阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~   作:NoRAheart

11 / 12
7話

苅田の本陣が見えてきたのは、府内を出て六日目の昼過ぎだった。

府内から苅田の陣まで宗茂殿の馬の前に乗せられてきた。

後ろから回った腕に、ずっと押さえられてきた。

道中、落ちる心配は一度もなかった。

代わりに、腿の内側が擦り切れていた。

鞍を跨いだまま揺られれば、乗せられているだけの身でも、袴の下で火箸を当てられたような痛みが残る。

 

 

 

「宗茂殿。ここで、降ろしてください」

「陣は、まだ先にございます」

「ここからは、歩きます」

「歩けませぬでしょう」

「いえ、歩きます」

 

 

言い張った。

訳がある。

 

僕はこれからこの陣で、差配をする。

そんな人間が着いた早々に女武者の腕に抱えられて入ってきたら、誰が言うことを聞くだろうか。

中身の話ではない。見え方の話である。

僕が華奢な餓鬼なのはおいておく。

 

宗茂殿は、手綱を引いて馬を止めた。

腰を掴まれ、地面に下ろされる。

足が土に着いた途端、地面が斜めになった。

斜めになったまま近づいてくる地面を、襟首を掴まれて止められた。

 

 

「宗茂殿、助かりました」

「今しばらくは馬上におられては?」

「いえ、ここは歩かねばなりません」

 

 

事実、歩けていなかった。

歯を食いしばって、もう一度、足をつけた。

一歩目で、膝がかくんと抜けかけた。

抜けかけたが、倒れはしなかった。

二歩目は、もう少しましだった。

宗茂殿は、それ以上何も言わなかった。

 

馬の轡を取って、半歩後ろを、彼女は僕と同じ速さでついてきた。

器用である。倒れたら、いつでも受け止められる間合いであった。

気づいていた。

気づいていたけれども、僕は前を見て歩く。

 

 

「惟将殿。昨日の続きを、伺ってもよろしいですか」

「歩きながらで、よろしければ」

 

 

六日の道中、馬の上で、ずっと喋っていた。

府内を発つ前の晩までに、豊前の絵図と、去年の門司の陣立てと、大友方の諸隊の将の名と所領を、頭に入るだけ入れてきた。

入れたものを、そのまま背中越しに宗茂殿へ流し込んだ。

宗茂殿は、一度聞いたことを、二度は聞かなかった。

聞き返すのは、いつも、その先のことだった。

 

 

「昨日は、陣を張る場所の話でした。水の手と、退き口と」

「はい。では、続きです。陣に入ったら、まず、どこを見ますか」

「旗にございます」

「旗の、何を?」

「色が、悪いところを」

「旗の色が悪いとは?」

「立て方が、いい加減になっております。傾いていても、誰も直さぬ。直さぬのは、旗の下の者が、旗を見ておらぬからにございます」

 

 

一度で、覚えている。

覚えた上に、自分の言葉で返してきている。

擦り切れた腿の痛みが、どこか遠くなった気がした。

 

 

◇

 

 

苅田の陣は、広かった。

広く、独特であった。

 

まず海が近かった。潮の匂いが、陣幕の隙間から絶えず流れ込んでくる。

次に波の音がした。満ち引きの音が、とてもうるさい。

だからだろう。

人の声を聴かないのは。

 

前線の陣はもっと活気があるものだと思っていた。殺気立っていると思っていた。

しかしあまりにも、士気がない。

 

これは負ける陣だ。

 

去年、確かに大友は門司で大敗している。

一万五千で囲んで、落とせなかった。

それどころか、退く時に毛利の水軍に食われて、恐ろしい数を失った。

その記憶を抱えたまま、同じ場所に、また来ている。

きっと近場の兵らは、それを知っている。

知っていて、口には出せない。

また来てしまったと思っている。だから静かになる。

 

陣の中を、しばらく歩いた。

宗茂殿は、黙って僕の後ろをのっのっとついてきた。

歩きながら、僕は三つのものを見ていた。

 

『一、竈の数』

『二、飯を炊いている煙の数』

『三、炊いた後の、灰の量』

 

三つ目が、一番分かりやすい。

灰の量は、くべた薪の量で決まる。

薪の量は、炊いた飯の量で決まる。

各隊の竈の灰を見れば、どこが規定通りに食っていて、どこが食わせていないかが分かる。

灰を掻いた指が、日暮れには真っ黒になっていた。

陣屋に戻って、板に書き出す。

府内で頭に入れてきた諸隊の名と、一つずつ突き合わせていく。

突き合わせ終えた数を、行灯の下に並べてみた。

 

「……負ける」

 

 

◇

 

 

その夜、道雪殿の陣屋に押しかけた。

押しかけて、板を突き出した。

道雪殿は、輿から降りて脇息にもたれていた。

手元には盃。

 

 

「おうおう、惟将や。なんじゃ血相を変えて。毛利勢が来たか?」

「違いますが、急ぎこちらをご覧いただきたく」

 

 

枯れた指が板を受け取り、行灯の方へ傾けた。

 

 

「なんじゃこれは」

「各隊の竈の灰の量です。ここからおおよその炊いた飯の量が分かります。規定通りに食うておられるのは五隊。立花隊、高橋隊、田原隊、それを支える支隊が二つ。残りは、減らしております。二割から、三割ほど」

 

 

盃が、膳に戻った。

 

 

「惟将や。それは、どこの陣でも起こりうることじゃ。陣中で飯を減らせば、銭が浮く。その浮いた銭を、自分の懐に入れる将はおる」

「存じております。ですが、おばあ様。減らし方が妙なのです」

 

 

板を裏返した。

裏に、別の数を書いてある。

 

 

「こちら、昨日より前の分にございます。宿に残っていた記録から拾いました。三日前まで、減らしていない隊がございます。一昨日から、急に減らし始めた隊が、四つ」

 

 

道雪殿の指が、板の縁で止まった。

 

 

「一昨日、何があった」

「門司の物見が、戻っております。毛利の陣容が知れました。去年より、多いそうです」

 

 

道雪殿の目が、板の上の四つの名をなぞった。

なぞり終えるのに、ほとんど間はかからなかった。

 

 

「食わずに残して、蔵に溜める。溜めた分を、退く時に担いで国へ帰る肚か」

 

 

言おうとしていたことを、そのまま先に言われた。

 

 

「はい。銭を浮かせているのではございませぬ。これは退く支度です」

 

 

行灯の芯が、踊った。

道雪殿は、盃にも手を伸ばさず、板を見つめていた。

 

 

「四隊とも、豊前と筑前の国人衆じゃな。譜代ではない」

「はい」

 

 

こちらへ上がってきた道雪殿の目は、冷徹だった。

ぞっとするほど、冷えた目だった。

 

 

「その四隊の名を、誰かに申したか」

「申しておりませぬ」

「よい。申すな。今、露見すれば、あの者どもは今夜にも逃げる。逃げれば、陣が割れる。割れた陣は、毛利に食われる。今は、知らぬふりをせい」

 

 

頷いた。

頷いたうえで、一つだけ聞いた。

 

 

「おばあ様。知らぬふりをして、この戦に勝てますか」

 

 

返事の代わりに、盃が取られた。

一息で、空になった。

 

 

「勝てぬな」

 

 

◇

 

 

翌日、軍議に呼ばれた。末席である。

上座に、宗麟様がいた。

陣中のこの人は、扇を持たない。

代わりに、細い鞭を手にしている。

その鞭の先が、広げた地図を打った。

 

 

「門司じゃ。今年こそ、落とす」

 

 

陣幕の内が、二色に分かれた。

昨年の雪辱に燃える者。

そして、乗り気でない者。

後者は前者に足並みをそろえたと思っているようだが、一から十まで見ていた僕には、はっきりと二の足を踏む色が見えた。

 

 

「宗麟様。恐れながら、門司の城は海に突き出しております。攻めるには海路が要りますが、当方の水軍は―――」

「知っておる。去年、それで負けた」

 

 

鞭が、地図の東へ滑った。

 

 

「じゃが、今年は尼子が動く。出雲の尼子義久から、書状が来ておる。毛利を東から突く。毛利が東を向けば、門司の守りは薄うなる。その隙を、突く」

「おお!!」

 

 

陣幕の内に、ほっとしたような声が混じった。

声を上げたのは、やはり上座の側の将ばかりだった。

府内の広間と同じである。

下座の床几に並ぶ顔は、まだ口を結んだまま地図を眺めている。

 

尼子が動く。

それは本当だろう。

謀る理由がないからだ。

 

だが尼子が動いたとして、毛利が門司から兵を引くとも限らない。

毛利にとって門司は、九州へ渡る橋の袂である。

ここを手放せば、九州へ手を伸ばす道が消える。

東で尼子と戦いながら、西で門司を保てるか。

それは毛利の兵の数次第だ。

兵数次第だが、捨てるならば、東だ。

そもそも、落ち目の尼子ごときで、毛利は門司を手放すだろうか。

 

そこまで考えて、僕は前提を誤っていることに気づく。

門司の価値を担保しているものはなにか。

 

 

「惟将よ」

 

 

上座から、声が飛んできた。

考えをまとめる最中で声を掛けられる。

 

 

「そなた、また何か書いておるな。申せ。下座の者にも、分かるようにな」

 

 

最後の一言で、宗麟様の目が、ちらりと下座の列を撫でていった。

府内の評定で、僕が申し上げたことを、この人は忘れていない。

下座の者のために、僕はなんでもいいから意見を求められている。

しかしこれをいってもいいモノか。見当外れではないか。

でもここで言わなければ、僕がここで発言する機会はおそらくない。

 

僕は目をつぶった。

ゆっくり三つ数えるほどの間に、考えをまとめ、決めた。

 

 

「では、申し上げます」

 

 

背に鋼を通したようにシャンとし、堂々と声を張る。

 

 

「門司は、『鶏肋』にございます」

 

 

陣幕の内が、静まった。

下座の端の方から、気味悪そうな声が上がった。

 

 

「……なんじゃ、それは」

「唐土の故事にございます。曹操という将が、ある土地を巡って敵と睨み合っておりました。攻めても勝てぬ。かというて、退けば面目が立たぬ。その夜、曹操が夕餉を食うておりますと、膳に鶏の肋がございました」

 

 

自分の脇腹を、指でなぞってみせた。

 

 

「鶏の肋には、肉がほとんどついておりませぬ。食うても、腹は膨れませぬ。ですが、捨てるには惜しい。しゃぶれば、少しは味がございますゆえ。曹操はその骨を見て、独り言のように申しました。『鶏肋』と」

 

 

 

 

「今一度申し上げます。門司は『鶏肋』にございます。落としても、腹は膨れませぬ」

 

 

 

 

 

床几が、軋んだ。

身を乗り出したのは、下座の列の、具足の胴に傷の多い将だった。

 

 

「阿蘇殿、門司は関門の要にございますぞ!!要を落として、腹が膨れぬとは」

 

 

発言をためらっていた下座のお方だ、流石に黙ってはいられなかったのだろう。

ともかく下座から、声が出た。

それだけで、胸の奥がわずかに軽くなった。

それはさておき、続ける。

 

 

「では落とした後をお考えください。門司は、海に突き出した岬の城にございますな」

 

 

地図の上の、岬の先を指した。

 

 

「陸からは細い道が一本。海からは、四方どこからでも寄せられます。あの城を保つには、海を押さえねばなりませぬ。当方の現在の水軍戦力で、関門の海を押さえられますか」

 

 

誰も、答えなかった。

 

 

「はっきり申し上げましょう。現状の我らではとても押さえられませぬ。去年、万全の状態であったお味方の水軍でも、負けておりますので」

 

 

陣幕の内の空気が、音を立てて固まった。

言ってはならないことを言った自覚はある。

しかし承知の上である。

 

 

「門司を落としても、保てませぬ。保てぬ城を落とすために、今年、何人死にますか」

「阿蘇殿!!貴殿は退けと申されるか!!」

「申しませぬ。門司を毛利に渡すのは、なお悪うございます」

「では、どうせよと」

 

 

地図から、指を離した。

 

 

 

 

 

「誰のものにもしませぬ」

 

 

 

 

 

鞭の先が、地図の上で止まった。

 

 

「惟将。い、今。なんと申した?」

「門司を、誰のものにもいたしませぬと申しました。大友のものにも、毛利のものにもいたしませぬ」

「そのようなことが、できるか」

「できまする。公方様に、お願いいたします」

 

 

陣幕の内が、大きく、ぐらりと揺らいだ。

 

 

「関門の海峡は、九州と本州を繋ぐ道にございます。ここを一方が塞げば、双方が困ります。困るのは、我らと毛利だけではございませぬ。堺の商人が困ります。博多の商人が困ります。明との商いが滞ります。そして、都が困りまする。京へ入る荷の少なからぬ数が、あの海を通っております故」

 

 

宗麟様の目が、細くなった。

 

 

「惟将。そなた、公方に何を言わせる気じゃ」

「関門の通行を、公方様の御沙汰といたします。城の帰属は、決めませぬ。棚上げにいたします。ですが、海峡を通る船は、いずれの家も止めてはならぬ。これを、公方様のお名で定めていただきます」

 

 

ざわめきが、さっきとは違う色を帯びた。

 

 

「毛利は、城を持てます。ですが、海の利を独り占めにはできませぬ。大友は、城を取れませぬ。ですが、博多への道は塞がれませぬ。どちらも、満足はいたしませぬ。ですが、どちらも、死にませぬ」

 

 

陣幕を叩く海風だけが、しばらく鳴く。

上座の重臣が口を開いた。

 

 

「阿蘇の。公方様が、動くと思うか」

「動きまする。公方様は今、諸国に御名を示したがっておられます。毛利と大友の争いを、公方様のお言葉で止めた。これは、たいそうな手柄にございます。銭も、兵も、要りませぬ。これが成れば、紙一枚で西国の二大家を収めたことになります。断る理由が、ございませぬ」

 

 

宗麟様の鞭が、手の中で一度、くるりと回った。

 

 

「して、誰が京へ話を通す」

 

 

その問いを、待っていた。

 

 

「わたくしが、通します」

 

 

陣幕の内が、爆ぜた。

 

 

「阿蘇殿!!貴殿は肥後の国人ではないか!!」

「一地方の国人風情が公方様に物を申すなど!!そなたら阿蘇を庇護しておる我ら大友も白い眼を向けられるぞ!!」

「大言壮語である!!僭越であろう!!」

「静まれぃ!!」

 

 

宗麟様の一声で、陣幕の内が水を打ったようになった。

その目が、まっすぐ僕に据わった。

 

 

「惟将。そなた、何者じゃ」

「……阿蘇神社大宮司家の、嫡子にございます」

 

 

陣幕の内の空気が、すっと入れ替わった。

 

 

「わたくしの家は、先代が朝廷より従二位を賜っております。武家の筋ではございませぬ。神職の筋にて、京に文を差し上げることは、僭越にはあたりませぬ。大友家を通しませぬ故、大友家のお立場にも障りませぬ」

 

 

宗麟様は、長いこと僕を見ていた。

やがて、鞭が床几の上に置かれた。

 

 

「惟将。そなた、その札を、いつから持っておった」

 

 

僕は堂々と、宗麟様に告げた。

 

 

「生まれた時からにございます」

 

 

◇

 

 

軍議が果てたあと。

陣屋を出たところで、輿に行く手を塞がれた。

 

 

「惟将や。一つ、聞き忘れた」

「なんでしょう」

「『鶏肋』の故事じゃ。独り言を申した曹操の陣に、その独り言の意を、読んだ者がおったろう。その者は、どうなったか」

 

 

まあ知っているよな、と息を吐く。

それでも軍議の間じゅう、輿の上で口をつぐんでいたことに感謝しながら、僕はおばあ様に答えた。

 

 

「斬られました。確かに曹操は、陣を退く肚を固めておりました。ですがまだ誰にも申しておりませなんだ。その者は、独り言から主の肚を読み、勝手に退く支度を始めました。軍を乱した咎にて、斬られたのです」

 

 

頭を下げた。

 

 

「おばあ様。わたくしは、今日、同じことをいたしました。主の肚を、勝手に読みました」

 

 

返事はなかった。

代わりに、輿が寄ってきた。

枯れ枝のような手が伸びて、僕の頭を鷲掴みにした。

指が、髪の根まで食い込む。

 

 

「そなたの申した通りじゃ。宗麟は、退きたがっておった。去年の大敗で、腹は決まっておった。じゃが、言えなんだ。言えば、退き腰と見られる。見られれば、国人が離れる。そなたは、それを代わりに言うた。ゆえに、斬られぬ」

 

 

頭の上の手が、ふっと緩んだ。

 

 

「その者が斬られたのはな、惟将や。肚を読んだからではない。読んだ肚を、主より先に、他人に触れ回ったからじゃ。そなたは、軍議で申した。主の前で、主に申した。下座の者にまで、筋道を見せて申した。それは、諫言じゃ」

 

 

緩んだ手が、今度は、髪を一度だけ撫でつけていった。

 

 

「よう、間違えなんだの」

 

 

◇

 

 

その夜、陣屋で文を書いていた。

京へ出す文である。

宛先は、幕府ではない。

 

軍議の場では省いた話だが、僕は幕府に直接手紙を出すことはできない。

阿蘇神社と縁のある京の社家に出し、そこから、公家筋へ。

公家筋から、幕府へ。

直に出しては、届く前の改めで握り潰されるためである。

三段構えで、時はかかる。

しかし無用な争いを行うよりもよい、確かな筋を選んだつもりだ。

筆を走らせていると、陣屋の垂れ幕が持ち上がった。

 

 

「惟将殿」

 

 

具足のままの宗茂殿が、垂れ幕をくぐってきた。

この陣では、夜も具足を脱がない決まりになっている。

胴の黒漆に、行灯の火が細く映っていた。

 

 

「まだ、起きておられましたか。お休みくださいませ」

「もう少しで、終わります」

「またおしろいで隠されますか?」

「……」

 

 

筆を置くしかなかった。

 

 

「何か、ご用でしたか」

「本日の軍議のことにございます。内容は母上から伺いました」

 

 

宗茂殿は、文机の向かいに腰を下ろした。

具足の草摺が、畳に触れて、からりと鳴った。

 

 

「惟将殿。あの場で、何が見えましたか」

「顔です。僕が鶏肋の話をした時、誰が、どういう顔をしたか。怒った顔をした方が、七人。困った顔をした方が、十一人。そして、ほっとした顔をした方が、四人おられました」

「ほっとした、顔」

「その四人が、四人とも、明らかに飯を減らしておられる隊の将でした。つまりあの方々は、退きたがっている。僕が『退け』と言わずに『誰のものにもしない』と言った時、その四人だけが息をつきました。退く口実が、できたからです」

 

 

宗茂殿の目が、板の上の名と、僕の顔とを、行き来した。

 

 

「それは、何を見れば分かるのですか」

「息です」

 

 

断言する。

 

 

「人は、呼吸なしでは生きられません。だから息と心の状態は繋がります。緊張をもたらす要因から解放されると、人は息をつきたくなるのです。だから、気づかず息を吐きます。顔は作れます。声も作れます。ですが、息までは、なかなか作れません。具足を着けている時は、なおさらです。息を吐くと、胴が沈んで身体が揺れます」

 

 

宗茂殿は下を向いて、息を吸って、吐いた。

自分の具足が動くさまを、確かめるように。

 

 

「惟将殿」

「はい」

「明日、共に前へ出ていただけませぬか」

「前ですか」

「宗麟様より物見を仰せつかっております。此度は門司の手前、毛利の陣を遠くから見るだけにございます。争いはいたしませぬ。ですが」

 

 

黒漆の胴の上で、指が組まれた。

 

 

「陣は、惟将殿が見る。見つけたところを、わたしが突く。そう仰いました。ならば、まずは見る場所まで、わたしがお連れいたします」

 

 

心が、嫌がった。

前線の、もっと前へ。

敵地へ、僕らだけで。

 

僕は笑顔を作った。

宗茂殿に師だと頼りにされて、僕が僕の意思で約束したことを、違えるのは僕が許さない。

 

 

「無論です。僕が見る分は、お任せください。陣の形は、槍の目で見る人の方が、きっと早い。だから、二人で見ましょう」

 

 

宗茂殿が、すっと立ち上がった。

行灯の明かりが遮られて、文机の上に大きな影が落ちる。

その影の中に、手が差し出された。

 

 

「では、参りましょう」

 

 

明日の話では?

 

 

「今からにございます」

「え」

「夜の方が、竈が見えまする。火が、見えますゆえ」

 

 

言い返す言葉が、どこにもなかった。

差し出された手をひたりと取ると、僕はすっと引き起こされた。

まるで庇護するべきひな鳥でも持ち上げるように。

 

 

「加減を、覚えられましたね」

「惟将殿の、ためですので」

 

 

真顔だった。

 

 

◇

 

 

支度をした僕は、陣を出て、宗茂殿が待つ馬のところまで来た。

供回りは僅か。宗茂殿も供回りも皆、馬に騎乗していた。

それ以外の馬が見当たらない。

 

 

「宗茂殿。僕の馬は」

「ございませぬ。道中と同じにございます。惟将殿が、前。わたしが、後ろ」

「今夜くらい、自分で」

「はっはっは、ご冗談を」

「真顔で言わないで。すごく傷つく」

 

 

でも観念した。

いまはまじめな仕事の話だ。

 

 

「お願いします」

「はい」

 

 

腰を、両手で掴まれた。

次の瞬間には、鞍の上に置かれていた。

背後で、鐙を踏む音がした。

後ろから腕が回ってきて、僕の両脇を通り、手綱を取った。

ここまでは、六日間と同じだった。

 

 

「……」

 

 

今まで背中や頭に当たっていたのは、黒漆の胴の、冷たくて硬い板だった。

今、頭に当たっているものは、違った。

いつの間に外したのか、胴は鞍の脇に括りつけてあった。

小袖一枚を隔てて、柔らかくて、あたたかいものが、頭いっぱいに当たっている。

というかほぼ乗っかっている。

 

 

「宗茂殿」

「はい」

「近いです」

「はい」

「だめです」

「なぜ、だめなのでしょう」

 

 

本気で聞いていた。

背中越しに伝わってくる声が、少しも揺れていない。

 

 

「あの、その、当たっております」

 

 

宗茂殿が首をおろしてくる気配を感じ、僕の耳のすぐ後ろで、息がひとつ、ふっと笑った。

 

 

「当てているのです」

 

 

馬が、歩き出した。

 




そろそろストック切れそう……
7時に投稿できなかったら、ストック切れたと思ってください。
念のため活動報告で、執筆状況の進捗を上げておきます。



少しずつですが、登録や評価してくれる方がいらっしゃるのが、とても嬉しいです。
感想をこっそりでもいただけましたら、投稿の励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。