阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~   作:NoRAheart

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感想、評価、とてもありがたいです。
引き続き、頑張ります。


10話

洗い上げに五日。裏取りに、さらに五日。

申し上げた通りの十日だった。

その十日、僕は兵糧蔵から一歩も出ていない。

 

謹慎の身である。

表を歩けば、香月様の芝居が台無しになる。

蔵の隅には、まだ、壺を並べた跡が丸く残っていた。

あの夜、砕いた骨の粉の手触りが、指の腹から抜けない。

抜けないまま、控えを繰った。

繰っていれば、考えずに済む。

 

洗い上げ、探りの手段は、単純である。

陣中の酒は、勝手に飲めるものではない。

各隊に割り当てがあり、受け取りに来た者の名が、控えに残る。

その控えを預かっているのが、今の僕のお役目の一つである。

 

そういえば僕、今いくつお役目持っているだろう。

ええっと、兵糧奉行に小荷駄奉行。

陣内の探りに、渉外に、軍師のまねごと……

うん、考えるのはよそう。

今は裏取りに集中しようと頭を振った。

 

控えを遡る。

遡って、受け取りの量を、名前ごとに並べた。

そこまでは、誰でもできる。

問題は、その先である。

 

受け取りが多い者が怪しいというわけではない。

酒をよく飲む男はどこにでもいる。毎日たくさん飲む男はただの酒飲みだ。

怪しいのは、毎日は飲まない男が、ある日だけたくさん取りに来る時である。

並べた数の中で、そこだけが、ぽこりと浮く。

外れ値だ。

見たのは、その浮いた日だった。

軍議のあった日の、翌日か翌々日。

その日に限って割り当て以上を取りに来る者が、七人いた。

己の酒ではない。

飲ませるための酒である。

 

七人のうち、五人は、他の隊の陣屋に近い場所で飲んでいた。

これも、それだけなら、よくある話である。

隣の隊の者と飲む。

当たり前だ。

 

ところが、五人のうち三人の名を並べたところで、筆が止まった。

三人が、別々の隊の差配役を預かる役職者。

僕はその三人にあたりをつけた。

 

そこから五日は、道雪のおばあ様の手の者をお借りして、裏取りに充てた。

するとその三人と飲む相手が、決まって同じ一人だった。

最後の調べがついたとき、蔵の天窓から差す光がもう朝の色になっていた。

 

 

◇

 

 

「おばあ様。三人にございます」

 

 

十日目の夜、道雪のおばあ様の陣屋に、板を抱えてこっそり訪れた。

謹慎の身なので、今夜も裏からである。

宗茂殿は相変わらず、僕の後ろで控えていた。

 

 

「その三人が、それぞれ別の隊の何かしらの差配を預かっております。そして、三人とも、同じ一人と飲んでおります。この者は、どの隊の名簿にも載っておりませぬ」

「名簿に載らぬ者が、陣屋を渡り歩いて酒を飲むか」

 

 

おばあ様の扇の先が、板の上の一つの名を叩いた。

 

 

「陣夫じゃな」

「はい」

 

 

陣夫とは、荷を運ぶために雇われた人足のことである。

武士ではない。

兵でもない。

だから、誰の名簿にも載っていない。

 

 

「荷を運ぶ役にて、各隊の陣屋を回れます。回っても、誰も怪しみませぬ。荷を運ぶ者が陣屋に出入りするのは、当たり前にございますゆえ。そして、荷を運ぶ役は、陣の外にも出られます」

「その者、いつからおる」

「一番古く、しっかりと裏取りできた限りでは、去年の暮れからにございます。去年の負け戦の後、豊前の国人衆が毛利に文を出し始めた、その頃と重なります」

「草じゃな。毛利の」

「はい。三人から聞いた話を、荷と一緒に陣の外へ運んでおります。三人は口で、この者が足にございます」

 

 

枯れた指が、板の上の名をなぞった。

なぞっては戻り、また、なぞった。

指先が、憎たらしいと明らかに語っている。

 

 

「押さえるのは、四人か」

「いいえ。差配役の三人と、それから」

 

 

板を、一枚めくった。

続きに目をやる。

 

 

「この三人の下に、さらに十一名おります。差配役が動かすには、手足が要りますゆえ。荷を止めるにも、人を動かすにも、実行役が要ります。合わせて十四名にございます」

「陣夫が、入っておらぬな」

「陣夫は、押さえませぬ」

 

 

おばあ様の指が、板の上で止まった。

止まって、しばらく動かなかった。

 

 

「……押さえて晒せば、事情を知らぬ多くの陣夫が震える、か」

「はい」

 

 

先に、言われた。

 

 

「われらの活動に、陣夫は少なからず―――いえ、多くの陣夫が要ります。彼らにとっては日銭を稼ぐだけのこと。くだんの陣夫が毛利の手の者であることなど知ったことではありません。その人たちが見るのは陣夫が一人、大友に捕まって斬られたという事実だけです。草だったかどうかなんて、晒された首に書いたところで読めぬ者もおります。その者らは、必ず当方を恐れまする。それに他にも潜んでいる草がいるなら、その者らには、繋ぎが捕まったと知らせることになります」

「では、どうする」

「一斉の前の日に、あの者には遠くへの荷を割り振ります。山越えの道です。道中には、崖もあれば、渡しもございます」

 

 

そこで、言葉が切れた。

切れた先を、おばあ様は待たなかった。

 

 

「荷を背負うた人足が、運悪く足を滑らせる。見つかるのは、何日も後。大友の手が触れた跡は、どこにもない」

「……はい」

「草は、運の悪い草で終わる。毛利も、そう思うほかない」

 

 

おばあ様の扇が、膝の上で、静かに閉じた。

 

 

 

「ここまででよい。この先の些事は、儂の方で片を付けておく」

 

 

◇

 

 

一斉検挙は、その三日後の真夜中に実行された。

 

場所は、陣の五箇所に分かれていた。

道雪のおばあ様が采配を振り、立花隊と高橋隊が動いた。

僕は、その場にいなかった。

いる意味がなかったからだ。

 

陣屋で、行灯の油が尽きるのを眺めながら、待っていた。

明け方、聞き慣れた重い足音が戻ってきた。

垂れ幕をくぐってきた具足には、返り血が一滴もついていなかった。

僕は息を吐いた。

その姿が、結果を何より雄弁に語っていた。

 

 

「惟将殿。十四名、押さえましてございます」

「全員ですか」

「全員にございます。一人も、逃しておりませぬ」

 

 

胸の底から、長い息が出ていった。

出ていった息と一緒に、背骨から何かが抜けた。

 

 

「よかった」

「惟将殿。なぜ、そのようなお顔を」

「一人でも逃げたら、毛利に伝わります。伝われば、あちらは次の手を打ちます。次の手を打たれたら、こっちはまた洗い直しです。もう一回。次は巧妙になります。もっと時間がかかります。その間に、誰かが死にます」

 

 

◇

 

 

謹慎が解けたのは、その日の昼である。

香月殿が兵糧蔵に来て、喉に手を当てて、咳を一つしてみせた。

 

 

「沙汰を申し渡す。阿蘇、謹慎を解く」

「早くないですか」

「内応の疑いのある者らを調べ上げ、捕らえた手柄の第一の功は阿蘇殿だ。まだまだやってもらわねばならぬことも多い。知恵者を蔵に閉じ込めておく余裕は、この陣にはないわ」

 

 

それだけ言って、香月殿は、出ていきかけた足を止めた。

 

 

「横腹は、もう良いか」

「おかげさまで、まだ痛いです」

「冗談が言えるなら大丈夫じゃろ?」

「左様ですな」

 

 

ふたりでしばらく笑い合って、頷いて。

香月殿は今度こそ出ていった。

 

 

◇

 

 

紹運殿が兵糧蔵に来られたのは、二日後の昼だった。

供は連れていなかった。

宗茂殿だけが、その一歩後ろにいた。

 

 

「阿蘇殿。陣夫の件に関して報告いたしますわ」

「はい」

「始末は済ませました。高橋の者を三人、人足として、あの者の列に混ぜて実行いたしました。露見はありませんわ」

「結構―――ああ。大友家中の規則にて、荷運びの途中で死んだ人足の家には、陣の決まりで見舞いがありましたな。それは従来通りに出してください」

 

 

探りの口実かと聞かれたので、僕は頷いた。

偶然露呈した形ならば、草の落ち度だと思うし、他の陣夫らも公に探るこちらを妥当だと思ってくれることだろう。

 

 

「十一名の処遇はどのようになりましたか?」

「主要の三名以外の十一名は追放。所領も家も取り上げて、豊前から出します。阿蘇殿のご要望通りに」

 

 

うんと、僕は紹運殿の言葉をよく嚙み締めた。

その沙汰は、僕の言葉が決めたものだ。

 

 

「通していただき、ありがとうございます。正直なところ、下の者はただ言われたことを全うしていた可能性があります。しかし京のご沙汰が届く前に露見するのは避けたい。また、処分が軽ければ家中は納得しません。ギリギリ皆様には、これが許容いただけるラインでしょう」

 

 

紹運殿は、積まれた俵の山に目をやった。

 

 

「阿蘇殿らしい理屈ですね」

 

 

褒められたのか、そうでないのか、分からなかった。

 

 

「差配役の三人は」

「斬首です」

 

 

間を置かずに返ってきた。

 

 

「切腹ではないのですね」

「腹を切らせるのは、武士の誇りを許すということです。敵に通じて、味方の荷を止める支度をしていた者に、許す誇りはございません。止める筋も、ございませんでした。止めれば、次に通じる者を止められません。阿蘇殿も、それは承知の上で洗われたのでしょう」

「はい」

 

 

紹運殿の目が、俵から僕へ戻った。

府内の屋敷で、一度向けられたことのある目だった。

戦場に立つ人が、相手の陣の薄いところを探す時の目である。

 

 

「くだんの陣夫が死んだと報せが来たら、阿蘇殿は、驚いた顔をなさってください」

 

 

唐突なアドバイスに、息が、喉を詰まらせた。

 

 

「驚かねば、運が悪かっただけには見えません。陣夫一人の死に眉一つ動かさなかったと誰かに知れれば、策が露見します」

「……わたくしが殺せと命じました。わたくしが差配役の三名も殺せと命じました。わたくしが無実かもしれない十一名の生活を奪いました。すべては勝つため」

 

 

であるからして、『わたくし』は最後までやる義務がある。

 

 

「できますか」

「できます」

 

 

紹運殿は、僕の顔をしばらく眺めていた。

彼女はとても残念そうな顔をなされた。

 

 

「そう」

 

 

それきり、その話を閉じた。

閉じて、紹運殿は立ち上がった。

 

 

「……一つだけ、申し上げておきます」

「はい」

「宗茂殿を、どうかお頼りいただけませんか」

 

 

振り返らずに、紹運殿は、宣った。

 

 

「貴方はまだ、為政者になってはいけません」

 

 

ふさわしい方だから。と。

 

それだけ言って、紹運殿は蔵を出ていった。

宗茂殿も一礼して、その後を追った。

追う前に、宗茂殿は一度だけこちらを見た。

何か言うかと思ったが、言わなかった。

 

 

◇

 

 

僕は陣夫が亡くなったとの報せを聴いた。

中津へ向かった荷運びの列のうち、陣夫が一人、山越えの渡しで足を滑らせて川に落ちたという。

落ちた三日後に、下流の淵で見つかった。

荷は、背負ったままだったと。

「運の悪いことだ」と、報せを持ってきた小荷駄の頭は言った。

僕は驚いた顔をした。

ちゃんとした。

とっても上手にできていたと思う。

 

 

◇

 

 

その頃から、毛利との「やり取り」が始まった。

戦ではない。

小競り合いは、確かに時折あった。

物見が鉢合わせて矢を射かけ合う程度である。

本格的な攻めは、どちらも仕掛けてこなかった。

 

代わりに、手が飛んできた。

こちらも、返した。

順に書き出すと、こうなる。

 

一つ目。

毛利方が、豊前の村に触れを出した。

『大友方に物資を融通するな』

『さもなくば、焼く』

恐怖政治である。

ならばと、こちらは同じ村に触れを返した。

『融通しなくともよい』

『また、「無用な戦」で迷惑をかけているのは、毛利を跳ね返せぬ当家に責があるため、来年の年貢を一割引く』

融通しなければ、村は毛利に責められない。

こちらは荷が減るが、年貢の一割で村の心を買い戻したことになる。

大友家に銭を出させる話である。

道雪のおばあ様を除く三老の方々が渋った。

 

 

「いま一割引かねば、来年は十割。もしくは永遠に入ってこぬものかと」

 

 

そう申し上げて、通した。

 

二つ目。

毛利方が、こちらの水の手を探り始めた。

苅田の陣は、井戸と川に頼っている。

上流を押さえられれば、干上がる。

気づいた夜は、さすがに血の気が引いた。

だが、上流は山である。山には、村がある。

だから僕は、その村に塩を配った。

山の村は、塩が乏しい。

海から遠い村では、塩一升が米より重く扱われる。

配って、水を汚す者がおれば教えてほしい、と頼んだ。

するとしばらく後に、村の者が見慣れぬ三人を縄で括って連れてきた。

 

三つ目。

毛利方が、こちらの陣に流言を入れた。

『大友宗麟は、既に退く肚を固めておる』

これは半分本当だった。だから厄介だった。

どうやって潰すか、とても悩んだ。

悩んだ末に、潰さないことにした。

代わりに、こう流し直した。

『大友様は、退く肚を固めておられる』

『ただし、門司を毛利に渡さぬ手を打ってから退かれる』

嘘ではない。

嘘ではないが、どういう手かは、誰も知らない。

知らないから、憶測が飛ぶ。

憶測が飛べば、毛利方にも届く。

届いて、毛利方の兵は、『大友は何か持っている』と考え始める。

考え始めて、勝手に陣内で相談し合う。

相談しあえば、兵が自分の旗の色を気にし始める。

 

 

「惟将や。そなた、味方を謀って、敵を貶めるか」

 

 

この手を申し上げた時、おばあ様は、目をぎらぎらとさせていた。

怖いなぁと思うも、新しいおもちゃを見つけた子どものような反応に、僕は嬉しくなる。

長生きしてほしいものである。

 

 

「謀っておりませぬよ、おばあ様。本当のことしか申しておりませぬ」

「本当のことを、都合よう並べておる」

 

 

うん。

そこは、認めるしかなかった。

 

 

「それは、謀ると申すのじゃ」

「ではわたくしを、叱責なさいますか?」

 

 

扇が、ゆっくりと開ききった。

開いた扇には、達筆な文字で『あっぱれ』と書かれていた。

その向こうで、おばあ様の目が、愉しげに光っていた。

 

 

「よい。儂の前でだけは、その顔をしておれ」

 

 

◇

 

 

そんな風に目立った争いはなく、毛利方の策をはねのける一方で、僕は宗茂殿に鍛えられていた。

言い出したのは、宗茂殿の方。陣夫の一件の後に誘われた。

「教わるばかりでは釣り合いませぬ」と、手を引かれた。

「師の身を守る術を授けるのも、弟子の務めにございます」とも。

 

断る選択肢がなかった。

断ろうとしたら、宗茂殿はなんだか今すぐ泣き出しそうな雰囲気を醸し出していたからだ。

あんな顔をされたら、誰がいったい断れるだろうか。

 

鍛錬を行うのは、毎朝日の出前である。

最初に教わったのは、受け身だった。

槍でも刀でもなかった。

上手な倒れ方だった。

 

 

「惟将殿はまず、倒れても死なぬようになっていただきます。戦場で、押されて倒れる。落馬する。斜面を転がる。そのいずれでも、頭を打たねばたいてい生きております」

 

 

理屈は、よく分かった。

しかし分かったと告げたとたんに、僕は宗茂殿に地面に二百回ほど叩きつけられた。

容赦ない。

 

 

「宗茂殿。ぼく死んじゃいます」

「死にませぬ」

「死んじゃいますって」

「では、あと五十」

「なんでー」

 

 

容赦がなかった。

稽古の間、宗茂殿はいつもより、より一層口を閉じていた。

喋らずに、僕の体を叩きのめす。

叩きのめした後は、僕の身体をペタペタと触っていった。

腰を回して、足の位置を直して、顎の角度を指一本で上げる。

直す時の手は、恐ろしく丁寧だった。

丁寧なのだが、まれに悪寒を感じた。

なんで悪寒を感じるのだろう?

背中に手を当てて姿勢を直す時、この人は、まったく躊躇しない。

躊躇しないので、こちらがたびたび固まった。

固まると、こう言われる。

 

 

「惟将殿。力が抜けておりませぬ。柔らかく在らねば、固くしているところで怪我をします」

「はい。理屈は分かります」

「ならなんで力を入れておられますか。力が入っているのはどこですか」

「言うまでもなく、全身です!!」

「ない胸を張って、言われても」

 

 

……今なんと?

気のせいかな、空耳かなと思っていると、宗茂殿が大きく息を吐かれた。

 

 

「致し方ありません。抜きまする」

 

 

言うが早いか、襟の後ろから背にずぽりと手が差し込まれ、大きな掌が僕の背中の真ん中を、ぐっと押した。

 

 

「ひゃん」

 

 

手の冷たさに、思わず変な声が喉から漏れた。

僕は思わず口を手で塞いだ。

 

 

「……凝っておられまするな」

「そうですか」

「では今日から毎夜、就寝の際には部屋に寄らせていただきます」

「えっ、なんで?」

「抜きまする。硬いままでは惟将殿が困ります」

「やめてください。なんか言い方が怖いです。あと手をわきわきとさせてにじり寄ってこないで」

「やめませぬ。凝ったままでは、私が困ります」

「僕の方が困ります!!」

 

 

◇

 

 

十日目の夕方、府内から荷が一つ、陣に届いた。

大友館に届いた僕宛ての文を、館の者が兵糧の荷にまとめて回してくれたのである。

中に文が一通、入っていた。

差出人の名を見て、封を切りかけた指が止まった。

 

木下藤吉郎。

府内の市で、墨俣の噂を聞いて、書いた相手だった。

返事は要らないと書いた。

返事がなくとも恨まないと書いた。

書いて、行商に託して、それきり。

半ば忘れていた。

その返事が、苅田の陣まで追いかけてきていた。

陣小屋の隅に座って、柄にもなく急いで封を切った。

 

字が、汚かった。

大きさが揃っていなかった。

行が、右へ左へうねっている。

墨が、ところどころ溜まって、滲んでいる。

 

少し後悔した。

向こうは農民出のお方で、まだ身分は低い。

文字にも難儀されているご様子である。足軽組頭に祐筆なんぞ、いるわけもない。

更には紙も希少だ。それなのにわざわざ一枚の紙いっぱいに文を書かれた。

僕の短慮が、そうさせた。

 

でも、手紙の中身を見て、僕の中にあった自責の念が薄れた。

手紙には、こう書いてあった。

 

 

『字が汚くて、すみません。ちゃんと習っていないもので』

 

『お察しの通りです。城を建てたのは、川並衆の皆さんです。わたしは、頭を下げて回って、川並衆の皆さんが動きやすいようにしただけです。だから、褒めるなら、そちらを褒めてください。皆さん、お文を読んで、とても喜んでおられました』

 

『もし、ご迷惑でなければ、また、お文をいただけると嬉しいです』

 

 

文を膝に置いて、陣小屋の外の夕焼けを眺めた。

北の海の向こうに、門司の岬が霞んでいた。

その上に、毛利の旗が、小さく並んでいる。

 

更にその向こうには、未来の関白殿下。

 

 

「―――つながった」

 

 

その夜、灯りを引き寄せて、文を二通書いた。

一通は、木下藤吉郎殿に。

字は、まっすぐで、読みやすうございます、と書いた。

事実、文字は汚いが、読める字だった。

読ませようとして一生懸命書いた字だった。

 

もう一通は、宛名を別にした。

木曽川並衆の方々にだ。

上流で伐った木は、何日で中州に着くのか。

筏を組む時、何本で一組にするのか。

流れの速い瀬では、どうやって筏をほどかずに渡すのか。

知りたいことを、全部書いた。

それで充分、話が通じると思った。

書いている途中で、戸口に影が差した。

明日の稽古の刻限を伝えに来たらしい宗茂殿が、戸口に立ったまま、僕の手元の二通を見ていた。

 

 

「惟将殿。陣中で、文ですか」

「はい。個人的なものですが」

 

 

宗茂殿の目が、宛名の上で止まっていた。

 

 

「木下、藤吉郎殿。大友の家中では聞かぬ名です。どちらのご家中の方でございますか」

「美濃です。尾張の織田家の、足軽の組頭だそうです」

「川の中に一夜で城を建てたという、噂の」

「ちなみに建てたのは、本人じゃなくて、川をよく知る人たちだったそうです。手柄を一人自分のものにしないところからして、良い御仁であるとうかがえます」

 

 

宗茂殿の手が、戸口の柱に置かれた。

柱の木肌を、指の腹が、ゆっくりとなぞっていた。

 

 

「その方は、殿方で、ございますか」

 

 

筆が、止まった。

考えてみたが、答えは出てこなかった。

 

 

「分かりません。文字しか、知らないので。さらに言えば、まだ一通だけのやり取りです」

 

 

膝の上の、木下殿の文を持ち上げて見せた。

 

 

「でも、一生懸命読ませようとして書いていただいた字です。とてもうれしいのです」

 

 

宗茂殿は、その文を見ていた。

見たまま、ぽつりと言った。

 

 

「おなごですな」

「……なぜお分かりに」

「女の勘です」

 

 

それだけ言って、宗茂殿は戸口から半歩、下がった。

 

 

「明日の稽古は、日の出の、半刻前にございます」

「いつもより、早くないですか」

「……」

 

 

「おやすみなさいませ」といって、戸が閉まった。

閉まった戸の木目を、しばらく眺めていた。

なんだか少し不機嫌そうに見えた。

 

ふと、先ほど宗茂殿が指でなぞっていた柱を見た。

その部分が、すこし抉れているように見えるのは気のせいだと信じたい。

 

 

◇

 

 

ある朝、稽古の後で、宗茂殿が手拭いを差し出しながら聞いた。

 

 

「惟将殿。一つ、伺ってもよろしいですか」

「どうぞ」

「毛利の手を、次々に潰しておられます。触れも、水の手も、流言も。楽しゅうございますか」

 

 

汗を拭く手が、止まった。

 

 

「宗茂殿。それ、どういう意味ですか」

「そのままの意味にございます」

 

 

僕は心の内を整理して、答える。

 

 

「楽しくはないです。でも、向こうの謀りで人が害されるのであれば。それを阻止できた時には、当方に被害が出ないで良かったという、安堵に似た感覚を覚えないというのは嘘になります」

「では質問を変えます」

 

 

貴方の策で、人が死んだとき、何を思いましたか。

 

 

「なぜ、それを聞きますか」

「惟将殿。わたしはまだ、人を斬っておりませぬ。稽古はおこなってきましたが、初陣にございますゆえ。ですから、惟将殿のお気持ちを量れませぬ」

 

 

嘘のつけない人の、嘘のない言い方だった。

だから、僕は正直に答えた。

 

 

「覚悟はなされた方がよろしいかと」

 

 

◆小早川隆景◆

 

 

安国寺恵瓊が、阿蘇家の調べを持って、隆景の元に戻った。

部屋に入るなり、恵瓊は書付を床に広げた。

 

 

「殿」

「なあに」

 

 

小早川隆景は、床に寝転がったまま答えた。

尾が、ぱたぱたと床を打っている。

機嫌は、最高によい。

 

半月ほど前、苅田の陣に入れていた手が、一晩で消えた。

差配の層に、去年から沈めてきた手である。

十四人が、一人残らず、同じ未明に押さえられた。

繋ぎに使っていた陣夫だけは、押さえられずに済んだ。

その前の日から、中津への荷運びに出ていたのだという。

済んだのに、運がなかった。

山越えの渡しで足を滑らせて、下流の淵で見つかったと聞いた。

運の悪い草も、いるものだ。

 

ともかく、どこから漏れたのかは、いまだに分からない。

一人ずつ消えたのなら、消えた順を辿れる。

一度に消えては、辿る糸がない。

 

骨の件も、何も起きなかった。

名の札と中身の合わぬ骨を、数合わせに混ぜて返した。

いずれ遺族の誰かが気づく。

気づけば、骨を取り返したはずの大友を恨む。

陣の内から、勝手に割れる。

そういう手だった。

しかし隆景がたくらんだものは、何一つ実を結ばなかった。

何も、何もである。

 

返した骨は、受け取ったその日のうちに、すべて砕かれて、壺に収められたという。

そして、それからの半月、打つ手が全部返されている。

触れも、水の手も、流言も。

特に、流言が痛かった。

こちらが流した「大友は退く」が、いつの間にか「大友は門司を渡さぬ手を打ってから退く」に変わって戻ってきた。

しかも、その「手」が何かは、誰も知らない。

知らないものには、備えられない。

 

隆景は最高の気分であった。

これほど策が上手くいかなかったことはないのだから。

 

 

「阿蘇の調べにございます。所領、肥後阿蘇郡ならびに矢部。兵は千五百」

「知ってる」

「家格は、国人にございます。阿蘇神社の、大宮司家」

「それも知ってる。恵瓊が、会った日に言ってたにゃ。それより、姫子の方にゃ。年は?好きなものは?嫌いなものは?なんでもいいからはやく教えるにゃ」

 

 

隆景が、寝転がったまま、尾の先で床をとんとんと叩いた。

恵瓊は、書付の、次の行を読もうとした。

読もうとして、口が開いたまま、止まった。

 

 

「恵瓊?」

「……殿」

「なあに」

「阿蘇惟将殿は、阿蘇家の嫡男にございます」

「うん。嫡子でしょ。知って―――」

 

 

隆景の尾が、止まった。

 

 

「男にゃ?」

「男子にございます。間違いなく。湯殿を覗いた者がおりまして」

「覗いたの!?」

「覗かせました」

「裸体の写しは!!」

 

 

恵瓊は、隆景のたわごとを無視して、書付を持ったまま天井の隅を見た。

馬上で、姫子め、と呻いた己の声が、耳の奥に蘇っていた。

供の者たちの前で、姫子、姫子と、何度口にしたか分からない。

 

 

「拙僧、しかとあの御仁を見ておりますが。あの日、あの方を、ずっと姫子と思うておりました」

「あっはっはっはっはっ!!」

 

 

本当に、本当に飽きさせない。

隆景の惟将へのハードルがまた上がった。

 

 

「それと、もう一つ。大宮司家というものが、どこまで届くかを、拙僧は測っておりませなんだ」

 

 

隆景の耳が、ぴくりと動いた。

 

 

「大宮司。神社にゃ」

「左様。神職にございます」

「ふうん」

 

 

ごろり、と寝返りが打たれた。

 

 

「で?」

「あの方の父君の代に、朝廷より、従二位を賜っております」

 

 

ぱたぱたと床を打っていた尾が、宙で止まった。

止まったまま、下りてこなかった。

 

 

「え。え、待って」

 

 

隆景が、身を起こした。

 

 

「従二位って、ほんとぅ?」

 

 

恵瓊は、答えなかった。

答えられなかった。

毛利家の当主が朝廷から得ている位は、それよりずっと下。

従五位下、大膳大夫である。

 

 

「えっ。えっ、肥後国人の家が、うちより位が上なのにゃ!?」

「位と、力は、別にございます。古い家ゆえ、位だけが残っておりまする。兵はなく、銭もなく、ただ位だけが―――」

 

 

言いながら、恵瓊の目が、もう一度書付に落ちた。

落ちたまま、顔から血の気が引いていった。

 

 

「殿」

「なあに」

「拙僧、思いつきましてございまする」

「奇遇ね、私もよ」

「京に、文が出せまする」

「朝廷か、幕府を巻き込むつもりだわ」

 

 

隆景が、跳ね起きた。

 

 

「阿蘇家は、朝廷と、伝手があるとします」

「では、大友家を通さずとも、京に物を申せまするな」

「大宮司家の者が、朝廷筋に文を出すのは、僭越にあたらない」

「神職の筋にございますゆえ。位もございます」

 

 

恵瓊の声が、掠れていた。

隆景は、聞きながら、地図の前に膝で這っていった。

小さな指が、ぺちと、京の上に置かれた。

 

 

「恵瓊。あの小僧が、鶏肋って言ったの、いつにゃ」

「四十日ほど前かと」

「文は、いつ出したと思うにゃ」

「鶏肋を申した、その日か、翌日かと。つまりあれは、退く算段を口にした場にございます」

「じゃあ肥後から京まで、何日にゃ」

「阿蘇からであれば、二十日ほど」

「でも、あのお方、豊前にいるにゃ」

「豊前からであれば、十五日ほどかと」

「往復で三十日。彼が持っている筋は直接の嘆願はできない。もっとも確実に話を通すならば、縁がある社家から公家、公家から幕府。それぞれ日数が要る」

 

 

指が、一本ずつ折られていった。

 

 

「十日。遅くとも十五日。おおよそ五十日」

 

 

恵瓊が、息を呑んだ。

 

 

「殿。本日で、四十日にございます」

 

 

隆景が、顔を上げた。

その顔から、いつもの間延びした空気が、すっかり消えていた。

 

 

「恵瓊。あと、十日。早ければ、十日で御沙汰が届く。届いたら、終わりよ。公方様の名で通交を定められたら、こちらは門司を持っていても、海の利を独り占めできない。城だけ残って、銭が入らない」

 

 

小さな拳が、地図を叩いた。

 

 

「そんな城、いらない」

 

 

隆景は、立ち上がった。

 

 

「兵を集めて。全部よ。東に回してる分も、呼び戻して」

「殿。それは」

「五日以内に準備をし、残りの五日以内に、こちらの全力を当てる。それで半々の博打。万が一にも十五日かかるならば、東の軍団が間に合う。多方面作戦で苅田を叩く。御沙汰が届く前に、絶対に大友の陣を崩す」

「殿。お待ちくださいませ!!東が、空きまする!!」

「空く。空くけど、尼子はもう動けない。あっちは、内輪でごたつかせた。三月は動けない」

「なぜ、それを」

「謀ったの。こうなる気がして。わたしを誰だと思ってるの」

 

 

地図の上の指が、豊前を強く押さえた。

 

 

「恵瓊。東の軍団は呼ぶけどあてにしないように。ここにいる軍団だけで、賭けよ。五日で崩せたら、勝ち」

「崩せねば」

「負け。東が空いて、西も取れない。丸損よ」

 

 

尾が、一度、大きく振られた。

 

 

「でも。今動かないと、確実に負ける」

 

 

恵瓊は、深く頭を下げた。

 

 

「御意」

 

 

下げた頭を、そのまま上げずに、恵瓊は言葉を継いだ。

 

 

「殿。お気づきでございますか」

「何が」

「先ほどから、語尾が、消えておりまする」

 

 

隆景は、しばらく、何も言わなかった。

尾の先だけが、ひくりと動いた。

 

 

「知ってる」

 




次回、毛利戦決着
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