阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~ 作:NoRAheart
◆原田義種◆
なにか降ってきた。
それを原田と赤川はそれぞれの陣の中で見ていた。
それは霧の中から空を切って、重量のあるものであった。
どしゃりと、それが自陣の真ん中に落ちた。
それは人だった。人の、上の半分だった。
冷泉だった。
「ひっ!?」
原田は冷泉を頼りにしていた。
自分よりも優秀な人物であることは、これまでの冷泉の指揮から、知れていた。
だから全く、彼が死ぬなんてことは、原田の頭の中には毛頭なかった。
要領悪く、気弱であるため小さくなりがちな自分の言に、嫌な顔一つせずに二度話してくれる、とてもよい人だった。
それが袈裟斬りされた状態で、無残な死体で飛んできた。
空から降ってきたように錯覚した原田であったが、城から投げ捨てられたのは確かだった。
確かであったが、原田は怯えながらも、なんとか疑問を持てた。
門まで、どれほどあると思っているのかと。
弓でも届かない距離である。
なのに人が、空から降ってきた。
ありえない。
投げつけてきたのであれば、どんな怪力であるか。
「うぁああああああああ」
兵が、崩れた。
崩れたのは、前の列だけではなかった。
後ろの列は、何が降ってきたかを見ていない。
見ていないまま、前の列が叫んで逃げてくるのを見た。
見て、逃げた。
裏崩れだ。
「止まれ!!止まらねえか、てめえら!!」
隣の陣で、赤川が吼えていた。
特攻服の裾を翻して、逃げる兵の前に立ちはだかる。
釘バットが、唸った。
先頭を走ってきた兵が一人、頭を打たれて転がった。
二人目が、腕を打たれて転がった。
「逃げんな!!前向け!!冷泉の兄ちゃんの仇は、あの門の中だろうが!!」
三人目を打ち倒したところで、兵の誰かが叫んだ。
「『山の神さま』の祟りだ!!」
叫びが、叫びを呼んだ。
「冷泉様が言うておられた!!この山には、『山の神』がおる!!」
「門の上の巫女さまは、『山の神さま』のお使いだ!!」
「呪われてたまるか!!」
「どけ!!どけぇ!!」
赤川の前で、兵の流れが止まらなかった。
止まらずに、そのまま赤川の上に、兵がなだれ込んだ。
釘バットが一度だけ、人の頭の上に見えたが倒れ、それきり見えなくなった。
逃げる足が何百と、その上を通り過ぎていった。
「あ、赤川殿!!」
原田は叫んだ。
しかし叫んだ声は、なんの意味もなさなかった。
兵の流れが過ぎた後に、特攻服が、泥にまみれて落ちていた。
ぐちゃぐちゃになったその中身が、二度と動くことはなかった。
◇
散った兵を呼び戻すのに、一日かかった。
原田は、声が大きくない。背も高くない。
軍議では、いつも、言いかけたことを最後まで言えずに終わる。
その原田が、一日、陣の中を歩き回った。
逃げた兵を一人ずつ探し出し、一人ずつ眼鏡越しに顔を見て、なんとか人をつなげた。
「戻ってください。お願いします。赤川殿の隊も、わたしが預かります。お願いします」
怒鳴りはしなかった。
怒鳴れなかった。
ただ、何度でも、頭を下げた。
頭を下げる将の前で、兵は、ばつが悪そうに、一人、また一人と列に戻った。
一日かけて戻した兵に、もう一度門を見上げさせるのに、もう一日かかった。
その二日のあいだ、門は、開いたままだった。
霧が晴れても、日が暮れても、朝が来ても、開いたままだった。
中から、誰も出てこなかった。中から、何の音もしなかった。
開いた門の奥は、暗かった。
暗いまま、こちらを向いていた。
◇
三日目に、ようやく門をくぐった。
門の内には大友の兵は一人もいなかった。
いたのは、毛利の兵だった。
首のない骸が、門の内にずらりと並べられていた。
乱れていなかった。
一人ずつ、仰向けに、足を揃えて、同じ向きに並べてあった。
戦の跡ではなかった。弔いの跡でもなかった。
見せるために並べたのだと、並べ方が言っていた。
次はお前だと言っていた。
原田は、それを見て吐いた。
その並びの端に、冷泉の下の半分があった。
隣に、首のない桂が寝かされていた。
後ろで、兵がざわめいた。
「やはり『山の神さま』だ」
「神の門に踏み込んだからだ」
「首だけ取られたんだ」
ざわめきが、また、広がりかけていた。
「ち、違います」
原田は、言った。
言ってから、自分の声が、思ったより大きく出たことに驚いた。
「ここに『山の神』なんて、いません!!これは、人がやったことです!!」
『山の神』など、信じていなかった。
骸の首の切り口が、どれも、刃物の跡だった。
並べた者がいる。運んだ者がいる。足を揃えた者がいる。
人だ。
全部、人の仕業だ。
そう思った瞬間、はっとした。
人の仕業なのだ。
冷泉は、原田よりずっとずっと賢かった。
山の道で二日、罠を一つずつ見抜いて、兵を減らさずに麓まで来た。
夜の正面を読み、空城の計を疑い、斥候を出し、伏兵の音を確かめてから、門をくぐった。
桂も、原田よりずっとずっと強かった。
幾多の戦場を駆け抜け、兵をよく統率し、白髪の生える歳まで衰え知らずの猛者であった。
その二人が、首まで取られてここに寝かされている。
こうした者がいる。
殺した者がいる。
こちらの手を全部先回りして、門の内で待っていた者がいる。
それが、今、どこにいるのか。
原田は、ゆっくりと、首を巡らせた。
石垣。塀。櫓。本丸へ続く坂。
どこにも、人影はなかった。
なんで?
門の上の巫女は、どこへ行った。
三百はいたはずの大友の兵は、どこへ消えた。
消えたのではない。絶対にどこかに、いる。
今も、どこかから、見ている。
――――次は、自分だ。
冷泉が嵌められたのなら、自分なんて、もっと容易い。
この城に入ったのも、もしかしたら、入らされたのかもしれない。
門を開けたまま空にしたように見せかけているのも、七千ごと、私も含めて、この狭い山の上で絞り殺す算段かもしれない。
いやそんなことをしなくとも、私だけを殺せばいい。
なまじ将になるだけの賢さはあった原田は、中途半端な賢さがあったからこそ、疑心暗鬼が止まらなかった。
考えて考えて、それをやめられなかった。
眼鏡の奥で、目が、勝手に動く。
塀の影。坂の上。櫓の窓。
どこを見ても、そこに誰かがいる気がした。
「……退きます。今すぐ」
声が、震えていた。
「原田様?」
「退きます逃げますここは危ないです門司まで行きます!!」
「し、しかし、城は」
「し、城なんていりません!!こんなところにいたら、皆首を取られちゃいます!!」
「原田様!!?」
真っ先に走り出した原田の背を見て、兵たちが、顔を見合わせた。
見合わせて、それから、誰も逆らわなかった。
誰も、この城に、一刻も長くいたくなかったのだ。
原田は結果として、自分の手勢と赤川から預かった兵を残して、真っ先に香春岳を降りる形となった。
小早川様の下知も無視していた。
苅田にも、小倉にも、使いを出していなかった。
香春岳城の門は、開いたままだった。
◇
門司に逃げ帰った原田は、のちに捕らえられ、切腹を命じられた。
毛利の下知である。
ひとつ。
下知なく陣を引いたこと。
ひとつ。
預かった城を、取ったその日に捨てたこと。
ひとつ。
冷泉、桂、赤川の遺体を回収しなかったこと。
ひとつ。
香春岳を取ったその足で、小倉か苅田へ回っていれば、小倉は落ち、苅田の大友の横腹を突けたかもしれないこと。
それをせずに門司へ逃げ帰ったことが、門司の敗北を決定づけたとされた。
しかし切腹を命じられたはずの原田は、牢の中で、ほっとした顔をしていた。
「やっと眠れます」とだけ言って、それ以降口を一切開かなかった。
次に看守が見た時には座り込んで、眠るようにこと切れていた原田の姿であった。
睡眠障害を患い、心臓が持たなかったと見られている。
◆阿蘇惟将◆
宗茂殿の馬に、わたくしはまた一緒に乗っていた。
前にわたくし、後ろに宗茂殿である。
列は、ゆっくり進んでいた。
喋る者は、一人もいなかった。
蹄の音と、具足の擦れる音だけが、山道に続く。
そんな中で、わたくしは、ずっとぐるぐると考えていた。
自分の考えの足りなさに反吐が出ていた。
死んだ。わたくしの策で。人がたくさん死んだ。
阿蘇谷のためだと言い聞かせた。大友のためだと言い聞かせた。
けれども言い訳だろうと、『僕』がわたくしに指をさす。
本当にあの手しかなかったのか?
あの毛利方の被害を、もっと減らせたではないか?
そもそも衝突を避けられる手段が取れたのではないか?
怠慢を、恥じた。
『そもそも、戦を止めるには』
綴りに一筆入れた。
記憶するためだ。
どんなに荒唐無稽でも、わたくしが考えなければならないことだ。
そうでなければ、わたくしはどんな手を用いてでも、相手を貶める策を取る。
下策だ。こんなもの。
わたくしは断じた。
「惟将殿」
綴りを閉じて、しばらくのち。
無言であった宗茂殿が口を開いた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
背中の向こうで、息を継ぐ音がした。
「門の内で死んだ者の数を、ご存知ですか」
「知りません」
即答した。嘘だった。
香春岳城で亡くなったのは、百十一人。
毛利方が、百七。こちらは、四人。
その数を、昨夜のうちに数えた。
数えて、綴りに書いた。
「本当に、ご存知ないのですか」
「知りません。知っていても、宗茂殿には教えません」
「なぜですか」
「逆に聞きます。なぜですか」
「……」
「終わった戦に、将がむやみに数を気にしてはいけません。数を気にしては、次からは手が鈍ります。鈍ったら、もっと死にます。だから、数えてはいけません」
この人は、初陣である。
初陣で数を数え始めた将は、次から踏み込めなくなる。
踏み込めない将の下で、兵が死ぬ。
だから、言わない。教えない。
そう決めていた。
背後からの返事は、なかなか来なかった。
蹄の音だけが、続いた。
ふと背中に、重みがかかって、わたくしの体が後ろへ引かれた。
胴に、両腕が回っていた。
加減されためいいっぱいで、わたくしは腕に抱かれていた。
「宗茂殿?」
返事がなかった。
「宗茂殿、苦しいです」
「我らは」
やっと声を発して、しかしまた口をつぐんで、宗茂殿の腕がさらに締まった。
息を吸って、吐いて、そしてようやく続きが来た。
「我らはふたりで、一人前だと言ってくれたではありませんか」
震えていた。
腕が。
揺れていた。
声が。
あれほど心強かった武者が。
今は普通のお人に思えた。
「全部、数えておられます。そちらの綴りに」
「書いていませんよ」
「書いておられます。わたしはしかと見ております」
喉が、怯えを発していた。
「初陣でした。今更ながら、斬った者らの顔が思い浮かびまする」
「無理もないことかと」
「しかし惟将殿がいてくださいました。惟将殿の知恵で、わたしの槍と太刀は鈍らずに済み申した。惟将殿がいてくださったから。半身が惟将殿にあったから、わたしは無事でありました」
「そんなことはなかったかと」
「そんなことありました。ひとりであればきっと、あれこれと考えて、無事では済まなかったと思います。わたしの手柄の悉くは、惟将殿の言葉の上に立っておりまする」
宗茂殿の腕が、よりわたくしの身体を絞める。
痛いなぁと、わたくしは宗茂殿の腕をポンポンと叩く。
「なのに、知らぬと仰る。わたしに、数えさせぬために。わたしの手が鈍らぬように。わたしが、次に踏み込めるように。惟将殿の心は二の次にして」
返す言葉が、どこにもなかった。
前を向いたまま、揺れる馬の首を見ていた。
「香春岳で惟将殿が敵の将に斬られそうになった時」
腕が、また一段、締まった。
「わたしの半身が失われる思いでした。とても胸が張り裂ける思いでした」
「あの時は助かりました。とても怖かったです」
「嘘です。あの時の惟将殿は―――」
宗茂殿は言いかけた言葉をためらって、ついには言わなかった。
けれども、何が言いたいのかを、よくよく察した。
だから「よくないな」と、わたくしは思った。
紹運殿の言葉を思い出す。
「宗茂殿を、どうかお頼りいただけませんか」と言われたことを思い出す。
「惟将殿は、わたしの半身であります。今回だけとは言わず、これからも惟将殿を守りとうございます。ですからどうか―――」
でも、これは違う。
今の宗茂殿は、頼りにしてはいけない。
これは「依存」である。
だからわたくしは、これ以上この人の近くに近づいてはいけない。
わたくしは宗茂殿の腕をするりと抜けて、馬を降りた。
降りて、わたくしは畏まった。
「立花様におかれましては、此度の香春岳にて、毛利の先手の大将を討ち取られましたこと、まことに祝着至極に存じまする」
言葉遣いを改め、線を引きなおす。
驚く宗茂殿に、わたくしはただ平伏する。
「立花の御家にとりましても、大友の御家中にとりましても、これに勝る誉れはございませぬ。わたくしは大友家の人質の身。これ以上、立花様のお馬に相乗りさせていただくわけには参りませぬ」
「そんな」
「立花様の今後ますますのご武運とご活躍を、末席より、お祈り申し上げております」
そう言って、わたくしは宗茂殿の前から失せ、隊列の後ろに並びなおした。
酷く傷ついた宗茂殿の顔が一瞬見えたが、わたくしはなんら思うことはない。
宗茂殿。
そもそもです。
あなたを香春岳に連れてきたことからして、謀りでありますから。
だからあなたは、わたくしになにも思うことはなくて良いのです。
◇
苅田に戻ったのは、香春岳を出て二日目の夕刻だった。
陣の門をくぐると、兵糧蔵の前に、香月殿が偶々いらっしゃった。
ちょうどよいと思い、香春岳以外の戦線の話を伺った。
小倉には兵一万が迫り、紫川の渡しで、田原隊が四千の兵でそれを止めたという。
平地である。
一万に押されれば、ひとたまりもない。
田原隊は、あえて川を背に陣を張った。退く場所を自ら消し、死守の構えを取って相対したという。
二日目には小倉の外構えが破られた。三日目の朝には半数の兵を失い、それでもまだ持ちこたえていたそうだ。
一方の苅田の前には、小早川隆景自らが三千で出てきて、寡兵とは思えない用兵でかく乱してきたという。
押せば引き、引けば寄せる。昼は旗を振って誘い、夜は火を用いて惑わせた。
しかし道雪のおばあ様は、この一切に乗らなかったそうだ。
苅田の陣の前に見えない線を一本引いて、その線の上で、毛利の三千と睨み合い続けていたそうだ。
そこへ、香春岳の麓から引いた紹運殿が戻った。
紹運殿はおばあ様から後詰の兵を託されると、休む間もなく小倉へ急行した。
あわや全滅の危機にあった小倉を、横合いから押し返したそうだ。
どこの戦も、勝ちも負けもしないまま、止まっていた。
止まっていることが、大友の勝ちだった。
香春岳から引いて三日目の朝、毛利が空の香春岳に入ったと、おばあ様の手の者より報せが来た。
しかし香春岳を取ったはずの毛利方は、その日のうちに、何故か門司へ引いたそうだ。
報せを聞きながら、わたくしは、懐の綴りに着物の上から手を当てた。
香春岳の死者の死が無駄にならなかったとほっとした。
◇
御沙汰が届いたのは、その次の日の昼過ぎだった。
京から下ってきた奉行衆が、苅田の陣の広間で、宗麟様をはじめ居並ぶ諸将の前に、御沙汰の書を広げた。
『関門の海峡は、諸国の要路である。いずれの家も、往来の船を妨げてはならぬ』
『門司城の帰属については、公のものとする。どなたもこれを侵してはならぬ』
『よって大友、毛利の両家は、当地における戦を止めよ』
『背く者は、如何なるものであっても朝敵とみなす』
しばらくは静寂であった。
奉行衆の手前、誰も声を上げなかった。
皆が皆、膝の上で拳を固め、こみ上げる思いを堪えていた。
奉行衆が去って、やっと誰かが、大きく床を叩いた。
一人目が叩くと、二人目が「やった」と呟いた。
やがて広間全体から歓声が上がった。
上座の宗麟様が、鞭を高々と掲げていた。
わたくしは末席に座って、それを見ていた。
門司の戦いが、決着した。
◆小早川隆景◆
小早川隆景は、沙汰の件を、陣の中で聞いた。
小倉が落ちず、香春岳も連絡が途絶え、苅田はいくら挑発しても乗ってこない。
舐められて堪るかと、敵陣への突撃を試みようとする寸前であった。
「殿」
「にゃ」
「届きました」
「にゃぁ…………畜生にゃぁああああああああ!!!」
恵瓊が持ってきたその一言で、隆景には充分であった。
馬上から隆景は軍配を地面に叩きつけた。
隆景は馬からぽとりと降りて、部下の持ってきた床几に座った。
尾が地面に垂れて、しばらく天を仰いだまま動かなかった。
「小倉は? 十分な兵を与えたはずにゃ」
「あと一歩のところで高橋紹運が横合いに現れ、取れませんでした」
「香春岳は? 報告まめな冷泉から、連絡が来てないにゃ」
「討たれました」
「えっ、は?」
「冷泉が行軍記録を書かせていた近習が、先ほど記録を持ってまいりました」
「見せるにゃ」
冷泉から城にとりつく前までの報告は受けていた。
敵将は高橋紹運および赤髪の武者。
僅かな手勢、推測で三百ほどにかく乱を受けているが、行軍に支障なし。
これより夜陰に乗じて香春岳城にとりつくと。
その先の話を、隆景はパッと読んだ。
読んで、頭を抱えた。
「冷泉だけじゃなくて、桂も討たれて、赤川は味方に踏み殺されて、その上、原田が逃げてるにゃ」
「寡兵相手にそんなまさか」
「しかも向こうは、一騎も損なってないにゃ」
記録をもう一度、読み返す。
今度はちゃんと読んだ。
読み返して、隆景は首を傾げた。
また読み返した。
しかし「なあにこれー」と、頭が理解を拒否した。
「夜襲の看破。空城の計。謎の巫女。消えた大友の兵。ここまでは、まだ何とかわかるにゃ。でも死体が上から降ってくるって、何にゃ」
「死体をうえに投げたものかと」
「簡単にいうにゃ。そんな怪力いてたまるかにゃ」
「全くですな」
実際には宗茂の力技であったが、隆景と恵瓊には知る由もなかった。
しかし超常現象とは思わなかった。
他の策が、ふたりの中では説明がつくものであるため、これもまたトリックがあるはずだと理解した。
ただ、トリック自体は特に重要ではなかった。
それが及ぼした影響が、問題であった。
「どうやったかは分からないけれども、そんなことされたら、兵は門を怖がるにゃ」
「陣中では、『山の神』と申しております」
「『山の神』?」
「香春岳には山の神がおわし、神の門に踏み込んだ者は首を取られる。門の上の巫女は、その使いであったと。赤川殿を踏んだ兵も、そう叫んでおったそうにございます。七千の端まで、もう届いております」
「結果、三百の兵を一人も討ち取れず、こちらは七千の兵で香春岳を落とせず、少なくない損害を受けて、貴重な将を三人も損なったにゃ」
「左様にございます」
「ああ、もう、阿蘇惟将め」
隆景は、どこか嬉しそうに断言した。
恵瓊は唐突に出てきたその名に、特に驚きはしなかった。むしろ彼は首肯した。
冷泉の近習の記録に、その名はない。ないが、ふたりには香春岳の将が惟将であることの察しがついていた。
「紹運は小倉に見えております。香春岳の将であるという線はありませぬな」
「たぶん香春岳には遊軍と城の守備隊がいたにゃ。紹運が麓でかく乱して、時間を稼ぐだけ稼いで撤退したのにゃ」
「寡兵であるのに、それをさらに減らすのですか」
「おそらく香春岳に抜け道があるにゃ。ほんのわずかな。だから余計な兵を入れていなかったにゃ」
「赤髪の武者は立花宗茂ですな。元高橋家の若武者。優秀だと聞きまするが、こんな手を使う人物とは確かに聞きませぬ」
「というか、びっくりにゃ。まさか人質を将に据えるなんて、宗麟大胆にゃ」
「いえ、そこは異なるかと。据えられたのではなく」
「……自分から入ったにゃ? 絵を描いた本人が」
「左様にございます。あの方なら、そうなさいましょう」
「となると、狙いは、どこを取らせても損をさせることにゃ」
「香春岳を取っても、香春岳自体にうま味はなく、小倉や苅田だけ落としても香春岳が睨んでいる」
「まさに『鶏肋』にゃ」
隆景は肩を落とした。
隆景と恵瓊の完全な敗北であった。
「回し戸、どこも回らなかった。わたしはどこかが落ちることを期待した。でもその実、この期に及んで、欲張ってしまった。結果、小倉は落ちきらない、香春岳は遅れ、苅田の大友は挑発しても一歩も乗ってこなかった」
「殿」
「……引きます」
隆景が、立ち上がった。
「門司も、香春岳も、置いていく」
持っていても、門司はもはやただの岬。
香春岳は山城である。
なんら毛利に得することはない。
「恵瓊、お願いがあるにゃ」
「なんでしょう」
「阿蘇家に繋ぎを作っておいてほしいのにゃ」
「……なにゆえにございましょう」
「なんでって、もちろん求婚するためにゃ?」
「はっはっは、ご冗談を」
「……」
「ご冗談に、ございますな?」
暫くのち、隆景から阿蘇家へ幾度も惟将宛ての恋文が送られていたことが、後年の研究で判明している。
しかし惟将の妹の惟種が、これをすべて内々に処分していたため、隆景の手紙が惟将の目に触れることは一度もなかった。
◆阿蘇惟将◆
毛利が引き始めた。引き際が、恐ろしく綺麗だった。
荷を先に引かせ、兵を段に分け、後ろから順に下げていく。
追い討ちをかける隙が、どこにもない。
「追うな」
道雪のおばあ様が命じた。
誰も、異を唱えなかった。
追えないことが、見れば分かったからである。
わたくしは丘の上から、その列を見送っていた。
見送っているうちに、列の後ろの方に、小さな影を見つけた。
馬上である。
遠くて、顔は見えない。
だが、その影は、こちらを向いていた。
向いたまま、手が上がった。
おーい、おーいと、わたくしに手を振っているようであった。
見間違いでなければ、耳と尾がついているように見えた。
きっと疲れているのだと、言い聞かせた。
「惟将や」
「はい」
「ご苦労であった」
背後で、道雪のおばあ様が一人座っていた。
輿の者が、珍しく近くにいなかった。
「……わたくしに、なにも聞かないのですね」
「宗茂の件では言いたいことはあるが、まずは惟将よ」
おばあ様は、ただ扇を、わたくしの肩に置かれた。
もう考えなくてよいと、言ってくれた。
だから僕は安堵して、嘔吐した。
張りつめ続けた線を切ってくれる人がいることに、僕はただただ感謝した。