阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~ 作:NoRAheart
作兵衛殿の三枚から始まった話は、翌年には村一つに広がり、その翌年には谷の東側一帯に広がった。
やり方は単純だ。
まず、山際の実りの悪い田を畑に変える。
牛を増やす。牛に草を食わせる。
糞と刈った草を積んで、寝かせて、畑に入れる。
そこに蕎麦と大豆と粟を植える。
大豆が採れれば、味噌ができる。
味噌ができれば、塩を舐めるだけの食卓が減る。
塩は買うものだから、買う量が減れば銭が浮く。
浮いた銭で、鉄の鍬を買う。
鍬が良くなれば、耕せる面積が増える。
一つ回れば、次が回る。
輪である。
ただし今度は、奪い合う輪ではなかった。
三年目には、阿蘇家の蔵は目に見えて重くなった。
その頃には、隣の郡から「牛の糞のやり方を教えてほしい」という使者が来るようになった。
僕は快く教えた。
最古参の老臣は「なぜ只で教えるのか」と眉を寄せた。
「隣が飢えなければ、うちに攻めてはきませぬので」
老臣は、しばらく黙っていた。黙ってから「なるほど」と分かっているのか分かっていないのか分からない返事をした。
あの寄合で僕を怒鳴りつけた人は、今では寄合で一番最初に僕へ意見を求める人になったから、たぶん分かってくれたと信じたい。
あの人は、間違いを認めることのできる人だった。
認めた後で、僕の間違いも、遠慮なく指摘してくれる人だ。
僕は家中に恵まれていた。
綴りも増えた。
最初の一冊は、いまでは五冊目となっていた。
土のこと。水のこと。牛のこと。
どの村で何が採れるか。
どこの井戸が涸れやすいか。
誰が何を作るのが上手いか。
祭りの時に何を食べるか。
婚礼の時に何を出すか。
弔いの時に何を出すか。
書けば書くほど、書きたいことが増えた。
そして書けば書くほど僕は、自分の無力さを知った。
この五冊に書いてあることは、全部、阿蘇谷の中の話だった。
この谷を一歩出れば、僕は何も知らない。
九州は、動いていた。
僕が牛の糞を積んでいる間に、外の世界は着々と修羅になりつつあった。
北。豊後の大友家。
九州で最も大きく、最も強い。
豊後、豊前、筑後、肥後の一部を握り、明や南蛮とも交易する。
うちのような小さな国人にとって、大友は「頭を下げる相手」である。
その大友が、西で戦をしている。
相手は、肥前の龍造寺。
もともと大友に従っていた家が、力をつけて反抗し始めた。
今のところ大友が優勢だが、龍造寺は妙にしぶとい。
何度潰されても、また立ち上がってくる。
そして南、薩摩の島津。
こちらは静かだ。
静かすぎる。
薩摩、大隅、日向。
南九州を、少しずつ、確実に固めている。
派手な戦をしない。負けない戦だけをする。
そして負けない戦を積み重ねて、じりじりと北へ上がってくる。
その島津の先端が、いま、僕の家のすぐ南にある。
肥後の南、球磨。
相良家。
うちの隣人だ。
緊張と和睦を何度も繰り返してきた、面倒な、しかし切っても切れない隣人である。
その相良が、島津の圧を受けて、じわじわ削られている。
削られきったら、次は、うちだ。
「宗運」
その日、僕は綴りから顔を上げた。
「詰んでいる」
「詰んでおります。しかし、まだ動けまする」
宗運はいつもの位置、僕の斜め後ろに座って、湯呑みを置いた。
あの日、粟餅を差し出し合った日より、宗運は僕の雑事の一切に、より気を回すようになっていた。
家老であり、軍師である彼がやることではない。
しかし最近は明らかに、僕の世話係である。
起きる刻限を決め、食う量を決め、僕が徹夜しようとすると行灯の油を抜く。
「殿の道を支える」というのは、どうやらそういう意味も含むらしい。
「北に大友。南に島津。挟まれておりまする」
「うん」
「どちらかを選ばねばなりませぬ」
「大友。南は無理だ。島津に付けば、あの家は嬉々として、うちを最前線に立たせる。相良が、まさにそうなっている。そういう家なんだ。外様は道具なんだ」
確かに島津は強い。強すぎた。
なんとなく強いことは前世から知っていたが、こと当事者になった今ではよくわかる。
「あれは飢え故の強さだ」だと。
宗運にそう断言する。だから組めない。
史実では、島津の飢えが、九州の大半を飲み込む。
しかし最後には、海の向こうから来た関白殿下に、全部を終わらされる。
史実準拠で見ても、島津に全てを賭けるのは、長い目で見れば下策だ。
「一方で、大友は飯が豊かだ」
「確かに大友は交易を見ております。博多も府内も、大きい港は大友ですな」
「うん。港があるということは、外のものが入ってくるということ。砂糖とか、香辛料とか、それから、南蛮の作物」
指を折った。
「たしかに島津にも港はある。けれども、あそこは自分たちで抱え込む。飢えているからだ。大友は流す。それは足りているからだ。流してくれる相手の方が、うちには都合がいい」
宗運が、じっと僕を見た。
「若」
「なに」
「今、砂糖と仰せになりましたな」
「言った」
「甘味物は、飽食の領地でないと滅多に産まれませぬな」
そう、それは、僕が目指すもの。
飽食は目指す先ではない。とうに越えていて当然の線なのだ。
私欲もいくらかあるが、今のうちに流通できるようにしたいのだ。
宗運は湯呑みを一つ、僕の前に置いた。
中身は白湯ではなく、甘酒だった。
◇
その豊後から文が来たのは、初夏のことだった。
大友家の使者が持ってきた書状は、丁重で、格式張っていて、そして、要約すると一行だった。
『嫡子を、府内へ寄越されたし』
実際には「大友家中との縁をより深めるため」「府内にて見聞を広められるため」と、実に上品に書いてあるけれど、言葉の裏に思惑は透けていた。人質である。
従属の証として跡取りを預かる。この時代のありふれた作法である。
寄合は荒れた。というより割れた。
半分は「大友に逆らえるはずがない、送るべし」。
もう半分は「大宮司家の次期棟梁を人質に出すなど言語道断」。
どちらも正しい。
僕は寄合の上座で、口を挟まずに聞いていた。
聞きながら、僕は阿蘇谷にとっての益を弾いていた。
府内。大友の本拠。
九州で一番大きな町。
そこに、僕が行く。
この谷を出て。
「若は、いかにお考えか」
家中のものらが、一様にこちらを向いた。
僕は、決心して答えた。
まあ実際は、選択肢はないけれど。
「行きます」
「若!」
「聴きなさい」
手を上げた。
「これを断れば、大友は怒ります。いずれ怒った大友は、軍を出します。なんだったら軍を出さずとも、うち一つなら、潰す手はいくらでもある」
「されど」
「されどもなにも、ございません。わたくし一人のために阿蘇谷が潰されるのは割に合いません。今のうちの蔵にどれだけ米があっても、田がどれだけあっても、父上がご健在であっても、阿蘇谷に必ず害が及びます。ここまで再建くださった皆様の頑張りが水泡と化します」
笑ってあげる。
心配ご無用だと。
「僕一人で済むのであるならば、安いものでございましょう」
沈黙が落ちた。
誰も何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、末席から立ち上がった影だった。
「反対にございます」
惟種だった。
妹が寄合で口を開くのは、これが初めてだった。
立ち上がると、妹は、座っている家臣の誰よりも、すっと高く見えた。
「兄様は、阿蘇家の嫡子にございます。大宮司家の次期当主にございます。その御身を、他家へ渡す道理はございませぬ」
「惟種」
「代わりに、私が参ります」
広間が、凍りついた。
「私であれば、兄様より価値は劣りましょう。ですが、女子の人質は珍しくございませぬ。大友とて、断る理由はございますまい」
妹は、まっすぐに前を見ていた。
表情は、いつも通りの無だった。
無だったが、膝の上で重ねた手の指が、爪の色が変わるほど、互いを押さえ合っていた。
僕には分かった。
この子は、本気で言っている。
ただし、私情だ。
「惟種」
「はい」
だから僕は。
「貴様、何様か」
冷たく返す。
阿蘇の次を背負う者が、兄を手放したくないなどという私情で意見を挟むなど言語道断だ。
そのようなことで、結果阿蘇谷を乱したと、後々民草に思われてもならない。
惟種を沈黙で座らせ、話を戻す。
「事実、大友は嫡子をと名指ししております。わたくしの代役はおりません。惟種が行ったところで、話にならないでしょう。むしろ、拗れる」
僕は、家中の顔を見回す。
不安そうにしている。なめられたら殺すを是とするものもいる。
ここは利を説かないとと、冷や汗を背に感じながら手を合わせる。
「大友に向かうのはなにも悪いことだけではございません。わたくし、このように小賢しさばかりの口先達者でございますので、必ずや阿蘇谷に益がある縁(えにし)をつないでみせましょう。そのために次期棟梁直々に大友に向かう。皆さま、そうお思いくださいませ」
「若様……」
「わたくしになにかあった場合のために、惟種にはわたくしと同様の教育が与えられております。各々、いまさらこのような些事に動揺されませぬように」
寄合はそれで終いであった。
そっと惟種の様子を伺う。
相変わらずなにも見せぬ顔をしているつもりだろうけれども。
膝の上で重ねた手の指が、爪の色が変わるほど、互いをきつく押さえ合っている様は納得がいかぬという思いを隠せていなかった。
◇
その夜、父の寝所に呼ばれた。
父は床から半身を起こして、僕を見る。
「行け」
「はっ」
「阿蘇谷は任せよ」
父は、それだけ言った。
それだけ言って、また咳をした。
自分の力で立ってみよと、この人は言った。
立つには、まず、立つ場所を知らなければならない。
この谷しか知らない領主は、この谷しか守れない。
◇
出立の準備は、粛々と進めた。
旅装。供の人選。土産の目録。
府内での住まいの手配。
宗運は同行しない。阿蘇の守りを空にはできない。
これは僕が決めた。
「殿の道を支えると、申し上げました」
「ならば阿蘇谷を見ていてほしい」
「若」
「阿蘇谷こそ、僕の背中だよ」
宗運は珍しく、長く僕に食い下がった。
しかし最後は深く頭を垂れた。
「御意に」
折れた腹いせか。
宗運は僕の荷に竹皮の包みを一つ、紛れ込ませていた。
中身は、粟餅だった。
相変わらず、不格好だった。
包みには何事か書いてあった。
『ご武運を』
それだけ、記してあった。
◇
出立の前の晩。
僕は、蔵の三番目に寄った。
一番奥の樽。麦麹の味噌。
あれからさらに寝かせて、深い飴色になっていた。
蓋を開けて、匂いを嗅いだ。
丸い、しっとりした甘さ。この谷の匂い。
「兄様」
惟種が後ろに来た。
そろそろ来る頃合いと思っていた。
そのために、ここにいた。
「惟種」
「はい」
「阿蘇の留守を頼む」
「務めでございますか」
「務めです」
「……ひどい兄様」
惟種は僕に寄って、懐から何かを取り出して、そっと手渡した。
小さな壺だった。
掌に載るくらいの、素焼きの壺。
「お持ちくださいませ」
「味噌?」
「はい。三番目の、そこの樽より取りました」
惟種の目が、開けたままの樽へ移る。
飴色の面に、匙で掬った跡が一つ、浅く残っていた。
「府内の味噌は、麦を使わぬと聞きました」
なるほどと、それだけで理解した。
壺は小さいのに、ずしりと重かった。
妹は、蔵の戸口の方を、一度だけ振り返った。
誰もいないのを、確かめたのだと思った。
確かめてから、僕の方へ向き直った。
寄合の時の無ではなかった。
昔、まだ普通に笑って泣いていた頃の、妹の顔が、ほんのわずかに、覗いていた。
「兄様。ゆめゆめお気をつけなさいませ」
「何を」
「人に」
「人?」
「兄様は愛らしいのです」
「……はい?」
「大友家中には、目の利く方が多うございましょう。兄様のお姿を見て、これは男子かと疑う者が必ず出まする。疑った末に、良からぬことを考える者も出ましょう」
「待って、何の話」
「攫われます」
「さ、攫われる!?」
妹は、断言した。
「私が大友家中のものでしたら、攫います」
「そんなこと思うの惟種だけだ!!」
「いいえ、きっと攫われます。攫われなくとも、触る下種がいるやもしれませぬ」
「いないいないいない!!」
「げっへっへ、あんさんおのこの癖にようおべべが似合うのう。もちっと余に近う寄れぇ」
「お殿様!!いけませぬぅ!!あーっ!!お殿様、いけませぬぅ!!」
冗談はここまでとした。
惟種が乱した僕の着物の衿を、両手で、ぴしりと直す。
直す手が、少し、長く留まった。
「兄様」
「なあに」
「文を、書きます」
「うん」
「毎月、書きます」
「うん」
「兄様がお返事を書かなかったら」
妹は、一度、言葉を切った。
「迎えに参ります」
「うん?」
「軍を率いて」
「やめて」
「……冗談です」
「今の間は、なに」
「冗談でございます」
二度言った。二度言ったが、目が笑っていなかった。
僕は、手を伸ばした。
すこし腕をもちあげないと、妹の頭には届かなかった。
届いた頭を、撫でた。
「返すよ。届いたその日に」
妹は、撫でられるまま、目を伏せていた。
「……どうか、ご無事で」
声が、かすかに、震えていた。
簡単にはいかないことは、僕も、惟種も、分かっていた。
◇
外輪山の峠に立って、僕は一度だけ振り返る。
阿蘇谷が、朝の光の底に沈んでいた。
輪の形に切り取られた空。中央には白い煙を上げる山。
その裾に広がる、田と、畑と、村。
黒い土の谷。
稲が育たない土地。
それでも、蕎麦が採れる土地。
草だけがよく育ってくれるから、牛は太ってくれた。
僕が知る昔より、今は少しだけ腹が満ちるようになった土地。
でもまだ足りない。全然、足りない。
そして谷の外には、飢えも、満ちも、ある。
僕が知らない土地が山ほどある。
だから行くのだ、外を見に。
まずは豊後である。
「若様、参りましょう」
供の者が声をかける。
僕は頷いて、馬首を返した。
懐の中で、素焼きの壺が重さをくれる。
僕は、北へ行く。
豊後、府内へ。
その先に何が待っているのか、僕は知らない。
いずれ戦乱の修羅に飲まれるばかりかもしれない。
僕は何もできずに倒されるだけなのかもしれない。
だけれども、僕は少しでもいいから足掻きたかった。
阿蘇谷と妹を。
家中を、父を。
少しでも守れるようにと足掻きたかった。