阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~ 作:NoRAheart
阿蘇谷は盆地である。
それだけ言うと、遠くに山々を望むある程度平坦な土地を想像するかもしれないが、実際は違う。
ぐるりと外輪山に囲まれた、途方もなく大きな窪地だ。
山の稜線が空を輪の形に切り取っていて、その輪の底に、田と畑と村がのっぺりとへばりついている。そんな土地だ。
外から来た者は、まずこの地形に驚く。
驚いて、それから怯える。
なにしろ中央には山がある。今も噴煙を上げている山が、だ。
僕の家は、そんな恐ろしい山を神として祀ることで千年近くも生きてきた、阿蘇神社大宮司家。
神に仕える一族であり、同時に、この一帯を治める武家でもある。
神主と国人を兼業している、と言えば分かりやすいだろうか。
ちなみに兼業農家の兼業とは違って、どちらも手が抜けない。
「お帰りなさいませ、兄様」
矢部の浜の館、その門をくぐったところで、僕は妹に出迎えられた。
阿蘇惟種。
僕にとって唯一、同腹の妹。
この妹を人に紹介する時、僕はいつも困る。
というのも、彼女の外見を説明しようとすると、どうしても僕自身の外見を説明しなおさないといけないからだ。
同じ丸い輪郭、同じ大きな目、同じ柔らかい眉。
そう似ているのだ。怖いほど。見た目だけ。
並んで立つと、初対面の人間はまず間違いなく「姉妹でいらっしゃいますか」と聞く。
そして大体、惟種を姉と見る。
背丈が少し負けていることもあるが、どこを見てそう言うのかは、兄としては複雑である。
聞かれるたびに僕は死にたくなり、妹も少し迷って「はい」と即答する。
少しだけ垣間見える妹のおちゃめと、まじめさからくる無理した冗談には、頬のゆるみと複雑な心境がいつもせめぎ合う。
「ただいま、惟種。文、ありがとう」
「結構。ではその懐の返事をお渡しください」
「はやいはやいはやい!!」
スッと差し出した手が、催促している。
僕の懐に、人を使わして返すまでもないけれども、返しの文があるのをなぜ知っているか。
「兄様は私の文を必ずお読みになります。そして返されます。しかしノンデリの兄様は無駄を嫌います。どうせ人をよこすまでもないと思ったのでしょう。私の気も知らないで」
ぐぅの根も出ない。
僕は降参だと手紙を差し出すと、妹は奪うように手紙を取って、さっさと呼んでは大事そうに胸にしまった。
不満がありありしていて、手紙にはうれしそうであった。
僕の主観だ。
この妹の表情は、傍から見れば常にほぼ無である。
目も細めなければ口角も上げない。
昔こそ普通の子だった。普通に笑っていたし、泣いていた。今となってはこれだ。
ただ、時代も悪かった。
僕が死んだら次に阿蘇家を引っ張らないといけないのは惟種だ。
それを自覚してからは、全く感情を出さなくなってしまった。
ただ僕だけは、生まれてこの方ずっと一緒に暮らしていたからか、無の中の微細な差が読めるようになった。
ちょっとだけ自慢だ。
「牛の話はおもしろかった」
「私も最初はそんなことがあるものかと何度も確認いたしたものです」
「だろうね」
「事実、当の牛は隣村の草を食べておりました。よその草の方が旨いというのは、牛も人も同じでございますね」
妹はそう言って、すっと横に並んだ。
やはり背丈は、僕より少し大きい。
むしろ最近、わずかに追いていかれた気がしている。
気がしているだけであってほしい。
「兄様」と惟種が僕に声をかける。
「なに」と返事を返すと「お怪我は」と少し心配そうにしている。
「ない」と答えると「ございませんね」と念押しされた。
「ないってば」と、まだ心配そうにしている惟種の頭をなでてあげると「ならばよろしゅうございます」と嬉しそうに答えた。
それだけだった。
「案じておりました」とも、「ご無事で何よりです」とも言わない。
妹は、惟種は、そういうことを口にしない。
誰が見ているか分からないから。
その代わり——
「蔵の三番目へ、先にお回りください」
「味噌?」
「良いころ合いかと。ただ―――」
「ただ?」
「一度、爺様が蓋を開けようとされましたので」
「うん」
「刀を抜きました」
「待って」
うちの妹は、結構過激な部類の人であった。
◇
蔵の中は、暗くて、涼しくて、そして匂いが濃い。
僕はこの場所が好きだ。
昨年、家中の猛反対を押し切って三つ建て増した蔵である。
文句言われたので、自分で稼いだ銭で立てた。
一番目の蔵には米。
二番目の蔵には粟、稗、蕎麦、大豆といった雑穀。
そして三番目の蔵には、味噌、塩、干物、漬物―――つまり、保存の効くものを集めてある。
その三番目の、一番奥。
杉の樽の蓋を持ち上げると、ふわりと立ち上がるものがあった。
匂いに輪郭があるとしたら、これは丸い。
角のない、しっとりした、深いところで甘い匂いだ。
麦麹で仕込んだ味噌が、ちょうど一年寝かせて、良い塩梅に色を落ち着かせている。
表面に浮いた溜まりが飴色に光っていた。
僕は思わずうんと声を漏らした。
この時代の味噌は、まだ「調味料」というより「おかず」に近いものだった。
湯に溶いて啜らないこともないが、舐めるものだという人もいる。
味噌は地方ごとの差も大きく、この肥後では麦麹の甘めのものが好まれる。
ちなみに生前は島原味噌が好みであった。
僕は手ずから育てた味噌を木べらで少し掬い、指先に取って舐めた。
しょっぱさが最初に来て、そのあとに麦の甘みが追いかけてくる。
塩の角が丸い。悪くない。
むしろ、かなり良い。
「兄様」
惟種が来た。
「お一人で全部召し上がってくださいませ」
「冗談。麦を作ってくれた皆に配るよ」
「毎日召し上がってくださいませ」
「ねぇ、塩分過多だって」
「召し上がりなさい」
押しの強い妹は、樽の縁に手を置いた。白い指が目に留まる。
僕と同じで、槍を握るには向いていない指だ。
だがこの指が、僕の留守中、この館の帳簿を繰り、百姓の訴えを裁き、爺様連中の圧を押し返していた。刀を抜いてまで、味噌の樽を守ったのはいただけないけれども。
冗談以外で決して刀を抜かせてはいけないのが、僕の使命だ。
「惟種」
「はい」
「留守、ありがとう」
「務めにございます」
「だから、味噌は一緒に食べようか」
妹が、グンと首を寄せてきた。
「兄様」
「なあに?」
「そういうところが良くありません」
「え、なんで?」
妹は蔵をとっとと出ていった。
しかし飯時にはさっさといつもの位置でマイ箸を握っていた。
敢えて言い返そう。
そういうところが可愛いぞ、妹。
◇
父に呼ばれた。名は阿蘇惟豊という。
当代の阿蘇神社大宮司であり、この家の現当主。
そして生涯の大半を、一族との殺し合いに費やした男である。
僕が生まれる前の話だ。
父は兄と家督を争って敗れ、日向まで逃げた。
それを拾って肥後へ押し戻したのが、甲斐親宣。宗運の父である。
それから長いこと、父は同じ血の相手と戦い続けた。
戦って、戦って、勝ち取った。
しかし勝利は、家中をぼろぼろにした。
御船房行が反旗を翻したのは、その禍根だ。
輪である。
「惟将」
父は、書見台に肘をついたまま、くぼんだまなこでこちらを望む。
ひどく痩せていた。昔は大木の様にはちきれんばかりにパツパツだった神職の装束が、今では枯れた柳に見える。
「御船を、下したそうだな」
「はっ」
「死人は」
「こちらが十一。向こうが、六です」
「十七?」
父は、咳き込み、続けた。
「少ないの」
「少ないです」
「宗運か」
僕は、少し迷った。
宗運と答えてもよかったが、責任を鑑みて、正直に答えた。
「わたくしです」
父は、じっと僕を見た。
この人が僕を見る時の目は、いつも読めない。
呆れているようにも、値踏みしているようにも、諦めているようにも見える。
この体に生まれついた息子を、父がどう思っているのか、僕は未だに知らない。
「囲んで、飯を炊いたと聞いた」
「はっ」
「なぜ攻めなんだ」
「攻めれば勝てました。でも、攻めなくても勝てたので」
「攻めれば、家中が引き締まる」
父は静かに言った。
「見せしめになる。次に叛く者が減る。そう考える者は、多いぞ」
「はい」
「お前は、そう考えなかった」
「考えました」
僕は正直に答えた。
「考えて、下策と思い、やめました」
「なぜ」
「御船の兵が千人。あそこで皆殺しにしたら、確かに武勇は誇れますでしょう。阿蘇家は未だ盤石であると。しかしそれは勝った場合の話です。また短期は益があっても、長期で見れば、御船の兵の大半は百姓よりの徴発。彼らを害せば田を耕す人間が必ず減ります。来年は御船の土地は必ず荒れます。荒れたら年貢が入りません。年貢が入らなければ、次に誰かが叛いた時、それを抑える銭がありません」
僕は畳の縁に視線を落とした。
阿蘇家の棟梁に頭を下げている。
「見せしめは、結構。短期で見れば、格好はいい。しかし田は、毎年です。飯に効きまする」
語り終えると沈黙が落ちた。行灯の芯が鳴る少しの合間が怖かった。
ただひたすらに畳を見ていた。
昔の父ならここでげんこつが来た。何だったら棒で跳ねられた。
それがないと分かっていて、卑怯にも空論をぺらぺらしゃべる自分の口を恥じた。
父の頑張りあっての阿蘇家であるのに。それが分かっているのに夢想が止まらない。
やがて父は、口を開いた。
「惟将」
「はっ」
「お前は、儂に似ておらん。儂の兄にも似ておらん。祖父にも似ておらん。この家の誰にも似ておらん」
「……」
「良いことだ」
耳を疑った。
父は、そんなことをいう人ではなかった。
しかし冗談には聞こえなかった。
声が、丸くなっていた。
「儂は、生涯の大半を、同じ血と殺し合うて過ごした。勝ったが、何も残らんかった。残ったのは、削れた家と、疲れた家臣と、痩せた田。後は、そう。お前がいうところの下らぬ武功―――」
咳。
「儂が気づいた時にはこんな有様よ。しかしお前は、その歳で気づいたのだろう。そして勝ったのだろう。ならば、それをどうか続けてくれよ。儂は、お前に……」
「父上?」
「いや、なんでもない」
少し迷って父は続けた。
「蔵を建てたがっていたな。勝手に建てよ。算盤を弾きたければ弾け。爺どもが騒いだらひねりつぶせ。阿蘇の棟梁であるならば、もはや儂に頼らずとも、自分の力で立ってみよ」
「はい」
「ただし、巫女の舞は、続けよ」
「……いやです」
「続けよ。目の保養になる」
「おいこら保護者」
◇
自室に戻って、僕は綴りを出した。
紙は貴重である。この時代、紙は銭と同じくらい重い。
だから普通、こんなものに使うのは馬鹿げている。
だが僕は、どうしても作りたいものがあった。
記録である。
表紙に何も書かず、ただ綴じただけの、簡素なもの。
書き始めはいくつのときか。初めのページに、幼い僕はこう書いた。
『阿蘇谷、黒き土。稲、育ちが悪し』
次の行には『蕎麦、粟、稗、大豆。よく育つ』
その次には『赤き牛、山に多し。草を食む。乳、飲まず。肉、食わず』
そんなささいなこと。
筆を止めて、僕は少し考えた。
何を書くべきなのか否か、自分でもまだよく分かっていない。
ただ、書いておかないといけない。
この土地で何が採れて、何が採れないのか。
誰が何を食べていて、何を食べていないのか。
どの村の水がどこから来て、どこへ流れていくのか。
誰も書き残していない。
書き残していないものは残らない。
口伝で残ってもやがては失伝するか、歪む。
この時代の記録は帳簿が主だ。年貢を数えるためのものだ。
取れ高は書いても、「なぜ取れないのか」は書かない。
書く必要がないからである。
取れないなら取れないで、そういうものだと思って生きていく。
でも僕は、それではいけないことを、偶々知っている側の人間だ。
なぜ阿蘇の土で稲の育ちが悪いのか。それを残す。
黒土。阿蘇の火山灰が積もって出来た土は、水はけが良すぎて、しかも稲が欲しがるものを土の中に握り込んで離さない。
細かい理屈は知らない。
だが「この土は稲に向かない」という結論だけは、はっきり出せた。
それが研究であり。そして記録を残す。
蔵の件も似たようなものである。
稲でないもので養えないものかと考えている。
言うのはたやすい。しかしこの家の爺様たちは、それを絶対に認めない。
なぜなら、米は年貢だからだ。
銭であり、身分だからだ。
蕎麦や粟を作る土地は「貧しい土地」であって、貧しい土地の領主は軽んじられる。
だから皆、育たない土に稲を植え続ける。
植え続けて、飢える。
飢えるから、隣の村から奪う。
奪うから、殺し合う。
輪ができる。
九州が修羅になる根っこだ。
筆を持ち直して、僕は綴りにもう一行書き足した。
『腹が減ると、人は人を犯す』
書いてから、論理の飛躍かと、その上に線を引いて消そうとした。
やめた。
消さずに、そのまま残した。
行灯をふぅと消す。
横になると、外から山の音が聞こえた。
阿蘇の山は、静かな夜ほどよく鳴る。
地の底で何かが息をしているような、低い、腹に響く音だ。
この音を、僕は生まれた時から聞いている。
千年前からこの土地の人間が聞いてきた音だ。
そして、これから何百年も、誰かが聞き続けるであろう音でもある。
その間に、この土地で何人が飢えて、何人が殺されるのだろう。
止められないモノかと考えた。
止められはしないだろうと結論づいた。
僕は弱い。槍も振れないし、馬にも乗れない。
頭だって、良いわけじゃない。
前世でも単に働いて、仕事だけで疲れて、やはり出世コースから外れた程度の人間だった。
でも。
でも、手のひらに収まるくらいなら。
飯のことくらいならば。
目を閉じると、蔵の中の匂いを思い出した。
麦麹の、丸い甘さ。
一年寝かせて、ようやくあの色になる。
時間がかかる。もどかしさを思う。
味噌だって、田だって、人だって。
全部、時間がかかるのだ。