんの個性は戦闘よりも、救助向きだと思うわ。人を連れて瞬間移動できるんでしょう?」
「できるよ。ただし、今の僕が安全に運べるのは基本的に触れている人だけ。距離も半径100メートルまでだし、移動先の安全を確かめる必要があるから、万能ではないかな」
「それでもすごいじゃん!倒壊した建物から人を助け出せるだろ?」
切島が感心したように身を乗り出した。
「障害物を越えられるのは強みだね。でも、瓦礫の下に誰がいるか分からなければ探さないといけないからなぁ」
「なるほど......ただ飛べばいいってわけじゃないんだね」
緑谷が小さなノートを取り出しながら頷く。
「それに、僕の個性だけじゃ助けられない人もいる。八百万みたいに必要な道具を作れる人がいれば、できることは一気に増えるけど」
後ろを振り返ると、八百万が驚いたように瞬きをした。
「わたくし、ですか?」
「うん。救助用のロープや担架、固定具なんかを現場で用意できるのは大きいよ。先日の戦闘訓練でも感じたけど、八百万の個性は準備と判断次第で本当に化けるからね」
「まあ......ありがとうございます。ですが、作成する物の構造を理解していなければいけませんので、もっと勉強しなくては」
「そこは八百万の得意分野でしょ」
「ふふっ。期待に応えられるよう精進いたしますわ」
その笑顔を見ていると、隣から袖を引かれた。
「ねえ、司。ウチの個性は?」
「耳郎?」
「別に褒めてほしいとかじゃないけど、救助向きかどうかって話」
「壁越しに人の気配を探せるし、物音で異変を察知できる。救助現場なら、要救助者を最初に見つける役割はすごく重要だよ」
「......そうかな」
「そうだよ。耳郎が位置を探して、八百万が必要な器具を用意して、僕が安全な場所へ運ぶ。3人で組めば、相当いい仕事ができそうだ」
「3人で、ですか......」
八百万が嬉しそうに呟いた。
耳郎も少し考え、それから笑う。
「それなら、ちょっと楽しそうかも。ヤオモモと司が一緒なら、頼りになるしね」
「わたくしも、耳郎さんと東雲さんなら心強いですわ」
「よかった。じゃあ今日の授業で機会があったら試してみようか」
そこへ飯田の声が飛んできた。
「諸君!そろそろ到着するようだ!降車の際は慌てず、順番を守るように!」
「さすが副委員長。働き者だね」
「東雲くん!君も茶化していないで準備したまえ!」
「はいはい」
「返事は1回!」
僕はそのまま窓の外へ視線を向けた。窓の外に、巨大なドーム状の建物が見え始めた。
これがUSJか。遊園地みたいな名前だけど、ここで学ぶのは誰かの命を救うための技術だ。
さっきまでじゃれ合っていた耳郎も、建物を見つけると真剣な目になった。八百万は背筋を伸ばし、手元の資料を確認している。
僕も自然と口元を引き締めた。
今日も、得るものの多い授業になるといいな。
バスを降りた僕たちは、相澤先生に先導されて施設の入口へ向かった。
ドームを間近で見上げると、外壁の厚みに驚かされる。小さな街を丸ごと包んだ要塞みたいだ。
「うわー!でっか!」
「ここで救助訓練するんだよね?すごいなあ!」
芦戸たちがはしゃぐ横で、緑谷は目を輝かせていた。
入口の前では、宇宙服のような分厚い衣装に身を包んだヒーローが待っていた。
「みなさん、ようこそ!」
柔らかな声が響く。
「わっ、13号だ!」
麗日が歓声を上げ、緑谷も興奮した様子で何かを呟き始めた。
スペースヒーロー、13号。
災害救助で名を知られるプロヒーローだ。その個性は、指先から生み出す強力な吸引力で対象を吸い込む『ブラックホール』。
使い方次第では障害物を一気に除去できる一方、生身の人間に向ければ取り返しのつかないことになる。
人を助けるための力ほど、慎重な扱いが必要になる。ある意味、今日の授業にこれ以上ふさわしい先生はいないだろう。
「こちらこそ。今日は皆さんに、救助の難しさと大切さを知ってもらいます」
13号はにこやかに応じると、僕たちを施設の中へ案内した。
扉を抜けた瞬間、思わず足が止まった。
「......へえ。これはすごい」
眼下に広がっていたのは、ひとつの巨大な訓練空間だった。
人工的な街並みがあり、複雑に折れ重なったビルの残骸がある。岩だらけの山岳地帯や、風雨を再現するための設備までそろっている。
自然災害も都市災害も、ここひとつで訓練できるわけか。
「水難、火災、土砂災害、山岳、暴風雨、倒壊......それぞれ異なる災害を想定したゾーンです」
13号が施設を示しながら説明する。
「これほどの設備を整えるなんて、雄英の教育方針は徹底していますわね」
八百万が感嘆の息を漏らす。
「本当だね。外で訓練するよりずっと安全管理がしやすそうだ」
「司はどこが得意そう?」
耳郎が尋ねてきた。
「地形にもよるけど、山岳や倒壊かな。足場が悪い場所ほど瞬間移動が役に立つし」
「ウチは倒壊かな。声が届かない場所でも、壁の向こうの音なら探れるかもしれないし」
「わたくしは火災ゾーンにも興味がありますわ。わたくしが創造する耐熱装備や呼吸器の性能を確認しておきたいので」
「八百万ならそのうち消防車まで作りそうだね」
「さすがに、構造を調べずには難しいですわ」
「調べたら作れるんだ?」
僕が笑うと、八百万は軽く頷いた。冗談だったんだけど。
そんな中、相澤先生が13号に声を落として何かを尋ねているのが見えた。流石に会話までは聞こえないか。
13号が一歩前に出る。
「それでは、授業を始める前にひとつ、とても大切なお話をします」
さっきまで騒いでいたクラスメイトたちが、自然と静かになった
。13号は自身の個性について語り始めた。
強力な能力は災害救助に役立つ。けれど、扱いを間違えれば人を簡単に傷つけてしまう。ヒーロー科に入ったからといって、誰もが安全に個性を使いこなせるとは限らない、とのことだ。
個性が強いから人を救えるわけじゃない。
助けようとする相手の身体、周囲の環境、そして自分にできることとできないこと。そのすべてを考えて初めて、救助という行為は成立する。
入学試験のとき、僕は瓦礫に挟まれた受験生を安全な場所へ運んだ。あのときは目の前のことで精一杯だったけど、もし移動先に別の危険があったら?もしテレポートが原因で傷を悪化させていたら?
自分の力を信じることと、自分の力を過信することは違う。
「大事な話だね」
僕が小さく呟くと、耳郎が頷いた。八百万も真剣な表情で13号を見つめている。
最初の異変は、ごく小さな違和感だった。
広場の中央。
何もなかったはずの空間が、水面みたいにわずかに揺れた。
「......ん?」
目を僅かに細める。
光の反射かと思ったけど違う。空気の揺らぎの中心から、黒紫色の染みが滲むように広がっている。
まるで、目に見えない何かが空間そのものを引っかいているみたいに。瞬きする間に染みは大きくなり、渦を巻き始めた。
僕の身体が、考えるより先に緊張する。
「耳郎、八百万。あそこを見て」
2人が僕の視線を追った。
「え......何、あれ」
「煙......では、ありませんわよね?」
黒い渦の中から、人影が現れた。
ひとつ、ふたつ。
いや、それどころじゃない。
次々と、見知らぬ人間が姿を現す。
奇妙な武器を持った男。異様な体つきの女。顔を隠した者。ダサい私服とも作業着ともつかない格好の連中。
そして、中心には明らかにほかと雰囲気の違う存在がいた。
全身を手のようなものに覆われた、青白い髪の男。
その近くにいる脳がむき出しの人間......何だ、あれ。言葉にしがたい不快感が、背筋を這い上がった。
「みんな、動くな!」
相澤先生の声が鋭く響いた。僕たちの前へ出た先生は、首に巻いた捕縛布を緩め、広場の集団を睨み据える。
「13号、生徒を守れ」
その声には、いつもの気怠さが一切なかった。
「先生、あの人たちは......」
緑谷が言いかける。
「敵だ」
短い一言。
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「敵......?」
麗日が呆然と呟く。
僕はもう一度、広場を見下ろした。
あの人数。あの装備。あの異様な出現方法。
偶然迷い込んだ集団なんて考えられない。どう見ても、意図してこの施設に侵入している。
前のマスコミ騒動とは話が違う。
「ここ、雄英の施設だよね......?」
耳郎の声が、かすかに震えていた。
「そうだね。普通なら簡単に入れる場所じゃない」
「じゃあ、どうして......」
分からない。ただひとつ言えるのは、何か目的があってここに侵入したであろうことだけだ。
耳郎の手を握ると、耳郎が振り向いた。
「司?」
「僕から離れないで。何かあったら、一緒に逃げよう」
「......うん」
握り返してくる指に、いつもより強い力がこもっていた。八百万も僕たちのそばへ寄ってくる。
「東雲さん。皆さんを出口へ誘導するべきでは?」
「僕もそう思う。まず先生の指示を仰ごう」
指示を仰ぐまでもなく、相澤先生が僕たちを振り返った。
「お前らは13号の指示で避難しろ。ここは俺が止める」
「先生おひとりで、あの人数を相手にするんですの!?」
八百万が声を上げた。
「ああ。お前らはまだ訓練中だ」
相澤先生は淡々と答える。
「安心しろ。ヒーローってのは、得意なことだけしてりゃいい仕事じゃない」
そう言い残し、先生は階段を蹴り、捕縛布が宙を走る。次の瞬間には、先生の身体が敵の集団へ向かって落ちていった。
「相澤先生!」
誰かが叫んだ。
けれど、その心配はすぐに驚きへ変わる。
先生は着地するより早く敵のひとりを捕縛し、その勢いで別の男を薙ぎ倒した。飛びかかってきた相手は、個性が使えなくなったのか動揺し、次々と地面へ叩きつけられる。
速い。
しかも、無駄がない。
「......すごい」
思わず声が漏れた。
これがプロヒーロー、イレイザーヘッドの戦い方。
相澤先生は1人で大勢を相手にしているのに、敵の動きに合わせて位置を変え、倒す順番まで計算しているように見える。
だけど、相手の数が減ったわけじゃない。まだ広場の奥には、あの不気味な男と巨体が立っている。
このまま終わるとは限らない。
「全員、こちらへ!」
13号が叫んだ。
「落ち着いて、入口へ戻ってください!」
「みんな!列を乱すな!押さずに移動するんだ!」
八百万と飯田が声を張り上げ、手を振って誘導を始めた。
その途中、ふと違和感を覚える。
......静かすぎない?
あれほど大勢の侵入者が現れたのに、警報が鳴らない。施設の防犯設備が作動していれば、すでに雄英へ連絡が届いているはずだ。
「耳郎。外の音、何か聞こえる?」
「え?」
「警報とか、応援が来る気配とか」
耳郎は一瞬だけ立ち止まり、イヤホンジャックの片方を床に当てた。
「......ダメ。遠くまでは分かんないけど、でも警報は聞こえない」
「そっか。ありがとう」
偶然侵入できただけじゃなく、雄英の設備そのものに何か細工がされているとしたら?だとすれば、今までにないくらい──計画的な事件だ。
出口まで、あと少し。
階段を上り切れば入口へ続く通路がある。その先まで安全を確認できれば、僕のテレポートで何人かずつ運べる。
そう考えた瞬間だった。
「......お待ちください」
聞き慣れない声が、正面から響いた。通路を覆うように、黒紫色の霧が噴き上がる。
「っ!」
反射的に足を止めた。
霧はただ漂っているわけじゃない。渦の内側が妙に暗い。奥行きがないようにも、どこまでも続いているようにも見える。
その中心から、黄色い目のような光がこちらを見つめた。
「我々は敵連合。皆さんにはここでしばらくお付き合いいただきます」
「敵連合だと!?」
飯田が叫ぶ。
「本来なら、オールマイトをお迎えする予定だったのですが......どうやら、まだ到着していないようですね」
オールマイト?
その名前が出た瞬間、背筋がさらに冷えた。
「まさか......オールマイトを狙っているの?」
麗日の問いに、霧の男は答えない。
でも、否定もしなかった。
「どけぇ!」
次の瞬間、爆豪が飛び出した。
「爆豪、待っ......!」
制止する暇もなく、轟音とともに爆風が霧を吹き飛ばす。切島も地面を蹴り、硬化させた拳を構えて突っ込んだ。
「好き勝手やらせるかよ!」
霧が一瞬だけ裂けた。
僕には、その内側に金属製の首当てのようなものが見えた。完全な霧ではない。攻撃できる実体があるのかもしれない。
攻撃をくらったはずの男は平然としていた。
「......なるほど。さすが雄英の生徒ですね」
その言葉と同時に、霧が広がった。
「下がって!」
僕は耳郎の手を引いた。黒い渦が爆豪と切島の足元を覆い、僕たちの前にも別の渦が開く。
さっき広場に現れた渦と同じだ。
ああ、そういうことか。こいつが大勢の敵をここまで運んできたんだ。
「転移系の個性......!」
僕が呟くと、霧の男の視線がこちらへ向いた。
「ご明察です。では、皆さんにも移動していただきましょう」
ぞわり、と空気が震える。
「まずい!散開しろ!」
13号が腕を上げるが間に合わない。僕と同じ転移系でも、規模が違う。視界が黒霧で封じられた。こうなると、テレポートも出来ない。
「耳郎、こっち!」
入口へ移動するには、少なくとも霧のない安全な足場を確認したい。あの霧は通路の先まで広がっているように見えた。
「13号先生!あの霧、触れたものを転移させています!」
「分かっています!皆さん、後退を!」
「司!」
僕たちの間に、細長い黒い亀裂が走っている。さっきの黒霧が生成されているんだ。
「っ......!」
黒い霧がその隙間から一気に膨れ上がった。ここまま手を繋いだまま中央に黒霧が出来たらどうなるんだ。腕が切断される?それとも、霧の生成がキャンセルされる?
「.....!」
僕は彼女の手を離した。最悪の可能性を考えたら、離さざるをえなかった。そのまま、霧の中に耳郎の姿が飲み込まれた。
どうするべきか。その霧に突っ込むかどうするか一瞬考えるも、突然横から衝撃が走った。
誰かがぶつかったのだ。
「きゃっ!」
「──っ!」
声の主を振り返る。
何も見えない......いや、空中に浮いた手袋と靴だけが見えた。
「葉隠?」
「う、うん!みんな霧に飲み込まれて....!」
葉隠が必死に腕を振る。近くにはまだ霧に飲まれていない八百万が見えた。
「東雲さん!」
「八百万、こっち!」
彼女がこちらへ駆けてくる。咄嗟に伸ばされた手を、僕は左手で受け止める。
「ありがとうございます....!」
こうなったら仕方ない。耳郎のことは後で助けに行く。必ず、だ。今はこの状況をどうにかしないといけない。
まずは今、近くにいる2人と分断されないように守らないといけない。
僕は歯を食いしばりながら口を開く。
「八百万!葉隠!僕から離れないで!」
「は、はい!」
「わ、分かった!」
返事が聞こえた直後、僕たちの体を霧が飲み込んだ。
冷たい風が頬を叩いた。
「うわっ......!」
目の前に飛び込んできたのは、灰色岩肌と、見覚えのない切り立った斜面だった。
僕たちは宙に投げ出されていた。
地面まで、数メートル。
「きゃあっ!」
葉隠の声。
「東雲さん、下に岩が!」
八百万が叫ぶ。
「分かってる!」
僕は2人を抱えるように引き寄せ、足元の平らな地面へ意識を集中した。半径100メートル以内。着地点は見えている。障害物もない。
今度こそ、迷う理由はなかった。一瞬で景色が切り替わる。次に足の裏へ伝わってきたのは、硬い地面の感触だった。
「......ふう。危なかった」
周囲を見渡せば、すぐにどこに飛ばされたかわかった。
「......山岳ゾーン、ですわね」
八百万が呟いた。
「そうみたいだね」
僕は頷き、もう一度周囲へ視線を走らせた。耳郎はいない。ほかのクラスメイトも、ここからは見えない。
代わりに、いくつかの人影が動いた。こちらを見つけた男のひとりが、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「おい、ガキが2人.....いや、3人落ちてきたぞ」
葉隠が息を呑み、八百万の指が僕の袖をぎゅっと握った。僕は2人を背に庇いながら、男たちを見据える。
本物の敵がいる。状況を考えるに、耳郎の飛ばされた場所にも敵がいるだろう。
のんびりとしている暇はない。目の前のこいつらを1人残らず倒して、耳郎の居場所を聞き出す。
「八百万、葉隠。落ち着いて、僕の話を聞いて」
2人の返事を確かめる前に、僕は静かに息を吸い込んだ。
「ここからテレポートで離脱するのは簡単だけど──まずは、この敵たちを倒す方向で動こう。ダメだった時に撤退する」
ふたりが頷いてくれた。葉隠は姿が見えないけど、多分頷いてくれた。
僕たちがこいつらを倒さずにただ逃げれば、おそらく別のエリアに援軍に行くはずだ。それは避けたい。
「たかが僕たち生徒相手にこれだけの人数が待ち伏せしてるるってことは、こいつらは下っ端で大したことない──僕を殺したいなら、この10倍は用意してくるんだったね」
あえて聞こえるように話す。これで、敵のヘイトは僕に向くはずだ。その分、2人の負担が減るはずだ。